長椅子へと場所を移すカミューの背に、マイクロトフが呼び掛けた。
「実は昨夜、フリードからの返書が着いていたのだ」
今はサウスウィンドウ市国に暮らすマイクロトフの元従者。離れて後も親愛は変わらず、折ごとに文の遣り取りは続いている。此度も団長就任を知らせたところ、さっそく返事が届いたのだった。
カミューは椅子に腰を下ろしながら微笑んだ。
「随分早かったね。文を送ったのは、辞令を受けた当日だったろう?」
「就任式に間に合わせようとしてくれたようだな。相当に急いで書いたのが窺われる文だぞ、ほら」
差し出された書簡を見詰め、カミューは僅かに眉を寄せた。
「……良いのかい?」
「そのために持って来たのだ」
フリード・Yからの文は、常に二人に向けた内容になっている。元・主君と同じほどに、その親友を気に掛けているからだ。
最初のうちこそ直接カミューに文を送っていたフリード・Yだが、人とそうした遣り取りを交わす習慣を持っていなかった青年が返事に窮しているのを察したのか、次第にマイクロトフ宛ての文にカミューへの通信を織り込むようになった。つまり二人は、マイクロトフを通じて互いの近況を知り合っていた訳である。
とは言っても、内容を伝え聞くのと、他人宛ての文をその目で読むのとでは勝手が異なる。躊躇を見取ってマイクロトフが朗らかに言った。
「良いのだ。今回は特に、おまえが読むのを前提に書かれているようだから。おれたちの団長就任をとても喜んでくれている」
強く促されて漸く文を手にしたカミューは、しかし封を開くより先に弱く嘆息する。
「喜んでくれるのはありがたいが、人の事より自分はどうなんだろうね? こうも長々とレディをお待たせするのは感心しないが……」
それを聞いたマイクロトフは、破顔せずにはいられなかった。
サウスウィンドウの指導者シュウに請われて、護衛を兼ねた補佐官として同国に移り住んだフリード・Y。これで、領内ラダトに暮らす許嫁ヨシノと一緒になる条件は満たされたとばかり思われた。
ところが、新天地での生活は当人が予想していた以上に多忙であったらしい。精力的に政務をこなすシュウの補佐をつとめる職務柄、思うように休みが取れず、このためヨシノと会うのも間遠で、マチルダに居た頃と然して変わらぬ有り様が続いていたのだ。
送られてくる文には、いつまで経っても「結婚」の二字が見当たらず、マイクロトフは勿論、カミューもたいそう気を揉んでいた。だが、そうした憂いも終に終わりを迎えたようだ。マイクロトフは弾んだ口調で教えた。
「その件についても書いてある。どうやら、おれたちの団長就任が背を押す結果になったらしい。秋にも婚儀を挙げるつもりでいるそうだ」
「本当に?」
カミューは目を瞠って、急いで紙片を取り出した。几帳面な文字で記された文は、先ずは二人に向けた丁重なる祝いの辞から始まっていた。
「ああ……、最初の一枚は読み飛ばして良いぞ。あらかたシュウ殿に対する愚痴だから」
挟まれた注釈にカミューは吹き出した。
「……本当だ。急いで書いた文でも、そこは省かないんだね。相変わらずだな、彼も」
カミューは初め、フリード・Yを自国に招聘したシュウに複雑な感情を抱いていた。マイクロトフに近しい者を取り込むことでマチルダの情報を得ようとしているのではないかと案じたのだ。
しかし疑念はすぐに消えた。政治の在り方そのものが変わろうとしている国の、いずれ退位する王の侍従。そんな人物から得られる情報など、高が知れている。利で見るなら寧ろ逆だ。サウスウィンドウの情報が、フリード・Yを通してマチルダ側に流れる可能性を、シュウが考えなかった筈はない。
彼は短いマチルダ滞在の間にフリード・Yの為人を吟味した。そして、如何なる立場に置かれても誠実を貫く人物だと見定めて招聘に踏み切ったのだ。
これはフリード・Y自身が考えていたように、シュウが彼に、両国の掛け橋となるよう期待したと見るのが妥当だろうと今はカミューも思っている。
「碌な説明も与えられぬまま、右へ左へと顎で使われている」だの、「鼻先で笑われることが多く、思うように物が言えない」だの、フリード・Yのぼやきは果てしない。けれど書面からは、彼がシュウの才質に深い敬意を寄せているのが窺われる。こうして愚痴を垂れながら、それでもフリード・Yは、新たな地で充実した日々を過ごしているのだろう。
それにしても、と笑みを深めてカミューは言った。
「見事なほどに脈絡を欠いた文だな。話題が飛び飛びで、何が何やら……。ああ、成程ね。序盤の愚痴は、婚儀のための休暇取得希望を仄めかしただけで渋い顔をされた、という部分と繋がっているのか」
それはシュウがフリード・Yの不在を「支障」と感じているからだろう。優れてはいるけれど、性情的に敵を作りかねない人物と推察されるシュウにとって、もしかしたらフリード・Yは、単なる補佐官以上、気の置けない貴重な存在なのかもしれない───そんなふうにカミューには思えた。
「……秋か。こういう立場になっては、揃ってマチルダを空けるのは難しいだろうな。せめておまえだけでも、式に出られたら良いけれど……」
これにはマイクロトフも頷かざるを得ない。
「今までよりも自由が利かなくなるのが団長位の難だな。しかし、幼馴染みの一生に一度の晴れの日なのだし、何とか調整して祝いに行きたいものだ」
「だったら、留守番に甘んじる代わりに、わたしに贈り物を選ばせてくれ。ヨシノ殿は控え目で楚々としたレディだったか……、どんな御好みか、聞いているかい?」
そうだな、とマイクロトフは腕を組んで考えた。
「長刀を嗜まれる。家事全般が得意で、特に洗濯が大好きなのだそうだ」
「……それは選び甲斐がありそうだ」
更に文を読み進めると、改めて二人の団長就任を祝す記述が現れた。マイクロトフが指摘した通り、それはカミューが読むのを意識して記されたようである。文には、次のような一節が綴られてあった。
───カミュー殿が赤騎士団長に就任なされたこと、いずれグラスランドにも伝わる日が来るのではないでしょうか。カミュー殿を通じて、マチルダと彼の地の間に恒久的な平和が保たれますよう、わたくしも願っております。
文明的に劣る一帯、略奪行為が横行する野蛮な地。それがデュナン湖周辺諸国に根付いたグラスランド感だ。
しかし、カミューという人間を知って騎士たちの認識は一変した。此度の赤騎士団長就任が、全マチルダ民、そして同盟諸国の人々の意識をも覆すことになるだろう。それは、深い隔てに投じられる最初の小さな一石だ。
多部族の集合体であるグラスランドと、国同士として交流を持つのは至難である。長く続いた反目を、容易く終焉に向かわせられるとは、無論カミューも考えていない。
だが、そう努めることは出来る筈だ。
だからこそマチルダ騎士になった。この地に在ってグラスランドの民を護る───ゲオルグ・プライムの最後の教えを実行していこうと決めたから。
「……そうだった」
丁寧に紙片を折り畳みながらカミューは呟く。
「在籍年数の短かさなどを気に病んでいる場合ではない。せっかく赤騎士団長の名を頂戴したのだから、有効な利用法を考えるのが先だった」
マイクロトフは心から賛同して、にっこりした。
「その、何ぞ企んでいるふうの物言い……おまえらしくて、惚れ惚れする」
「やや引っ掛かる言い方だけれど、褒め言葉として受け取めておくよ」
副長たちが現われたのは、ちょうどマイクロトフが文を懐に戻したときだった。勧められた椅子に腰を落とすや否や、青騎士団副長がカミューを凝視しながら感嘆の息を洩らした。
「いや……こう申し上げて不敬に当たると困りますが……、麗しい御姿ですなあ」
「やはり斯様に思われますか」
赤騎士団副長が誇らしげに声を張る。
「図案上の装束と、実際に形になったものとでは雲泥の差がありますな。わたしも、仮縫いで拝見した際には、暫し言葉を失ったものです」
「分かります。それにしても良い色ですな、落ち着きのある風雅な赤……とても良く似合っておられる。貴団員の熱狂する様が、今から目に浮かびますなあ」
「そこが問題です。既に、下の者から張り番のつとめを奪る輩も出ましたし、少しばかり引き締めを図る必要があるやもしれません」
「……とは仰るが、顔が緩んでおいでですぞ」
「そこは見て見ぬ振りをしていただきたい」
「───おまえたち」
延々と続く副長たちの遣り取り。痺れを切らしたマイクロトフが、むっつりと呼び掛ける。
「カミューの団長着姿が素晴らしいという点には同感だが、おれの方には一言もなしか?」
はたと瞬いた青騎士団副長が小さく苦笑した。
「相済みませぬ。マイクロトフ様の御装束は初めてではありませんので、つい……。御立派でおられますぞ、我が青騎士団の誇りです」
「……付け足しにしか聞こえない」
滅相もない、と笑いながら首を振る彼の横、赤騎士団副長が礼を取った。
「再びマイクロトフ様を青騎士団長と御見上げ出来ますこと、心より喜ばしく思っております。改めまして……マイクロトフ様、カミュー様の青・赤騎士団長ご就任にお祝いを申し上げます」
「様」付けで呼ばれたカミューが居心地悪さを覚えて身じろぐ。赤騎士団副長は気付かぬ振りで語り接いだ。
「マイクロトフ様もこちらにおいでと聞き、揃って罷り越しました。式に先立ち、お話ししておきたい儀がございます」
つまり、と彼は語調を強めた。
「いよいよこの地に、同盟国家が発足するはこびと相成りました」
それはかつてミューズのアナベル代表が提唱した構想だ。領土拡大を目論むハイランド王国に対抗し得る強固な防衛体制を築くため、自治権はそのままに、盟約の下、デュナン近郊諸国の政策を一本化する。
アナベルが描いた図式は大旨で受け入れられ、各国は同盟締結に向けた準備をそれぞれ進めてきた。
ただ、その歩みは決して着々とは言い難かった。君主制を廃したティントやマチルダ、国家要人の大規模な入れ替えが行われたグリンヒルなど、先ずは内政の安定を優先すべき国が複数あったためだ。しかし、過日ミューズに向けられた侵攻によってハイランドの脅威は緊迫を帯びたものとなり、協議の結果、発足に踏み切ることになったのである。
「正直なところ、まだ細部まで詰め切れた状態とは申せません」
マチルダの外交部門の首座として各国との調整に当たってきた赤騎士団副長が説く。
「しかしながら、先達てのハイランドの動きを鑑みても、先ずは抑止力を機能させることが肝要です。どのみち残る問題は、各国代表が一堂に会して討議すべき案件ばかり。よってこれより二ヵ月の後、同盟の調印式を執り行う旨、決定致しました。盟主は、発起人アナベル殿を擁すミューズ市国。同盟ならびに集合国家の呼称は、調印式を行う同市内の土地名を冠して、「ジョウストン都市同盟」と相成る予定となっております」
「ジョウストン都市同盟───」
復唱したマイクロトフが、ちらとカミューを窺い見る。
「知っていたか?」
「発足日が決定した件までは知らなかった」
首を振りながらの答えを聞いた赤騎士団副長が、隠していた悪戯を明かす子供のように唇を上げた。
「そこは御二方の今日に繋がりますゆえ、敢えて伏せさせていただきました。調印式に続きまして、初の代表会議が開かれます。故に、御二方に騎士団長就任をお願い申し上げた次第です」
え、と瞬くマイクロトフの向かい、青騎士団副長が満足気に首肯を繰り返している。
「特にマイクロトフ様におかれましては、この同盟に縁がおありですからな。感慨深い初会合となりましょう」
都市同盟国家の構想が最初に語られたのは、マイクロトフの皇王即位式に参席するため、近隣諸国の代表がマチルダに集ったときのことだ。価値観に近しいものがあったのだろう、自国へ戻った後、各人は構想の実現化に向けて尽力し始めたのである。
そんな訳で、「縁がある」と言われればそうかもしれない。だが、それが「団長就任」と結びつかない。マイクロトフは、おずおずと身を乗り出した。
「ひょっとして、おれとカミューが調印式に臨むのか?」
おや、と青騎士団副長が首を捻る。
「他に如何様に聞こえましたか。マイクロトフ様は、既に各市国代表の方々と誼を通じられておいでなれど、更にいっそうの関係強化を期待しておりますぞ」
但し、と表情が引き締まる。
「此度は前とは少々事情が異なります。基本的主旨に賛同し合った仲でも、和気藹々とはゆかぬのが政治の常ゆえ」
「……と言うと?」
これには赤騎士団副長が代わって説明に出た。
「初会合の席で話し合われるのは、主に出資金や投票権の配分……これらには各国の利害が直接絡んできます。自国に有利な条件を持ち帰るのが各代表に課せられた責務、すんなり事がはこぶとは、まず考えられませぬ」
書簡や使者を通じて各国との協議に応じてきた人物の意見だけに重みがあった。
同盟に参加する全領の対等が理想である。けれど、現実的には困難だろう。軍事力や経済力の異なる国々が同じ政策の下に動くのだ。力関係の上下が生じる可能性は、どうあっても否めない。
「まったくの対等とはゆかぬまでも、せめて公平感のある着地点を目指す───おそらくは、それが会議の指針となりましょう」
「ま、待ってくれ。そんな大事な席に就任したてのおれたちが出るのか?」
勢い込んで問うたマイクロトフに、赤騎士団副長はさらりと答えた。
「大事な席だからこそ、出席していただかねば。御案じなさいますな、そちらの向きに卓越なさったカミュー様が御一緒されますゆえ……。五都市国・一騎士団領からなる大同盟が結ばれる、まことに記念すべき日。我がマチルダの新しき指導者の披露目に、これ以上の場はございませぬ」
「つまり……同盟の調印式に合わせて、おれたちを団長に据えた、と……?」
今度は青騎士団副長が失笑した。
「ですから、先程からそう申し上げているではありませぬか」
副長たちは初めからその心積もりでいたのである。
協議の進み方から、あと一年や二年は先だろうと思われていた同盟の発足が、ハイランド侵攻を受けて早まった。その調印の席に、マチルダの代表としてマイクロトフとカミューを送るべく、やや唐突な感もある団長就任要請に出たのだ。
そこまで発言を控えていたカミューが、つと顔を上げて、向かいに座した二人に眼差しを当てる。
「お聞きしておきたいことがあります」
「何なりと」
副長たちは礼を取って了解を示す。荘重を尽くした仕草に戸惑いを禁じ得ぬまま、カミューは続けた。
「どうして白騎士団長を空座のままにしておくのです?」
「赤・青騎士団長を立てるより、白騎士団長の空きを埋める方が先、……カミュー様は斯様に御考えでしょうか?」
逆に問われて、カミューは黙した。図星だったからだ。
赤騎士団副長は微かに息を吐いて、それから淡々と語り始めた。
「位階者に欠落が生じた場合、次席以降が繰り上がって埋めるのが騎士団の習い……然れど白騎士団長位に限っては、この慣例をそのまま当て嵌めることは適いませぬ」
三騎士団中、最も序列が高位の白騎士団。騎士団統治制が敷かれる今、その長はマチルダ領の統治者と同義になる。
大規模な粛正が施されて以降、白騎士団の体質は目に見えて改善された。権高く振舞う者は鳴りを潜め、与えられたつとめを実直にこなしている。白騎士団副長も──赤・青両副長の助言を容れながら、ではあるものの──そこそこ無難に部下を\め上げていた。
それでも彼が白騎士団長位に昇格するには決定的な難がある。ゴルドー詮議の場での言動だ。
与り知らぬところで進んでいた謀反の計画。共謀の疑いを晴らそうと懸命になるのは、心情的に自然であったろう。
けれど結果的に、彼には不名誉な評価ばかりが残った。衆目の前に無様な狼狽ぶりを晒し、保身めいた発言を連発したのだから、これも致し方ない。
既に当人も諦めの境地に達している。騎士として頂点を極めたい気持ちがないではないが、それ以上に民意の反発が恐ろしい。一度は副長職からも降格されかけた身だ。今の立場に留め置かれたのを厚遇と弁え、精一杯つとめてゆきたい───それが白騎士団副長の意向なのだった。
ここでひとたび、赤騎士団副長は言葉を切った。束の間の後、洩れた声には沈痛が滲んでいた。
「現状の不自然は、我らも重々承知しております。ただ、空座が生じた経緯があまりに重く、安易な埋め合わせは躊躇われるのです。現役の白騎士団長が、謀略によって皇王陛下や前団長、無辜の命をあまた奪った。民の目前で新皇王陛下に刃を向けた挙げ句、頓死した───。これらの忌まわしき事実が、「白騎士団長」という英名を深く傷つけました。今、人々がそれと聞いて真っ先に過らせるのは、歴代の団長各位が残してこられた功績ではなく、ゴルドーが行った非道の数々です」
「……だろうな」
マイクロトフは口惜しい思いで唸った。次いでカミューが静かに断じた。
「誰が任官するにしろ、残された傷を引き継ぐことになる。だから敢えて空座に留めて、人々の記憶が薄らいでゆくのを待つと……そう考えておられるのですね」
然様、と青騎士団副長は強く頷いた。
「消極的な対処ではありますが、それが最善と判断致しました。幸いマチルダ騎士団は三騎士団から構成された組織です。赤と青、二騎士団長が立たれれば、白騎士団長の欠落を充分に補いましょう」
理解を示して、だがカミューは更なる問いを投げた。
「今ひとつだけ。ならば御二人が、それぞれ赤・青騎士団長位に進まれるという選択肢もあったのでは?」
そうだな、とマイクロトフが同意する。
「それはおれも不思議に思っていた。団長になろうとは考えなかったのか?」
二人の副長は顔を見合わせ、次いで相好を緩めた。
「それは……」
「考えませんでしたな」
「何故だ? これまで実質的に一団の指揮を執っていたのだ。位を上げても、何ら障りはなかっただろうに」
そうですな、と青の副長が首を傾げる。
「とある騎士の言に倣いますなら、年若い上官を御支えする方が楽しそうだったから、……というところでしょうか」
その言いようにマイクロトフがぽかんとしていると、今ひとりの副長がくすくすと笑い出した。
「……冗談です。かなり本音の入った冗談だと申しておきましょうか。我々は古き騎士団の遺物です。新たなる一団の筆頭に立つには不相応と、早くから意見が一致しておりました」
「良く分からない」
ポツと零して首を捻る。
「断言できるぞ。そんなふうに思う者は絶対に居ない」
「そう言っていただけるのは喜ばしきことなれど、己自身がそう思っているのですから、こればかりは如何ともし難いですなあ」
青騎士団長はあっけらかんと言う。更なる説明を求めるカミューの視線に気付いて、小さく咳払った。
「わたしは、ゴルドーの理不尽から赤騎士団が余るほどのつとめを課せられていると知りながら、他団不干渉の訓示に縛られ、ただ見守るのみでした。騎士の教えに忠実であるため、人としての心を封じて良い筈がありましょうか。仲間の苦境に傍観を通した己を、今も強く恥じております」
陳謝の会釈に首を振って、今度は赤騎士団副長が口を開く。
「わたしは疾うにゴルドーへの敬意を失っておりました。名に騙り、意に添わぬ騎士を隷人の如く扱う人物を、どうして主と仰げましょう。それでも、騎士となった日に立てた忠誠の誓いという軛に繋がれ、忍従に甘んじました。ゴルドーにではなく、白騎士団長という位階に頭を垂れたのです。結果、多くの部下を傷つけ、疲弊させてしまった。それを思うと、今なお慙悸に堪えませぬ」
そこで彼は、表情を硬くした。
「教えを重んじて心を殺し、誓いに背かぬために歪みから努めて目を逸らす───マチルダ騎士団とは、そうした組織であってはならなかったのです。そんな当たり前の本分を、御二方によって気付かされました。不正義を認めながら、教義に背く己に竦んで、打開へと踏み出せなかった。それが我らの、指導者たり得ぬ理由です」
マイクロトフは唇を引き結んだ。
彼らに非があったとは、どうあっても納得し得ない。ただ、自身を許せぬ峻厳は理解できる。自らを律し続ける副長らの人柄を知るがゆえに、配下の騎士は二人に絶対の忠節を寄せているのだから。
青騎士団副長が静かに締めた。
「真の指導者とは、誰に諭されるでもなく、己が信念を貫く強さを持った存在でなければなりませぬ。マイクロトフ様、そしてカミュー様……御二方によって、今のマチルダ騎士団があるのです。主君と御見上げして、何の不思議がございましょうか」
どう応じれば良いのか分からず、マイクロトフが横目で隣を一瞥する。カミューもまた、言葉を探しかねて緘黙を続けるしかない。
そんな二人を見取った青騎士団副長が、やや調子を崩して付け加えた。
「そう難しいお顔をなさいますな。一団の頂点を極めて長と呼ばれる、それを誉れと見る者もおりましょう。わたしたちは単に、より価値あるつとめを他に見出しただけなのですから」
「価値あるつとめ───」
ええ、と騎士は背を正した。
「若き指導者の統治をお支えするつとめです。わたしもこの先、どれだけ騎士としてつとめられるか分かりませぬし、元気ではたらけるうちに、成すべきことは成しておきたい」
「……年寄り臭いことを言う」
僅かに目許を潤ませて彼はマイクロトフに見入る。
「歳も取ります。幼くして騎士団に籍を持たれたマイクロトフ様が、斯様に御立派に成長なされたのですから。さあ、新たな始まりですぞ。マチルダの元・皇王陛下に、今度は青騎士団長として名を馳せていただきましょう」
力強く、温かな檄。無力な皇太子であった頃から、親身になって世話してくれた副官に、マイクロトフは深々と頭を下げた。
「力の限りつとめる所存だ。今後とも宜しく頼む」
続いて赤騎士団副長が、カミューに当てた瞳を懐かしげに細めた。
「以前お話ししたのを覚えておられましょうか。王と白騎士団長はマチルダの両輪……、わたしはカミュー様に、マイクロトフ様の隣に並んでいただきたいと考えておりました」
「……覚えています。会って間もない異邦の若造に、何を言われるのかと驚いたものでした」
カミューは淡く笑んだ。
男の言う、もう片側の「輪」を屠るためにマチルダに来た。目の前の騎士も、目的のために利用する駒に過ぎぬ筈だった。
だからこそ、向けられた信頼の途方もない大きさに戦いた。騎士らの誠意を知るほどに、恨みに固執する己の醜さを突き付けられる。けれど差し出される親愛は甘やかで、近付かずにはいられぬ魅惑に満ちていた───。
「……確かに、あれは早急に過ぎましたな」
騎士は気恥ずかしげに顎を擦り、だが真摯に言い募る。
「然れど、決して一時の思い付きではなかったのです。わたしは、マイクロトフ様の皇王御即位が新時代の幕開けになるだろうと考えておりました。けれど、カミュー様との出会いを機に、御即位を待たずにマイクロトフ様は動き出された。天啓とは、ああしたものを言うのでしょうな……、マイクロトフ様にとって、あなたが不可欠の存在なのだと悟ったとき、脳裏に礼拝堂の絵図が浮かびました」
「マティスとアルダ……?」
ええ、と微笑んで副長は続けた。
「国を築いた二人の英雄、民を照らす二つの光。代々の王と騎士団長が並び称されたように、あなたとマイクロトフ様にも、そう在っていただけたらと思ったのです。王制が廃され、ややかたちは異なりましたが、これで望みが叶いました。ただ……、カミュー様に辞退されてはと、少々強引な搦手を使いましたゆえ、気分を害されていなければ宜しいのですが」
───全赤騎士による信任票。最後の一節を聞いたマイクロトフが、思わずといった笑みを零しながら高らかに断言する。
「正解だぞ。カミューは何かと考え過ぎる質だし、時には強引に出ないと、なかなか事が動かないのだ」
「……おまえに言われると、何だか腹が立つな」
ボソリと上がる低い声。琥珀色の瞳が冷ややかに隣を睨む。特に寝所における攻防を指されたように思えたためだ。
気付いたマイクロトフが、たちまち眉を寄せた。
「おまえの意思も尊重しているつもりだぞ? 確かに見極めが難しいときも多いが、おれなりに精一杯───」
続く弁明を、カミューは掌ぜんぶを使って塞いだ。やや平手打ち気味になったのは、副長たちの前では物を投げ付けることが出来なかったからである。
「……もう黙れ。これはわたしの問題だ」
「う、うむ……分かった」
これだけ不機嫌丸出しの声を聞けば、迂闊を犯したと気付かぬ者はいない。打たれた口元を擦りながら、マイクロトフは身を縮めた。以後、発言には気を付けようと心中で自戒しながら。
気を取り直して息をつき、カミューは真っ直ぐに顔を上げた。若い二人の遣り取りを目を丸くして見守っていた副長たちが、即座に居住まいを正す。
「辞令を受け、正直、迷いがなかったとは言いません」
カミューはそんなふうに切り出した。
「若輩の身であること、経験の浅さは勿論ですが……それ以上に、わたしは他の方々のように、この国への純粋な愛着から騎士になった訳ではなかったからです」
ひとたび目を閉じ、彼は続けた。
「お気付きでしょうが、即位式の日、わたしは生きて礼拝堂を出るつもりはありませんでした」
「カミュー様───」
「亡き人々の無念は晴らしたい、けれどマイクロトフを殺したくない。どちらも選べないなら、わたし自身の命で一切を清算するしかないと……そう思いました」
副長たちは複雑そうに顔を歪める。察してはしていたけれど、本人の口から聞くのは初めてなのだ。時を経てもたらされた告白に、けれど悲痛の影はなかった。
「すべてが終わったとき、方向も分からぬ真っ白な世界に落ちたような気がして……差し伸べられた手に縋るしかなかったのです」
そこで向けられた瞳に、マイクロトフは息を詰める。黙っているよう命じられたので、「自分のことか」と確認できないのが何とももどかしかった。
「何が出来るか分からない、けれど他に出来る何かがある訳でもない───わたしが騎士になった最初の動機は、そんな程度の、希薄なものだった。誰もがマチルダのため、マチルダの民のためと自らを磨く中で、自分が騎士団に混ざり込んだ異端だという感が、常に付き纏っていました」
でも、と白い面に華やいだ笑みが広がっていく。
「この地に生き、人々と触れ合って……今はマチルダを、もう一つの故国のように思います。二つの故国を持つ身だから、成すべきことがある───異端であればこそ、見えるものもある。過去にわたしが貫こうとした信念は、自らにさえ誇れるものではなかった。でも、今は違う。わたしは……わたしの誇りに懸けて、己のつとめを果たします」
緑萌える草原の地を思わせる清涼な風の如き宣誓が、一同の間を過ぎ抜けていった。
「……赤騎士団を代表して、御主君をお迎え申し上げます」
座したまま深々と頭を下げた赤騎士団副長に、青の副長が小声で囁く。
「少々お早いですぞ。御気持ちは分かりますが、誓詞は就任式にて言上せねば」
「どうにも気が逸って……。下の者を諌める前に、先ずはわたしが落ち着くべきですな」
自団副長が照れたように髪を撫で付けるのを見詰めながら、カミューはふと小首を傾げた。
「そう言えば、さっき仰っていたのは?」
「さっき、……と申されますと?」
「下の者から張り番のつとめを奪って、どうの、と……」
ああ、と副長は失笑する。
「居たのですよ、そうして真っ先にカミュー様の正装姿を拝まんと目論んだ者が。立場の優位を使った交替策は姑息で安易なれど、意思を通す行動力は褒めてやっても良い。ただ……、相対的に見れば、やはり抜けておりますな。小隊長以上の騎士には就任式への立ち会いが許されているのを失念していたのですから」
「……実はおれも、廊下で顔を合わせたときに過ったのだ」
発言しても良いだろうかと、隣の反応を窺いつつマイクロトフが切り出す。
「この時間に張り番に入ると、式には出られないのではないか、と……」
すると、青騎士団副長がふるふると肩を震わせた。
「そこで指摘して差し上げれば……。あの者、どうにも目先の欲に走って転ぶ質と見受けられますな」
此度、立ち会い有資格者に対して、特に予行めいた集まりは課せられなかった。ただ、式中における所作を確認するため、当日は一時課(※午前6時頃)までに礼堂入りする旨、通達が回っていたのである。
一度は目にした筈の要項を、綺麗さっぱりと記憶から飛ばす───やろうとしても、なかなか出来ることではない。副長たちの表情には、呆れと同時に、稀有感が昇っていた。
「で、どうしたのだ? やはり式は欠席か?」
「自団長の任官を見届ける幸運を与えられて、辞退を望む騎士がおりましょうか。放心して、へたり込んでおりました。あれでは使い物になりませぬゆえ、替わりの張り番を手配して、礼拝堂へ向かわせました」
「半泣きでしたなあ……」
ここでカミューの忍耐が限界を超えた。吹き出しながら首を振る。
「馬鹿も極まると愛嬌ですね。まあ……彼とは一方ならず縁があります。今日のところは大目に見てやってください」
「甘やかすとつけ上がりますぞ。ここだけの話、わたしはあやつがカミュー様の従者になりたいと言い出すのではないかと案じていたくらいで」
「それはないでしょう。彼も根っからの騎士ですから、……多分」
朗らかに笑い合った後、座に一瞬の沈黙が落ちた。そのうちに青騎士団副長が、思い出したように顔を上げた。
「うっかり話し込んでしまいましたが……御二方とも、朝食はお済みでしたか?」
「おれはここへ来る途中で済ませたが、カミューは───」
おずおずと横を見遣る。
「……おれが来てから起きたのだ」
ははあ、と副長たちが納得する前で、カミューは弱く嘆息した。
「式が終わってからにしておきます」
「軽くでも良いから口にしておかないと、最中に腹が鳴るぞ」
「そのときは気合いで止めるよ」
カミューの言い様に微笑んだ赤の副長が軽く頷く。
「でしたら、礼拝堂から戻られた後、何ぞ摘まめるものを用意しておくよう、従者に申し伝えておきましょう」
次いで、懐を探り始めた。
「それはそうと、実はカミュー様にお渡しするものが……。文、らしきものなのですが」
「……「らしい」、とは?」
取り出されたのは一通の封書だ。何やら膨らんだ包みを翳すようにして、副長は眉を寄せる。
「未明に届いたそうです。この通り、差出人の名がありません。このままお渡ししたものか悩んだ書簡物担当庶務官が検分を重ねたところ───」
包みを受け取ったカミュー、そして横から覗き込んだマイクロトフも、続いた一節に呆気に取られた。
「……中身を破損してしまったそうで。蒼白になって、わたしのところへ持って来ました」
確かに包みは、文にしては妙に厚い。しかも、不自然な形の厚みだ。この時点でカミューには中身が見えるようだった。
丁寧に封を開けると、はんなりと唇を綻ばせる。摘まみ上げたのは、割れた焼菓子の欠片であった。
「ああ……やはり。手触りから、そんな気がしていたのですが……」
「ゲオルグ殿───」
副官の呟きに、カミューの独言が重なる。たちまち一同は色めき立った。
「何と、ゲオルグ殿ですと?」
「間違いないのか、カミュー?」
うん、と彼は中が見えるように封筒を広げてみせた。
「署名はおろか一筆もなく、焼菓子一枚を送ってくる。これがゲオルグ殿でなくて、誰だと思う?」
「ううむ……何やら説得力がありますなあ。それにしても、何ゆえ焼菓子を?」
心底不思議そうな青騎士団副長に、カミューは手にした欠片を揺らした。
「これはティント領クロムの名物です。わたしがグラスランドを出て、最初に口にした品でした」
はっと一同は目を瞠る。案じるふうの気配が広がる中、懐かしげな調子が語った。
「あの頃、わたしは碌に物が食べられなくて……紋章が覚醒して身体に変調を来していたのもあるでしょうが、何と言うか、生きるための本能的な感覚が麻痺していたような感じで」
「カミュー……」
顔を歪めたマイクロトフに、カミューはふわりと笑み掛けた。
「……昔の話だよ。そんなふうに、食についての関心を殆ど失っていたのだけれど、村に着いてゲオルグ殿が用意してくださった中に、一つだけ気になるものがあったんだ」
「それがこの焼菓子という訳ですかな? かなり強い刺激臭が致しますが」
「ええ、クロム産の香料です。甘い風味の菓子しか知らなかったから、興味を引かれたのです。それに気付いたゲオルグ殿が、食べろ、とミルクに放り込んで───」
「ミルク?」
うん、とカミューは苦笑う。
「乾き物は消化に悪いから水物に浸した方が良い、とね。ただ、どうにもミルクと香料が合わなくて……已む無く鼻を摘まんで食べたよ。結局、それが切っ掛けになって食欲が戻ったようなものさ。ゲオルグ殿が食べている、甘い香りの菓子が羨ましくて堪らなかったから」
たかが菓子ひとつの消化を気にしなくてはならぬほど憔悴した、当時のカミューの胸中を思うと胸が痛む。とは言え、名高き剣豪が、母親もどきに甲斐甲斐しく世話を焼いている情景を過らせれば、微笑ましくて口元が緩む。マイクロトフと副長たちは、表情を選び得ぬまま、神妙を通したのだった。
欠片を凝視しながら青騎士団副長が呟く。
「カミュー様の団長御就任を知って送ってくださったのでしょうか。しかしクロム村とは、情報が伝わるには少々早いような……」
「あながちクロムからとは言い切れません。以前、ミューズやグリンヒルの店先に並んでいるのを見掛けましたし」
カミューは言って、そのまま菓子片に視線を注いだ。
「存外、近くにおられるのかもしれませんね」
「……会いたいか?」
問われてカミューは思案する。
ゲオルグを思い返すたび、限りない思慕に胸を締め付けられる。そして同時に、そこには常に痛みが疼いた。何も返せぬまま別れてしまった悔いへの、刺のような痛み。
旧交を温めるためだけに姿を見せる師ではない。ゲオルグ・プライムはそうした男だった。
飄々とした風のような、無限の海原のような───そして峻烈な山の高みのようだった男。再び顔を合わすには、彼に誇れる自身になっていなければならない。カミューには今日という日が、まだその足掛かりに過ぎぬように思われた。
「……会えるさ、いつかきっと」
この広い世界の何処かで、気に掛け、見守ってくれている人。再会を果たす日が訪れたなら、今度こそ彼に伝える。守るため、生かすために剣を取る───正しき剣士の生き方、力の在り方。教えは忘れぬ、胸に刻み続ける、と。
カミューは手にした焼菓子を更に二つに割って、それぞれを副長たちに差し向けた。封筒に残っていた今一片も同様にして、片方をマイクロトフに分け与える。受け取った欠片とカミューを交互に見詰め、赤騎士団副長が控え目に問うた。
「宜しいのですか?」
カミューは微笑んだ。促しを受けて、三者は小さな欠片を啄む。真っ先に嚥下したマイクロトフが、ふむ、と首を捻った。
「美味いが、好悪が分かれそうな風味だな」
「だろう? 滋養を一番に考えてくださったのだとは思うが、やっぱりミルクには合わないよ。別の品に興味を引かれていれば、と後悔したものさ」
含んだ菓子をゆっくりと噛み締める。思い出が喉を伝い落ちる感覚を堪能した後、でも、と明るく続けるカミューだった。
「ゲオルグ殿は言っておられた。想いを叶える力を得たければ、先ずは生活の基本を果たしてからだ、……とね」
あの頃のカミューにとって「力」とは報復を遂げるためのものであったけれど、おそらくゲオルグは別の意味で言ったのだろう。ただ「生きよ」と───生きて前へ踏み出せ、と。
「ゲオルグ殿がわたしたちの団長任官を御存知なのかどうかは分からないが、この菓子は「力をつけろ」という激励なのだと思う」
「成程……」
「御相伴に与りましたゆえ、ますます力が沸いてきたような気が致しますな」
ひとしきり感慨に酔った後、副長たちは相次いで腰を上げた。
「長々と御邪魔致しました。これにて失礼して、一足先に礼拝堂へと向かわせていただきます。御二方には赤・青、両第一部隊長および各部隊より選出した四十騎が随従をつとめますゆえ、刻限となりましたら、城門前広場にて合流なさってください」
「心得た」
「色々とありがとうございました」
二人も立ち上がって会釈を返す。そのまま退出を見守っていたところ、扉のところで足を止めた赤騎士団副長が、ついと振り返った。そのまま、ひどく思い詰めた様子でカミューを凝視する。
「……何か?」
促しを向けても、視線を彷徨わせ、唇の開閉を繰り返すばかりだ。程なく彼は、溜め息をついて肩を落とした。
「いえ……、失礼致しました。また後ほど……」
室内に弱い声を残して扉が閉まる。最後の最後に怪訝を残されて、カミューは隣を仰ぎ見た。
「何だろう?」
「さあ……」
当然マイクロトフに分かろう筈もなく、首を傾げるしかない。暫しの後、きっぱり言い切った。
「たいしたことではないのではないか? 式関連の話なら、後回しにはしないだろうし」
刻限が迫っている。「気にするな」とマイクロトフはカミューの肩を叩き、カミューも渋々ながら提案を受け入れることにしたのだった。
副長たちに少し遅れて部屋を後にした二人は、在城騎士らの荘重なる礼に見送られて、ゆっくりと廊下を進んだ。建物を出たところには、赤・青、二人の第一部隊長が待ち受けていた。
「おはようございます。我ら両名、随従の指揮をつとめさせていただきます」
「晴天に恵まれて何よりでしたな」
赤騎士隊長が厳粛に言う一方で、青の同位階者はいつもながらの調子である。
「宜しく頼む」
マイクロトフが礼を返し終えるなり、青騎士隊長がカミューに目を向けた。暫し眺め入ってから、隣の騎士隊長にボソリと囁く。
「御感想は?」
「……感無量だ」
「でしょうな。御譲りしたのを少々後悔しているところです」
「貴団が御二人を独占しようものなら、こちらには暴動が起きていた」
低い小声で遣り合うと、次いで赤騎士隊長は意を決したふうに咳払った。視線を落とされ、カミューは問うた。
「何でしょう?」
「出発に先立ちまして、一点だけカミュー様に申し上げておきたき儀がございます」
「はい」
「実はですな、……その……」
先程の副長と、まるで同じ様相である。逡巡する男に、再び青騎士隊長が呼び掛けた。
「代わりましょうか?」
「副長より託されたつとめだ。それに君では、厭味───いや、その、余分な一言を加えかねない」
苦しげに首を振ると、騎士は決然とした顔で言い放った。
「カミュー様におかれましては、この先、周囲に敬語を使われてはなりません。騎士団は縦の世界。御身は、その最上に位置なさるのです。どうか、それを御忘れなきよう」
副長から託された───騎士隊長が零した一節によって、先程の奇妙な一幕がこの件だったのだと知れる。カミューは弱く唇の端を上げた。
「朝から副長方の変容に落ち着かないものを感じていたのですが……これまで通りでは、やはりまずいのでしょうか」
「そ、それは───」
言葉を詰まらせた赤騎士隊長を見かねたふうに、隣から声が上がった。
「まずいですな。上下間の関係は、一団の統制そのものに繋がりますから」
次いで彼は好ましげに目を細めた。
「副長殿はカミュー団長の御性情を熟知しておいでゆえ、強要しかねて頓挫なさったのでしょう。まあ……、戸惑われるのも然りです。周囲の大半が御自身より歳を食っている状況下では───」
おい、と赤騎士隊長が低音で訴える。
「言い方を変えたまえ」
「……失礼。騎士団の礼節とは、年齢ではなく、位階の上に成り立っているのです。あまり難しく御考えにならず、慣れるところから始められては?」
はあ、と考え込むカミューの横で、マイクロトフが拳を握った。
「カミュー、良いことを思い付いたぞ。目の前におれが居るつもりで話せば良いのだ。自然とぞんざいな口調になるだろう」
絶妙の案だと意気込んだものの、三者はシンと静まり返った。やがて冷えた空気を漂わせながらカミューが言った。
「ぞんざい……なのか、わたしは?」
「違う、その……敬語の抜けた、親しげな口調、……だ」
顔を引き攣らせての訂正。赤騎士隊長は礼節を守って無表情を貫き、今ひとりの隊長は、やれやれと肩を竦めた。
尚も暫らく考えてから、カミューはこくりと頷いた。ゆるゆると騎士らに向けた瞳が、確固の色を増していた。
「必要ならば、努めてみる。……これで良いかな?」
「上々にございます」
赤騎士隊長がにっこりする。年下の上官、その物慣れぬ危うさが慕わしい。深い敬意の中に微かな庇護欲を覚えつつ、彼は今いちど心からの礼を払ったのだった。
騎士隊長らに両側を護られるようにして先へ進んだ二人は、城門前の広場で隊列を整えた騎士一同に迎えられた。
最敬礼が敷かれる中、カミューを見詰める赤騎士団員の間に小さな溜め息の輪が生じたのは、多分、気の所為ではないだろうとマイクロトフは考えた。
居並ぶ騎士の中央部から、第一部隊の各副官が二人の馬を伴って進み出る。先ずはマイクロトフが、続いてカミューが鐙に足を掛けた。
愛馬同士の関係は相変わらずである。カミューの馬は、漆黒の雄馬の熱烈な求愛よりも、今はまだ主人と共に地を駆ける方が重大事であるらしい。
とは言え、まるで好意がない訳でもなさそうだ。並んだ雄馬が毛繕いを仕掛けても、厭う素振りは見せない。この調子なら、いずれは二世も望めそうである。
マイクロトフには今一頭、即位の折にミューズから贈られた馬が在る。よって、最初に産まれた仔はカミューに譲るべきだろうか───そんな楽しい想像が、時折マイクロトフの胸を過っている。
二人が馬上の人となるのを待って、粛々と号令を待つ騎士一同に、鞭のような一声が放たれた。
「これより式典へと向かう。総員、騎乗!」
ざっ、と地を蹴る音が響いて、騎士は続々と馬に跨がっていった。
二人の新団長を先頭にして、やや斜め外側後方に各騎士隊長、更に四列を組んだ一団の前進が始まる。先々まで見渡せる一本道、その両側に等間隔で並んだ木々には、そろそろ綻び始める小さな蕾が揺れていた。
少しして、斜め後ろから青騎士隊長がマイクロトフに声を掛けた。
「時に団長、式次第の方は大丈夫でしょうな?」
王もなく、白騎士団長もいない中で行われる団長位の任官の儀。まったく初めての典礼ゆえに、その様式を整えるまでには、騎士団位階者や文官一同、頭を悩ませたものである。
最終的には、王が白騎士団長を叙任する際の諸々を下敷きとした式次第が完成した。差配を執るのは司祭長マカイだ。儀式において、自らが剣を手にする場面があると知った彼は、日々礼拝堂に立ち寄る警邏の騎士から、その扱い方を熱心に伝授していたらしい。
聖マティスの遺した旧・皇王家の宝剣ダンスニーには、今なお不可解な特性が残っている。主人と認めた人間以外が接触を試みると、不穏な覇気を放ってこれを拒むのだ。
ただ、すべての人間に対して威嚇が行われるという訳でもない。どこに基準が置かれているのか、未だにマイクロトフにも良く分からないが、どうやら剣才や心の泰然といったもので、ダンスニーは相手を選んでいるようだ。
生きて、意思を持っているかのような剣。もしダンスニーがマカイに触れられるのを厭えば、式の一幕が成立しなくなってしまう。
これを恐れて予行が実施されたが、幸いマカイは問題なく抜刀に成功した。魔を宿すとされる剣も、主人の晴れ舞台に水を注す気はないらしい───居合わせた一同は安堵に胸を撫で下ろしたのだった。
マイクロトフには、マカイがあれほど真剣に準備を重ねた皇王即位式を、ゴルドー糾弾の場に充てて台無しにした感がある。青空の下で行った式も悪くなかったと、後にマカイは笑ったが、足場の狭さに四苦八苦していた姿は今も忘れられない。
司祭が騎士の叙任役をつとめるのも、これが最初で最後となるだろう。歴代の司祭としては唯一無二の体験。これで、あの即位式の埋め合わせになればとマイクロトフは思う。
今の礼拝堂は、聖人の偉業を留めた記念堂であると同時に、騎士団の祭事一切を執り行う場だ。矢傷を受けた英雄の絵図も、綺麗に修復されて現在に至る。
絵に描かれた勇士の一群は、今のマチルダ騎士の姿そのままだ。弱き者、信念のため剣を取る、誇り高き闘士の一団───マチルダ騎士団。
マカイから、その長の名を与えられた後、二人は互いの部下の代表となる副官から「忠誠の儀」と呼ばれる誓詞を捧げられる。これを受け入れれば、典礼は終了だ。
「団長の御要望を容れて、可能な限りの簡素化を図ったのです。みごと成し遂げていただかぬことには、知恵を捻った位階者ならびに文官一同、立つ瀬がない」
肩越しに自団騎士隊長を見遣ったマイクロトフが、ぼやきの調子で返す。
「そう念を押されると、余計に緊張してくるではないか」
「この程度で緊張を増されるようでは、こちらの方こそ不安が募ります」
むう、と唸ったマイクロトフは、隣へ向けておずおずと囁き掛けた。
「カミュー……何かあったら、そのときには頼むぞ?」
だがしかし、いらえは実にきっぱりとした、容赦ないものであった。
「頼まれても困る。却下だよ、マイクロトフ。お互い一団の指揮官となるのだから、臨機応変に対処するすべも磨かないとね」
澄まし顔で往なされたマイクロトフが、だが密やかに笑みを呑む。
式事に入っていない行動を、彼は一つ盛り込むつもりでいるのだ。副長らと交わす儀礼の次に、今ひとつ誓いを立てる。生涯を通じて守り抜く敬意と誠を、己が最愛なる伴侶へ向けて───
「臨機応変」を口にしたカミューが、どんな反応に出るか。それを想像すると、マイクロトフの胸は弾む。
おそらくカミューは僅かに目を瞠るだけで、すぐに同様の礼を返す。口元には仄かな笑みが昇るだろう。出会った日からマイクロトフを魅了してやまぬ、何処か困ったようにも映る微笑みが。
道幅が緩やかに太さを増して、やがて大きく開けた。
左手に聳えるは、前時代を冠して新たに名付いた旧皇国聖堂。そして前方には、緩やかな下勾配の果てにロックアックス街並みが小さく浮かんでいる。
広場に街人の影はない。随従の騎馬隊が、ここで式が終わるのを待つ都合上、人払いが施されたためだ。
だが、地区村長を通じて民たちは知っている。今日、マチルダに二人の新騎士団長が立つのだと。
それはかつてマチルダの王と呼ばれた人と、彼が心を分けた人。国を築いた英雄たちにも似た、若く輝かしい一対であることを───
広場の入り手でカミューが愛馬の手綱を引いた。気付いた赤騎士隊長が即座に後方へ合図を送る。騎馬隊は、たちまちその歩みを止めた。あ、と振り返った青年に、騎士は穏やかに笑んだ。
「構いませぬ、……少しの時間でしたら」
「ありがとう」
短く言って、カミューは一旦は止めた馬を少しだけ前へ進めた。倣ったマイクロトフが、ゆるゆると馬を並べる。勾配の彼方に広がる街をひとしきり見渡した後、カミューは静かに呟いた。
「こうして改めて見ると……美しい街だね、ロックアックスは」
初めてこの街に立ったときには、何も感じなかった。瞳が映していたのは、打ち果たすべき敵の影のみだったから。
「ああ、美しい」
強く頷いて、マイクロトフも彼方を見遣る。
「だが、単に見掛けの美しさだけではない。自由を勝ち取るために戦った先人の想いを、子々孫々が誠実に受け継ごうと努めてきた。だから今の姿があるのだと、おれは思っている」
これを聞いたカミューは、ひっそりと瞑目した。
「儀性の上に築かれた平安、か……。確かに、続くかどうかは受け継ぐ側の気構え次第だな」
───理不尽な災禍に見舞われ、地に還った人々。
せめて彼らの眠りだけは護りたい。遥かグラスランドへと続く空を見上げて、カミューは願った。
不意に調子を変えてマイクロトフが切り出した。
「ここでおまえと初めて会った。刺客に襲われたおれとフリードを助けてくれた」
「ああ……そんなこともあったね」
カミューは軽く唇を上げた。
「もっともあのときは、良いところ出の子弟くらいにしか思わなかったけれど」
第一印象は複雑なものだった。
佩刀しながら抜かず、年下の──挙げ句、マイクロトフが老け顔なので、フリード・Yは実年齢より遥かに幼く見えていた──付き添いに庇われていたのは気に入らない。
だが、男は決して傲慢ではなかった。自らの非を即座に認めて詫びる素直さは好ましかったし、何より、見上げる黒い瞳の真っ直ぐな強さが胸を衝いた。
世の穢れ、痛みや苦しみを知らぬゆえの清澄だろうと、侮りめいた感も覚えたけれど、確かにあのときカミューの胸には、自らが失った、そう在りたかった姿への哀憐があったのだ。
どのみち二度と会うまいと別れた男。城で再会を果たしたとき、驚きを隠すのにどれほど苦労しただろう。
期せぬ出会いに狂った軌道は、修正を果たし得ぬまま歪みを増した。
最初に抱いた仄かな好感が、やがて育って恋情と化して、終には恨みの念まで覆い尽くすに至った───
「今でも信じているかい?」
「何をだ?」
「どんなかたちで出会っても───」
必ず惹かれた。
いつ、何処で、どのようにして巡り会おうと、何度でも恋に落ちる。
夜空に瞬く星の如く、あまた在る人々の中で、たった一人と選ぶ相手。交わす瞳に愛と信頼を映して、肩を並べて生きていく唯一の半身。
「……勿論だ」
重々しく答えた男を、輝く瞳が直視する。
「まだ、わたしから言ったことはなかったね。おまえに会えて良かった」
「えっ?」
「おまえと引き合わせてくれたさだめに感謝しているよ、マイクロトフ……」
知らず手綱を握る手に力が入ったらしい。大柄な黒馬は、突如として高々と前脚を蹴り上げた。やや離れたところに持していた騎士一同が息を詰める中、主人を振り落としかねない勢いで幾度か空を掻いた後、馬は荒々しく鼻を鳴らしながら、地に脚を戻した。
「何をやっているんだ?」
呆れ顔でカミューが言うと、マイクロトフは頭を掻いて照れ笑った。
「うっかり手綱を絞ってしまった。何と言うか、こう……胸が鷲掴まれたような気がして」
潜めた声で付け加える。
「ここで抱き締められないのは痛恨の極みだ。夜にでも、もう一度言ってくれないか?」
「……言わない。金輪際、言わない。馬の首でも抱き締めたら良いさ」
冷ややかに言い残して、カミューは愛馬の向きを変えた。騎士たちに向けて軽やかに呼び掛ける。
「待たせて悪かったね」
「とんでもございません。では、堂前までお進みください」
「……団長、何を呆けておられるのです。ささと進んでいただかねば、後が続かない」
「あ、ああ。分かって、いる……」
礼拝堂の建物左右には、先行した騎士の馬が整然と繋がれている。さながら騎馬隊列が、正面扉へと続く石段を守っているかのような光景だ。
赤・青、第一部隊長が礼堂の扉を両側から押し開ける、これが内へ向けられた合図となる。
新騎士団長を迎える音曲は、立ち会い一同が抜刀によって響かせる、硬質なる金属音。両手で剣を掲げ持った騎士が幾重にも立ち並ぶ堂内、中央通路の先には赤・青騎士団副長が、そして再壇上では司祭長マカイが待っている。
先に石段を昇り詰めた騎士隊長らが、左右の扉に手を掛けた。視線に促されて、マイクロトフは最初の段に足を掛ける。幾段か進んだところで、カミューが遅れているのに気付いて振り返った。
彼は、再び街の方角を眺めていた。馬上から映るそれとは違った情景に心を奪われているのだろうとマイクロトフは推察した。
「カミュー」
───声は掛ける。
だが、もう手は差し伸べない。
そうして努めていざなわずとも、今は自らの意思で、離れた距離を埋めるカミューを信じているからだ。
向き直りざまに、陽光の加減か、薄茶の髪が金色の煌めきを放つ。
「いま行くよ、マイクロトフ───」
石段にて待つ男へと踏み出す刹那、白い貌には穏やかな至福が満ちていた。
← BEFORE
END.