ゆっくりと扉が閉じて、礼堂のさざめきが遠ざかる。衆目から解放された安堵感で、僅かに力の緩んだ皇子の手を振り切ると、カミューは部屋の隅に設えられた長椅子へと進んで、崩れるように沈み込んだ。捻った半身を背凭れに伏せたまま、虚ろに呟く。
「もう……、わたしにはもう、何がどうなっているのか……」
苦しげな声音に誘われて椅子の前まで歩み寄ったマイクロトフが、その場に膝を折って青年を見上げた。
「分かるぞ。おれも少し混乱している。今日のうちに現れるだろうとの予感はあったが、まさかおまえが、同じ祭壇上に居るとは思わなかったからな。それに───」
いよいよ真剣に眺め入りながら小声で続ける。
「……髪の色が違っているし。黒髪も良いが、前とどちらが本当の色なのだ?」
一瞬ぽかんとして、俯けた頭を起こして瞬くカミューだ。次いで、抑えようのない失笑が込み上げる。真っ先に問うのがそれか。他に質すべきは多々あるだろうに。
心の乱れよりも脱力感が勝った彼は、指先で軽く前髪を摘まんだ。
「染めたんだよ。この街に、わたしの顔を知る騎士がどれだけ居るか知らないけれど、見顕されて報告の種になる訳にはいかなかったから」
そうして自嘲気味に続ける。
「……わたしは「別任で城を空けた」ことになっているんだろう?」
マイクロトフはたちまち目を瞠った。
「そうなのだ。「護衛」が警護対象から離れて別のつとめに就くというのも妙な話だが、他の説を捻り出している暇がなかったのでな。だが……、騎士たちはすんなり受け入れていたぞ? おまえの力量が、単なる護衛の枠には納まらないと認めていたからだろう」
我が事のように誇らしげに論じた後、笑顔で付け加える。
「おれたちがどういった対処に出るか、おまえにはお見通しだったのだな」
それを聞くと、カミューの虚脱は増した。捻った上体を戻して、跪く皇子に向き直ると、子供染みた輝きでいっぱいの瞳を覗き込む。
脳裏を過ったのは奇妙な既視感。飲み込みの悪い生徒に、一から物を説く教師にでもなったかのような───。
「わたしがゴルドー側の駒を装ってこの国に入ったのを忘れていないか? 第一、どうやってわたしが式典に潜り込んだと思っているんだ」
はたと眉間に皺を寄せてマイクロトフは考え込む。
「窓から忍び込んだ、とか……?」
「厳重な封鎖態勢が敷かれている中、そんなコソ泥みたいな真似が出来るか。ゴルドーだよ。街中から礼拝堂内部へと続く地下道があるのを知っているかい? あの男に手引きされて、昨夜のうちに建物内に侵入していたのさ」
「地下道……」
成程、とマイクロトフは朧げながらに納得した。城の内部にさえ、自らが知らずにいた隠し通路めいたものがあったのだ。父王、あるいは先代白騎士団長経由の情報か、秘密の抜け道をゴルドーが知っていても不思議はなかった。
納得を示す男に構わず、カミューは淡々と続けた。
「城を出た後は八方塞がりだったからね、偶然出会った第三白騎士隊長を利用して、ゴルドーと連絡を取ったんだ。わたしがどういう扱いになっているかも、その折に知った。まあ……、式典前に捕縛命令まで追加しては騎士の負担も大きかったろうが、敢えてそうしても良かったんだ。捕まったときには、詮議の席で「ゴルドーに雇われて皇子を殺そうとした」くらいは言ってやったのに」
自虐を紡いだカミューは、自らを見詰める瞳の真摯に耐えかねて目を伏せた。
「司祭に成り替わるのも、連中から授けられた策だ。もっとも、見事に看破されたけれど。あの赤騎士……、彼に呼び掛けられたときには息が止まったよ。どういう巡り合わせなのか、わたしを困らせる場面にばかり現れる。第二白騎士隊長を殺したときも、……そして今日も」
「それなんだがな、カミュー」
ふと遮って、マイクロトフは首を捻った。
「皆、おまえが司祭の格好をして式典に現れると考えて備えていたらしいが、おれは何も聞かされていなかったのだ。今日になって急に式次第の順序が変更されるし、殆どの司祭が祭壇に上がって来ないし、何か妙だとは思っていたのだが……」
カミューは弱く微笑んだ。
「おまえの性情を考えた上での配慮じゃないか? 大罪を暴く大仕事を抱えているのに、刺客が間近に潜んでいる可能性を耳にしたら、気が散るだろう?」
刺客、と復唱したマイクロトフは、だが、そのままゆるゆると首を振る。気付かぬ振りで、カミューは再び口を開いた。
「そちらにはゲオルグ殿が付いていたのだし、わたしがどう出るかなんて、それこそお見通しだったのだろうな……」
改めて自嘲が込み上げる。
剣の師ゲオルグ・プライムは、ずっと復讐行為に否定を通してきた。街の宿屋に呼び出された際、「失敗したら後を頼む」と請うたカミューに、了承めいた言葉を口にしたゲオルグだったが、思えばそれは、暗殺の続行を承けてのいらえではなかったのだろう。
あのとき、既に師の心は決していた。必要が生じれば皇子側に立つと。宿屋で同席したフリード・Yが、別れ際にゲオルグに呼び止められていた。何らかの意を与えられた彼が、皇子とゲオルグの仲立ちを果たしたに違いない───カミューはそう推察した。
「助けていただいたのだ。ゲオルグ殿には、本当に……」
マイクロトフがぽつりと切り出した。
「これを言うとおまえは怒るかもしれないが、父上がグラスランド攻めを命じるとは、やはりどうしても信じられなかった。とは言え、現実にマチルダ騎士が村を襲った以上、何か裏があるのだと……父上の名を騙って暴挙に出たものが居るのだと考えるしかなかった。最初は雲を掴むような話だった。記録も当事者も残っていないのだからな。それでもやると決めた。何があっても事実を掴まずにはいられなかった」
それからたいそう躊躇しつつ、言い添える。
「……無論、父上を信じていたが、万が一の場合をまったく考えなかった訳ではない。これは騎士たちには言わなかったが」
確固たる信頼の中にも微かな不安がちらついていたのだと知り、ちくりと胸を刺されるようだった。カミューは視線を移ろわせながら先を待つ。
「そんな矢先、ゲオルグ殿とお会いした。皆で組み上げた仮定に、ゲオルグ殿が持っておられた情報を重ね合わせたところ、陰謀の全体図が浮かんだのだ。後は、仮定の立証に尽力した。いや……、尽力したと言っても、実際に調べ回ってくれたのは騎士たちだから、そこは申し訳なく思っているが」
律儀に補正まで加えながらの述懐。だがカミューは、皇子の謙遜以前の一節に引っ掛かった。
「ゲオルグ殿の情報……?」
「マチルダに来られる前、グリンヒルに寄られたそうだ。そこでカラヤの族長と会われたとか」
「……それは知っている」
ゲオルグを通じて、グリンヒル公主暗殺の決行時期を知らせてきたカラヤ族長ルシア。隣国の騒動に乗じて目的を果たせという彼女の厚情を、感謝と焦燥で聞いた日。
「そのとき、先代カラヤ族長謀殺に纏わる話をお聞きになったようだ。父上とカラヤ族長、共に健勝だった二人の突然の死……それが「毒殺」という鍵で結び付いた。ゲオルグ殿がおられなければ、ここまではっきりとゴルドーの所行を解き明かすことは出来なかっただろう」
カミューは瞑目し、そして柔らかに笑みを浮かべた。
「運に味方されたな、皇子様」
マイクロトフも、すぐさま破顔した。
「おまえもそう思うか? おれたちも言っていたのだ。細工職人や侍医長が書き付けを記していたり、ワイズメルがゴルドーからの書簡を保存していたり……これは運に味方されている、必ず勝てる、と」
「……わたしは五年も欺かれ続けたのに、たった半月やそこらで真相に行き着くとはね。これなら、そちらの提案に従って、城でのんびり待てば良かった」
上っ面の冗談を口にせざるを得ない胸中までは推し量れず、マイクロトフは神妙に同意した。
「本当だぞ。おまけに窓から飛び降りるなんて、危ないではないか。怪我をしなかっただろうな」
───しても気付かなかっただろう、とカミューは言葉にせずに答えた。あのとき抱えた胸の痛みは、体躯を苛むどんなそれにも勝っただろうから。
「城を出てから、何処に居たのだ?」
「東七区」
控え目な問い掛けに、さらりと返す。聞くなりマイクロトフは眉間の皺を深めた。
「……女性が居る店か?」
「居たよ、お二人。とても良い方たちで、何も聞かずに置いてくださったんだ。さっきの話にも出ていた、赤騎士団副長が懇意にしている女将の酒場」
酒場か、とあからさまな安堵の息を吐く男をカミューは怪訝そうに見詰めた。次いで、やれやれと肩を落とす。いったい何を心配したのだか、皇子の反応は相変わらず分かり易い。
「理解していただけたかい? そこで第三白騎士隊長殿と顔を合わせたのさ」
「住民に剣を振るったあの男を止めたのはおまえだったのか」
「……まあね。執念深そうな男だから、今後のために訴状を送っておこうとしたが……あれも思惑を外してしまった。式の前に届いてしまうとは誤算だったよ」
「何故、前ではまずかったのだ?」
「あの男との繋がりを伏せたかった。少なくとも、礼拝堂内に潜り込むまでは」
「おれを討つために?」
投げ掛けられた問いは直截に過ぎ、沈黙で流すしかないカミューだった。
「……もう良いだろう? わたしは敵を見誤って、空回りに終始した無様な道化だ。さっさと縄を掛けて連行しろ」
意想外の一節に瞬いた後、マイクロトフは真面目な顔で質した。
「無論、城に連れ帰るつもりだが、……どうして縄を?」
「わたしは第二白騎士隊長殺害ならびに皇太子暗殺未遂犯だぞ」
「その前に、おれにとって欠け替えのない、大切な人間だ」
膝の上に置かれたカミューの手に、おずおずと掌を重ねる。
「おまえの事情を知っているのも、ごく限られた騎士だけだ。だから何も気にせず、これまで通りに振舞ってくれれば良い。一緒に来るのを渋るなら、こうして手を引いて行くだけだ」
「おまえは……!」
力の篭っていなかった手を鋭く払い退けてカミューは叫んだ。
「骨の髄まで御人好しだな。周りもそうだ、第二隊長が失踪したと嘘まで吐いて……そうまでして、何になる? 誤解が解けた、それですべてが円満に納まるとでも思っているのか?」
「……納まらないのか?」
訥々と返してマイクロトフは説き始めた。
「第二隊長の件は、何もおまえのためだけでなく、色々と考慮した上で、ああいうかたちを取ったのだ。こうなった以上は、彼も議会で裁かれる罪人となる。騎士団の教義は、非戦闘民への無用な殺傷を固く禁じているからな。事件に行き合ったゲオルグ殿の証言も得たし、偽りの命令書に従わされた点を酌量しても、その残忍ぶりに対しておそらく極刑が課せられただろう。ならばいっそ、遺族に対する非難を避けるためにも、「失踪」で通した方が良いのではないか、と……」
勿論、と語調が沈む。
「それもおまえには気に入らないかもしれないが。ただな、カミュー……副長たちが案じていたのだ。おまえが殺したと衆知になれば、今度は第二隊長の家族がおまえを恨む。非の有無に拘らず、やはり恨めしく思うだろう。そんな感情の連鎖は、何処かで絶ち切る方が良い、とな。だから此度は伏せたのだ。この先どうするかは、改めて話し合わねばならないと思っているが」
「…………」
「父上は非道と無関係でおられた。これでもう、おれを殺す理由はなくなった……そうだろう?」
切々とした言葉が途切れるなり、カミューの視界が滲んだ。
殺すつもりで潜んでいたのではない、そう告げたら皇子はどんな顔をするだろう。
想いゆえに決意を曲げざるを得ない状況に陥った。故郷の人々、そして新たに出会った人々。双方に誠実であるためには、いずれ過去の非道が衆人に知らしめられると信じて、報復心ごと自らを葬り去るしかなかった。
凍りついた嘆きを溶かした男。マチルダ皇王家最後の一人、皇太子マイクロトフ。彼の傍らで自らの人生を清算する、その瞬間が幸福となり得ると思ったから、だからあの場に潜んでいたのだ。
ゲオルグたちは、赤騎士団副長宛てに届いた訴状の存在を、皇子に知らせなかったらしい。つまり、そこに潜ませた伝言は──炙り出しと鏡文字、二重に隠した、皇子に贈った最後の言葉は──当人に伝わっていないのだ。
「良き王となれ」、ただ一言に込めた様々な想い。炙り出しに気付くかどうかは、ささやかな賭けだった。殺意は捨てていた、新皇王の未来を祝福していたと、自らが死んだ後にでも分かって貰えたら───そんな自己満足めいた衝動に駆られて施した密かな細工。
実際のところ、心情が伝わらなかったのは幸いだったかもしれない。この皇子は、カミューが死ぬ算段で式典に潜り込んでいたと知ろうものなら、唾を飛ばして憤慨しそうだから。
「……そうだね」
言葉を選びながらカミューは言った。
「おまえや、おまえの父君に対する殺意は的外れで不当だった。その点については心から謝罪する。第二白騎士隊長殺害についても……方々の配慮に感謝するよ」
でも、と唇を噛む。
「罪を問わないなら、このまま行かせてくれ」
たちまちマイクロトフは頬を引き攣らせた。
「やっと会えたのに、そんなことが出来ると思うか?」
「……おまえは何も分かっていない」
必死の眼差しから顔を背けつつ、カミューは訴える。
「村が襲われた日からずっと、わたしはマチルダ王を憎んできた。王が没してからは、その血に連なる者───つまりおまえを、この世から消し去るためだけに生きてきた。殺すためにこの街に来た。おまえと出会って、自分の理不尽さを認めるようになってからも、結局わたしは復讐者以外の何者でもなかったんだ。前にも言っただろう? わたしたちの関係は……そう呼べるものがあるなら、それは偽りの上に築かれた幻だ。もう、元には戻らない。戻せない」
そうして彼は片手で顔を覆った。堪らず零れそうになった涙を隠すために。
「……ゲオルグ殿にも幾度となく言われたよ。復讐は虚しい、何も得られない。分かっていた。分かっていて、この道を選んだ───根本から取り違えているとも気付かずに。もし、おまえを殺して、その後で真実を知ったら? どうあっても償えない過ちを犯すところだった」
「殺していないのだから、良いではないか」
あっけらかんと挟まれた合の手を、きつく首を振って一蹴する。
「結果はどうあれ、最初から道を外していたんだ。おまえを標的に据える理由なんて、何ひとつなかった。血の繋がりがすべてではないと、あの村で育てられたわたし自身が、誰よりも知っていた筈なのに」
カミューはひとたび言葉を切り、掠れた声で締めた。
「恨むあまりに道理を失した。心に魔を棲まわせ、理不尽な害意に捉われたまま、与えられた信頼を裏切り続けた。今となっては、そんな自分が許せない」
マイクロトフは、暫くじっとカミューを見詰めていたが、程なく唇を綻ばせた。
「ゲオルグ殿が仰った通りだな」
「え?」
「おまえは自分を粗末に扱いがちだ。村でただ独り生き延びたり、やむを得ぬ誤解に陥ったり……、マチルダ皇王家を滅ぼせば苦しみが癒されると信じたことさえ許せずに、そうやって自分を責めてばかりいる。だからおれが、おれたちが、おまえに替わって、おまえを大切に思うのだ」
言い終えるなり彼は、力任せにカミューの手を引いた。半ば長椅子から浮き上がるような格好で、カミューは皇子の胸のうちに落下した。
反射で身じろぐ肢体を強く抱き締めながら、闇色に変じた髪を掻き分け、耳朶に囁く。
「おれたちの出会いが、隠された罪を暴いたのだ。おまえが居たから、おれは、そう在りたかった自分を見出せたのだ。替わるもののない、唯一の存在……、おまえが何と言おうと、この想いだけが、おれにとっての絶対だ」
───だから剣と紋章が教えてくれた。愛しき人に迫る危急を。カミューを護れと、量り難い力で呼び掛けてきたのだ。
腕の中に閉じ込めた青年の微かな震えを認めた後は、痛むほどの恋情が迸った。
「偽りから始まろうと、それが真になるときだってある。元に戻らないなら、改めて始めれば良い。どんなかたちで出会っても、おれは何度でもおまえに惹かれる。全霊でおまえを求める。だから行かせない。行かないでくれ、カミュー」
沈黙が続いた。焦れた皇子はいっそう拘束を強める。
やがてカミューは静かに言った。
「一国を背負う身でありながら、そうもあからさまに心情を零すのは感心しないな、皇子様」
声音に忍んだ懐かしい響き。マイクロトフはにっこりした。
「王族だ、皇太子だという前に、おれは一人の人間だ。この世で唯一と決めた相手を繋ぎ止めるため、必死になって何が悪い?」
「開き直ったね」
軽く返した次には、腕が皇子の背に回っていた。抱き返すには至らず、式服を掴み締めるだけであったけれど、カミューにはひどく物狂おしく感じられる行為だった。
「……嫌な男だったら良かった」
絞るような呻き。
「おまえには、騙り高ぶった、残忍で救いようのない男であって欲しかった」
「それはどういう───」
呼び掛けを、悲痛な声が遮る。
「おまえが、あの白騎士……第三隊長みたいな男なら、第二隊長を殺したその足で、おまえを訪ねて躊躇なく斬り捨てることが出来たんだ」
掴んだ服を引いて抱擁から逃れるや否や、逞しい胸板を打ち据え始める。
「警戒心に薄く、心情は筒抜け。不器用で、呆れ返るほど生真面目で、自ら率先して動かずにはいられない。そんな皇子が居るか?」
「み、……未熟ですまない」
「確かに、おまえの信頼を得られるように振舞った。逃げた騎士を見付けるまでの時間稼ぎが必要だったし、信じ込ませた分だけ、隙を衝く機会が増すと考えたから。でも……こうも真っ直ぐな好意を、それも恋愛感情込みで、向けられるなんて計算できると思うか?」
「無理……だろうな、多分……」
迫力に押されて同調を洩らしたマイクロトフは、何度目かの殴打で止まった拳が激しく戦慄いているのに胸を衝かれた。
「……おまえと出会った日から、思惑は狂い続けた。人生を懸けた覚悟が揺らぐなんて思いもしなかった。何気ない遣り取りに心から笑ったり、安らいだ心地になったり……、そんな日々はもう望めないのだと思っていた。失うことを恐れて、大切なものを持たぬよう努めてきた、……なのに」
堰が切れたように言い募った後、最後に聞き取れないほどの涙声が喘いだ。
「何処で狂ったのか分からない。どうしてなのかも分からない。討ち果たすべき敵と見ていたおまえに、どうしてわたしは───」
そのまま黙り込んでしまったカミューを、少しの間、マイクロトフは困り顔で見詰めていた。が、ふと思いついて、ゴソゴソと懐を探り始める。
取り出されたのは皺だらけの紙片だ。マチルダ北方の村で自らが記した鏡文字を突き付けられたカミューは、意表を衝かれて目を瞠った。紙片の一部分を指し示しながら、皇子は瞳を煌めかせた。
「覚えているか? 何と書いたのか聞いたとき、答えに一瞬の間が空いた。「書き損じ」と言われたが、何となく気になって、後でこっそり鏡に映して読んだのだ。あれからずっと、肌身離さず持っている」
「……屑入れに捨てた紙切れを?」
そう、と得意げな首肯が応じる。「愛している」───短い一文に陶然と眺め入りつつ、彼は答えた。
「おまえの性情を考えると、面と向かって言って貰える気がしなかったのでな。だから大事に取っておいた。一種の御符だ」
紙片を畳み直して懐に戻し、ゆるゆると瞑目する。
「だがこれは、おまえの葛藤の現れでもあったのだな。鏡に映して裏返さねば読めないこの文字こそが、おまえの本当の気持ちだったのだと、今も信じている」
「…………」
「カミュー……もう良いだろう? 知っての通り、おれは言葉に隠された真意を読むのが不得手だ。裏返したり、遠回しにされては量りかねる。今ひとたび……今度はもう少し、はっきり言ってくれないか」
そうして開いた瞳には歓喜が在った。暫くの間、カミューは呆気に取られていたが、じきに抑え切れぬ笑いが込み上げてきた。
「この期に及んで、分からない振りを装うとはね。ずるい男だ。意外な一面だな、皇子様」
言い終えると、彼は愛しき男に掠めるようにくちづけた。
刹那の接触の後に待っていたのは、これ以上ないほど見開かれた漆黒の瞳。そこに映る自身に見入りながら、眉を寄せつつカミューは問うた。
「……何を呆けているんだ」
「あ、いや……」
呼ばれて我に返り、さっと紅潮するマイクロトフだ。
「何と言うか、……期待以上だったから。おまえの方からしてくれたことがあったかどうか、つい、思い返してしまって」
吹き出さずにはいられなかった。
祭壇上の皇子は、少し離れている間に随分と頼もしさを増したように見えた。こうして広い胸に抱き寄せられれば、深い安堵感を掻き立てられる。
けれど彼の本質は、以前と何ら変わらない。カミューの言動ひとつに一喜一憂し、全身で情愛を訴える男。強靭な意志を武器に、未来を切り拓こうとするマイクロトフ。
ようよう笑いの発作を消化した青年を再び引き寄せ、皇子は甘やかに告げた。
「おまえと共に生きていきたい」
弱い首肯を見届け、更に続ける。
「では……、ゲオルグ殿の仰った件も考えてくれるな?」
はたと考え込んで、カミューは顔を上げた。
「マチルダ騎士になれ、と……? 」
ほんの僅か身を離して、切々と呟く。
「いきなり話を飛ばさないでくれ。この地からグラスランドの民を護る───今をもってして尚、意味を量りかねているのに」
するとマイクロトフは、ああ、と納得を浮かべた。
「そうか、当事者たる身には分かりづらいかも知れないな。そう……、初めて会った日、フリードがグラスランドを「野蛮な地」と口を滑らせたのを覚えているか?」
「……あったね、そんなことも」
「腹立たしいだろうが、それがマチルダや他の国々の主たるグラスランド感だ。だが、フリードはすぐに考えを改めた。おまえという人間を知り、それまで当たり前と思っていた認識が、如何に偏見に満ちていたかを悟ったからだ。おまえの前であんな言い方をした自分を、今でもたいそう悔いている」
次にマイクロトフは、悪戯を仕掛ける子供の表情を見せた。
「もう一つ、面白い話がある。おまえが城に来て以来、城の書庫ではグラスランド関連の書を納めた棚が常に空なのだそうだ。「カミュー殿の郷里について学びたかったのに、先を越された。しかも、全然返却されて来ない」とフリードはがっくりしていた。書物の借り手は、主に赤騎士団員。どうやら第一隊長との一戦が物を言ったようだな。青騎士団員よりも遥かに苛酷なつとめを負いながら、寸時を惜しんでグラスランドの知識取得に勤んでいるらしい」
分かるか、とマイクロトフは眦を緩めた。
「詮議の席でエミリア殿が言っておられた。知らないから壁が出来る、歩み寄ろうとしないから壁が取り払えない……、デュナン湖周辺諸国とグラスランドの関係を、実に単的に表していると思う。だが、騎士たちは理解する努力を始めた。カミュー、おまえが彼らにそうさせたのだ」
「わたしが……?」
「そうだ。皆、おまえを育んだグラスランドという地について知りたい、親しみたいと考えている。おまえが騎士として名を挙げれば、マチルダに暮らす民たちも同じ思いを抱くだろう。おれたちはおまえの受けた痛みを忘れない。他国を侵さず、誇り高き信念のためのみ剣を取る───掲げられた騎士団理念の遵守を、これまで以上に深く浸透させるよう努める」
もっとも、と初めて語調が弱まった。
「マチルダ騎士が村を襲ったのは事実だから、同じ名を冠することには抵抗も感じるだろうが」
「…………」
「それでもおれは、騎士となったおまえと並んで生きてみたいのだ」
皇子の言葉はそこで途切れた。カミューは長らく考え込んだ。
───報復を果たした後、命があったなら、故郷に戻って墓前に報告する。それが思考を埋めるすべてで、その先は何ひとつ考えていなかった。
自刃して故人の輪に連なるか、あるいは墓を守って生きていくのか。そんな先々の展望まで描いている余裕はなかった。それほどまでに敵は大きく、遠かったのだ。
けれど今、カミューには──朧げではあるけれど──未来の我が身が見える気がした。緑萌える草原を愛おしみながら、石の街で生きる自分。傍らの男に笑みながら、満ち足りた日々を送る自分。
マチルダに在って故郷の民を護るというゲオルグの言葉を理解した。この街で出会った男たちが真のマチルダ騎士なのだと知っているから、マイクロトフが案じるような抵抗も感じない。ただ、あまりにも長く未来を捨てていたから、即答できない。思考が追いついて来ないのである。
やがてカミューは小さく言った。
「……相談して来ても良いかな」
「誰に?」
「村の皆に」
マイクロトフは目を瞠り、ややあってから答えた。
「だったら、一月か二月……おれの身辺が落ち着くまで待ってくれ」
「どうして?」
「一緒に行く」
今度はカミューが言葉を失う番だった。穴が開くほど皇子の顔を凝視して、それから視線を外して肩を竦めた。
「何処の世界に、即位したてで物見遊山に出掛ける王が居る?」
「物見遊山ではない。マチルダ皇王家の者として、暴挙を阻めなかった己の非力を、亡き方々に詫びるのだ」
「屁理屈をこねるな。いいか? おまえには、皇太子のときとは比べものにならないくらい、為すべきつとめが───」
そこまで言った途端、不意にカミューは表情を曇らせた。伏し目がちにマイクロトフを窺いつつ、低く唸る。
「……重大な問題を思い出した。おまえは新しい皇王だ。妃を娶って、次の王を残す義務がある」
「ああ、それはだな」
───王制を廃止するから問題ない。そう続けようとして、慌てて言葉を呑み込んだ。ひとたび口にしたが最後、猛烈な追求に見舞われる、そんな自衛の警戒がはたらいたからである。
一時の思いつきではないのか、しっかりとした展望あっての決定なのか、云々。
カミューは容赦なく突き詰めてくるに違いない。居並ぶ要人を前に振るった熱弁を、今ここで繰り返すのは避けたかった。語らいに費やすこの瞬間ですら、もどかしく思うほどなのに。
「それは、……考えなくて良いぞ」
「おまえは良くても、わたしは───」
非難めいた声を吐き続ける唇を、くちづけが塞いだ。カミューが与えたそれとは異なる、灼熱の要求。
御魔化された憤慨に、理性を掻き集めようと足掻いたカミューだが、体躯の奥から込み上げる情愛の前には無力だった。呼気をも奪い尽くさんと貪る情熱に、いつしか翻弄される。より強く触れ合おうと、彼は皇子の背を掻き抱いた。
カミューの洩らした苦しげな吐息で、初めてマイクロトフは力を緩めた。名残惜しげに離れた唇が優しく囁く。
「今は何も考えないでくれ」
「そうやって、問題から目を逸らし続ける気か?」
息を弾ませながらの非難に、皇子はふるふると首を振った。
「ちゃんと向き合っている。まあ……、それだけが目的だと思われると困るが、万事丸く納まりそうな道だ。話すと長くなるから、続きは明日にでも……」
「どうして今日のうちでは駄目なんだ」
やれやれ、と嘆息せずにはいられぬマイクロトフだった。
「まだ式事が残っているし、新皇王披露目のパレードもあるし、城に戻ってからも、何かと雑事に追われそうだし」
そして、頬を緩めて付け加える。
「……夜はおまえと、相愛を確かめ合わねばならないし。ゆっくり説明するなら、自ずと明朝以降になる訳だ」
聞くなりカミューは、白磁の貌を強張らせて攻撃に転じた。
「おまえのその、情緒を欠いた物言いは何とかならないのか?」
「どのあたりが?」
「……分からないのも勘に障る。そういう台詞を聞かされて、いたたまれない気持ちになるわたしの身にもなってみろ!」
厳しく詰め寄ったときである。コツコツと扉が鳴って、間を置かず、それが掌幅ほど開かれた。
「マイクロトフ様……宜しいでしょうか?」
青騎士団副長だった。思わぬ助け舟だと、マイクロトフは胸を撫で下ろした。
「ああ、良いぞ。入ってくれ」
承諾を受けて入室した男の背後に、今ひとりの副長が続く。両者とも、床に座り込む格好の皇子とカミューを見て、やや気まずそうな顔をしたが、敢えて平静を通そうと決めたらしい。少しだけ努力が及ばなかったか、青騎士団副長だけは「お取り込み中、失礼を」と陳謝してしまったが。
寝所に踏み込まれたような羞恥を覚えたカミューは、急いで立ち上がった。皇子が倣うのを待って、青の副長が口を開いた。
「計議の結果、即位式典は建物の外にて執り行うことと相成りました」
「外?」
「はい。広場から礼拝堂に入るための石段ですが、最上段には足休め用に、そこそこの広さが設けてあります。そちらを祭壇がわりにするのです。やはりこのまま中で続けるというのは……」
だろうな、とマイクロトフは頷いた。ゲオルグも最大に配慮してくれたが、死の穢れを拭わぬままでは建物を使えないとマカイは考えたようだ。
「国賓の方々、議員・地区村長らには既に了解を得ております。式次第についてですが……、仮の祭壇では限界がありますゆえ、かなりの略式と化しましょう。そのあたりは司祭長に合わせていただけば宜しいかと」
そこでマイクロトフは、ひょいと首を傾げた。
「ダンスニーを受け取ってしまったが……戻した方が良いのか?」
いえ、と副長は笑みを噛み殺した。
「何とか代用に足るとは言え、石段は石段。そう幾人も立ち並ぶ余裕は……。剣はそのままお持ちください。戴冠の儀は司祭長直々につとめさせていただく、とのことです」
「分かった」
「状況は変わりましたが、引き続き警備には細心を払います。城にて待機中だった赤騎士団の小隊を、国賓御一同の警護に充てるため、呼び寄せました。こちらも、配置確認を済ませてあります。また、民が興奮して石段に押し寄せたりせぬよう、現在、自制の喚起を促しているところです」
「そのつとめには誰が当たっているのだ?」
青騎士団副長は、妙に畏まった様相で答えた。
「……「自制を失したら恐ろしいことになりそうだ」と想像させる人物です。いやこれは、本人が志願の理由として挙げた一節でして」
青の第一隊長か、とマイクロトフは相好を崩した。成程、彼以上の適任者は浮かばない。
軽く咳払って、青騎士団副長は続きを再開した。
「マントは準備が整い次第、お渡しします。外に出られる直前にでもお着けになってください」
「あれはなあ……、どうも身に馴染まない。うっかり足を取られて石段を転げ落ちないよう、気を付けねば」
副長たちは同時に笑み崩れた。和やかな空気の中、不意に威儀を正した赤騎士団副長が、初めてカミューに目を向けた。彼の手は、大きな紙の包みを携えていた。
「うちの第一隊長が、警備筆頭隊長経由で建物内に持ち込んでいたのだよ。連行の途中で思い出したらしい。部下を一人、連絡係として戻してきた。これを君に、……だそうだ」
差し出された包みを受け取り、そろそろと中を覗いてみると、小さな黄金色と、光沢ゆたかな赤が眼前に広がった。金のエンブレム、真紅のマント。城に残してきた、赤騎士団員からの厚情の品だった。
「……そしてこれが伝言だ。改めて進呈させていただく、今度こそ着用していただけることを、団員一同、願ってやまない」
包みの中の金色が、滲んで赤に溶け入る。しかし、そんな感慨に耽るいとまも僅かだった。胸を詰まらせるカミューの横で、マイクロトフが頓狂な声を上げたからである。
「そう言えば、おれが贈った上着は? 捨ててしまったのか?」
「違うよ、あれは二階に……」
言うと同時にカミューは狼狽えた。副長たちを見詰めて早口に切り出す。
「擦り替わる際、司祭を昏倒させて、縛り上げてしまいました。早く解いてやらなければ」
悔恨と焦りを微笑みで往なして、赤騎士団副長は語った。
「既に救助は済んでいる。警護の策に基いての、ごく突発的な、やむを得ぬ行為だったと深謝しておいた。当て身の技も見事だな、カミュー殿。彼は、何が起きたのか良く分かっていないようだったよ。部屋に在った殿下からの贈り物も回収済だ。「真紅のマント」の下に入れてある」
言われてみれば、やけに包みが膨らんでいる。カミューは悄然と頭を垂れた。
「重ね重ねの御気遣い、感謝に堪えません……」
「良いのだよ。大団円を迎えんがため、ありとあらゆる手を尽くす───みな、己のつとめを果たしただけだ」
毅然と言い切ると、赤騎士団副長は背を正した。
「では、殿下。準備が整い次第、お越しください。我らは広場にてお待ち申し上げております」
騎士の最高礼を残して副長たちが退室して行った。控えの間の扉が閉じると同時に、マイクロトフは輝く瞳をカミューに当てる。
「さあ、その司祭装束を脱いでくれ。赤いマントは黒の上着に良く栄える。民たちも、さぞ見惚れるぞ」
「え……?」
勝手に包みを奪い取って、中身を取り出している男を呆然と見遣り、カミューは問うた。
「それは、一緒に式に臨めと言っているのか?」
答える間も惜しんで、さっさと司祭服の襟に手を掛ける皇子である。
「ちょっと待て、どうしてわたしまで……マイクロトフ!」
呼び掛けに動きを止めた男は、いとも朗らかに言い切った。
「今のおまえは、騎士団位階者にも信頼厚い「皇子の護衛」なのだから、傍に居るのが当たり前ではないか」
それに、と愉悦を噛みつつ補足する。
「これから共に生きる人を、みなに見せたいのだ」
「主旨を履き違えていないか? 王の即位式というのは、そういうものでは───」
「己の覚悟と誓いに向き合う場だから、間違っていない。良いから、早く着替えろ。長く待たせるのはどうかと思うぞ」
「良い、とは思えないんだけれど……」
ぼやく傍ら、カミューは渋々と司祭服を取り払った。替わりに皇子が差し出す上着を纏い、緋色の布で肩を覆って、最後に金の輝きでマントの型を整える。長椅子に立て掛けてあった細身の剣を手にすると、そこには過去を脱ぎ捨てた、若く美しい剣士が現れ出でた。
マイクロトフが感嘆の息を吐いて、しみじみと言う。
「その装いには、黒い髪が似合うな。無論、ありのままのおまえが一番だろうが」
「……お褒めいただいて光栄だよ」
「元の色には戻せるのか?」
「ひと月かそこら経てば、自然と染料は落ちるさ、皇子様」
気抜けた調子で返したカミューは、はんなり笑んだ。
「……そう呼ぶのも、これが最後かな。次からは「皇王様」とお呼びするよ」
───それも長い呼称にはなるまいが。心のうちで言い返して、マイクロトフは先に立って扉を開けた。
人気の失せた礼拝堂、正面扉の両脇に、二人の若者が佇んでいた。中央通路を進む皇子とカミューを迎える姿勢を取った彼らは、だが徐々に威儀を崩してゆく。
新皇王、そして彼の最愛なる友を、式典へと送り出す。陰謀究明におけるはたらきぶりから、誉れあるつとめに任ぜられた若者たちは、実に対象的な表情を見せていた。フリード・Yは半泣き顔、若い赤騎士のそれは得意満面の笑顔である。
先ず、片腕に濃紺のマントを抱えたフリード・Yが進み出た。
「カミュー殿……、わたくし……わたくしは……」
何と言ったものか、言葉が続かないふうに、ひたすら「わたくし」を繰り返すばかりの姿を見て、カミューは柔らかく頷いた。
「……うん。わたしも、どう詫びたら良いのか分からない」
「カミュー殿が詫びる必要なんてありません! そうです、金輪際、皆無ですとも!」
勢いに関しては主人にそっくりだ、そう胸中で評しつつ、カミューは今いちど首肯した。
「だったら、感謝だけさせて貰って良いかな」
「感謝だなんて……そんな、カミュー殿……」
今にも声を上げて泣き出しそうな従者から騎士へと、急いで視線を移す。
「……ありがとう」
「えっ? おれに、……ですか?」
きょとんとして、若者は自問の気配を匂わせた。こちらも皇子に似て、自身の言動が他者に与えた影響については、まるで無頓着であるらしい。カミューは笑い混じりの息を零した。
「これから先は、自分のために生きてみるよ。大切に思う人たちが、そうせよと望んでくれているから」
故郷の地に眠る人々も、それを許してくれるだろう。否、過ぎた痛みを乗り越えて未来に踏み出す、そんな決意を祝してくれると思いたい。
村中が「家族」だった。実の親、祖父母のような慈愛で育んでくれた。血の繋がった兄弟同然に転げ回って遊んだ。
村の長が「皆を護れ」と授けてくれたユーライア。期待に応えようと稽古に励む姿を、誰もが温かく見守ってくれていた。
レオナが言った。亡き「家族」らは、カミューが生き延びたことを喜んでいた筈だ、と。
せっかく拾った命を悔いて、護るために手にした剣を、憎しみに駆られて振るう。村人たちは決して、そんな自分を望んでいなかった筈だと、今は感じられてならない。
広大なる草原の片隅で、つつましく暮らしていた人々を覚えているのは、もうカミューひとりなのだ。前を向いて生きる限り、懐かしい面影は潰えない。剣の稽古を見物していたときのように、「頑張れ」と励ます彼らの声が聞こえるかもしれない───今はただ、そう信じたかった。
「……ええと、あの」
若者が、舞い上がった様相で切り出した。
「つまり厳密に解釈すると、あなたが大切だと思う人の中に、おれも入れて貰えてる、ってことになりますよね?」
「そう……だね、うん」
一応、と小声で加えられた一節は、喜びの声に消された。
「やった! 聞きましたよね、フリード殿?」
「ええ、……若干曖昧にも感じられましたが、変に気を回し過ぎるのはわたくしの悪い癖ですね。でも、これでいつぞやドレミの精に作られたコブも報われるというものですねえ」
「ドレミの精?」
拳を突き上げる騎士と、軽く両の手を打ち合わせている従者に、カミューのみならず、マイクロトフも怪訝そうに眺め入った。しかし、ややあって、時間に追われているのを思い出して、彼は従者にマントを求めた。
逞しい肩から濃紺の厚布を垂らしただけで、不思議と威風が増す。「恋に酔う男」から「即位式に向かう新皇王」の顔に転じたマイクロトフへ、フリード・Yがそっと囁いた。
「マントの裾はわたくしにお任せください、弛んで邪魔にならないように、中から気を付けておりますから」
「副長たちに「扉は開けたままにしておけ」と言われたんです。そのマント、嵩張りますからね。下手したら、司祭長の下半身が埋まって見えなくなりそうだと心配したのかな」
そうか、とマイクロトフは含み笑った。これは先程の懸念に対しての配慮だろう。肩越しにフリード・Yを振り返り、明るく呼び掛ける。
「おれが石段から足を滑らせたら、裾を引いて助けてくれ」
「従者の名に懸けて、全力を尽くします」
神妙な宣誓は、妙にしんみりと礼堂に溶け入った。皇子と従者、幼少時から続いた二人の関係が、大きく動く瞬間だったためだろう。
これからは王と従者、少しの後は騎士仲間へと立場は変わっていく。けれど遣り取りに混じる深い親愛は、先々も何ら変わらず、互いの胸を温めるに違いない。
カミューに向けて、皇子の手が伸びる。
「行くぞ、カミュー」
彼は刹那、固まった。純白の手袋に包まれた、間近の掌を凝視しての硬直。しかしその逡巡は、これまでの胸を抉るようなものとは趣きが違っていた。
応じられぬ身ゆえの苦悩は、皇子の情愛に押し遣られて彼方へ消えた。いま躊躇する理由は二つ、九割方は「仮にも「護衛」が皇子に手を引かれて群集の前に出るのは如何なものか」といった至極まっとうな疑問、残りは純粋な気恥ずかしさだ。
先程の祭壇上とは異なり、今の皇子に懇願の色はない。ただ無言で待っている。
男に宿った確信に気付いたとき、ふっと体躯から力が抜けた。多くの点では自らが意を通せるけれど、こういうところは決して勝てないと本能が囁いたのだ。
ひとたび思い定めたマイクロトフは、鞭の入った軍馬さながらだ。勢いひとつで障壁を薙ぎ倒し、心が指し示す先へと突き進む。
そんな男だから惹かれた。自戒も及ばず恋に落ちた。共に生きたいと思った。
自らの「唯一」となった男の求めには──多少の不満は抑えて──応じるべきかもしれない。カミューにとってマイクロトフとは、時に優しく、時に力強かったグラスランドの風を感じさせる男なのだ。あれこれ思い悩むのにも飽いた。今はおとなしく、温かな風に身を任せても良いだろう───そんなふうに結論づけたのだった。
しなやかな手を皇子の掌に落としてカミューは言う。
「御供させていただくよ、……親愛なる皇王様」
「宜しく頼むぞ、護衛殿」
片目を瞑って短く返すと、マイクロトフは誇らかに胸を張った。
頷き合ったフリード・Yと騎士が、二枚扉の取っ手に、両側から手を掛ける。
「御即位おめでとうございます、マイクロトフ様」
一足早くフリード・Yが言えば、
「最後ですから、立派な即位式を見せてください」
若い騎士もにっこりする。
───次の王は立たない。略式を余儀なくされたこれが、最後の皇王即位式になるのである。
言葉の真の意味を知らず、軽やかにカミューが宣言した。
「いざとなったら、わたしも救援のつとめに参加するよ。さりげなくマントの裾を踏んで、新皇王陛下の広場落下を食い止めよう」
「あなたが乗っても、殿下の重みは支え切れないんじゃないかな……。一緒に落ちないよう、祈ってます」
邪気のない、そんな笑い声が開扉の合図となった。
重々しく生じた隙間から、外の陽光が割って入る。礼拝堂のうちに注ぐ輝きは、最初の鋭角から次第に辺幅を広げ、やがて光彩の波が建物の壁を駆け上がるまでに至った。
礼堂の最奥に掲げられた聖人の絵図も、光に照らされ、建国の歴史を鮮やかに映し出している。宝剣ダンスニーを握って雄々しく民を率いるマティスと、彼のやや後ろに控えるアルダ。隅々まで覚え込んでいる英雄たちの絵図を過らせながら、マイクロトフは思った。
絵に描かれた立ち位置が、二人の日々を物語る。友人であると同時に、マティスはアルダとって忠節を捧ぐべき主君だった。だから彼は、一歩下がったところからマティスを支えた。そこを自らの位置と定めて控え続けたのだ。
マティスにアルダが在ったように、マイクロトフもカミューという唯一を得た。だがその関係は、聖人らとは微妙に異なるものへと移り行く。
今は立場上、後方の位置を取るけれど、いずれカミューはマイクロトフの隣に立つ。様々なしがらみを解き放った後には、対等なる互いが残るのである。
漆黒の目が眩しげに細められた。
互いのどちらかが──多分、自身が──遅れるときもあるだろう。それでも、同じ想いを抱いていれば、いつか再び横に並ぶことが出来る。
競い合い、昂め合いながら共に生きられる相手は、容易には見つからない。のみならず、友としても至高の人は最愛なる伴侶なのだ。マイクロトフは、強運に味方される我が身に、奇跡を感じずにはいられなかった。
悠然と歩を踏み出すと、新皇王の姿を目視したらしく、溢れ返った群集の渦からどっと歓声が沸いた。
即位を祝って集まってくれた面々を見渡せば、既に退位を決めてしまっている己が不実にも思われる。それでも遠い未来には、マチルダ最後の王の決断は間違っていなかったと、人々に言わせてみせよう。
晴れ渡った空の下、強固なる誓いの炎が、改めて胸に燃え広がっていった。
情愛の黒、誠心の真紅。二色を纏った優美なる青年を伴って、マイクロトフは石段に降り立った。一際高くなる歓呼の中、宝冠を抱えた司祭長マカイが深々と一礼する。
建国二百年余を数える国家の、それが後に言う、「新時代の起点」であった。
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