最後の王・124


居並ぶ騎士を目線で押し退けるようにして、ゴルドーは祭壇へと続く階段に足を掛けた。
男の目に、もはや外野は映っていない。不可解な情念を漂わせた眼差しは、ただ壇上のマイクロトフのみに当てられている。
迎える若き皇子は、ゴルドーの動きを目の端にとどめつつ、胸元を探って肩掛けの止め具を外した。途端に擦り落ちる群青の布を片腕に集めて息をつく。床に長く尾を引く式典装束のマント。肩に負っていた重みが失われ、改めてマイクロトフは、マチルダの王位継承者から一人の剣士に立ち戻ろうとしている己を感受した。
祭壇の下に視線を落とせば、心配そうに顔を歪めた二人の副長が見返している。抱えた布地を差し向けると、察した青騎士団副長がすぐに両腕を開いた。そして、壇上から舞い下りるマントを、さながら主君自身であるかの如くしっかと受け止め、彼は深く頭を垂れた。
一方、皇子の背後で、カミューは複雑な葛藤に絡め取られていた。
真の敵を知ったときには「烈火」の暴発を許しそうになるほどの憤怒に駆られた。紋章を鎮めた今なお、怒りの炎は消えていない。
しかし、それはカミューが抱き続けてきた感情とは些か趣きを違えていた。皇子への想いに負けて、一度は牙を捨てた。ひとたび捨てた恨みの念は、まったく同じかたちでは戻らなかったのである。
ゴルドーを許せまい───そう皇子は言った。
確かに許せない。けれど渦巻く情念とは裏腹に、ここでゴルドーに斬り掛かる気にはなれなかった。
マチルダ王はグラスランド侵攻など望んでおらず、寧ろ陰謀によって命を落とした犠牲者だった。そんな人物を憎み続けて、血脈まで絶とうとしてきた我が身の愚かしさ。
ゴルドーの企みに振り回されていただけの身に、裁きの刃を握る資格はない。それが許されるのは眼前の皇子だ。仲間と共に、葬られようとしていた真実を掴み取った男だけなのだから。
ただそこで、新たな問題が浮上する。
マイクロトフはゴルドーと剣を交える覚悟を決めてしまったらしい。無論、最良の選択とは言えない。ゴルドーは法に縛られたのだ。王位継承者自ら手を汚さずとも、謀反人の末期は決しているのに。
カミューは、最後の段を昇り詰めて壇上に立った男を見遣りながら唇を噛んだ。
ゴルドーは暗い笑みを浮かべている。次代の王に泥を浴びせて自らへの手向けとする、そんな男の歪んだ胸中が、カミューには痛いほど察せられた。それは、マイクロトフに見守られての死を選んだ自分に、ある種、通ずるものがあったからかもしれない。
マイクロトフの後ろ背は悠然と落ち着き払っている。挑発に乗った血気や、起こるかもしれない闘いへの気負いはまるで感じられない。これまでのように片手にダンスニーの鞘を軽く握って、距離を取って対峙したゴルドーを見据えるのみだった。
やがて彼は静かに言った。
「……そちらの望みは聞き入れた。今度はおれの番だ、先程の問いに答えていただく。自らを守るために父上と先代白騎士団長を殺したとは、どういう意味だ」
ゴルドーは、手に剣の鞘を掴み締めたまま、抜刀の気配を見せずに口を開いた。
「幾年も前の、とある日……寡婦だった母が再婚した。それについて、特に思うところはなかった。わしは疾うに騎士として一人立ちしていたからな」
ふと、声が一段低くなる。
「親同士の再婚は、わしに義理の姉と呼ぶ人を与えた。そしてその人が皇王妃であったがために、わしの人生は狂い始めたのだ」
地方の村からたった一人、首府都の城に嫁いだ彼女にとって、義弟となったゴルドーの存在は小さからぬものであったらしい。それは他に親族を持たぬ王にも同じだったのだろう。早速ゴルドーは皇王系譜に名を記され、以降、王族の一端として遇されるようになった。
「身内としての親愛を隠さぬ王や妃が、畏れ多く、ありがたかった。厚情に応えねばならぬ、命を賭して仕えねばならぬ……あの頃わしは、確かにそう思っていた」
言いながら、そっと頬に触れる。王を護って受けた傷、かつて宿していた誠の証。自嘲気味に鼻を鳴らして、ゴルドーは指を下ろした。
「……けれど、次第に己の甘さを痛感するようになった。騎士団に身を置く者には、王の威光は無用以外の何ものでもなかったのだ。実力第一と信じてきた世界が一変した。手柄を立てれば「それでこそ王の義弟」、些細な失態にも「王の義弟が」……、分かるか、マイクロトフ? 人々の目はわし自身を擦り抜けて、後ろに居るマチルダ皇王を見るようになったのだ」
感情の一切を消し去り、淡々と語り続ける白騎士団長。昨夜のうちに話を聞かされていたカミューとは異なり、初めてゴルドーの心情に触れるマイクロトフには、ひたすら耳を傾けるしかない。
「どれほど謹直に励んでも正当に評価されない。血の滲むような努力や献身が、王の威光の前に霞む……。どうやら言いたそうな顔をしておるな、マイクロトフ。「義弟への情愛を示しただけの王に罪はない」と……? わしも最初はそう考えた。さりげなく王から距離を取って、それで何かが変わらぬかと期待した頃もあったのだ」
だが、と男の目が鈍く光った。
「昇格を色眼鏡で見られ、妬みの陰口を叩かれて、それでも耐えた、ギリギリまで耐えて忍んで……ある日突然、気付いたのだ。悪意がなくても人は殺せる。わしは、おまえの父によって緩やかな死に追い遣られようとしているのだ、とな」
「……馬鹿な。何故、父上が?」
マイクロトフは呻いた。たちまちゴルドーは含み笑った。
「分からぬのは、おまえがあの男の息子だからだ。マティスの直系子孫、生まれた瞬間から栄誉を約束された身……だから、わしの受けた痛みを理解出来ぬのだ。おまえと義兄上は良く似ている。善意ひとつで世の中を渡っていけると信じ込んでいる。純粋と見る者も居よう。だが、わしに言わせれば、それは生まれ持った傲慢だ。妬みと無縁の世界に居るから、己の言動がもたらす結果を想像できない。わしが陥った苦境に気付きもせず、距離を置こうとすれば「遠慮は無用」と笑ってみせる……。望まぬ善意の押し付けが、悪意と同じほどに人を傷つける───そのことに、王は最後まで気付こうとしなかった!」
終に語調が乱れ、荒ぶった。ゴルドーは一歩踏み出し、マイクロトフを舐め付けた。
「そして、おまえだ。次代のマチルダ皇王を護ってくれと、あの男はそう言った。己の行く末すら見失い掛けていたわしに、更なる献身を要求したのだ! そのとき思った、「真っ平だ」とな。王の血筋に生まれた、ただそれだけですべてを手にするおまえたちを……わしから誇りを奪ったおまえたち親子を、目の前から葬らずにはいられなくなった。無論、目的の障害となる者も例外ではない」
ゴルドーは憎々しげな瞳と陰鬱な笑みで宣言した。
「先刻の問いに答えよう。わしは躊躇なく王や先代団長を殺した。呵責? 感じるものか、そうすると決めたとき、わしは初めて軛から抜け出せたのだから」
「白騎士団長を手に掛けたのは……、あれも第三隊長だったのか?」
まさか、とゴルドーは一蹴した。
「先代は、あれでなかなか用心深い男であったからな。ごく自然に近付ける者でなければ、目的は果たせぬ」
先代白騎士団長の暗殺は、王が毒物で倒れる以前に決行せねばならなかった。今や第三隊長にまで成り上がった男も、当時は下位騎士隊長。全騎士の長たる人物の居室を訪ねるには些か荷が勝ち過ぎていた。
隻腕でありながら周囲を圧倒する剣の冴え、敵意や殺気には殊に鋭敏な感覚。それらを無効にするには、隙を突くしかない。刺客は、ただその一点のみを考慮して選出されたのだった。
「……つまり、わしだ。実に容易かった。「陛下が体調を崩されたらしい」と告げただけで、馳せ参じようと焦ったか、警戒もせずに背を曝した───」
「背後から斬ったと?」
押し殺すような問い掛けに、剣士として多少の後ろめたさを感じたゴルドーは沈黙で応じた。
後は予定通りに事を進めた。
団長執務室に設えられている隠し部屋に亡骸を押し込み、そろそろ寝酒を選び始める頃合の皇王を訪ねる。グリンヒルから自身宛てに送らせた後、一年あまりも隠し持っていた毒入りワインを差し向けて、言葉巧みにこれを勧める。王が杯を傾けたのを見届けた後、ひとたび自室に戻って騒ぎを待つ。
不調を訴えた王を最初に診た侍医長は、ゴルドーの計算通りに動いた。会食中の宰相を避けて白騎士団長に意見を求めようとし、隠し部屋の彼──の遺体──を見付けられず、その副官、王の義弟でもあるゴルドーを頼った。
王の死後、手駒の白騎士たちを使って先代の亡骸を王の棺に移した。これで「白騎士団長の出奔」の完成である。ゴルドーの裏切りは、二体の亡骸と共に地中深く埋没した筈だったのだが───
「よもやおまえに父親の墓を掘り起こす度胸があったとはな。とんだ誤算よ」
殊更に挑戦的に言った男は、だが即座に眉を顰めた。激昂するだろうと思われた皇子が、あまりにも静かに自分を見詰めていたからである。
マイクロトフは低く問い掛けた。
「今ひとつ、お聞きする。何故、暗殺計画にグラスランド侵略を絡めたのです」
「何度も言わせるな。絶頂期を迎えた国に更なる発展を望むなら、他国の切り取りが最も手早い。国家として成立していないグラスランドは絶好の標的だった」
座席の最前列に居並ぶ国賓の一人を一瞥して、ゴルドーは唇を曲げた。
「ティントを見るがいい。彼の地を手中に納めようと、幾度も兵を送った」
「……そんな、じい様の時代を引き合いに出されてもなあ」
ティント国王グスタフが小声でぼやく。構わずゴルドーは視線を戻した。
「機会を得て領土を広げる。国主たる者なら持って当然の展望を、代々のマチルダ皇王は封じ続けた。おまえの父もそうだ。武に優れた稀なる王と褒めそやされながら、領土拡張にはまるで無関心を通した。わしはずっと考え続けていたのだ。どうしたら王の影から抜け出せるだろう、王を越えた存在になるためには何をすれば良いのか。やがて見つけた。「王が出来ぬことを成し遂げれば良い」のだと」
「それがグラスランド攻め……?」
そうだ、と嘲笑して肩を震わせるゴルドーだ。
「建国以来の教えを馬鹿正直に遵守する王には思いも寄らぬ侵略戦争。それも、傍目にはそうと映らぬよう、報復戦を装ってやる。忠義に厚い騎士たちは、敬愛する王を暗殺された怒りを蛮民どもにぶつける……結果、彼の地は我が国の支配下に落ちる。この上もなく理想的な計画だった」
背後に控えるカミューの心中を慮って、マイクロトフは弱く首を振る。ここでグスタフが声を張った。
「名前を出されたついでだ、ティント国王として言わせて貰うぜ。あんたから見れば、おれも「生まれながらに栄誉を約束された身」ってヤツだろう。だがな、大事な点を零している。王家に生まれた者には、捨てるに捨てられない責任が付いて回るんだ。最初から制約付きの人生を与えられたも同然なんだぞ」
厳つい顔が壇上のマイクロトフを見上げる。
「似た境遇だから良く分かる。ティントは鉱山で栄えた国だ。おれは山が大好きで、ガキの頃には坑夫になりたいと真面目に考えたこともあった。所詮は夢だ。おれには生まれた瞬間から用意された人生があって、他の道なんぞ望みようがないんだからな。人から羨やまれる立場のくせに、とは言ってくれるなよ? 食い物や寝る場所に不自由しない───そういう意味じゃ、確かに恵まれた人生だろうさ。それでも、諦めたものだって山程あるんだ。「望んでも叶わぬつらさ」ってヤツは、どんな立場の人間だって同じだろうからな」
「……意外ですわ」
隣からエミリアが覗き込む。
「ティント国王の御立場を謳歌していらっしゃるように見えましたのに」
「今は謳歌しているさ。長年努力を払ってきた甲斐あって、近頃じゃ山に入っても文句を言うヤツは居ないからな」
明るく返して、グスタフは表情を引き締めた。
「ゴルドー団長よ、王弟となった途端に周囲が変わったという話、まるで分からないとは言わん。騎士も聖人君子ばかりじゃなかろうからな、妬みを抱く者も居たろうさ。だが、本当にそれだけだったか? あんたの実直な騎士っぷりを、正当に評価する者が皆無だったと言い切れるか……?」
そこでマイクロトフが、通路に立つ副長たちを見遣りながら言葉を挟んだ。
「あなたがおれの命を狙っていると知ったとき、それでも彼らは言っていた。かつてのあなたは騎士の鑑だったと……全マチルダ騎士の頂点に立つに相応しい、立派な人物であったと」
このときゴルドーが浮かべた表情は、愕然としか称せぬものであった。
「何……?」
「先代白騎士団長の暗殺……、「容易かった」とあなたは言う。簡単に背後を取らせた、それがあなたに対する信頼の現れだったと、何故あなたは思わないのか。副官たる騎士を警戒せねばならない理由など、彼にはなかった。信じていたから……だから無防備に背を向けたのだと、どうしてあなたには分からないのか」
ひっそりとカミューは俯いた。城の一室で剣を向けたときの皇子を思い出したのだ。
信じていればいるほど、欺かれた衝撃は大きい。「何故」と問い続けた彼と同じく、亡き白騎士団長も、自らを斬った副官の真意を量りかね、苦悩の瞳を晒したことだろう。
失われた人を悼んで束の間だけ口を閉ざしたマイクロトフが、キッと眼を見開いた。
「お分かりか、叔父上。見る者は見ていた。あなたの騎士としての忠節や誇りを、真っ直ぐに受け止めていた者も居たのだ。なのに否定的な声にばかり耳を澄ませて、心に魔を棲まわせた。あなたは、自らが築いてきたものを、自らの手で擲ったのだ」
刹那、ゴルドーは激昂した。
「黙れ! 黙れ……黙れ! わしを責めるのか? 貴様にそんな資格があるのか!」
言葉を払い退けんとするような、手を振りながらの絶叫。見守るカミューは再び思った。
言葉を交えたところで堂々巡りだ。妄執に囚われた者には他者の声が届かない。少し前までの自分がそうだった。受け入れてしまえば自らの存在意義が失われる、そんなふうに恐れ続けていたのだ。
けれどカミューには皇子が居た。
騎士たち、そしてレオナやロウエンが居た。彼らとの触れ合いが、慟哭に凝った鎧を溶かした。恨みではなく、情に生きよと諭し続けた剣の師の言葉を届け入れてくれたのである。
ゴルドーには誰も居ない。
意のままに動く傀儡は居ても、それは決して魂に触れる温かな存在ではなかった。繋いでいた糸が切れれば、二度とゴルドーのためには立ち上がらぬ繰り人形───それも残らず周囲から消えた。今や彼には、宿した憎悪しか縋るものがないのだ。
マイクロトフは、狂おしげな叫びに淡々と返した。
「責めているのではない。残念に思っているだけです。百歩譲って、そうまで追い詰められた胸中には同情しても、罪なき人々を犠牲にした所行は絶対に許せない」
はっ、と高笑ってゴルドーは全身を震わせた。
「許せぬ、……か。何処までも人を見下さねば気が済まぬらしい。その調子で、高見の見物と洒落込むか? わしが縛り首になる様を、玉座から見下ろすか!」
言いながら、利き手を剣の柄に掛ける。
「……させぬ。わしの誇りが断じて許さぬ」
はっとカミューは息を呑んだ。半ば反射で迎撃の構えを取ろうとする皇子を目にして、意思が葛藤を上回った。
───駄目だ。
素早く足を進めて皇子の隣に並ぶ。困惑気味に見返す男を一顧だにせず、ひたとゴルドーを睨み据えた。
「……っ、カミュー」
呼び掛けを低く一蹴する。
「手を出すな、マイクロトフ」
覚悟は立派だが、やはり認められない。この清廉なる皇子に、こんなかたちで疵を残したくない。「尊属殺し」の汚名など、断じて負わせられない。
この瞬間、自らを動かした衝動をカミューは愛しく思った。
失うことを恐れて、二度と大切なものは持たぬと決めた。愛する心は故郷の村と共に焼け落ちたと思い込んでいた。
けれどそれは間違いだった。
残っている。失えぬものが、護りたいと願う想いが、未だ自らを衝き動かす。庇護の神の名を持つ愛剣が、初めてそれを手にした日の情感を思い起こせと命じている───
皇子のために剣を抜こうとした青年同様、責務に忠実であろうとする者が他にも居た。司祭長マカイである。
終にゴルドーが臨戦に入ったと見るや、殆ど我を忘れて、彼は壁際から飛び出した。対峙する両者の間に転げるように割り込んで、次いでゴルドーへと向き直る。
「マカイ!」
仰天して足を進め掛けたマイクロトフを、司祭長はきつく首を振ることで押しとどめた。
「な、……なりません!」
両手を広げて皇子を庇う姿勢を取り、戦慄きながら彼は言う。
「こんなことをして何になるのです。ゴルドー団長、あなたは粛として罪を償うべきです」
「退け、邪魔だてするな!」
「いいえ! 聖マティスの御子孫を御護りするのは司祭であるわたしの役目……、この聖堂内で、マイクロトフ殿下に剣を向けさせは致しませんっ!」
足は激しく震えていたが、ゴルドーを見る眼差しは決死の色に染まっていた。自らが斬り捨てられるような事態になれば、マイクロトフも騎士に与えた「傍観」の命令を撤回せざるを得ない。この局面でマイクロトフを護るには良き手段だと、そうマカイは考えたのである。
とは言え、彼は根っからの文人、争い事とは無縁の人物。だから考慮できなかった。皇子の盾となるべく割って入った身が、ゴルドーにとっても格好の盾となり得るのだとは。
馬鹿め、とゴルドーは心中で哄笑した。
素人が考え無しに乱入してきた御陰で状況が変化した。マイクロトフを「叔父殺し」に仕立て上げるだけで満足するしかなかったのに、思いがけずツキが回ってきた。
御人好しの皇子はマカイを見捨てられない。これを質に取れば、一閃浴びせる機が生じる。抱え続けた怨念を、最後に刃傷としてマイクロトフの体躯に刻んでやることが出来るのだ。
すかさずゴルドーは動いた。決然と立つ司祭長を拘束するために、驚くほどの身軽で距離を詰める。
ところが、マカイを捕えようと手を伸ばすより僅かに早く、間に滑り込んだ黒衣があった。マカイと共に壇上に残っていた司祭の一方、未だ冠を抱えて壁際に佇む者とは異なる、既に皇子に宝剣を渡し終えて空手となっていた人物だ。
突如として増えた目標がゴルドーを戸惑わせた。が、それも一瞬だった。たかだか一司祭とマカイ、人質としての価値の大小は明らかだ。マカイを護るように行く手を塞いだ司祭を斬り除くべく、ゴルドーは抜刀に及んだ。
「ゴルドー!」
「危ない、逃げろ……!」
マイクロトフ、そして堂に残った者たちの叫びを心地好く聞きながら、抜き身の剣を司祭の胸元へと走らせる白騎士団長。
次の瞬間、黒衣の司祭は血飛沫を上げる筈だった。苦鳴を洩らして床に伏す筈だった。
だが、してやったりと笑んだ男の耳を打ったのは、耳触りな金属音。装束に刃を食い込ませているにも拘らず、司祭は微動だにせず、緋色の絨毯をしかと踏み締めている。
打ち込みが浅かったのかと、ゴルドーは更に力を込めたが、司祭の胸元で停止した剣はビクともしない。やがて黒衣の袷が開いて、それが覗いた。刃を止めたもの───司祭が握る、幅広い剣の鞘。
「……真っ向勝負を挑むなら、手出しするつもりはなかったが」
頭部を覆ったフードを鬱陶しそうに捲り上げ、飄々とした調子が言う。
「人質を取って優位に立とうとする卑劣は見過ごせない。騎士としてだけでなく、とうとう剣士としての誇りも捨てたな、あんたは」
泰然とした姿に向けて、誰かが叫んだ。
「ゲオルグ殿……!」
マイクロトフは無論のこと、すんでのところで壇上に駆け上がろうとしていた騎士たちも唖然と目を瞠るばかりである。国賓席でも、サウスウィンドウ代表シュウが独りごちていた。
「……二刀要らずと称される、あの剣豪ゲオルグ・プライムか……?」
それから近場に控えていた青騎士団・第一隊長を窺い見る。
「こんな勝札を残していたとはな。反応を見るに、マイクロトフ殿下ばかりか、誰も知らなかったようだが……」
騎士はにこやかに笑んだ。
「奥の手とはそうしたものです」
しかし、とシュウは眉を寄せた。
「警備解除の命令に強く反対しなかったあたり、貴兄は知っていたらしい」
「ええ、まあ……。光栄にも片棒担ぎのつとめを仰せつかりましたので」
騎士は正義の闘いを信条とする。その分、密やかに忍び寄る殺意を退ける闘いには慣れていない。そんな中で、暗殺者としての行動を分析し得る青騎士隊長の感性を、早いうちからゲオルグ・プライムは高く買っていた。
ゲオルグは最後の最後まで「最悪」への想定を忘れなかった。捨て鉢になったゴルドーが、直接皇子に危害を加える可能性を考え続けた。
そうして出した結論がこれだ。若い赤騎士に加えて、もう一人、壇上に護衛を配備する。即ち、ゲオルグ自ら司祭に扮して敵に備える策。
誰にも気付かれぬよう、宝剣ダンスニーを献上する司祭と入れ替わった。地位ある司祭の部屋は予め分かっていたから、式装束に着替える直前にこれを訪ね、協力を求めたのだ。急な申し出をすんなり了承させるため、堂内警備の責任者的存在でもある青騎士隊長が同行した、それが策の内訳だった。
斯くて、ゲオルグは皇子の間近で一切を見守ってきた。
何やら決闘じみた流れに移行した点には多少の当惑もあったが、黙って見届けようと考えた。皇子の傑出した剣腕は、自ら稽古相手を努めて知っていたし、何より彼の覚悟を重んじねばならぬと思ったからだ。
職務には忠実ながら、些か頼りない人物と思われた司祭長マカイ。だが彼は、壇上から退くようにとの皇子の命令を拒んだ。このため、ゲオルグは最良の立ち位置を失わずに済んだ。
尚且つマカイは、懸命にゴルドーを阻もうとした。そんな彼を人質として利用しようとした男は、剣を握らせておくのも忌まわしい悪鬼と成り果てている。
懐に抱いた剣でゴルドーの刃を押し返すなり、ゲオルグは厳かに命じた。
「諦めろ。これ以上、無益な血を流すな」
「ゲオルグ、だと……? 「二刀要らず」のゲオルグ・プライム……?」
禍々しく顔を歪めた男の胸に、孤高の剣豪の武名は何処まで理解されただろう。呻くように零した次には、ひとたび引き取っていた剣を高々と翳すゴルドーだった。
「……あんたには勝てない」
特攻の構えに入った男を見据えたまま、ゲオルグは呟いた。
誰も勝てない───真っ直ぐな信念を胸のうちに輝かせた者には。
その輝きが周囲を魅了し、引き寄せる。ゴルドーが終に顧みようとしなかった、それは人を守る大いなる力だ。信頼によって結ばれた絆は、何ものにも替え難い尊き力なのである。
「ゲオルグ殿!」
あまたの叫びを掻き分け、響いたのは、後方で重なり合った二つの声。並んで踏み出す若者たちの姿がゲオルグには見えるようだった。
憎悪を乗せて打ち下ろされる剣先よりも早く、ゲオルグは身を翻した。堂内に残った一同の目には、たっぷりした闇色の布が舞ったとしか映らなかった。
視界を覆った布地は、そのまま緩やかに床に落ちた。ただ一閃で滾る妄執を絶ち切られた白騎士団長を優しく包み入れながら。
マカイがへなへなと座り込む。その脇に膝を折ったマイクロトフが、蒼白の司祭を気遣わしげに覗き込んだ。
「で、でで、殿下……、わたしは……」
マカイは喘いでマイクロトフの袖を握り締める。
「お護りしようと……なのに、かえって御邪魔を……」
分かっている、と強く頷いてマイクロトフは返した。
「おれの方こそ、すまなかった。考えが浅かったのだ。もっと強く、祭壇から退くように言うべきだったのに……。無事で良かった」
動揺と感涙の綯い交ぜになった司祭から目を移せば、司祭装束を脱ぎ捨てて、見慣れた姿を晒したゲオルグが居る。幾許かの憐憫を込めて布に埋もれた亡骸を見下ろした彼は、身を屈めて鎮魂の礼を取った。続いて、血濡れた剣を黒布で拭い、鞘に戻しながら立ち上がる。
二つ名の通り、ゲオルグの剣は慈悲深かった。ゴルドーは苦しむ間も与えられなかっただろう。布が出血を覆い隠したため、殺傷が行われた痕跡はまったく窺えない。一同が並ぶそこは今なお、静寂を取り戻しつつある礼堂の祭壇であった。
「新時代の幕開けとなる日だ」
ゲオルグは淡々と説く。
「何も、若者たちが手を汚すこともなかろう」
「ゲオルグ殿……」
司祭長を残して立ち上がったマイクロトフは、だが依然として、突然の終幕に反応し切れずにいた。
漆黒の布で包まれた、もの言わぬ塊と化した白騎士団長。思えば、遠い男だった。血の繋がりはないにせよ、彼は「親族」の名で括られる人だったのに、最後まで相容れぬまま縁は絶たれた。
叔父・甥と呼び合いながら、そこに温かな親愛は生まれず、気付いたときには、ゴルドーの目はマイクロトフを「敵」としてしか映さなかった。
何処が行き違いの起点だったのか、マイクロトフには分からない。ここまで道が分かたれる前に、もっとゴルドーという男を知る努力をしていれば───そんな一抹の悔いも残る。もっとも、今をもってしても憎悪が生じた理由を理解しかねている身であるから、歩み寄ろうと試みたところで、いっそうゴルドーの感情を害していたかもしれないけれど。
激しいばかりだった罪人への憤りも、死の厳粛に直面して熱が退く。「叔父」の亡骸に黙祷する皇子に倣って、堂内の騎士、議員らといった面々も次々に瞑目し始めた。
そんな様子をちらと見遣って、ゲオルグが肩を竦めた。
「……色々と感慨もあるだろうが、早いところ運び出した方が良いぞ」
壇上に血飛沫が舞う事態は回避されたものの、布で抑え続けるにも限界がある。はたと我に返った副長以下が、慌ただしく動き出した。
第二青騎士隊長を中心に、数名の騎士が祭壇から遺体を下ろす。次いで赤の副長が壇上を振り仰いだ。
「目立たぬよう、城へ運ばねばなりませぬ。マカイ殿、何ぞ棺の代用となり得る品をお貸しいただけましょうか」
「……確か、倉庫に古い長持ちがあったと……」
未だぐったりと座り込んだままの司祭長が弱く返す。それから宝冠を抱えて壁際に立ち尽している最後の司祭に声を掛けた。
「案内して差し上げなさい、……冠はわたしが預りますから」
司祭は命じられた通り、宝冠をマカイに託した後、速やかに騎士の先頭に立った。
それは静かな葬列であった。全騎士の頂点に君臨した男は、喪の色に抱かれて、礼堂から───そしてマチルダの歴史からも、退場していったのだった。
一行が控えの間の向こうに去ると、さて、とゲオルグは向き直った。マイクロトフに軽く笑み掛け、続いてカミューに目を当てる。打たれたように怯んだ青年の目前まで歩を進めると、彼は小声で切り出した。
「図らずもおまえの人生に関わった者として意見する。カミュー、マチルダ騎士になれ」
「えっ……?」
意想外の言葉に瞬くカミューを風のような眼差しが見詰めていた。
信念の差異から背を向けた後も、ゲオルグにとってカミューは「弟子」であり続けた。闇に落ち果て、人の道を外したときには自らの手で葬るしかないと覚悟して、ゲオルグはロックアックスの地を踏んだのだ。
けれど皇子の隣で微笑むカミューを見た一瞬、どうしようもなく皇子に惹かれている彼の胸中を看破してしまった。
だから皇子に手を貸した。
共に過ごした短い時間で、「馬鹿だけれど可愛い弟子」を託せる男と認めたから。過去に縛られたままでいるカミューを、解き放つことが出来る唯一の存在と確信したから。
目に狂いはなかった。皇子は心のありったけでカミューを護り、未来を指し示してゆくだろう。
片やカミューも──報復への執着を捨てるくらいには──皇子に惚れているらしい。ならば、そのまま行けば良い。
あの日生き延びた自分に、新たな活路を見出せば良い。
ゲオルグは微かに笑んだ。
「故郷に戻って剣を振るう、それも悪くはなかろう。だがな、カミュー。一人の力には自ずと限りがあるものだ。望みさえすれば、おまえには別の道が拓ける。遠く離れたこのマチルダから草原の民を守るという、正に奇跡の道が、な」
そうして彼は手を伸ばし、そっとカミューの頬に触れた。
「おまえは自分を粗末に扱いがちだが、代わりに大事にしてくれる連中が出来たようだ。これで帳尻も合うだろう」
「ゲオルグ、殿……」
「マチルダ騎士になれ、カミュー。この地を第二の故郷として、愛してくれる者たちを家族と思って生きていけ。聞く、聞かないはおまえの自由……、だがこれが、おれに与えてやれる最後の助言だ」
ゲオルグは、そこでもう片手をマイクロトフの肩へと置いた。励ますように揺らした後、再びカミューを見遣る。
「……不肖の弟子め。頼まれた通り、後始末はつけたぞ」
言い差すなり、踵を返して祭壇を下りて行く稀代の剣豪。副長たちはゴルドーを運び出し終えて幾分気抜けていた。しかも、祭壇上で交わされた小声の会話を完全には聞き取れなかったので、このゲオルグの行動を予測できなかった。結果、虚を衝かれ、慌てて懇願した。
「ゲオルグ殿、お待ちを!」
「我々は何の謝意も差し上げておりませんのに……」
しかし、委細構わず男の足は正面通路を進んで行く。上官の意を汲んで、何とか留め置こうとする青騎士たちに、彼は肩越しに言い放った。
「契約は終わった。仕事を終えた傭兵は去るのみだ」
「さ、然様に仰らず……ゲオルグ殿!」
打つ手も見つからずに狼狽える一同の視線の先、扉を開けた逞しい剣士は、瞬きの間に見えなくなった。ざわめきの中に取り残された副長二人も、困惑顔を突き合わせるばかりであった。
男の残像に一礼したマイクロトフが、マカイを助け起こしながら、そんな副長たちに呼び掛ける。
「諦めた方が良さそうだ」
「マイクロトフ様?」
「追ったところで無駄だろう。それに……ゲオルグ殿より受けた御厚情には、これより先、行動で応えていくのが一番だとおれは思う」
ゲオルグ・プライムの潔さには感嘆を禁じ得ない。陰謀解明に助力を惜しまず、けれど彼は、謝辞の一つも求めず去って行った。
マイクロトフは気付いていた。如何に言葉を絞ってみても、この感謝を余さず伝えることは出来ないと。
彼のような人物には、言葉の礼など然して意味を持たぬのだ。共有した時間が生み出したものを未来に繋ぐ、それがゲオルグにに対する唯一の謝意となるのだ、と。
マイクロトフは微かに苦笑した。
「……それより、即位式典の続きをどうするか、マカイを交えて相談してくれないか?」
裁きを終えたら式をやり直す───そう決めてはいたものの、だいぶ見立てが逸れてしまった。礼堂内で血まで流れた今となっては、当初の予定にそのまま従うのも躊躇われてしまう。
進み出た若い赤騎士に支えられて祭壇を下りる、腰砕けの司祭長。それを見遣って、やや恨めしげな顔になった青騎士団副長が小さく唸った。
「状況が変わったのは、マイクロトフ様が挑発にお乗りになられたからですぞ」
「そうだな。以後、気を付ける」
朗らかに往なすと、未だ傍らで視線を移ろわせている青年の肩を引き寄せるマイクロトフだ。
「更に勝手を言ってすまないが……、方針が定まるまで、控えの間で少しだけ休んで来ても良いだろうか?」
これには赤騎士団副長が吹き出した。今このときを待ち詫びていた、そんな心情をまるで隠さぬ皇子の声音。承諾も待たずに歩き出しそうな様相を目の当たりにして、否と言える部下が居るだろうか。
動き出す前にかろうじて礼節を過らせたマイクロトフは、列席者たちに深々と頭を下げた。
「どうか、失礼をお許しいただきたい。出来るだけ早く戻りますので……」
急ぐ理由は分かりかねても、そうせずにはいられぬ皇子の切迫ぶりは認めた顔で、一同も明るく笑み返す。
「まあ、何だ。こっちは気にしなくて構わないぞ」
最前列にてグスタフが言えば、
「緊張を解して、ゆっくり再開したら良いよ」
アナベルも親愛を込めた口調で応じる。他の面々は、目線で頷いて同意を示した。
ところが、満座が退出を許容した段になってもカミューが動こうとしない。地に根が生えたように、その場に凝り固まっている。焦れたマイクロトフは、とうとう彼の手を引っ掴んで、ズンズンと歩き出した。
階段を下り切ったところでフリード・Yと目が合った。僅かに目許を赤らめた従者が、握った両の拳をしきりに揺らしている。無言の激励を感じ取り、マイクロトフは強く頷いてみせた。

 

別離を経て、漸く掌のうちに取り戻した温もり。儚く震えるカミューの手。
ともすれば逃れようと試みるその手を、いっそう強く握り締めて、マチルダの皇子は全霊で叫んだ。

───この人こそがおれの唯一、何を置いても失えぬ絶対の光。

彼は初めて歓喜に酔った。最愛なる人と巡り合わせてくれた運命に感謝しながら───ただただ深く、感謝しながら。

 

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……でも、まだちょいと手古摺ると思いますよ、プリンス。
つか、もう赤以外見えちゃいないあたりが何とも……。

という訳で、白は御落命に至りました。
ナイトアーマーは残してなさそうですが。
ゲオルグ氏も、花嫁の父っぷり(笑)を披露して
退場していきました。
一応、予定通りの展開です。
やっとここまで来た……。

 

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