それは、標的の足元に異界へと通じる穴を穿つ技。
内部へと落とし込まれた者は、焼けた泥土さながらの波動に翻弄された後、唐突に元の世界に戻される。
激烈なる攻撃魔法として知られる「震える大地」───これを見舞われたが最後、修練を積んで魔力への耐性を高めた者はいざ知らず、並みの人間ならば間違いなく命を落とすであろう広範囲系の攻撃魔法であった。
一般招待客の中にも魔法を呼び寄せる文言について知識を持つ者が居たらしい。ゴルドーが最後の一句を放つと同時に、「土の魔法だ」との切迫した叫びが上がった。
生存に対する人の本能は純粋だ。警告の意味を図るでもなく、殆ど無意識に人々は立ち上がろうとした。術者ゴルドーから少しでも離れようとしたのだ。
けれど長椅子に一列に座す身とあっては、容易く通路まで出られない。今この瞬間にも自らに災禍が降り掛かるのではないか───そんな恐怖と絶望を交錯させた人々の耳を射たのは、厳しさの中に頼もしさを含んだ一声であった。
「攻撃魔法は脅威に非ず、そのまま席に留まれ!」
堂内ほぼ中央に立っていた赤騎士団・第一隊長。号令に慣れた男の一喝が、列席者の息を止め、足を止めた。
ほくそ笑んだのはゴルドーだ。「脅威に非ず」───成程、一般の客にはその通りである。土魔法の陰鬱なる鳴動は、最前列、国賓席を中心にして沸き起こっているのだから。
大地の揺れに似たそれは、程なく各国代表らの下に扉を開く。指導者を失った国々が織り成す悲嘆と混乱、マチルダの衰退へと続く道筋を。
二列目に並ぶ政策議員たちが座席から腰を浮かせていた。国賓席前の通路では、蹲ったまま頭を抱える第一白騎士隊長の傍らで、揺れを嫌った青騎士隊長が片膝を折り、律動する床を睨み据えていた。
各国を代表する面々はと言えば、周囲を襲う怪異に怯むでもなく、硬い表情で眉を寄せるばかりだ。いつまでその冷静が保たれるかと、ますます笑みを深めたゴルドーだったが───
「震える大地」特有の地鳴り音は暫く続いた。
礼拝堂の床がぱっくりと割れて、赤熱の異界が覗いたようにも見えた。
だが、標的が呑み込まれた様子はなく、不穏な響きが遠のいた後も、座席群には痛手の片鱗も認められなかった。
「な……?」
知らず紋章を宿した手を一瞥して、ゴルドーは喘いだ。
確かに土魔法は発動した。だが、これは。この異常は、まさか───
「……無駄な足掻きだ。堂内の何ぴとたりとも、攻撃魔法には傷つけさせぬ」
列席者らが食い入るように見詰める中、赤騎士隊長が峻厳と言い放つ。わなわなと震えながらゴルドーは呻いた。隙を見て接近した青騎士団・第二隊長に、後方から抜き身の剣先を突き付けられたのにも気付かぬほどの自失ぶりだった。
「守りの……天蓋……?」
「然様。発動そのものを抑えられれば最良だったが、残念ながら今の騎士団には抑制レベルまで水魔法を操れる者が居ない。が……、発動した攻撃魔法を打ち消せば同じこと。この礼拝堂には、隅々に至るまで「守りの天蓋」が施されている」
聞くなり、青騎士隊長は笑みを浮かべた。詮議開始後に交わした密談の中で、敵の攻撃魔法発動への懸念を、赤騎士隊長が自信たっぷりに一蹴した理由はこれだったのだ。
先程の「演出」と言い、すんでのところで敵の目論見を挫いた事前の手配と言い、実に爽快である。これが終わったら酒の一杯でも奢りたいものだ───賞讃を惜しまず、ひっそりと首を振る青騎士隊長であった。
「……馬鹿な」
ゴルドーは苦しげに息をついた。
「馬鹿な。土魔法の術者とて、そう多く居る筈は……」
独言を聞き止めて割り込んだのはエミリアだ。
「騎士団長ともあろう御方が、魔法札というものをお忘れですの?」
刹那、ゴルドーはぎくりと瞬いた。
魔法紋章には様々な制約が作用する。相性が合わなければ宿すことすら出来ない紋章があるし、術者の才に応じて発動回数や威力も変化する。こうした補正を受けない、紋章の力を封じ込んだ品、それが魔法札である。
とは言え、これは常に店に並んでいるような品ではない。殆どは掘り出し物として扱われ、更に第三レベル魔法級ともなれば、相当の高値がつくものだ。
礼拝堂中を防御するだけの大量の魔法札を、いったいどうやって用意したというのか───押し黙ったゴルドーの胸中を察したふうに赤騎士隊長が語った。
「グリンヒル・第一政務長官殿が御助力くださった」
堅苦しい呼び名を用いられたエミリアが苦笑しながら続ける。
「マチルダまでの道中の安全のために持参した品ですわ。多めに用意してきましたので、役立ちそうなものを幾つか、隊長様にお譲りしましたの」
ニューリーフ学院には魔法札の作り方を学ぶ講座がある。しかしながら、札作りは技術者が稀少なため、頼れるものは文献のみといった状態が長く続いていた。結果、一つの封印球から出来る札数が文献上の例より少なかったり、うまく発動しなかったりと、これまでなら進呈に躊躇する品であったのだ。
ただ、今回は少し事情が違った。グリンヒル公都にふらりと現れた女──道に迷って途方に暮れていたところを、学院の人間に保護された──が、「一宿一飯の礼に」と見事な札作りの腕を披露して、そのまま講師として滞在していたのである。
封印球を大量の札に変化させる彼女の技によって、マチルダとの行き来には余るほどの魔法札を手に入れたエミリアは、その大半を馴染みとなった赤騎士隊長に渡した。あらゆる事態に神経を尖らせねばならない警備騎士の負担が少しでも軽くなるようにとの思いからだった。
「お役に立って何よりでしたわ。こんな屋内で攻撃魔法を使う無謀が現実になろうとは、正直、思っておりませんでしたけれど」
これを聞いて複雑に陥ったのは壇上の若い赤騎士である。自部隊長が「守りの天蓋」を発動させておいた真の理由を悟ったからだ。
魔法紋章を宿す騎士は少ない。この式典で「攻撃魔法」を警戒したとき、上官の脳裏に真っ先に過ったのはカミューの火魔法だった筈だ。
列席者を巻き込む非道は犯すまいと信じつつ、それでも赤騎士隊長は万全を期した。結局、その慎重が功を奏したと言えるのだが───
「だったら、教えておいてくれれば良いのに……」
火魔法が発動しても「守りの天蓋」が抑え込んだのなら、先程の自分の必死は何だったのか。懸命の説得によって発動を阻止したつもりでいたのに、然して意味がなかったではないか。
後方から流れてきた、そんな若者のがっくりした呟きを耳に止めたカミューが微かに笑んだ。
「守りの天蓋」は単発発動系の魔法である。火魔法の発動を察知して相殺の力がはたらけば、次の攻撃は防げない。そこでゴルドーが祭壇に向けて土魔法を放てば、マイクロトフは無事ではいられなかっただろう。
カミューへの警戒から防御魔法が施術されていた、カミューが火魔法を抑え込んだ、ゴルドーが各国要人を狙った。必然と偶然、すべてがマイクロトフに味方したのだ。
やはり彼は選ばれたる存在、マチルダに欠くべからざる指導者として、天に認められた男なのだ───そんなふうにカミューには思えたのだった。
エミリアが衣服の懐を探りながら再び言った。
「念のため、改めて「守りの天蓋」を発動させておきますわね、……えいっ」
一見では紙切れにしか見えない、防御の力を秘めた魔法札が、エミリアの手中で淡く輝く。
壇上のマイクロトフは、対処する間もなく収束した危機に、やや呆気に取られていた。しかし、すぐに気を取り直してエミリアに一礼して、それから冷えた眼差しでゴルドーを見下ろした。
「何処まで卑劣な真似を……」
あからさまな非難の声音に応じもせず、ただゴルドーは、唇を噛みながら握り込んだ拳を戦慄かせるばかりであった。
壇下に立つ副長たちが目線を交えて互いの意を確かめ合う。代表して赤騎士団副長がマイクロトフに進言した。
「殿下、もう充分かと……。列席者を退出させるべきと考えます」
招待客には予め「尋常ならざる事態に直面するかもしれない」との勧告をしておいた。よって堂内に居るのは参席を辞退しなかった者、即ち、ある程度の覚悟をして来た者である。
それでも、白騎士隊長とゴルドー、立て続けの暴挙を目の当たりにしては、許容の域も越えただろう。防御態勢が整っているとは言っても、民の多くはこんな暴力とは無縁に暮らしているのだ。一度でも恐怖に晒された彼らへ、更に平静を保ち続けよと強いるのは酷だと副長たちは判断したのである。
マイクロトフにも否はなかった。
既に人々は真実を知った。この上、死罪宣告といった生々しい現実まで直視させる必要はない。ただ、人々を退席させるに当たって、一つだけ不安要素があった。
「礼拝堂の周りは見物人で溢れ返っているぞ。更に人を増やして大丈夫か?」
これには赤騎士隊長が丁寧に応えた。
「御心配には及びませぬ。万一に備えて、招待客を退避させる程度の場は確保してありますゆえ」
才長けた仲間たちには、自分が思いつく程度の事態は考慮済なのだと苦笑して、マイクロトフは堂内をゆっくりと一望した。
「詮議の見届人となってくれた皆々には心から感謝する。罪人を城へ連行した後、改めて即位の式を執り行いたいと考えている。時間に余裕があれば、そちらにも立ち合ってくれると嬉しい」
列席者たちは一斉に頭を下げた。長い、本当に長い悪夢を見たような心地だった。
先代皇王の急逝という不幸には見舞われたものの、それを除けば平穏そのものと信じられてきた国の中枢に生じていた歪み。マチルダを支える礎たる騎士団、その頂点に立つ男が犯した非道の数々。
人々は、謀反人の悪意に毒されたかのように疲労していたが、その一方で安堵も覚えていた。
自らも命の危険に曝されながら、これを乗り越え、悪事を暴いた皇子。そして、皇子を支えて奔走した騎士たち。彼らが導く限り、マチルダという国家は清廉と慈愛の精神を貫き続けるだろうと確信したからである。
赤の副長が合図を送ると、座席のあちこちから二十余名ほどが立ち上がった。参席を辞退した客の替わりに椅子を埋めていた平服姿の赤騎士団員である。第一隊長の指示で正面扉が開かれると、後列から順に退出するよう、騎士たちは周囲の客を誘導し始めた。
退場して行く人波の中から、通路の赤騎士隊長に一礼した者がいる。母を抱えたアルバートだ。父親の死の真相を知りたいという希望に応えて式典の席を用意した騎士隊長への感謝の会釈であるらしかった。
陰謀に巻き込まれて命を落とした細工職人。彼を死に追い遣ったのは第三白騎士隊長だが、実際に手を下したか否かは未だ不明だ。
この後の調べで職人を斬った人物を暴き出し、罪を贖わせるまで──おそらくは、そうしたとしても──遺族の悲嘆に終わりはない。赤騎士隊長は複雑な思いで頷き返して、去り行く二人を見送ったのだった。
続いて彼は、難しい顔で談義している一団に気付いた。首府都ロックアックスの区長や各村々の代表たちである。
この頃になると、建物の前方にまで空席が広がってきていた。退席の順番が迫っているにも拘らず、いっこうに動く気配を見せずにいる一団。そこで赤騎士隊長が歩み寄ってみたところ、区長らは一様に首を振ったのだった。
「相談して決めました。わたくし共は最後まで立ち合わせていただきたく存じます」
「しかし……」
「議員の皆様は残られるのでしょう?」
「無論だとも」
騎士へと向けられた問い掛けには、数列前に座る宰相グランマイヤーが身を捩るようにして答えた。
この四年あまり、国政を担ってきた政策議員たち。皇王不在の非常事態を乗り切ろうと尽力する者が居る一方で、力を増しゆくゴルドーの顔色を窺う者も多く出た。職務への誇りよりも自らの立場や利を優先した議員の不心得が、更なるゴルドーの専横を招く要因の一つとなったのは間違いない。
もっと早く、資質を欠いた議員を排除していれば。そうした悔恨がグランマイヤーにはある。この先、自身が臨むべき第一のつとめは議会人事の刷新となるだろう。けれどその前に、不心得者に知らしめておく必要がある。国政を与る者の責務が如何に重いものであるか───そして、国家に背いた者の末路も。
後方の地区村長らに向けてグランマイヤーは言を重ねた。
「殿下が終了を宣言なさるまで、席を立つ訳にいかない。それが役目だ」
「わたくし共も同じ思いです、グランマイヤー様」
間髪入れずに年嵩の者が返す。
「皇太子殿下や副長様方のお気遣いは分かります、ありがたく存じます。けれどわたくし共は、単なる招待客ではありません。それぞれが住まう地の代表として、この場に臨みました。中途で席を立っては、御役目を果たしたと言えますまい。ですから隊長様……、どうか最後まで立ち合わせていただきたく、お願い申し上げます」
退出を促そうとしていた赤騎士隊長は、一斉に頭を下げられて困惑した。判断を仰ごうと副長たちを窺い見たが、彼らも微苦笑を浮かべるしかなかった。一同が留まりたいと考える最大の理由に察しがついたからである。
謀反の事実は明らかになった。だが、未だ理解し難い部分が残っている。
それは、動機。皇王家の系譜に名を記され、騎士としての栄誉も約束された男が、何ゆえ皇王家転覆という大それた野望を抱いたのか。「マチルダの更なる発展」などという言葉だけでは、どうにも納得しかねるものがある。
事実が暴かれた次には動機の解明へと踏み込む筈だと、地区村長らは考えているのだろう。だから退出できずにいる。彼らは民の目であり、耳であるから。真実を伝えることが居住区を代表する自らのつとめ、そんな使命感に衝き動かされているから。
赤の副長が小さく頷くいた。了承を認めた赤騎士隊長は、無人となった堂内後方の騎士を前へ寄せることで、留まる者たちの守りを強化したのだった。
一般招待客が消え、すっかり様変わりした礼拝堂内を一望した青騎士団副長が、中央通路右側に並ぶ国賓一同に一礼する。
「皆様方も、応接の間に移動を───」
呼び掛けを片手で遮ったのはティント国王グスタフだ。飄々と笑いながら親指を肩の後ろに突き付ける。
「今の毅然とした発言を聞いちゃあ、退けないな。おれも居残らせて貰う。確かに、嫌なものを見聞きした。だが……、ここまで来たら、全部見届けるのが筋だろう。「毒を食わば皿まで」って言葉もあるくらいだしな」
「グスタフ様、それ、誤用ですわよ」
「……そうか? けどまあ、全部食ったら消化も良くなるだろうぜ」
人が減った気楽さか、議員や地区村長たちが目を丸くするのにもお構いなしで、グスタフは普段通りの豪快な物言いを披露する。他の国賓たちも、やれやれといった顔つきながら、賛同を宣言した。
翻意を促すのは不可能だと早々に諦めた副長は、丁寧に礼を払った後、通路を挟んだ最前列へと目線を移した。強張った面持ちの白騎士団・位階者一同に向けて切り出す。
「一足先に城に戻っていただこう。諸君らには別なる詮議の場を用意せねばならぬ。陰謀と無縁の者には、不本意かつ屈辱だろうが、逃亡者は出せぬゆえ、連行のかたちは取らせて貰わねばならぬ」
「では……、そのつとめは我ら赤騎士団員にお任せを」
第一隊長が言うと、二列目に座していた赤の位階者が一斉に立ち上がって拝礼の姿勢を取った。青騎士団副長は頷いて補足した。
「退出には、控えの間を抜けて、北の通用口を使うと良い。多少は群集の目を避けられよう。城に到着した後は各人を自室軟禁とし、潔白が証明されるまでは外部との接触を一切禁じる。他の白騎士団員についても同様だ。直ちに全員の所在を把握し、各兵舎に勾留せよ。瑣末事は一任する、円滑に取り計らってくれたまえ」
「ふ……不当だ! これは白騎士団に対する不当きわまりない弾圧だ!」
白騎士団副長が蒼白になって喚いたが、これを第一白騎士隊長が静かに止めた。
「無駄です。団長以下、既に二人の騎士隊長の謀反が露呈した今、この処遇を弾圧と叫んだところで賛同は得られません。諦めるしかない」
「し、しかしだな……!」
───自棄を起こした罪びとが、無辜の者をも道連れにしようとしたら。
言葉にならなかった胸中の悲鳴には、第三白騎士隊長を拘束している青騎士隊長が応じた。
「関与の有無は慎重に見極めます。そこは弁えているので、御心配なく」
すると白騎士団の筆頭隊長はひっそりと口の端を上げた。
「……その言葉に期待する」
次いで自団副長を一瞥する。
「さあ、副長。ここで問答していても埒が明きません。公正なる取り調べが行われると信じて、今は従いましょう」
「う、うむ……」
尚も不安そうに視線を彷徨わせながらも、白騎士団副長は腰を上げた。横並びの騎士隊長らも次々と立ち上がる。中には刑場に向かうような顔つきの者も居た。依然として立ち尽くしているゴルドーを上目で窺いつつ、赤の位階者に付き添われるかたちで、一行は控え室へと消えて行った。
最後に赤騎士団・第一隊長が、国賓席前の同位階者に歩み寄った。すっかり魂が抜けたような白騎士を睨みつけてから口を開く。
「替わろう。もうここへ残しておく必要もあるまい。わたしが連行する」
「最後まで御覧にならずとも宜しいと?」
「君に任せたら、城に着くまでに此奴の傷が倍増しそうだ。それに……式典警備は、もともと青騎士団に託されたつとめだ。筆頭隊長を欠くのは芳しくない」
それから彼は、青騎士隊長の耳元に小声で言い添えた。
「後で詳しく教えてくれ」
「……はあ」
神妙な顔で頷いた青騎士隊長は、懐から取り出した手布を捩って罪人に猿轡を噛ませた。たちまち赤騎士隊長の表情が曇る。
「自害の恐れがあると?」
問われた男は唇を綻ばせて、軽く肩を竦めたのだった。
「───血が垂れて、床が汚れるので」
礼拝堂に静けさが戻った。
祭壇前の通路では、今なお第二青騎士隊長が突き付ける剣に動きを封じられたままのゴルドーが歯噛みしている。
部下たちによる救出劇を期待していた訳ではない。にも拘らず、実際に白騎士団員が去ってしまうと、自身でも意外なほどの失意を覚えた。そしてその感情が、いっそう深い憎悪を呼び寄せた。
どうあっても、このまま死ねない───そんな一念のみが、今のゴルドーを支える力であった。
「……叔父上」
呼称を戻したマイクロトフが淡々と言う。
「おれはあなたを知らな過ぎた。叔父・甥と呼び合いながら、あなたという人間を知らずに今日まで来てしまった。だから、最後に知っておきたい。父上はあなたを義弟として大切に遇していた。先代の白騎士団長も、あなたを後継と認めて信頼していた筈だ。そんな二人を殺すことに、躊躇はなかったのか?」
「…………」
「グラスランド侵略を画策し、罪なき草原の民を死なせた。法や騎士の教えに背いて、あなたの胸はまったく痛まなかったのか」
「……痛まぬ、な」
不意にゴルドーは口元を歪めた。笑みにも苦痛にも見える表情だった。
「そんな情感は幾年も前に消え果てた。躊躇だと? するものか、わしは己を守っただけなのだから」
「どういう意味だ?」
眉を寄せるマイクロトフに、ここぞとばかりにゴルドーは畳み掛けた。
「知りたいか? 教えてやっても良い。騎士の力を借りず、一対一でわしと向き合う気概が貴様にあるならば、な」
せせら笑いが続く。
「そうやって壇上からわしを見下ろし、味方に矢や剣で狙わせた上で「語れ」と強要する……、威光とはありがたいものだな、マイクロトフ。皇王家に生まれていなければ、貴様など一介の若造に過ぎぬものを」
「何だと……?」
「昔から騎士になりたいとほざいていたな。そう……、帝王学には満足な成績も修められず、剣技にばかり現を抜かしていた貴様だ、さぞや腕に覚えがあるだろう。警備の騎士を下がらせて、わしを間近に迎えられるか? それでやっと対等だ。問われたことにも答えてやろう」
「言わせておけば……!」
珍しく声を荒げた青騎士団副長を、マイクロトフが目線で制した。
「確かに、たった一人を大勢で囲むのは騎士団の教えに反するな。弓を退いてくれ」
この命令には、中空階配備の騎士たちも直ちに従うことが出来なかった。すかさず青騎士団副長が壇上を見上げて諌めに入る。
「なりませぬぞ、マイクロトフ様!」
しかしマイクロトフは叫びに応えず、国賓席の前にて待機する第一隊長へと笑み掛けた。
「おまえからも、攻撃態勢の解除を命じてくれ」
「快諾すると思われますか?」
「いいや。だが、おれの気持ちは理解してくれるだろう? 頼む、やりたいようにやらせてくれ」
「……そういう命令のなさり方は卑怯です。感心致しかねますな」
青騎士隊長は顔をしかめる。同様の表情で葛藤する副長二人を暫し見詰めた後、だが彼は緩慢に片手を挙げた。指揮官の合図が──ひどくゆっくりと、ではあるが──ゴルドーに照準を合わせていた弓を下ろさせていった。
表には出さぬよう息をついたゴルドーが、背後の第二青騎士隊長に目を遣る。
「聞こえなんだか? 皇太子殿下の御命令だ、さっさと退かぬか」
「う……」
第二隊長は無念もあらわに呻くと、じりじりと後退し、最後に唇を噛みながら剣を鞘に戻した。見届けたマイクロトフが祭壇から下りようと歩を踏み出した途端、厳しく止めてゴルドーは言った。
「わしがそちらに上がる。ここでは、いつ貴様のイヌ共が飛び掛かってくるか、分かったものではないからな」
「おれの仲間は騎士の誇りを弁えた者ばかり、囲み討ちといった卑劣な真似は断じてしない。だが……、壇上を希望されるなら、否はありません」
凛とした宣言。ゴルドーは、内心の快哉を抑えるのに苦労した。
何と手軽な男だろう。ほんの少し矜持を突くだけで、こうもあっさり思惑にはまるとは。
思慮の浅い、思い上がった若造に仕える騎士とは哀れなものだ。刑を待たずに殺してしまいたい程の敵を前にしながら、動きを封じられ、血走った目を剥くしかないのだから。
ゆっくり、本当にゆっくりと、ゴルドーは祭壇上へ続く段を昇り始めた。最初にゴルドーを迎える位置に佇む三人の司祭が、いざるように後退する。マカイが倒れそうな顔色で訴えた。
「殿下! まさか……まさか、ここで斬り合うおつもりなのですかっ?」
「……そうならないと良いのだがな。一応、祭壇から下りておいた方が良いぞ、マカイ」
そんな、と頭を抱えたマカイだが、後半の指示に従う素振りはまったくなかった。
ゴルドーは司祭を「戦力外」と見做した。「去れ」と求められなかったのは幸いだ。聖人の社に仕えるた司祭にとって、聖人の末裔の命に替えられるものなどない。もしものときは、身を呈して次代の王を守る。司祭の長として、マカイは悲愴な決断を下していたのだった。
彼は、共に壁際に避難している二人の司祭に囁いた。
「殿下の御言葉は聞こえましたね? あなたたちだけでも逃げなさい」
けれど二人は一様にこれを拒んだ。
「マカイ様を御残ししては行けません」
「心は一緒です」
性情的には気弱なマカイだ。そう言われてしまうと、安堵と感謝の涙が零れそうになる。コクリと頷き、表情を引き締めて彼は言った。
「では……いざとなったら、三人で力を尽くしてみましょう」
一方、祭壇中央部に陣取るマイクロトフの背へとカミューが呼び掛けていた。
「こんな見え透いた挑発に乗るなんて、どうかしている」
振り返らぬままマイクロトフは苦笑した。
「おまえに心配して貰うのも久しぶりだ。嬉しいぞ」
「考え無しの馬鹿だ、と言っているんだ」
苛立たしげに一蹴して、いっそう潜めた声でカミューは続けた。
「分からないのか、奴の狙いが? 罪人だろうと、今なおゴルドーがおまえの叔父と呼ばれる身であることに変わりはない。おまえに殺り合う気がなくても、向こうが剣を抜けば抗うしかないだろう? それが狙いだ。奴は、次代マチルダ皇王に叔父殺しの烙印を押そうとしている」
「……つくづく理路整然とした男だな、おまえは」
軽く揶揄して、ふとマイクロトフは肩越しに視線を巡らせた。
「すまない、カミュー」
「え?」
「おまえもゴルドーを許せないだろう。だが、ここは譲ってくれ」
カミューはぎくりと強張った。マイクロトフが、自らの手で幕を引こうとしているのに気付いたからだ。絶句した彼に、マチルダの皇子は明るく微笑んだ。
幾つもの死があった。あまりにも急に、理不尽に摘み取られた人生が。
その中心にゴルドーが居た。マチルダという国家の象徴たる騎士の頂点に立つ男が、数々の悲劇を操っていた。今となっては唯一の縁戚者である人物が、すべての根源だったのだ。
ゴルドーの狙いが何処にあろうと、既に覚悟は決まっていた。罪びとに罰を与えても、失われた命は戻らない。細工職人の家族やカラヤの民、そしてカミューの悲しみが癒えるとも思わない。
そうした現実を知る身だから、最後の王位に就く者としての責任を果たさねばならないのだ。自らの手を汚すことに、今や何の迷いがあるだろう。
───ゴルドーと一対一で対峙して、秘めたる本心を引き出す。正規の手順を踏んで刑場に送る、それが最善なのは確かだが、仲間の危惧通りゴルドーが対決を挑んでくるなら、敢然と応じてみせよう。
皇王家の祖・マティスもそうした。敵兵の血を浴びながら、後進の未来を切り開いたのだから。
最愛なる「唯一」に向けて、マチルダの皇子は穏やかに告げた。
「おまえと離れてから色々あったが、鍛錬は怠らなかった。こんなところで返り討たれるおれではない、……そう信じてくれて構わないぞ」
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