彼はマチルダの片田舎で生まれた。物心つく頃には両親と死別して、親類宅を転々としてきた。
今にして思えば、あまり幸せな幼少期ではなかった気がする。苛められた記憶はないが、優しくされた覚えもない。もっとも、彼も養い親たちを愛さなかったので、釣り合いは取れていたかもしれないが。
この国に生まれた男子なら、誰でも一度は騎士団在籍を志す。あちらこちらで見掛ける勇壮な姿が、憧れと誇らしさを掻き立てるからだ。
彼も例に漏れず、やがて故郷の村を出た。騎士になるべく、ロックアックスへ赴いたのだ。
剣才には恵まれていたらしい。数年の従者生活の後、望み通り正騎士に叙位された。二十歳を過ぎる頃には、序列で最高位となる白騎士団の、それも精鋭が揃う第一部隊に所属するまでに至った。
その日、彼は初めて単独でつとめを任された。相手は最近ロックアックス内で盗みをはたらいた男だ。現行犯として捕縛されたが、まだまだ余罪があると見受けられる。尋問してそれらを自白させるという、然して珍しくもない任務だった。
初めのうちは騎士団の教えに添って口頭による質疑を続けたが、罪人はのらりくらりと話を逸らして、まるで白状する様子を見せない。若輩騎士とでも侮っているのか、言動の端々に揶揄を混じえながら「重罪ではないのだから、罰するなら早いところ罰したら良い」と主張した。
───だから手が出た。
椅子に拘束された男の横っ面を力任せに張り飛ばしてしまった。
自白を促すのに拷問という手段を取る場合には、最低でも二人以上の組になって当たる規則になっている。これは、人道的に行き過ぎぬよう、歯止めを掛け合うための決め事だ。だが彼は、怒りに任せて咄嗟にそれを失したのである。
罪人を打った掌に残る熱と、背筋を駆け上がる不可思議な寒気。この一瞬、彼はすべてを理解した。騎士になったその日より、自らが仲間と一線を画しているように感じてきた理由を、些かの驚きとともに悟ったのだ。
罪人も仰天したようだった。騎士団の規約を、ある程度は聞き齧っていたのかもしれない。打たれた頬を赤く染めながら非難したが、二発目の殴打がこれを遮った。冷たい石造りの牢の床に椅子ごと倒れた男の腹部へ、今度は軍靴が減り込んだ。
騎士は叙位式で宣誓する。私心によらず、騎士団の教えと誇りに基いて剣を振るう。国のため、民のため、護るために武力を行使する───
だが彼は違った。
世の少年たちのように、純粋な憧れと崇高な目的を持って騎士を目指したのではなかった。己の中に潜んだ嗜虐を正当化できる場所を求めて、騎士団を選んだのだと気付いた。
剣の試合で仲間に勝つとき、また魔物を斃すときにも、激しい興奮を覚えた。騎士なら当たり前の情動だと考えていたそれは、けれど人とは異なっていたのだ。敗者が見せる口惜しげな顔、流れる血、そして断末魔の苦鳴こそが彼を高揚させ、満たしてきたのである。
ふと我に返ったのは、背後に気配を感じたからだ。反射的に振り返ると、戸口に上官が立っていた。「何をしている」と低く問われ、初めて己の所業を顧みた。
罪人は酷い有り様と化していた。顔は腫れ上がり、ぴくりとも動かない。外れた攻撃が当たったのか、椅子の脚が一本折れ曲がり、床には血溜まりが広がっている。横たわった口元から洩れる耳触りな呼吸音が、間近に迫った最期のときを告げていた。
これで騎士人生は終わりだと覚悟した。
口頭尋問の際の暴力は禁じられているが、多少の目零しは上位者の判断に委ねられている。しかし、瀕死の重態を負わせたとなれば別だ。規約に反した咎で処罰される。
気高い志で騎士になったのではなかったと気付いた今、不名誉な強制除籍を受けてたところで苦にならない。ただ、罪に問われず人を斬り、それでいて敬意を向けられるという旨味ある職を失うことだけが無念だった。
歩み寄った上官───白騎士団・第一隊長は、罪人の傍らに屈み込んで状態を窺った。「おまえには見所があると常々思っていた。どう尋問を進めているか、様子を見に来たのだが」と呟かれて、彼は四肢を戦慄かせた。
この上官は近年で最高の出世頭である。有能かつ実直、騎士の模範と称される騎士隊長。しかも現皇王と縁籍関係にあり、血の繋がらぬ「義弟」という立場の人物なのだ。
そんな騎士の前に、拷問で死に掛けている罪人がいる。除籍どころか、厳罰を与えられる可能性に思い至って震えるばかりの彼に、だが上官は言ったのだ。
「生きていても罪を繰り返すだけの虫螻だ、さっさと始末してしまえ」───
意外だった。
高潔この上もないと思われていた白騎士隊長ゴルドーは、盗人を蹴飛ばし、不快そうに顔をしかめた。そして、「戻るまでに片を付けておけ」と言い残して牢を出て行った。困惑したものの、従うしかない。彼は一撃で事を成した。
やがて再び現れたゴルドーは、「石造りの城は、こういうときに都合が良い」と言いながら火魔法の札をくれた。
斯くて死体は消え去り、彼は罪人を逃がした咎で三日間の謹慎処分を受けたけれど、罰則を消化した後は、再び職務に復帰した。
なに不自由なく栄誉の道を突き進んでいる騎士隊長が、どうして自分に目を掛けていたのか、残忍な仕打ちを見過ごし、挙げ句、後始末の手助けまでしてくれたのか。
やがて知った。ゴルドーは自らの立場や在り方に満足していなかったのだと。怨念じみた深い鬱積が、騎士団内に潜んでいた嗜虐の気配を、無意識に見出したのかもしれない、と。
あれから幾年が経っただろう。
彼は、単なる部下の括りを越えてゴルドーに仕えてきた。はたらきには格別の待遇が与えられた。訓練中、他の騎士を痛め付けても不問に処されたし、街の酒場でいざこざを起こしても、密かに且つ速やかに、揉み消しの手が施された。
皇王印章を作る技を持った職人を殺したときには、報酬代わりか、騎士隊長職に任ぜられた。既に副長となっていたゴルドーの熱心な推薦に異を唱える位階者はいなかったらしい。その後も頻繁に昇進を重ね、気付けば第三隊長にまで昇っていた。
ずっと仕え続けるつもりだった。
下らぬ世襲性の上に立つ王を廃して、真の実力者が国を得る。そうして名実ともにマチルダを支配するゴルドーの傍で、その権威の恩恵に与りながら、思いのまま生きられる筈だった。だが───
白騎士団・第三隊長は、ゆっくりと腰を上げる主君をぼんやりと見詰めた。ゴルドーは祭壇前の通路を左に歩き始める。
「動かれますな」
赤騎士団副長が厳しく制したが、ゴルドーは足を止め、肩越しに返した。
「マイクロトフと話すだけだ」
「……ならば着席なされよ」
「わしが剣を抜くとでも?」
言いながら、左の手に握る剣を身体から離してみせ、これ見よがしに右手も挙げる。
そのままの姿勢で再び歩き出す彼を、前方にて迎えるかたちの青騎士団・第一、第二隊長が、剣の柄に手を掛けながら睨み付けた。中空の張り出し通路に待機する騎士も、一斉に弓の矢先をゴルドーの背に当てた。
───成程、と第三白騎士隊長は察した。
これは警備騎士らの注意を逸らすための策だ。こうして目を引き付けている間に皇子を射よというのだろう。
不思議で堪らなかった。この期に及んで、まだ命令が効力を持つと考えているらしいゴルドーが。
陰謀は破れたのだ。腹いせに皇子を道連れにするというのは分からなくもない。
だが、何故それを自分に命じるのか。すべて終わった今、なぜ自分が皇子を殺さねばならないのか。
これまで忠実に命を実行してきたのは、見合うだけの対価があったからだ。昇進や目零しばかりではない。ゴルドーの許でなら偽らざる自分でいられた。戯れに他者を傷つけ、悦楽に酔い痴れる身であっても、騎士の名を失わずに済んだ。権を振り翳し、他者を上から見下ろす満足を与えられていたから、だからゴルドーに従い続けてきたのである。
けれどゴルドーには、もはや絞首台が待つのみだ。白騎士団長の位階や王族の一員である身上も、罪を減じる要素にはなり得ない。白騎士隊長とて同じである。明かされた罪状だけでも確実に死罪に処される。最悪の謀反人の一人として、長く謗られるだろう。
なのに、まだ罪を重ねよというのか。
こんな状況下でも、言い付けには絶対服従を守る犬と見做されているのか。
もう与えられるものは何もない。それでも皇子を殺せというのか───そうしたとて、逆転の足掛かりにもならぬものを。
利用されるだけの我が身に気付いた白騎士は、ふと祭壇を見遣った。皇子の左右、分かれて壁際に立つ黒衣の司祭。そのとき、失念していた事実が天啓のように舞い降りてきた。
壇上には「奴」が居る。司祭に紛れ込んだ傭兵、ゴルドーが見込んだ青年が。
第二白騎士隊長を殺した現場を目撃されて城から逃げた、そうカミューは言っていた。だが、先の副長たちによる告発において、死んだ筈の第二隊長が行方不明と報じられた点から鑑みるに、おそらく「見られた」と思い込んでいただけだったのだろう。
カミューは騎士殺しで、その上、皇子を狙って式典に潜入した暗殺者だ。黒衣の中に携えた剣が何よりの証拠となる。だから───
皇子ではなく、カミューを射るのだ。
最後の最後に改悛して皇子を護ろうとしたと映れば幸い、ひょっとしたら、人の好い皇子の同情を誘えるかもしれない。死罪を免れさえすれば、何時の日にか恩赦に与る希望も出てくる。
白騎士隊長は、彼から見て皇子の右に位置する司祭へと目を向けた。予定とは配置が変わったが、騎士にはカミューが見分けられた。二人の司祭のうち、片方に異様が生じていたからだ。
闇色の装束の輪郭が滲んで見える。大気に溶け入る薄紅には覚えがあった。女主人の酒場で対峙した青年が放っていた、得体の知れぬ闘気の色だ。
座席から立って、少し前に出てから射掛ければ、矢は皇子の背後を抜けてカミューに向かう。皇子が今の位置に留まっていれば───縦しんば動いたにせよ、大きく後方へと下がりさえしなければ、皇子を射抜く恐れはない。
やるしかない。
ゴルドー最後の手駒・暗殺者カミューを排除して、皇子の慈悲に訴える。
白騎士団・第三隊長は手中の弓具を握り直した。
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