兆した予感が、どのあたりで現実味を纏ったのか、カミュー自身にも分からない。
ただ、それは瞬く間に胸を埋め尽くし、戦慄きとなって四肢を駆け抜けた。形良い唇を割ったのは自失の響き。間近の若者にも届かぬほどの、弱く掠れた呻きであった。
「王では……ない?」
言葉にすると、更に一歩、確信が近づいてくる気がした。
───今より同地はマチルダ皇国の支配下に入る。
燃え上がる炎の中、騎士は高らかに王命を宣した。
ちっぽけな村、緩慢に過ぎて行く日常。けれどそこには、人の数だけ思いがあった。子を産み育て、老いて土に還る草原の民の、ささやかな幸せが息衝いていたのだ。
なのに王はそれを奪った。清廉な人格者の仮面を被ったまま、すべてを奪い去った。
絶命の叫びを聞かず、流血に自らを染めるでもなく。
己が発した一枚の紙切れが、どんな惨状を招いたか、直視しようとせぬ男を───遥か遠い堅固な城で、いつもと変わらぬ夜を過ごしているであろう異国の王を、だからカミューは、殺戮を行った騎士にもまして憎んだのだ。
それからの歳月、怨嗟と共に歩み続けてきた。
王を称える声を聞くたび心は冷えた。
名声の影に隠れた男の卑劣を誰も知らない。酷薄な本性は、向けられた者にしか分からない。だから独りで戦うしかない。
蛮族の血と軽んじたがゆえの命令なら、同じ行為を王に返す。王は勿論、その血脈をも絶ち切って、亡き人たちの悲痛を知らしめる、それだけを生きる理由にしてきたのに。
死に際に、第二白騎士隊長が言っていた。
命令書に血判を押して遵守を誓った。その際、王の署名と印を確認した。あれは紛れもなく王の命令、騎士は従っただけだ、と。
でも、王の証たる印章が一つでなかったとしたら。
人知れず別の一つが存在していたならば、あの殺戮の命を下した人物は───
「王では……なかった?」
父は命じていないと、皇子が言った。
そんな人物ではないと、騎士たちも口を揃えた。
滑稽な身贔屓としか聞こえなかったあれが、真実だったのだとしたら。王の名を騙った企て、王もまた欺かれただけの存在なら。
ならば自分の歳月は───無辜の王を恨み続けた長き日々は。
そこでカミューの思考は止まった。突如として堂内を支配した圧倒的な騒然も、彼の耳には遠い世界のものでしかなかった。
若き赤騎士は、しきりに気を揉んでいた。
今やカミューの身震いは若者にも見取れるほどだ。列席者の意識が皇子や副長らに注いでいるうちは良いが、よろめきでもしたが最後、確実に注目を集めてしまうだろう。
手を差し伸べ掛けて、けれどすぐに思い留まった。ここでそうされるのはカミューの矜持が許すまいと、本能的に感じたのだ。
誰にも頼らず、己の才覚だけで目的を果たそうとしてきた青年。どれほど衝撃を受けようと、彼は他者の支えを望むまい。
自らの命を捨てても非道を明かそうとしたカミューなら、どんな局面に立たされようとも、心の力ひとつで真実と向き合おうと努める筈だ。そこに他人の手は要らない。
それに、と騎士は前方に立つ男を見た。
もしカミューが必要とするなら、それはあの皇子の手だ。恨みを向けようとしながら、果たせなかった王の遺児。
より強い運命の絆に繋がれたマイクロトフこそが、カミューを支える唯一の存在となる。この先も、ずっと支える力になる。
若者は、黒衣の中で伸ばし掛けた手を戻した。
それでも、いつ膝が折れてもおかしくない青年の様子は気懸かりだ。上官たちから何か指示は出ないものかと、彼は懸命に堂内を窺った。
この展開に、礼拝堂内の誰にも劣らず動転している人物、それが司祭長マカイであった。
剣と宝冠の献上役を担った二人の司祭と共に、今は皇子の後方脇に退いているマカイだが、表情を変えぬよう努めるのに懸命で、手足の震えにまでは気が回らない。
祭壇に立つという、職務的には慣れた行為に、こんな苦痛が伴う日が来ようとは。
マカイは、ともすれば顔を覆いたくなる衝動を堪えつつ、懸命に威厳を保とうとした。
皇子とゴルドーの不仲──と言うより、一方的にゴルドーが敵愾心を燃やしている──は、幾度かグランマイヤーから聞いていた。はっきり告げられた訳ではないが、皇子が命を狙われているらしいことも、薄々ながら気付いていた。
だから、後の憂いを絶つと決めた皇子の心に配慮して、式典を論定の場に変える意向を受け入れた。そうすることが聖人の子孫に仕える身のつとめだと考えたからだ。
冒頭における白騎士隊長への弾劾にはやや虚を衝かれたものの、彼が皇子襲撃犯と通じていたと知り、成程と納得した。無事、危機を乗り越えた皇子の強運を、一聴衆として喜ばしくも思った。
けれど途中から雲行きが変わってきた。
マカイの認識では、これは「皇子暗殺を目論んでいたゴルドー」という構図を明白にする場であった筈なのに、話が不可解な方向へ進んでいる。
皇子と騎士たちはいったい何処へ向かおうとしているのか。何を暴こうとしているのか。
何度も首を捻りかけたマカイだが、漸く皇子らの意図を理解した次には全身が強張った。建物を揺るがすような驚愕が轟いたときには、その場にへたり込みそうになった。
反射的に祭壇のもう片側を見遣る。
司祭の扮装をした騎士を壇上に立たせる───そうまで念を入れねばならないのかと、要請を受けた際には感じたが、決して過大な警戒ではなかったのだ。親子二代を葬ろうとした男が相手では、どれほど手を尽くしても足りない、それが側近たちの総意だったのだろう。
───ここでマカイがもう少し冷静であったなら、おや、と思ったかもしれない。司祭装束を着て祭壇に控える騎士は独りだった筈なのに、と。
けれど狼狽え果てたマカイの眼は、予定との違いを見過ごした。彼はただ、間近に付き従う二人の司祭に告げるだけで精一杯だったのだ。
「……良いですか、動じた素振りを見せてはなりませんよ。殿下の御邪魔になってはいけません」
およそ自らにこそ言い聞かせるような祈りの響き。既に大剣を奉じ終えた司祭が、小さな会釈で了解を示す。
今ひとりの手の中で、捧げる瞬間を先延ばしにされた宝冠が───幾年も前、マイクロトフの父の頭上にて誇らかに輝いたマチルダ統治者の証が、弱く小刻みに震えていた。
嵐のような騒然の波を縫うようにして青騎士団・第一隊長に近付いた者が居る。赤の同位階者だ。何気ない顔で足を止めて青騎士隊長に並んだ男は、ひっそりと口を開いた。
「ここを裁きの場に充てたのは正解だったようだ。たいした建築の技だな、これほどとは思わなかった。最後列、正面扉脇に居ても、漏らさず遣り取りが聞こえる」
青騎士隊長がにんまりと唇を綻ばせる。
「ならば、逆上した罪人の怒鳴り声は格別だったでしょうな」
祭事に用いると見込まれ、築かれた建物だから、音の伝わり方には細心が払われている。堂を形作る石材が生み出す反響、そして方向。建築者らの緻密な計算が、荘厳の演出に一役も二役も買ってきた訳だ。
賛同した青騎士隊長だが、程なく笑みを掻き消した。
「……が、諸刃です。攻撃魔法が発動すれば、只では済まない」
これは建築者の想定外とも言える脅威だ。
屋外で魔法が放たれた場合、波動の幾許かは大気中に逃げる。だが、建物内では逃げ場が制限されるため、力が力を巻き込み、より威力が強まる傾向にあるのだ。
ましてそれが石造りの建物内での発動となれば、付加効果は木造建築物のそれの比ではない。魔法本来の力に加えて、崩れ落ちる石材が居合わせる者を蹂躙する。
示唆された点を解した赤騎士団・第一隊長が、ほんの僅かに顔を歪めた。
「……「彼」がそうすると?」
短い間の後、青騎士隊長は嘆息した。
「そちらは考慮から外したいですな。いま一方……白の御一同です。殿下を通じてでも、紋章の装着を禁じておくべきだったかと」
冒頭の一節には、赤騎士隊長も仄かな笑みを浮かべた。次いで力強く頷いてみせる。
「懸念には及ばない。手は打ってある」
反射的に隣を見遣った青騎士隊長だが、視線を戻すのも早かった。
「では、ついでですから、もう一つ。あの下衆男が持った得物を御覧に?」
これには、少しばかり考慮の時間を要した赤騎士隊長だ。
「ああ……、第三隊長のことか? 見ていないが……」
言いながら、目立たぬように身じろいでみる。しかし、この場所からでは他の白騎士隊長たちの影に隠れて該当人物の手元までは見えなかった。困惑げに眉を寄せる男に、青騎士隊長は低く教えた。
「まだ数えるほどしか投入されていない……平たく言えば、白騎士団が独占してきた最新式の弓具です。あれは非常に気に入らない」
聞くなり、赤騎士隊長の表情も険しくなった。
射程距離の調整が効く品ではない。だが、指一本で投射が可能なため、弓を引く動作を要する従来の品に比べて攻撃姿勢が目立ち難いのだ。
示し合うでもなく、二人の目は上方を見遣っていた。
礼拝堂の上方には、壁を一周するかたちで張り出し型の通路が備わっている。普段は高窓の手入れなどに使われる足場だが、今日は幾人もの騎士が詰めていた。堂内全体を上から見下ろす通路は、異変を察知するに最適の歩哨台なのだ。
警備騎士のうち、数名は芝居観賞用の遠眼鏡──騎士団の任務用の品では不穏感が強すぎるのでは、といった考慮がはたらいた──を使って、不審な動きを見逃すまいと努め、残りは弓を携えて有事に備えている。
いざ事が起きれば──もしくは下から指示が出れば──彼らは即座に攻撃の構えに入り、大勢の中から違わず標的を射抜く手筈になっていた。そうした連携は日頃から充分に訓練が行われているし、弓術に際立った腕を持つ者ばかりが配置されている。
それでも、あの最新弓が相手となると分が悪い。もう一つ、騎士たちは、万が一にも国賓や列席の民を傷つけてはならないという絶対の責務を負っているのだ。そこに配慮しないであろう敵に対するには、初めから大きな不利である。
しかし、と赤騎士隊長は唇を噛んだ。
第三白騎士隊長から武器を取り上げた方が良いという意見はもっともだ。しかし、危険と表裏である。弾劾を受けて今は放心している男でも、下手に触れれば牙を剥かないとは限らない。
破滅の道連れとばかりに矢を乱射されでもしたら──少なくとも、警備騎士が男の息の根を絶つまでの間──壇上の皇子は無論のこと、位置的に白騎士に近い副長や他国要人も脅威に晒されてしまう。
慎重に考えた末に赤騎士隊長は言った。
「……副長方も、気付いた上で静観しておられるのだろう。指示を待つのが無難だと思う」
すると、青騎士隊長は軽い調子で答えた。
「では、その方向で待機します。ところで……、話に付き合っていただきながら何ですが、準備の方は宜しいのか? そろそろグリンヒル調査組の出番では?」
それは、と赤騎士は苦笑した。
「証言役を指しているなら、慎んで譲渡した。副長も承知しておられる」
「基本的に、事実を掴んだ者が証言に立つ取り決めだった筈では?」
「君も、刺客三名捕縛についての説明を代わっていただいたではないか」
証言する刺客らを怯えさせぬための副長の配慮だと知りつつ揶揄した男に、青騎士隊長は冷えた目を向けた。
「……それで、あなたには証言を委譲する正当な理由があると?」
「事実掌握において多大な功を挙げ、わたしの幾倍も弁が立つ。任せるに足る理由だろう」
指摘された人物に思い至った騎士は、納得をちらつかせながら、祭壇前の通路へと向き直った。
舞台は終に最終幕を迎えたのだ。
───ふと、青騎士隊長は感慨を覚えた。
今日という日は長く語り継がれるに違いない。
若き皇太子が、四年もの歳月を越えて父王の非業の死に辿り着き、敵の野望を挫いた日、と。
遠い未来に民は称えるだろう。
マチルダ最後の皇王は、建国の英雄にも劣らぬ強き信念を持つ男であったと。
今日を境にマチルダは変わる。マイクロトフの許、新たな国が興るのだ。謂わば誕生の瞬間に立ち合っているのだから、落ち着かぬ気分になっても致し方ない───少し前に稀有な体験をしたばかりの騎士は、そんなふうに自らの情動を分析するのだった。
赤騎士隊長が、さて、と姿勢を正す。
「正面扉脇に居るから、何かあれば合図を頼む」
「出迎えの任ですか」
意味ありげに唇を上げ、低く付け加える青騎士隊長だ。
「間に合うのでしょうな」
「当然だとも。最高潮の場に役者が欠けては話にならぬ」
芝居になぞられた答えを聞いて、いっそう陰気な笑いが広がった。
「では、演出効果に期待させていただいても?」
赤騎士隊長は苦笑で応じた。
「……存分に。では、また後で」
言い置いて踵を返した赤騎士隊長の後ろ背は自信に漲っている。どうやら、大層な趣向が用意されているらしい。青騎士隊長は満足げに目を細めた。
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