墓地へと続く暗い森で、白騎士殺害の目撃者となった若者と対峙したとき、これ以上の衝撃はあるまいとカミューは思った。呆然と見開かれた瞳に、蒼白となった自身の顔を見たような、あれは正に、そうした愕然だったのだ。
なのに、更に上があったとは。
さながら時が止まったかの如く、思考ははたらかず、ただ反射的に剣を支える手元に力が増す。そうする間にフードを元に戻した騎士が、相変わらずの小声で言った。
「足を止めないで。壁際まで行ったら、普通に向き直ってください」
何故、と独言気味に洩れた声に答えは返らない。かと言って、ここで立ち止まっていては参席者や警備騎士に不審に思われるだけだ。やむなく、命じられるまま進むしかないカミューだった。
聖人の絵図を背にして立つと、隣に騎士が並んだ。他の司祭が続く筈だった場所がぽっかりと空いてしまっているが、前回の即位式から久しいのもあってか、違いを気に止める参席者はいないらしい。
割れ鐘のように鳴り響く鼓動を耐えつつ、カミューは素早く堂内を見渡した。
緋の絨毯を敷き詰めた中央通路の左右に置かれた長椅子は人で埋め尽くされている。最前列、カミューから見て左側には、知らない顔が並んでいた。それぞれ違った装束を纏っているが、堂々とした居住まいから、周辺諸国の賓客たちと見て取れる。
通路を挟んだ反対側の最前列に、ゴルドーをはじめとする白騎士団員が座っていた。第三隊長の顔も見える。死んだ第二隊長の位階は埋められないまま今日に至ったらしく、座席には一人分にやや欠ける程度の隙間が残されていた。
胸を震わせる顔は、その一つ後列に並んでいた。
赤・青の二副長、城で顔を合わせた幾人かの騎士隊長。二人の第一隊長は見当たらない。堂内のいずれかで警備の指揮を執っているためだろう。
それにしても、とカミューは唇を噛んだ。
こんな副長たちの表情は記憶にない。一切の感情を消し去ったような、けれど重く張り詰めた面差し。彼らの意を負って壇上に上がったであろう若者を横目で窺い、低く問うてみた。
「どうして君が?」
すると騎士は、同じく潜めた声で答えた。
「色々あったんです。でも……この服、やっぱり動きづらいですね。二度ばかり、裾を踏みそうになっちゃいましたよ」
以前と変わらぬ親愛溢れる軽口。気勢を殺がれそうになり、カミューは苛立った。
「邪魔をしないでくれ」
「そうはいきません、つとめですから」
口調こそ柔らかかったが、確固たる信念が声音にあった。知らず、布下の剣を押さえた手が戦慄く。動きを見取ったように若者は俯きを増した。
「あのとき焼け死んでもおかしくなかった身です、斬られても構わない。でも、少し待って貰えませんか」
カミューが眉を寄せるのと同時に、いま一方の扉が重々しく鳴った。壇中央に立つマカイの向こう、二人の司祭に先導されて、ゆっくりと石壇を上がるマチルダの新皇王。
足元に目線を落としつつ、緩やかに壇上に降り立った長躯を視界に納めた刹那、カミューの胸を荒々しいうねりが襲った。
───剣を受け取る前に。
何処から計画が洩れたのか、それはもうどうでも良い。
今しかない。隣の騎士をやり過ごして、一足飛びにマイクロトフの許まで駆けるしかない。
身を踊らせようとした瞬間、再びの囁きがカミューを縛った。
「これから起きることを見届けて貰うために、おれはここに寄越されました」
「見届ける……?」
「どうか動かないで、この場で少しだけ待っていてください」
傍らに立つ若者と、祭壇中央でマカイの足元に膝を折ろうとしているマイクロトフ、小刻みに双方を窺い見る目に、額を伝う汗が流れ込む。過ぎた葛藤に足を揺らがせるカミューに向けて、騎士は更なる痛撃を浴びせた。
「殿下は無論、おれたち皆、あなたが好きです。あなたも多分、そうだった筈だ。だから、もう一度だけ機会をください」
「何を言って───」
もはや声というより喘ぎに近い呻きが洩れるのみだ。その間に、片膝を折ったマイクロトフの頭上にマカイが手を差し伸べようとしている。
すべての音曲が止み、シンと静まり返った堂内に式典開始の宣言が響き渡った。
「建国の父・聖マティス、並びに聖アルダの御名において、ここに第十八代マチルダ皇国王の即位の儀を執り行う」
滔々とした声が途切れると同時に、祭壇左手に控えていた二人の司祭が足を進めた。片や鞘入りの大剣を、今ひとりは詰め物をして厚みを作った緋の布に乗った金色の冠を、それぞれ司祭長の横に両手で掲げ持つ。
マイクロトフは、マカイの乳白色のローブの影に隠れ、しかも片膝を付いているため、カミューの位置からは良く見えない。最初の機を完全に逸した。こうなっては、若者が言ったように式を見守りながら次の機会を待つしかないカミューだった。
「───武勇をもって億兆を庇護せしめ、賢知をもってこれを指導せよ。版図に礼節を浸潤し、民が心に至誠の篝を灯せ。剣は汝が道を拓く力、冠は汝の負う役儀が重み。共に汝に委ねられし、国の主たる証と知れ」
マカイが黒衣の司祭からダンスニーを受け取り、柄を掴んだ。ちらと座席の方に向けたカミューの目に白騎士団長が映る。ぽっかりと半開きになった口元を見ずとも、唖然ぶりは良く分かった。この式次第の変更は、ゴルドーには告げられていなかったのだ。
司祭の長は、鞘を軽くマイクロトフの右肩に当てて瞑目した。
「刃は火より産まれ、水を得てかたちを成した。雷の煌めきを持ちて、風を裂き、土を削って、国を拓いた」
続いて左の肩へ、大剣はマイクロトフの頭上を越えて位置を移す。
「火の不壊、水の清閑、雷の強靭、風の高潔、土の慈悲。刃に宿りし魂、マチルダが父・マティスに希う、この者の前途に大いなる加護を与え給え」
言い終えると、彼は柄を放して剣の向きを変えた。跪いたままそれを受け取ったマイクロトフは、剣先を床に付けて冠を戴く───筈だった。
そこでカミューは、またしても戸惑いに目を瞠った。剣を譲り終えた司祭、未だ王冠を保持したままの司祭、最後にマカイまでもが、マイクロトフを残して壁際へと退いたのだ。
そうして彼は、悠然を身を起こした。
折っていた片足を戻し、大剣を左手に掴み締めて背を伸ばす。たっぷりと尾を引くマントが、マイクロトフを一段と雄大に飾っていた。
招待客の中にも、戴冠の儀式が中断されたと気付く者が現れ始めた。木椅子のあちこちから控え目な囁き声が上がる。けれどそれも、王位を継がんとしていた聖人の末裔が口を開くまでの束の間だった。
マイクロトフは、朗々たる低音で語り出した。
「王となる前に、やり残したことがある」
参席者ばかりか、警備のため堂内中に散る騎士までもが息を詰めて祭壇の皇子を凝視する。ひとたび息をつき、前よりも遥かに響く声で彼は言い放った。
「マチルダ騎士団・青騎士団長の名において───これより、騎士の大罪を告発する。この場を論定の席とする旨、異議ある者は直ちに申し述べよ!」
暫し、座席における反応は鈍かった。
人々は周囲を窺っては囁き合い、首を捻り合った。
しかし次第にざわめきは消え去り、居住まいを正す者が増えていった。根回しが功を奏して、困惑が最小に留まったのだ。マイクロトフは密かに安堵の息を洩らした。
一方で、受け入れられない人物も居た。言わずと知れたゴルドーである。
ただでさえ式次第が前後して狼狽えているところへ、予期せぬ一言。とんでもないと言わんばかりに、凄まじい勢いで立ち上がり、数歩ばかり祭壇へと詰め寄った。
「何を仰せか、皇太子殿下! 聖なる式典を裁断の場に化すと? マチルダ二百年の歴史を紐解いても、斯様な事例はございませぬぞ! まして騎士の裁きは、団内、あるいは法議会が担うと内規にて定められた仕儀、殿下の仰せは、定石から外れた───」
唾を飛ばしそうな激烈で訴えるゴルドーを、マイクロトフはすかさず一閃した。
「その通り、内規にもある。騎士の心得・二十二条、四の追項。騎士団長は、明白かつ非道なる騎士の罪について、法議会と同等の権限をもってこれを詮議する資格を有す。条項を御忘れか、ゴルドー団長」
白騎士団位階者が座る最前列の椅子の延長上、壁の端に陣取った青騎士団・第一隊長が失笑を噛み殺していた。
城を出る前に告げた一言は主君の役に立ったようである。もっとも、最後の一節が痛烈な厭味となっていることには、言った当人は気付いていないらしいが。
続いて彼は、壇上を見遣った。中央に屹立する皇子の向こう側には黒衣の人物が二人。読み通り、カミューは司祭に扮して皇子の前に現れた。若い赤騎士も、任務の初手に成功している。
後は、カミューが焦れて動き出さぬうちに本題に持ち込むだけだが───
マイクロトフの言葉に一瞬だけ怯んだゴルドーだが、立ち直りも早かった。憤然と胸を反らすなり、声高に反撃し始めた。
「畏れながら、騎士としての経験に乏しい皇太子殿下ならではの錯誤ですな。仰せになった条項は、法議会議員の召集が困難な任地でこそ適用される例外措置、故に「追項」と銘打たれているのです。第一に、騎士団内部の問題を理由に即位式典を中断するなど、遠来の賓客方に対して非礼にあたりますぞ!」
マイクロトフの胸のうち深く、静かな怒りに火が点いた。
招待客を引き合いに出すとは巧い手だ。礼を重んじるが故の、もっともらしい諌言に聞こえる。
客に対して礼を失すつもりはないと反論しようとしたマイクロトフだったが、一瞬早く、通路を挟んでゴルドーと隣り合うティント国王が口を開いた。
「待たれよ、ゴルドー団長。もしや我々を気遣っての意見ならば、無用である」
マイクロトフが虚を衝かれるほど、いつもの軽い調子を消し去った、厳かな物言いだった。長い在位に裏打ちされた威風が、グスタフからは立ち昇っていた。
「対面より日こそ浅いが、既に我らは知友の仲。貴国の皇太子殿下が、単なる気迷いから斯様な宣言に至るとは、ゆめ思わない」
「ティント国王に賛同致します」
ミューズのアナベルが加勢に出る。
「寧ろ、式を遮ってまで行わねばならないと判断なさった論定というものに興味を覚えます。如何です、皆様?」
呼び掛けに、各国代表が次々と同意を示す。忌々しげな顔で眺め遣ったゴルドーが、尚も言葉を重ねた。
「……とは申せど、咎人に弁護者も与えぬまま詮議を行うと? それでは一方的に過ぎますぞ。マチルダ全騎士団員の権利を与る身として、断じて了承致しかねる」
「弁護者を与えぬ、という話は出ていないと思うが」
ボソリと言ったのはサウスウィンドウ通相シュウである。表情ひとつ変えず、彼は淡々と発言を続けた。
「どのみち内容は吟味されるのだろうから、告発された人物なり、弁護したい者に、自由に発言する機を与えれば済む話では?」
マイクロトフは感謝を込めてシュウに会釈し、それから再びゴルドーに目を向けた。
「シュウ殿の言われた通りだ。告発対象の言い分は、是非とも聞きたいと考えている」
ここへ来て、ゴルドーも気付いた。マイクロトフと各国代表が、結託して詮議実行に向けて動いていることに。焦りが思考を鈍らせ、全身に冷えた汗が滲み出た。
「……皇太子殿下からの告発を受けたとあっては、それだけで死を宣告されたも同然……、正しき裁きが行われるとは考え難い」
それを聞いて立ち上がったのは、国賓席の一列後方、政策議員の一人である。
「お待ちください、ゴルドー団長。幸い、この場には法議会の常任議員が揃っております。規約上、議会は非公開を明文化しておりませんし、例外的ながら、大規模な議会が召集されたと御考えになれば宜しいかと。たとえ何人からの告発であろうと、正当なる量刑を断ずるのが我ら議員の役目、御懸念には及びません」
議員の発言が途切れるなり、壇上の赤騎士は含み笑った。
「張り切ってるなあ」
怪訝そうに窺うカミューに、小さく言う。
「一番上の兄なんです。法議会の副議長も兼任しているんで、状況次第では援護してくれと頼んでおいたんですよ」
カミューは懸命に思案を重ねた。
マイクロトフの言う「大罪」が何を指すにしろ、ゴルドーの進退に関わる議論となるのは予想出来る。
けれど何故、今なのか。しかも、騎士たちはそれを自分に見せようとしている。知れば何かが変わるとでも言うのだろうか───
ゴルドーは議員の正論を受けて、心中で舌打ちしていた。
食い下がるほどに自らの首を絞めているのを感じる。そうまで反対する理由は何なのかと、疑問を浮かべる衆目が突き刺さるような気がした。
後ろ足で座席へと退りながら、ゴルドーは壇上右脇を見遣った。黒衣の司祭が二人、片方はカミューだろう。中央に立つマイクロトフとの距離は遠くないが、こうも展開が狂っては、暫くは静観に徹するしかないだろう。
ゴルドーは、通路際に設えられた自らの席には戻らず、第二隊長が座る筈だった隙間へと強引に尻を捩じ込んだ。副長、そして半ば腿の上に座られたような格好となった第一隊長は驚いて、「場所が違う」と進言しようとしたが、自団長の硬い表情を見るなり、無言で横にずれて場所を空けていった。
隣席の第三白騎士隊長に困惑げに窺われたゴルドーは、彼にしか聞こえぬように小声で囁き掛けた。
「わしが剣帯から剣を外したら、だ」
───マイクロトフを射よ。
もはやカミューは絶対の切り札とは成り得ない。司祭の多くが壇上に昇らず留まっていることからも、カミューの横に付いている司祭はマイクロトフの手の者と考えられる。身の安全を条件に式中の決行を請け負ったカミューが、危険を冒してまで勝負に出るとは期待出来ない。
それでも、まだ完全に勝算を失った訳ではないとゴルドーは考えていた。
企みの中心に自らが存在すると知れぬよう、常に気を配ってきた。マイクロトフらの警戒に引っ掛かった者は切り捨てて、追求を掻い潜ってきたのだ。今ここでマイクロトフが何を告発しようと、知らぬ存ぜぬで通せない筈はない。
ゴルドーは、横に座す男と、その手元にある弓を盗み見た。
自らに直結しそうな駒は一人だけだ。最悪の場合、マイクロトフを消した後、この第三隊長の口を封じれば───
「……論定を行う旨、他に異議のある者は?」
マイクロトフの問い掛けに、堂内からは沈黙が返る。それを合図に、赤騎士団副長が立ち上がって中央通路に進み出て、満座の参席者へと向き直った。
「皇太子殿下の御指示の許、調べに臨んだ騎士を代表して発言させていただきます」
位階と名を述べた後、彼は手にした分厚い覚書きの束を開いた。
「審議すべき案件は多岐に渡りますゆえ、先ずは最も新しき事犯から……。去る二日、首府都ロックアックス東七区にて商いを営む人物ならびに雇用人に対して、騎士が剣を振るい、重傷を負わせました」
白騎士団・第三隊長が戦慄き、人々の間にも驚きが広がって行く。議員席から声が上がった。
「由々しき事件ですが……事実なのですか?」
ええ、と赤騎士団副長は座席の一つに目を向けながら頷く。
「今朝方、東七区長より確認を取りました。御当人の証言を要しますかな?」
発言した議員のみならず、前方に座る一同は、副長の目線を追って一斉に後方を振り返った。
注視の集まった先、ちんまりと椅子に腰掛けながら、手を挙げて副長に応じてみせたのは、歓楽街の長とは見えない温厚そうな老婆である。
にこにこと微笑む彼女から副長へと目を戻した議員が弱く言った。
「……事実らしいですな、証言は無用です」
赤騎士団副長は満足げに微笑んで言を続けた。
「区内住民の救命措置により、死に至らなかったのは幸いでした。被害者らは、口を噤むようにと件の騎士に言い含められており、このため区内では公然の秘密となっていたものの、該当地の治安維持を与る我が赤騎士団は、まことに恥ずかしながら、善意の第三者の手による告発状を得て事態を知った次第です」
呼気をも殺して聞き入っていたカミューは、刹那、見えない一撃に打ち据えられたような心地を覚えた。
語られた「第三者からの告発」が、自らの記した文であるのは疑いようがない。式後に渡すように言いくるめたつもりでいたのに、思惑は破れてしまった。あの乙女は、指示に反して昨夜のうちに文を届けてしまったのだ。
知らず肩を震わせたカミューに気付いて、若者がそっと囁いた。
「副長がこの件を最初に持ってきたのは、あなたに教えるためだと思いますよ」
「え?」
「つまり……おれたちの他にも、あなたを心配している人間が居るってことです」
問い返そうにも、カミューには言葉が見付からなかった。
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