───東七区のレオナ。
予期せぬ名に瞬いた赤騎士団副長だったが、間を置かず笑みを滲ませた。
「知っているとも、あの店の営業許可証を出したのはわたしだからね。レオナ殿がどうかしたのかね?」
すると、緊張しきりで直立していた青騎士の表情が和らいだ。安堵めいた息を一つ洩らし、警邏用の外套の隠しから出した厚い封書を差し出して一礼する。怪訝そうに受け取る赤騎士団副長に視線を当てたまま、説いた事情はこうだった。
つとめの交替時間が来て、仲間たちと城へ戻る途中で、往来を駆ける人物に行き合った。
外出制限が敷かれているとは言え、酔った勢いで、あるいはやむを得ぬ危急から、出歩く住民も皆無ではない。こうした民を見掛けた場合、誰何した上で対処するよう命じられている。そこで青騎士団員たちは、つとめを果たすべく、この人物に声を掛けたのだった。
新皇王即位前夜の「慎み」の触れを破った女性は、東七区で酒場を営むレオナと名乗った。騎士の追求──何と言っても相手が女性なので、非常に柔らかなものだったが──にも臆せず、禁を犯した非を認めた上で、城に向かっているとレオナは語った。どうしても赤騎士団副長に会う必要があるのだ、と。
これを聞いて青騎士たちは困惑した。位階者の名は重く、絶対だ。ただ、酒場の女将と騎士団副長という取り合わせがどうにも腑に落ちない。しかも今宵は外出を控えるよう義務付けられた日、そんな状況下で赤騎士団副長に対面を求める女の意図がさっぱり分からなかったのである。
ともあれ、即位式典前夜、騎士団要人には謁見の時間は取れまいというのが一同の共通認識だった。そこで彼らは、日を改めて出直すようレオナに説いたのだが───
「頑として受け入れようとしなかったのです。どうあっても、その書状を届けねばならないとの一点張りで」
赤騎士団副長は眉を寄せ、表書きのない包みを矯めつ眇めつする。
青騎士の話は続いた。
往来における遣り取りは長引いた。騎士たちは言葉を尽くして女を説得しようと試みた。会わせぬと言っている訳ではない、即位式が終わるまでは位階者は多忙で、余所事に割く時間がないのだ、と。
しかしレオナの意向は揺らがない。充分に承知している、それでも会って文を渡さねばならぬと訴え続けた。
何より一同が首を捻ったのは書状の中身だ。そうまでして赤騎士団副長にと望む文の内容を問うたところ、レオナは「当人に会って説明する」としか答えなかったのである。
女の真剣な様子には一蹴しかねるものがある。と言って、城まで同行させても対面が叶うとは限らない。レオナが白騎士団員の目に触れるようなことになれば、禁令を破ったと責め立てられる恐れもあった。
そうした事情を考慮した挙げ句、青騎士たちは妥協案を捻り出した。つまり、書状を預り、赤騎士団副長の手に渡るよう配慮するから、家に戻れとレオナを説得したのである。
レオナは初め、直接の手渡しに固執していたが、騎士らの誠意を込めた言葉に思案の気配を見せた。「城まで馬で駆けた方が早い」という提案にも心を動かされたようだった。
今宵のうちに副長に目を通して貰えるか否かは確約出来ないけれど、騎士の名に懸けて最善を尽くす────そう告げたところでレオナは折れた。何度も念を押し、手を煩わせることを詫びた後、店までの護衛を申し出た青騎士に伴われて居住区へと戻って行ったのだった。
騎士は畏まって頭を下げた。
「ひとつ、伝言も託されました」
「伝言?」
「はい、不可解な内容です。即位式典が済んでから届けるよう請われたが、些か気掛かりな点があるので、急ぎお渡しする、……と」
男たちは一斉に首を捻った。
「すると、彼女からの文ではない……?」
「そのようです。とは言え、誰からの預りものかについても聞き出せぬままで……至らず、申し訳ございません」
恐る恐るといった顔で一礼された赤騎士団副長は穏やかに往なした。
「良いのだよ、口の固さは彼女の美徳だ。おまえたちにも気を遣わせたようで、すまなかった」
鷹揚に言ったものの、表情には怪訝が残る。そこまで黙して見守っていたゲオルグが、青の副長に小声で尋ねた。
「……誰だ?」
さあ、と戸惑いが浮かぶのに気付いて、赤騎士団・第一隊長が口を開いた。
「我が団が懇意にしている酒場の女主人です。御存知の通り、歓楽街は外部からの介入を嫌う傾向にありますゆえ」
「ああ、情報源か」
「そこまで本格的なものでは……」
赤騎士団副長は笑いながら首を振る。
「我々が白騎士団からあの区の警邏担当を引き継いだ当時、住民の、騎士に対する不信は相当なものでした。信頼回復にあたっては、我らなりに努力を払いましたが、それでも騎士が見聞き出来る領域は限られます。そこで、どうあっても捨て置けぬ不正や非道を知ったときは教えて欲しいと頼んだのです」
もっとも、と小声で言い添える。
「彼女が店を開いて以降、得た情報と言えば、旅商人がマチルダにおける禁薬を売りさばこうとしているといった類のみでしたが」
「すると、その手紙もそうした関連か」
「前回は警邏騎士を通じて伝えて寄越したのですが……」
依然として硬い面持ちで文包みを見据えていた副長が、思い出したように青騎士に目を向けた。
「ともあれ、善意の報は軽んじられぬ。正しき判断を下してくれたな、礼を言う」
温かな謝辞が青騎士の緊張を一気に溶かしたらしい。照れ臭げな笑顔が広がった。
「御褒めいただき、嬉しく思います。では、わたくしはこれで……」
室内の一同に今いちど丁寧に礼を払った後、騎士は静かに退出していった。見送ったゲオルグが、嘆息しながら苦笑する。入室時とは打って変わって明るい顔で戻って行った騎士の胸中を理解したのだ。
酒場の女将が、こんな夜半に、在城の騎士を訪ねて文を手渡そうとする。そこに、徒ならぬ気配──例えば男女間の秘め事といったもの──を過らせてしまったのだろう。ただ、赤騎士団副長の清廉な人柄を伝え聞くだけに、想像との乖離は大きく、困惑となって無用の緊張を掻き立てていたのだ、と。
「……で、いったい何だ? そうまで急ぐ中身とは」
促された副長は、厳重に封じられた書簡を解き始めた。白紙の表包みを開いた中に入っていたのは二通の封書だ。うち、片方には告発を意味する表書きが記されている。これまた念入りに施された封を剥がして、取り出した書を開くなり、赤騎士団副長の顔立ちに険が走った。
「如何なされました、東七区で何ぞ事件でも?」
青の同位階者が控え目に問うたが、答える間も惜しむ勢いで、眼差しは紙面を追い続ける。そうしてやがて仲間たちへと戻った瞳には、得も言われぬ熱が宿っていた。
「数日前、第三白騎士隊長が、娼館の主人ほか数名に剣を振るい、怪我を負わせた」
たちまち赤騎士隊長が眉を寄せる。
「それは……、店の者側に落ち度があった訳でなく、という意味でしょうか」
副長はフリード・Yと自団の騎士、若い二人をちらと見遣り、言葉を選びながら語った。
「要約すると、こうだ。あの男は店の娘を身請けしようと考えていた。娘は拒み、主人も娘に加担した。それを恨んで主人や用心棒たちを斬った挙げ句、レオナ殿の店まで逃げた娘を追い掛け、同様に危害を加えようとした」
「……酷いな」
「まったくもって、色々やらかしてくれる御仁だ」
黒装束のフードの中からくぐもった声が、呼応する青騎士隊長の嘆息が、立て続けに起きる。再び赤騎士団副長が言った。
「口止めを受けているから、被害者や区内の人間は訴え出ないだろうが、斯様な理不尽が繰り返されぬよう、騎士団は第三白騎士隊長を厳罰に処すべきである───そういった告発状だ」
言葉が途切れると同時に、ゲオルグもうんざりと首を振った。
「これまで調べた行状や人格を鑑みれば、今まで訴える人間が居なかったのが不思議だな。それで、娘の方は無事だったのか?」
「……死者が出たとは記されておりませんな」
「娼館の用心棒は太刀打ち出来なかったのだろう? 巡回の騎士が止めたのか?」
「だとしたら報告が入っておりましょう」
小声に次いで、複雑かつ深刻な表情がゲオルグへと向き直った。
「ゲオルグ殿、この文……見ていただけませぬか」
言い差して、開かれた紙面をふわりと向ける。ゲオルグが手を伸ばす間に副長は語った。
「以前わたしはカミュー殿に請われて、グラスランドから逃げ戻った騎士の現所在を調べました」
書状に視線を落とすや否や、ゲオルグの顔も一変した。寄せられた眉根の厳しさが騎士たちの呼気を遮る。一息置いた赤騎士団副長は、低音で言い添えた。
「その折に託された覚書……、四者の名を記しただけの紙片なれど、手蹟は忘れようもなく優美なものでした。こちらの文にも、覚書と同じ文字癖が見取れます」
「そ、それでは?」
勢い込んでフリード・Yが腰を浮かす。同じく目を瞠る騎士らを一望した後、ゲオルグ・プライムは瞑目した。
「間違いない、これで合点がいった。白騎士隊長を阻んだのは……あいつか」
「偶然、店に居合わせたのでしょうか」
「そいつは少々出来過ぎな顛末に思えるな。もう片方は何と言って寄越した?」
副長は即座に今いっぽうの封を解く。
「……城を出た後、ずっとレオナ殿の世話になっていたようですな」
たちまち顔をしかめてゲオルグが嘆息する。身を隠すなら他人の事情を詮索しない花街が最良───これは一種の定石だ。どうやらカミューは、老若男女を問わず受けが良いという自らの武器を存分に駆使したらしい。
「……レオナ殿、同居人のロウエン殿も、善意から宿を提供してくれていただけで、自らの行動については一切関知していない。故に、彼女らを詮議めいた場に立たせるようなことはしてくれるな、と……そのように記されています」
ふむ、とゲオルグは眉を寄せる。
「成程、「詮議めいた場」……か。あいつを匿っていた人間が取り調べを受けかねない事態が起きる、そのための善後策という訳だ。これで仮定が裏付けられた、やはりカミューは式を狙う」
淡々と分析する男を眺め遣っていたフリード・Yが勢い込んで訴えた。
「それより、今すぐ店に行けばカミュー殿を止められるのではありませんか?」
けれどこれは、赤騎士隊長によって退けられた。
「口頭による伝言があったろう、本来この文が届けられるのは式後の筈だったのだ。今なお彼が店に留まっているなら、城に出向こうとするレオナ殿を止めない訳がない」
「あ……そうか、そうですよね」
期待が高じるあまりに薄慮に陥った自らを恥じてフリード・Yはもじもじと座り直した。一方で、青騎士団副長が、依然として難しい顔で文に見入っている同位階者を窺い見る。
「……他にも何か?」
「いえ……、文には以上の内容しか書かれていないのですが」
隣に座す青騎士団副長に紙面を渡しながら、二枚目の用箋を指した。
「この、妙に広い余白が気になりませぬか?」
はて、と青の副長は首を捻る。補足の言葉が続いた。
「冒頭から読んでください。内容的には用箋一枚で充分に終わる文章を、殊更に長々しく書き連ねて二枚にしたように取れませぬか」
女将たちを護ろうとする心情が文中に滲み出て、自然と長くなったのではないか───そう言い掛けた青騎士団副長だが、次第に表情が硬くなる。手袋を外して二枚目の用箋を軽く撫でるなり、息を殺して頷いた。
「仰せの通りですな、不自然な皺も感じられる」
「……炙り出しか」
「燭台を!」
ゲオルグの呟きと赤騎士団副長の命が重なる。手近なところにあった燭台を掴んだ若い赤騎士が、ひらひらと踊るローブの裾に難儀しつつも懸命に駆け寄った。
青の副長が両手で摘まんだ用箋の下方に炎が置かれる。一同が見守る先、余白の中にうっすらと文字らしきものが浮かび始めた。紙を焦がさぬように慎重に取り出されたそれを見た途端、ゲオルグが呻いた。
「……くそ、また裏返しのアレか。鏡は何処だ」
「殿下の衣装箪笥に据え付けのものがあります!」
フリード・Yは率先して部屋の隅に置かれた箪笥に走り、移動してきた一同を迎えるように扉内に打ち付けてある鏡を広げた。押し合いの様相で、映された紙面を覗き込んだ男たちは知らず息を呑み込んだ。良き王となれ───裏返しの文字は短くそう告げていたのである。
「これって……」
位階者たちの頭の隙間から文言を見取った若い騎士の呆然を、軽く一瞥しながらゲオルグが言った。
「カミューから皇子への挨拶状、とやらだな」
「……おれたちが見ちゃって良かったんでしょうか」
青騎士隊長が冷然と一蹴する。
「馬鹿かね、君は。この一節で彼の真意が明らかになったというのに」
「真意……ですか?」
赤騎士団副長が、文字に当てた目を細めながら小声で説いた。
「……おそらくこれは、殿下に宛てた遺言だ。彼は式典に現れる。殿下を殺すためではなく、自らの終焉の場とするために」
仰天して言葉も出ない若い部下、そしてフリード・Yを交互に見遣って彼は続けた。
「暗殺者にとって逃亡経路の確保は絶対の条件だ。厳重な警備に囲まれた場で暗殺を決行するなど、普通ならば有り得ない。逃げるという意思を放棄して初めて、それは可能となるのだよ」
ゲオルグが重く頷いた。
「あいつを突き動かしているのは、村の連中に死に遅れた自責の念だ。だから、目的を果たした後のことなど考える必要がない。捨て身で来るとは予想したが……差し違えではなく、やはり自分を捨てたか」
同じ意見に基いて談義を重ねてきた青騎士隊長を一瞥してから、首を振る。
滅びた村から連れ出した少年は、胸に灯った報復の炎によってのみ現世に繋ぎ止められた。王亡き今、その遺児が最後の報復対象だ。にも拘らず、共に過ごした僅かな時間がカミューの根幹を揺るがせた。皇太子マイクロトフと、その周囲の男たちの温かな情が、凍れる憎悪の鎧を引き剥いだのだ。
死した村人への想い、新たに抱いた想い。双方を裏切らぬため、カミューは最後の扉を開けた。最もゲオルグが懸念していた道へと踏み出したのである。
「酒場の女将は、あいつの覚悟を何がなし感じ取ったのかもしれない。だから「式後」という指示を無視したのだろう」
「……こういうことだったのですね」
フリード・Yが呆然と呟いた。
「殿下の心を受け入れ、カミュー殿が恨みを捨ててくださったらと願い続けてきました。けれどそれは、あの方にとって死を意味するも同然だったのですね」
ぐすりと鼻を啜ながら、眼鏡を外して目許を押さえる。
「わたくし、何も分かっていませんでした。カミュー殿がそこまで思い詰めているとも思い至らず、軽々しく期待ばかりして───」
「何を言ってるんです、フリード殿。期待した甲斐があったじゃないですか」
不意に、若い騎士が鼻息荒く言い放った。
「つまりその手紙って、あの人が復讐心を捨てた証ですよね? 殿下を殺せないから、自分の命を儀性にすることで騎士団のグラスランド侵攻を明らかにして、村の人に報いようとしている……そういう話ですよね。だったら話は簡単ですよ、死なせなければ良いんだ。それで全部、丸く納まります」
一瞬ぽかんとした副長二人が、ゆるゆると顔を綻ばせた。
「……まあ、そういうことになるな。自らの命と引き替えに、という点は置いても、彼が殿下の存命を望んだのは、この一文からも明白だ」
「御覧になれば、さぞマイクロトフ様も喜ばれるでしょう」
善は急げとばかりに歩み出そうとした青騎士団副長を、すかさずゲオルグが止めた。
「知らせない方が良い」
続けて青騎士隊長が言う。
「同感です。それだけではなく、これまで立てた策も伏せておくべきかと」
「カミュー殿が司祭に紛れ込んでいるかもしれないという件も、……ですか?」
不思議そうなフリード・Yに軽く首肯して、男は腕を組んだ。
「残念ながら我らの殿下は、二つの重大事に対して同時に立ち向かう器用さを持ち合わせておいでとは思えない。カミュー殿が同じ壇上に立つ可能性を示唆したが最後、詮議に集中するのは困難かと」
そう、とゲオルグが補足を重ねる。
「数はともかく、ゴルドー配下の白騎士が居合わせているのは確かなんだ。敵前に姿を晒している以上、横事に気を取られるような迂闊は避けるべきだな」
炙り出された儚い文字を今いちど見遣り、彼は青騎士団副長の手から用箋を取り上げた。
「何にしても、事前にあいつの心持ちが分かったのは幸いだった。酒場の女将に感謝しよう」
そのまま卓へと戻るなり、文を燭台の火上に翳す。
「ゲオルグ殿、何を?」
見る見る黒ずんで縮れてゆく紙片にフリード・Yが狼狽えた声を上げた。一同が集まる頃には、もはやそれは墨屑の様相を呈していた。
唖然とする騎士たちに、ゲオルグは泰然と微笑んだ。
「遺書は要らない。あの馬鹿を死なせず、事を丸く納める。これはそのための戦いだろう?」
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