廊下の至るところで軋み音が交錯した。数は十を僅かに欠くほどだろうか、司祭たちが自室を出始めたのだとカミューは知った。
先程とは打って変わって声は聞こえない。式典に向かうにあたって私語が禁じられているのかも知れず、ならば好都合だとフードを被りながら彼は思った。
鞘が動いて不自然な音を立てぬよう、黒衣の上から腕で押さえて安定させる。すべてを振り切る勢いで深く息を吸い込むと、そろそろと扉を開けた。
丁度、一団の先頭が扉前に差し掛かるところだった。
目深に下ろしたフードに邪魔され、視界が限られている。けれどその中、同様の姿の面々が小さく会釈して過ぎ行くのは分かった。素早く倣って、腹部で両手を重ね合わせてみる。これは剣を固定するのに都合の良い姿勢だった。
ほぼ一列になって進む一団の歩みを、軽く頭を下げたまま見守って、最後の司祭の後に続いて歩を踏み出す。
前を行く司祭たちは、成年男子として、ごく平均的な背丈である。服を拝借した司祭も同じほどであったらしい。細身ながら上背のあるカミューのローブの裾は、床を滑る長さに不足している。直前を行く司祭の足捌きを観察して、階段を降り切るまでの間に調整を果たした。
屈みがちの体勢は動きづらかったが、控えの間に入って司祭たちの間に紛れてしまえば、一息つける。周囲に気配を溶け込ませるのは得意だ。誰にも気付かれずに背を伸ばし、「次」に備えることが出来るだろうと考えた。
居ながらにして意識に止まらぬ、大気の如き隠遁のすべを、いつ会得したのか、カミュー自身にも覚えがなかった。復讐者として心中で牙を研ぎ続けた歳月がそれを与えたのかもしれない。
気配を殺し、足音を消して、最後の瞬間まで害意を悟られぬよう、艶やかな笑みで武装して。
そうして敵に刃を突き立てる日を幾度も夢見た。
育て続けた恨みの念を、捨てる日が来ようとは、想像だにしなかったのに───
一階北側、城に近い通用口の外には警備の青騎士が陣取っている筈である。脳裏に図面を呼び出しながら、廊下を進んだ。
その扉の前では足が止まり掛けた。
厚い戸板の向こうに彼が居る。すべての準備を整えて式の開始を待つ、第十八代目のマチルダ皇王が。
馬鹿正直で、大雑把で、笑顔まで厳つく、けれど優しかった男。これ以上ないくらいにガチガチに緊張しているのだろうと想像するなり、口元に笑みが上った。
マイクロトフ───わたしの価値観を尽く壊した、風変わりな皇子様。
おまえは面白い男だった。「王様」と冷やかし調子で呼んだなら、どんな顔を見せただろう。あの見慣れた渋面で「揶揄うな」とぼやいて、それから表情を緩め、傍に寄るよう求めただろうか。
王になっても、早朝から起き出して鍛錬に向かうのか。おろおろと追い掛ける従者や、迎える騎士たちの困惑顔にもお構いなしで、皇王家の宝を振り回して。
書類と格闘する不器用な姿で宰相の溜め息を誘い、重要な会談の席では必死に美麗な言葉を探す。窓の外を見ては城下を思い、束の間だった騎士生活を懐かしく思い返す若き王。
そこでカミューは笑みを納めた。前部の司祭たちが一室へと消え始めたのだ。歩みの終着地、今ひとつの控えの間であった。
いざ足を踏み入れてみると、外で思っていたより大きな部屋だった。先に入室した司祭らは、特に並んでいるようには見えない一塊の状態で立ち尽くしている。カミューが扉を締めて輪に加わろうとしたとき、廊下に靴音が響いた。
「ああ、良いですよ」
扉に手を掛けていたカミューをさらりと押し止めたのは、覚えのある男、司祭長マカイであった。手振りで下がるように命じるなり、彼は自ら扉を締めた。後ろ歩きでしずしずと後退したカミューが、居並ぶ司祭の端に連なるのを待って、マカイは一団を見渡せる位置に立った。
───式前に司祭長が何事か論ずる運びになっているのか。
このあたりの詳細は聞いておらず、すべて他の司祭たちに倣うしかない。僅かに早まる鼓動が不快に耳を打つ。それでもカミューは自らに平静を命じて、周囲の動向を見極めるために感覚を澄ませた。
マカイがゆっくりと口を開いた。
「忌まわしくも殿下を害そうとする計画が進行しているのは食堂でも説いた通りですが」
前置きからカミューをドキリとさせる言が続く。
「事態は予想以上に切迫しているようです。このため、殿下と騎士団側から要求がありました。これに添って、少々の変更を加えます」
ざわ、と一同が色めき立った。ごく少数だが、隣と囁き合う声も上がる。
中でもカミューが受けた衝撃は強く、一瞬だけ目の前が揺れた。胸中で自制を叫び、震える四肢に冷静を命じる。
「……と言っても、諸君には然して留意する点はありません。最初に佩剣の儀を行うのです。つまりですね、騎士の方々も厳重に目を光らせているけれど、マイクロトフ殿下が武器もなく壇上で御姿を晒す時間は短い方が良いという訳です。諸君も知っての通り、殿下は卓越した剣腕をお持ちですから、もし矢か何かを射掛けられても、剣さえあれば凌げるだろうという判断なのです」
成程、と微かに同意する声がした。
「正統なる式順が果たされない……無論、司祭として本意とは言い難い。しかし、殿下の御無事があってこその御式です。故にわたしは、この意向を受けました」
一人が挙手してマカイの注意を引いた。
「いきなり剣をお渡しするのですか、それでは納まりが悪くないでしょうか」
「ええ、そこは即位訓辞を織り交ぜるなりして、適度に体裁を整えようと思います。受けた以上は、わたしも司祭長の名に恥じぬよう、誠心誠意つとめます」
黒装束の間に了解の一礼が広がっていく。カミューも倣って頭を下げた。マカイが再び口を開いた。
「念のため復習っておきましょう。これも一つの変更点になりますが、わたしもこちら側から本堂に入ります。わたしが祭壇への階段を上り始めたら、扉を出て、続いてください。他は万事、打ち合わせ通りです」
ということは、とカミューは冷えた汗を拭いたい心地を抑えて考える。
狼狽えるほどの変更ではない───ただ、早まっただけだ。
マイクロトフに剣が渡る前に終わらせると決めた。その儀式が最初に来るなら、猶予はない。晴れ姿を堪能する暇がなくなったな、と何処か虚ろに思うカミューだった。
皇子を害する計画、それが今の自分を指しているのは間違いない。マイクロトフ周囲の騎士たちが、今日の襲撃を想定して警備を敷くのは当然だが、司祭を巻き込み、式の流れを変えるとは予想していなかった。
まあ、仕方がない。立ち位置や動作の変更でなかっただけでも、良しとせねばなるまい。
質問は、と一同を見回すマカイには沈黙が答えている。俯き加減を守ったまま、カミューは小さな吐息を洩らした。
部屋に入ったときから続いていた楽の音が、不意に途切れた。それを合図とするかのように、マカイが真っ先に扉へと向かい、つと足を止めて振り返った。
「では、整列を」
鼓動が一際に高鳴った。正念場だ。与えられた順番を、周囲の動きのみで悟らねばならない。
素早く一団に視線を走らせる。だが、彫像もどきに立ち尽くす司祭の中から進み出る者はない。そればかりか、互いを窺うようにフードに包まれた頭が揺れ始めた。
───これは。
カミューは唇を噛み、ゆるゆると歩を進めてみた。根が生えたように動かぬ司祭の間をぬって、更に一歩。そこでマカイがにっこりした。
「緊張しましたか?」
身体の硬直は如何ともし難かった。擦り替わった司祭は、列の先頭を任された人物だったのだ。カミューが踏み出すのを待っていたかのように、一団から一人が抜け出し、残りの司祭もゾロゾロと列を成していった。
マカイの前に立った刹那、激励なのか、彼はカミューの肩に手を乗せた。
「大丈夫、落ち着いて。裾捌きには気を付けるのですよ」
無言のまま、弱く一礼する。張り詰めた神経が悲鳴を上げそうだった。
先頭では、動作を見覚えるための例が失われたも同じではないか。司祭の居室と整列順序との関係を軽んじた白騎士隊長、その薄慮を心底恨んだ瞬間だった。
止んでいた音楽が、これまでを上回る音量で戻った。未だ閉ざされた扉の先、オルガンと弦楽器が、穏やかな、だが壮麗な曲想を展開している。
やがて堂に続く道が大きく開いた。
深い礼を取った姿勢で開け放たれた扉を支えているのは青騎士だ。その前を、分厚い書を手にしたマカイが、なめらかな歩調で通り過ぎる。
フードの奥の琥珀を光らせて、カミューは司祭長の歩みを見守った。
立場の違いはあっても、動きそのものに大きな違いはない筈だ。すぐ後ろの司祭だけは、何らかの違和感を覚えるかもしれない。けれど、整然と席についた列席者の注意を引いてまで、呼んで咎めようとはしないだろう───そう開き直るしかなかった。
数歩行ったところで、マカイは鋭角に曲がった。祭壇への短い段の最初に片足が掛かる。眦を決してカミューは歩き出した。
黒衣の中の愛剣を、腹部で組んだ両手でしかと押さえ込み、揺れる裾を軽やかに蹴り退けて。
この日のために用意されたのか、真新しい緋色の敷物を踏み分けて、最後の戦場に向かう孤高の傭兵。
視界の多くを埋めるフードの先、見知った顔を探す余裕はなかった。せめてゲオルグだけでも確認しておきたかったが、彼のことだ、目につく位置は避けて待機しているに違いない。
ここまで来ては、すべてを運に委ねるのみだ。たった一つの目的を果たすまで、粛然として儀式に臨む司祭を演じ抜くしかないのである。
マカイが壇上の演台に書を置くのと、カミューが階段を上り始めたのはほぼ同時。異変は、その直後に生じた。
後方に続く足音は、敷物に吸い取られ、確かに弱かった。だが、気付かぬ聴覚ではない。カミューと次の一人を除いた歩みが止まっていた。三人目以降の司祭は、階段に上る手前で、新たなる列を作り始めようとしていたのである。
祭壇上、壁際に進もうとしたところでそれに気付いたカミューは、呆然と一同を眺め下ろした。自然、歩調が鈍る。生じた隙を衝いて距離を詰めた背後の司祭が、戸惑う耳元に低く囁いた。
「構わず、そのまま進んでください」
覚えのある声。
皇子同様、好意を隠そうともせず、明るく呼び掛ける、この声は───
禁を冒して振り返り掛けたカミューと、堂内の衆目との間に立つ壁さながらの位置を取った人物は、ほんの気持ちだけフードを捲って顔を覗かせ、次いで懐かしげに微笑んだ。
「……やっと会えた。お久しぶりです、カミュー殿」
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