───これも一つの縁だったのだろう。
若い娼婦の笑顔を反芻し、カミューは静かに目を閉じた。
城に届ける文をレオナやロウエンに預けなかった最大の理由は、二人が「二通目」に記された当事者だからだ。
仮の住まいを提供してくれただけの第三者。匿ったのではなく、同調した訳でもない、何も知らない無辜の民。文にはそう綴ってある。
「彼ら」は正しく理解してくれるだろうけれども、そんな文を本人に届けさせることには頓着が残る。あの娘が言ったように、レオナを通じて店に顔を出す騎士に託すという手も過ぎったが、出来れば完全に二人と離れたところで事を進めたかった。
もはや時が残されておらず、どうしたものかと思案に暮れていた矢先、ロウエンが娘の話を持ち出した。未だ運は、味方する気を残していたらしい。そうしてカミューは、最良の「協力者」を手に入れたのだった。
最初は戸惑いがちに文を受け取った娘が、次第に高揚に染まっていく様は、苦い痛みを疼かせた。
秘めた思惑を知らぬまま、真っ直ぐな好意に輝く瞳。皇子と周囲の男たちが向けてきた色、同じ眼差し。
またしても信頼を利用した。目的のために誘導した。
確かに文の一片には、彼女たちの庇護を請う旨が記してある。
でも、今ひとつは。
───自分の都合だ。引き擦る未練が書かせた文なのである。
必ずしも純粋な頼みではなかった。決して断わらないとの計算もはたらいていた。
けれど彼女は、そんな自分を優しいと言ってくれた。
だから許そう。
利用したのではなく、頼ったのだと、最後の甘えを自らに許すのだ。
痛みを感じる心は死に絶えたと思っていた。
手段を選ばず進むだけの強さを得たと思い込んでいた。
なのに、何時の間にか迷いを抱え、傷つけることを恐れている。
何もかもあの男の所為だ。
あの男によってすべては変わった、変えられてしまった。
「……責任は取って貰わないとね、皇子様」
忍び笑いで呟いて、カミューは室内を一望した。
纏っているのは、ここへ来たときの衣服だ。ロウエンから買い与えられた品々は、夕食後に洗い清めて干しておいた。
ここ数日は殆ど使わなかった寝台を軽く整え、文机の引き出しから即位式の警備案書を抜く。それだけで──干した衣類に目を瞑れば──部屋に、カミューの痕跡は残らなかった。
ずっとそうだった。街や村を流れ歩く生活に慣れ、いつ旅立っても不都合ない備えが染み付いた。それでもゲオルグが一緒だった頃は、次の街を夢想して心弾む日もあったのだ。
ゲオルグ・プライム───摘まれる寸前だった命を拾って、生きるすべを教えてくれた人。
最後の遣り取りは、常に意識のうちにあった。
もしも志かなわなかったときは復讐の完遂を、そう持ち掛けたカミューに、彼は「後の始末はつける」とだけ応じた。
それが単なる了承でないのは漠然と感じている。あれだけ復讐を否定していたゲオルグだ、弟子が懇願したところで信念を曲げる人物ではない。
城から逃亡を果たした後も、皇子は幾度か街に出ているらしい。ゲオルグは、標的の横からカミューが消えた意味を正しく読み解くだろう。
けれど皇子の近辺に変わったことがあったとは聞かない。ましてゲオルグは皇子の従者と面識がある。
そこから推測される事態は一つだった。
ゲオルグは皇子の側に付いた。彼が言った「後始末」とは、道を外した弟子の刃を折ることなのだ。
本当に慈しんでくれていたのだと、今になって切なく思う。
憎悪を滾らせ、復讐を叫ぶ身を、大きな胸に包み込み、幾度も背を撫でてくれた男。時に厳しく、時に案ずる双眸で、見守ってくれていたゲオルグ・プライム。
彼ならば間違いない。
彼が皇子の許に居るなら、それは最後の幸運だ。
寝台脇に立て掛けてあった愛剣を取り上げる。最後にもう一度だけ短い住処だった部屋に視線を巡らせて、カミューは静かに扉を抜けた。
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