最後の王・103


血の気のない顔が硝子越しの空を見遣っていた。
窓辺に寄せた椅子に座っていた娘は、店主の呼び掛けにのろのろと顔を向ける。次いで、店主の背後に佇むカミューに気付くなり、虚ろだった面差しに変化が生じた。
「わざわざ見舞ってくだすったんだよ、お通しして良いね?」
事件以来、カミューを恩人として崇め讃える店主の弾んだ声。娘は慌てて羽織るだけだった毛糸の上着に袖を通し、前を掻き合わせながら向き直った。そのまま立ち上がろうとするのを軽く制して、店主はカミューに深々と頭を下げる。
「そいじゃ、あたしはこれで……。何かあったら、遠慮なく呼んでくださいな。おっと、いけない。茶でもお持ちしましょうかね」
「ありがとうございます。ですが、すぐに失礼しますので、御気遣いなく」
「そうなんですかい? まあ……でも、ごゆっくり。今夜は店も開けないんでね、皆のんびりしたもんですから」
「あっ、あの……」
娘は店主を引き止めようとしたが、カミューに向けて好々爺じみた笑みを振り撒いていた男には気付いて貰えなかった。パタンと扉が閉まり、部屋には若い二人が残された。
寝台と、狭い部屋には不似合いな大きな衣装戸棚、そして粗末な化粧机。それが彼女の財のすべてであるようだ。カミューは戸口に立ち尽くしたまま微笑んだ。
「突然お訪ねして申し訳ありません。少しだけお話しさせていただきたいのですが……構いませんか?」
そこで娘は初めて我に返ったように瞬いた。慌てて立ち上がって室内を見回す。
「ええと、椅子……」
だが、自身が座っていたそれが唯一だと思い出したのか、急いで横にずれた。
「どうぞ座って、安物だから座り心地は良くないかもしれないけど。でなければ、そっちのベッドに───」
言い差して、瞬時に真っ赤になる。
「あ、あのね。それは違うの、座ってくれても大丈夫なの。客部屋は別にあるから、「仕事」には使ってないから、だから……」
「レディ」
カミューは苦笑を浮かべた。
「そんなに気を遣わないでください。それより、随分と痩せてしまわれましたね。食が進まないと耳にしましたが……」
言いながら歩み寄り、持っていた小鍋を娘に向ける。
「ロウエン殿からです。こういう料理なら、食べていただけるのではないかと」
「ロウエンが?」
カミューが蓋を開けると、娘は鍋を覗き込み、儚く笑んだ。「美味しそうな香り」と独言を洩らし、続いてカミューを見上げる。
「一緒に来たんじゃないの?」
「ええ、わたし一人です。お願いして、代わっていただきました」
「それじゃ、あなたがここまで持って来てくれたの? そうやって……?」
長い黒衣を纏い、凛とした剣士そのままに佩刀し、かつ小さな片手鍋を握る青年。ちぐはぐな様相が可笑しかったのか、娘の緊張は一気に溶けたようだった。
カミューは柔らかく目を細めた。
「昼中だけに人通りは少なかったけれど、行き過ぎる人が揃って振り返るので、流石に顔を隠しましたが。ここへ置きますね。食べられそうなら、温め直して夕食にでもなさってください」
鍋を化粧机に乗せたカミューは、娘に座るよう促した。聞いていたほど悪い状態には見えなかったが、やはり顔色が優れない。彼女は寝台と椅子を交互に見遣った後、寝台を選んで腰を下ろした。おもむろにポツリと呟く。
「───髪」
「え?」
「染めたのね。初めて会ったときは、確か薄い栗色だったでしょ?」
女性というものは、そうした変化に聡いのだなと感心しながら、黒くなった前髪を指先で摘まんで首を傾げる。
「ええ、ちょっとした気分転換に。変ですか?」
「ううん、似合ってる。ただ……前の色の方が「異国の人」って感じだったかしら」
即座に言って、それから娘は俯いた。
「この前は……染めた後だった? 覚えてないの、あなたのことも見ていた筈なのに」
完全に気詰まりがないとは言えないものの、娘が訪問を厭っていないと察したカミューは、窓辺の椅子──化粧机用なのか、丸椅子だった──を彼女の傍近く移動させて腰を落ち着けた。
刹那、娘は顔を上げて、悲しげに微笑んだ。
「カミューさん……って言ったかしら。ごめんなさい、あたしの方から訪ねて行かなきゃいけなかったのに……あなたみたいな人がこういう店に来るのって、抵抗あったでしょ?」
カミューは幾度か瞬いて、ゆるりと首を振った。
「誤解なさっておいでのようだ、そんなに聖人君子に見えますか? 御邪魔する前、ロウエン殿に「誘いに乗っちゃ駄目だ」と散々念を押されましたよ。あれがなかったら、ちょっと危なかったですね。こちらは魅力的なレディ揃いでしたから」
ロウエンの言い付け通り、先ずは店主と対面した。目当ての娘が自室で休んでいると聞き、案内して貰うまでに漕ぎ付けたが、来訪を知って集まってきた他の娼婦たちから次々に袖を引かれたのだ。
ロウエンの懸念はこれだったのかと、初めて理解した。
女たちは、店主や用心棒、そして「仕事仲間」の敵を撃退した恩人を、彼女たちなりの手法で持て成そうと考えていたのである。ただ、自身の容貌が女たちの熱意に拍車を掛けていたとまでは、思案が及ばぬカミューであったが。
冗談めかして言った途端、娘の作り笑顔が僅かに明るくなった。ふふ、と忍び笑う。
「この店の人たちはあなたに夢中なの。女だけじゃないわ。旦那さんも用心棒の兄さんたちも、すっかりあなたの崇拝者なのよ」
「レディは歓迎しますが、男性は遠慮させていただきます」
今度こそ娘は吹き出した。暫し肩を震わせてから、背を正して座り直した。
「改めてお詫びするわ。あたしの方から御礼に行かなくてごめんなさい。お店まで歩けないほど具合が悪かった訳じゃないの、ただ……」
───頼ったばかりに、レオナやロウエンを危険に晒した。幸い事無きを得たが、一歩間違えば取り返しのつかないことになっていたかもしれない。それが、レオナらの前に顔を出すのを躊躇わせている理由だった。
「レオナ姐さんは、あたしの話を真剣に聞いてくれた。ロウエンだって、自分のことみたいに怒ってくれたわ。なのにあたし、あのとき考え無しにお店に逃げ込んだりして……。あなたが助けてくれなかったら、きっと姐さんたちもあいつに酷い目に遭わされていたわ。二人とも、あたしに関わったばかりに厄介事に巻き込まれたのよ。どんな顔をして会いに行けば良いのか分からなくて……「寝込んでる」って噂が立ったのを良いことに、今日まで過ごしてしまったの」
なのに、と化粧机の鍋を見遣る。
「心配してくれているのね。あたしには自由になるお金もないし、夜は……その、仕事があるから、お店も手伝えない。何も……本当に何も返せないのに」
娘は両手で顔を覆った。涙がぽとりと指の隙間をぬって零れ落ちるのをカミューは見た。
「相談に乗って貰って、庇って貰って……だけど、して貰うばかり。迷惑を掛けるだけなの。レオナ姐さんたちに何も返せない。あなたにも───助けてくれたのに、何もあげられないの」
「もう、いただきました」
静かに言うと、娘は泣き濡れた顔を隠すのも忘れて手を外した。
「えっ?」
「……焼菓子。遅くなってしまいましたが、あの騎士の件で良ければ、わたしからの返礼として受け取ってください」
「え、でも……」
暴力から救い出された娘としては、レオナらへ贈るついで──以上の感情も少しはあったかもしれないが──の菓子では比にならないと考えたのだろう。戸惑い、言葉を探す顔にカミューは笑み掛けた。
「同じです」
「え?」
「わたしも同じです。何ひとつ持たず、与えられても返せない。だから……分かります。わたしもレオナ殿たちに、ずっと同じ負い目を抱いてきましたから」
カミューは黒衣の袖口を伸ばして娘の濡れた頬を拭った。驚いたように目を瞠る娘に「この通り、お貸しする布もない」と苦笑う。
「レオナ殿はわたしを「遠い親戚」と言ってくださっていますが、本当は、店のゴミ置き場で拾われただけの居候です」
「ゴミ置き場?」
「ええ、この店の裏手にもあるでしょう? 熱を出して、ゴミの傍で行き倒れていたわたしを見つけて、助けてくださったのです」
娘はまじまじとカミューを凝視する。語られた光景を想像するかのような顔つきだった。
「すぐにも出て行こうとしたのですが、「体調が戻るまでは」と言ってくださって……でも、完治したところで行く当てもなくて。「出て行け」と言われないのを幸いに、甘え続けてきたのです。日々膨らみ続ける恩に報いるすべもなく、それはもう、途方に暮れる毎日で」
最後の一節には自虐の気配が滲んだ。カミューは小さく首を振り、口調を改めた。
「何故、とレオナ殿に問うたことがあります。どうして何も返せない身に良くしてくれるのか───わたしの知る世界では、行動には対価が払われるのが普通でしたし、無償の善意というものは、身内や、ごく親しい人間のみに与えられるものだと考えていましたから」
だが、レオナはさらりと言ったのだ。理由などない、と。
助けた誰かが、その温みを覚えていて、いつか別の誰かを助けたら、それが彼女にとっての見返りになるのかもしれない、と。
「姐さんが……」
呟いて、娘はうっすら微笑んだ。
「そうね、姐さんだけじゃなくロウエンも……二人とも、そういう人だわ」
「御二人はわたしを拾って、店に置いてくださった。何とか恩に報いたいと思っているところへ、あの白騎士が現れた。結果、わたしは少しだけ彼女たちの役に立てました。世界は、そうやって回っているのかもしれませんね」
「……あたしみたいな女にも、誰かを助けられると思う?」
「貴女が、彼女たちへの感謝を忘れなければ……きっと」
色の失せた頬に、やっと本心からの笑みが広がり始めた。そうね、と自身に言い聞かせる口調で零して、目許を擦る。
「あたし、馬鹿ね。あれこれ考えていないで、心から「ありがとう」って言うのが先だったのに。あなたにも……改めて言わせて。助けてくれて、ありがとう」
「お役に立てて光栄です」
片手を胸に当てて、軽口めいた言い回しで一礼すると、娘はくすくすと笑い出した。最初のうちとはまるで異なる、打ち解けた様相だった。それを見届けたカミューは、姿勢を正して切り出した。
「実は……今日お伺いしたのは、お加減が気になったのもあるけれど、お願いがあったからなのです」
「あたしに?」
「はい。こんな話をした後に、頼み事を持ち出すのは心苦しいのですが」
娘は束の間瞬いて、花開くように笑った。
「あたしに出来ることがあるの? 嬉しい、何でも言って」
騎士の殺意から助けられた恩と菓子では、どうあっても釣り合いが取れないと感じていたらしい娘は、乗り出すように先を促した。その真っ直ぐな視線から目を背けるようにして、カミューは懐から一通の書状を取り出す。宛名も署名もない、素っ気ない包みを一瞥した後、ゆるゆると娘に差し出した。
「城まで行かれるのがお辛いようなら、どなたかに託されても構いません。この手紙を、赤騎士団の副長殿に届けていただきたいのです」
「副長様に?」
娘は細い眉を寄せた。
「だったら、レオナ姐さんに頼んだ方が早いんじゃないかしら。お店には毎日のように騎士様が立ち寄るらしいわよ?」
「……出来れば、レオナ殿を介したくないのです。彼女と副長殿の関係を変に邪推するものがあってはいけないので」
ああ、と納得顔が頷く。
「あの男もそんなことを言ってたわね。馬鹿みたい、副長様は愛妻家でいらっしゃるって噂だし、姐さんを見ていれば、そんなこと有り得ないって分かるのに」
「ええ。でも……誰もがそう考えるとは限りません。下手に文など預けて、レオナ殿が不快な思いをされるようなことがあれば、わたしには償えません。だから……」
───いま少し娘が深慮すれば、少なからずの怪訝を抱いただろう。
レオナの店に出入りするのは巡回する赤騎士だ。彼らが、そんな下衆な勘繰りをはたらく筈はない、と。それ以上に、他者に託す前に、何故カミューが直接城へ赴かないのかを疑問に思っただろう。
けれど、頼られた喜びが先に来た娘には、そこまでの考えは及ばなかった。受け取った包みとカミューとを交互に見詰め、しっかりと頷いた。
後に彼女が抱きかねない疑問を、多少なりとも薄めるために、カミューは続けた。
「あの白騎士隊長、今は足が遠のいていても、いつまた舞い戻ってくるか分かりません。ロウエン殿も案じておいででしたが、わたしも同じ意見です。ああいう手合いが心底から改心するのは難しい。貴女方のような当事者よりも、第三者からの告発の方が、後の面倒も少ないでしょう。この手紙に先日の一件を記しておきました。きっと手を打ってくれる筈です」
「あ、でも……」
娘は躊躇いがちに言葉を挟んだ。
「あいつ、言ってたわ。白騎士の方が赤騎士よりも位が上だから、訴えたところで手出しは出来ない、って……」
「騎士団単位の序列ではそうかもしれませんが、あの男は根本を履き違えています。騎士隊長は副長より下。マチルダの人間であれば、子供でも知っているでしょうに」
「でもね、「自分は白騎士団長のお気に入りだ」っていつも自慢していたわ。あいつは副長様より下でも、白騎士団長が出てきたら───」
「それは騎士団の歪みですね」
さらりと往なして、カミューは黒い染め髪を掻き上げた。
「一つだけ注意していただきたいことがあります。その文は明日、新皇王が即位した後に副長殿の手に渡るようにしてください。その頃には、貴女の案じていらっしゃる点も解決しているでしょう」
「……どういうこと?」
「騎士団は変わるのです」
琥珀の瞳が穏やかな色を放った。
「新たに即位する皇子は心正しく、この区を護る騎士たち同様、民の苦難を捨て置ける人間ではない。即位と同時に、彼は改革に着手するでしょう。誇りを失った騎士は消え、王と同じ志を持つ者だけが残る。あの白騎士が縋ってきた歪んだ庇護も失われ、二度と貴女たちを脅かすことはなくなる筈です」

 

───そうだ、彼はそういう王になる。
彼の許、騎士たちは正しき道を進む。遥か草原の地まで聞こえてきた噂そのままに、弱き者のためにのみ剣を振るう一団で在り続けようとする。

 

確かな声音が娘を戸惑わせたらしい。控え目に彼女は問うた。
「……皇子様を知っているの?」
カミューは笑って首を振った。
「噂に聞いた限りでは、そういう人物でした。でも、レオナ殿たちも言っておいでです。新しい王が立てば、これまでの歪みは正される。わたしも……そう信じたい」
ただ、と小さく言い添える。
「騎士団副長という責任ある立場の人物では、今は即位式を控えて手いっぱいの筈。だから式の後、それもあまり日を置かずに届けるのが最良だと思うのです」
そうね、と相槌を打って娘は頷いた。
「分かったわ、任せて。明日の夜にでもお城に行くわ。お式さえ終われば、副長様も少しは落ち着いていらっしゃるわよね。大丈夫、お城の門は青か赤の騎士様が番をしているから、きっと快く取り次いでくださるわ」
すべきことが与えられたためか、目に見えるほど、娘には生気が蘇っていた。初見とはだいぶ印象の変わった表情が言う。
「助けてくれただけじゃなく、後のことまで気に掛けてくれるなんて……本当にありがとう」
カミューは曖昧に微笑んだ。

 

彼女が知る機会はないだろう。封の中、白騎士の所業を記した赤騎士団副長宛ての書状の他に、もう一通、別の文が忍ばせてあることを。
感謝するのはこちらの方だ、と心の奥で呟いた。
これで伝えられる。
偽りを捨て去った最後の思いを残すことが出来る───

 

「皆が「仕事抜きでも」とあなたに夢中になる気持ちが分かったわ」
不意に言われて、カミューは我に返った。
「は?」
「見た目が素敵なのは勿論だけど、騎士様みたいに紳士的で、でも何か……ちょっと違うの。比べたら気を悪くするかもしれないけど、店に来る男たちとも全然違う。あたし、男の人とこんなふうにお喋りしたの、初めて。あなたみたいにちゃんとした人と面と向かったら、引け目とか惨めさとかばかり感じちゃって、とても口なんて利けないと思っていたのに」
そうして、悪戯っぽく付け加える。
「このままでいたら、身の程を忘れて、好きになっちゃいそう」
そう言って笑う娘は、これまでとは別人のように華やいでいた。重く胸を塞いでいた自責や負い目が薄らぎ、本来持つ気質が覗くようになったのだろう。心情ひとつで人は変わるものだと、驚きをもって見詰め、カミューは唇を緩めた。
「とても光栄ですが……生憎と、決めた人がいるのです」
あら、と娘は瞳を輝かせた。
「残念。どんな人なのか、聞いても良い?」
「どんな、と言われても……。そうですね、一言で言うと馬鹿ですね」
「……馬鹿?」
虚を衝かれたとしか言えない響き。カミューは朗らかに続けた。
「ええ。馬鹿正直な、お人好し。何でも生真面目に受け取って、事あるごとに深刻に考え込んで……だからいつも眉間に皺が寄っている」
「……あの、その人って……綺麗な人、なの……?」
「さあ、そういう目で見たことはなかったな……。ああでも、生き方は綺麗でしたね。曲がったことが大嫌いで、他人のために本気で憤ることが出来る人でしたから。自分が儀性になってでも他人を護ろうとしたり、詰まらないことに逐一感謝してみたり……悪意とか、人が抱える闇といったものとは決して相容れない」
そこでカミューは静かに瞑目した。
「……いつも真っ直ぐにわたしを見詰めてくれました。その瞳が、眩しかった。一緒に居れば、こんなわたしでも生き直せるかもしれないと思えたほど」
「生き直す……って?」
「貴女の目にどう映っているかは分かりませんが、わたしは道を外した人間です。目的のためなら平然と他人を欺けるし、利用することも躊躇わない。誠意を込めて差し伸べられた手も振り払えるし、情もなく笑ってみせることも出来る」
すると娘は青白い頬を歪めて、きつく首を振った。
「やめて、あなたはそんな人じゃないわ。優しい人よ、レオナ姐さんやロウエンだって、絶対に同じように言うわ」
カミューは寂しげに微笑んだ。
「そう見えるのだとしたら、傍に居るうちにその人の影響を多少は受けたのかもしれませんね。何しろ、筋金入りの善人だったから……わたしも、外れてしまった道に少しだけ戻れたのかもしれない」
そうして、窓の外を見遣った。硝子の向こうに広がる空は、あの王城まで続いている。
「……好きなのね」
気を取り直した口調で娘が言った。
「おかしなことばかり言うから、どんな変わった人かと思っちゃったけど……つまりは、惚気ているのね?」
「ええ、まあ」
「素敵だわ。その人と一緒になるの?」
邪気のない一言が、ぐさりとカミューに突き刺さる。返答に詰まったのを見るなり、慌てて娘は口元を押さえた。
「ご、ごめんなさい。あたし、調子に乗って、立ち入ったことを……」
いえ、とカミューはゆっくりと首を振った。
「構いませんよ。どんなに心を寄せても、それは叶わないのです」
躊躇を浮かべつつ、娘はおずおずと問うた。
「……御両親に反対でもされているの?」
沈黙を、肯定と取ったらしい。俄然、声が奮い立った。
「だったら大丈夫よ。あなたみたいに素敵な人、いつまでも反対なんか出来やしないわ。好き合っているんでしょ? だったら諦めちゃ駄目。そうよ、いざとなったら駆け落ちする手もあるじゃない」
「……レオナ殿と同じことを仰る」
「そうよ。御両親にはお気の毒だけど、子供でも産まれたりしたら、孫可愛さに許してくれるわ。物語とか読んでると、大抵そうやって終わるもの」
それは無理だな、と苦笑混じりに胸中で応じるカミューだ。こと恋愛に関しては、女性の方が肝が座っていると、妙なところで感嘆を抱きながら。
「少し違うのです。わたし自身が、その人の手を取れない。そうしてしまったら、自分で自分を許せなくなるのです」
「……分からないわ」
「巡り合わせが悪かった、という一言ですね。自分がそんな落とし穴にはまるとは思ってもみなかったけれど、どうやら恋愛運には恵まれなかったらしい」
今や思い出の形見とも言える品と化した漆黒の上着の胸に手を当てて俯く。
「生きている間は道が重ならない。もう……諦めもつきました」
そんな、と必死に言葉を探しているらしい娘に笑み掛ける。
「わたしは今宵、レオナ殿の店を出ます」
「えっ?」
「文の件、どうか宜しくお願いします。お身体に気を付けて。一日も早く、貴女が望まれる人生に立ち戻れるよう、お祈りしています」
「ま、待って」
勢い込んで娘は遮った。
「お店を出るって……さっきは「行く当てがない」って言っていたのに、何処へ……」
そこまで言って、はっと口を閉ざす。またしても人の事情に踏み込んでしまったと、そんな自制がはたらいた顔だった。困ったように視線を移ろわせる娘に、カミューは返した。
「少しだけ寄り道をして……それから、故郷の村へ帰ろうと思います」
「故郷?」
「ええ、わたしはグラスランドの人間なのです。随分と遠くまで来てしまったような気がする。緑の草原と、乾いた風が懐かしい。あの地へ───帰ります」
短い沈黙の後、そう、と弱い呟きが洩れた。
「そうなの……せっかくお話し出来るようになったのに、寂しいわ。でも、故郷に帰るのは止められないものね」
待っている人も居るのだろうし───カミューには、そんな娘の心の声が聞こえた気がした。
「また会える?」
この問い掛けには、そっと首を振る。
「……残念ですが、叶わないと思います。最後にお別れが言えて良かった」
言いながら立ち上がり、倣って寝台から腰を上げた娘の、微かに潤んだ瞳を覗き込んだ。何事か言い掛ける唇を指先で押しとどめ、目を細める。
「わたしを「優しい」と言ってくださいましたね、……嬉しかった。優しさなどというものは、残らず失ったとばかり思っていたから。今もそれがわたしに在るなら、この街で芽生えたものなのでしょう」
「カミューさん、何を───」
呼び掛けに構わず、そのまま丁寧に一礼する。次に顔を上げたときには、娘が知る華やかな笑みが戻っていた。
「ロウエン殿の力作、ちゃんと召し上がってくださいね。見掛けはやや豪快ですが、真心がたっぷりと詰まっていますから、きっと力が出ますよ」
最後に、娘が両手で胸に押さえ込んでいる文の包みに今いちど目を向け、ゆっくりと踵を返す。背後から名を呼ばれていたが、もう振り返らなかった。
店の中、主人や娼婦たちの引き止める声にも軽い礼だけで応じ、闇迫る往来に出る。襟元を引き上げて顔を隠し、束の間の安息を与えてくれた女たちが待つ店へ、カミューは重い足を踏み出した。
 

 

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どーでも良いけど、
娘さん同士のお喋りに見えるのは何故。

 

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