昼近くなった頃、廊下を挟んだ扉が微かに鳴った。どうやらロウエンの部屋のようだ。同居人の眠りを妨げぬよう心掛けているのか、彼女にしては抑えがちな足音が、そのまま階下へと下りて行く。
筆を置き、疲れた目許を、これまた痺れた指先で揉み解した後、カミューはほっと息をついた。
記し終えたレシピの厚みは相当になる。物心ついて以来、これほど一つの作業に打ち込んだのも久々であるように思われた。
考えてみれば、と自嘲が零れる。
故郷の村を出てからというもの、何をしていても敵への憎悪が渦巻いていた。剣腕を磨いているときも、そして無聊を埋めるために書物を開いているときでさえ、いずれ討ち果たす男たちの幻に捕われていたような気がする。
第二の人生に役立つようにと、ゲオルグ・プライムはカミューに礼儀作法を仕込んだが、それも、マチルダ王の遺児に近づく際の武器になるかもしれないと考え、受け入れたようにも思う。
「可愛くない連れ」と、冗談混じりにゲオルグは幾度も口にしていたが、本当にそうだったのだと、今になっては認めざるを得なかった。
階下から鍋や皿を扱う音が聞こえる。少しして、カミューはふらりと立ち上がった。未だ眠る女将を気遣い、ロウエンと同じように物音を立てぬように部屋から出る。
ここ暫く、慢性的な睡眠不足が続いていた。憑かれたように机に向かい、気付けば紙面に伏したまま数刻が経っていたという日が殆どで、女たちが整えてくれた気持ちの良い寝台も、まるで用を足していない。
傭兵として数年を過ごしたカミューには、肉体の酷使は苦にならない。精神的にも、進む先を決してからは、自身でも意外なほど落ち着いていた。それでも階下に向かったのは、ひょんな経緯から自分を拾い、さながら家族のように接してくれた女たちへの愛惜だったかもしれない。
───洗い物でも残っているなら、手伝おう。
そんな思いで階段を下り切ったカミューは、厨房に立つロウエンに目を瞠った。襷で袖を縛った彼女は、包丁を握り締め、もう片手に乗せたキャベツを睨んでいたのである。
「ロウエン殿……?」
控え目に声を掛けると、いつものように朗らかな笑顔が返った。
「ああ、ごめん。静かにやってたつもりなんだけど……起こした?」
いえ、と小声で言って歩み寄ってみる。そこでロウエンは、思い切ったようにキャベツに包丁を突き立てた。
「繰り抜く……繰り抜く、と。ああもう、コツが分からないや。とにかく中身が詰められれば良いんだよな」
ブツブツと呟いて、ぐるりと刃を回す。
「ほら、前に作ってくれた料理───挽いた肉とか野菜を詰めてスープで炊くやつ、あれを作ってみようと思ってさ」
脇を見遣れば、成程、別の深皿に細かく切った野菜と肉とがこねてある。カミューは幼げに首を傾げた。
「でも、どうして……? 今宵は店を開けないのでは?」
明日は、いよいよ第十三代マチルダ皇王の即位式が執り行われる。その前日、ロックアックスの街は「慎み」呼ばれる慣習のため、日没と同時に民は家屋に篭り、商店などの営業も終了するのだ。
少し前に白騎士団・第三隊長から得た情報だが、これは後からレオナやロウエンからも聞かされた。国内外から多くの人間がロックアックス入りしているのに、この時期に店を開けられないのは惜しいと、半ば愚痴っぽく、だが言葉ほどの落胆は窺わせずに、二人はカミューに教えたのだった。
「まあ、そうなんだけどさ。でも、おれたちの夕飯は要るだろ? それに」
ロウエンは、繰り抜いた──と言うより、ほじくり出した──キャベツの葉を別の皿に落としながら言う。
「レオナの姐貴も言ってたけど、あの料理は上品っぽい味だし……あの娘も喜ぶんじゃないか、ってさ」
ロウエンの指す人物は、すぐに察せられた。白騎士隊長にいたぶられ続けた若い娼婦だ。
「あれからずっと調子が悪いままなんだよ。聞いた話じゃ、あんまり食べてないみたいなんだよな。これなら胃に負担がかからなさそうだし、作って、持って行ってやろうと思うんだ」
あの日以来、娘はレオナの店に来ていない。臥せっているらしいとは聞いていたが、白騎士という不快な「客」は去ったのだからと、カミューは楽観的に考えていた。
だが、娘の精神的な動揺は思った以上に酷かったようだ。花街に生きる娼婦なら、刃傷沙汰など慣れっこだろうといった思い込みがあったのも否めない。ここロックアックスでは、弱き立場の人間が護られていて、言ってみれば、彼女のように虐げられる方が例外なのである。店主たちの血を見て、自らも剣を突き付けられた娘が寝込んでも無理はないと、言われて初めて理解したカミューだった。
同時に、ロウエンの気遣いには心が温まった。
執筆中のレシピは、まだ一枚も渡していない。あの料理は請われて二度ほど作ったが、傍目で見覚えただけの品を再現し、娘に与えようとするロウエンは、男勝りの言動を裏切る、細やかな気遣いのはたらく人物なのだ。
「御手伝いしましょうか?」
穏やかに提案したが、ロウエンは神妙な顔で首を振った。
「いいよ、自分で作れるようにならなきゃ、店なんて永遠に持てないから。あ、でも……味付けを間違えそうになったら教えてくれよ、材料を無駄にしたら勿体ないからさ」
「了解しました」
微笑んで、カミューは調理の邪魔にならないように厨房の隅に寄った。
真面目な表情で食材に立ち向かう横顔が、古い記憶をくすぐる。懐かしい村で、夕餉の仕度をする女たちの面影が蘇る。「味見してみるかい?」と声を掛けてくれた、幾人もの「母」たちの優しい笑顔が。
唐突に涙ぐみそうになって、カミューは目を閉じた。
彼女たちの無念を忘れた訳ではない。恐怖に凍り付いた死に顔は、絶対に忘れられない。
けれど、今は。
慟哭と等しく、胸を揺さぶる想いがある。二度と得られぬであろうと考えていた温もりが、笑み掛ける闇色の眼差しが、無惨な光景を包み込み、優しい思い出ばかりを映し出す。
ゲオルグが言ったことは正しいのだろう。
死者は───村人たちは、復讐など望むまい。
理不尽な死を、受け入れる間もなく彼らは死んだ。そこに嘆きがあろうとも、恨みよりは願いがあった筈だ。
生き延びて欲しい。家族が、隣人が、一人でも多く難を逃れて欲しいと、そんな願いが過った筈なのだ。
「はいよ。ちょっと味見しておくれよ、カミュー」
不意に呼び掛けられて、慌てて物思いを振り払った。小皿に入ったスープを差し出すロウエンの顔は真剣そのものだ。口をつけてみて、小さく言う。
「……もう少し、塩を入れた方が良いかもしれません」
「塩ね、塩……と」
パラパラと調味料を振りながら、横目でカミューを窺い、やや躊躇いがちに彼女は切り出した。
「……あのさ。人の事情に口を出すのは反則なのは分かってるんだけど……、あんた、例の白騎士が無視出来ない相手を知ってる、って言ってたよな。あれからあいつ、区に顔を出してないみたいだけど、ほとぼりが冷めたら分からないだろ? あの娘のためにも、その偉い人だか何だかに話を入れられないかなあ」
カミューは瞬いた。そう言えば騎士との間にそんな設定を付けたな、と思い返す。何気ない素振りで、湯気の立つ鍋を覗き込んだ。
「火を弱めた方が良いですね、ゆっくり煮込んだ方が味が染みます。それと……こう言っては申し訳ないが、見た目が少し……」
「ちぇっ、グチャグチャだって言いたいんだろ。まずは味、見てくれは次の段階だよ。店の品としては落第でも、今は自分たちが食べる分だから良いの、気にするなって」
はあ、と吹き出して再び隅に寄る。
「……そのつもりです」
「え?」
「ロウエン殿が仰る通り、ああいう男が真から改心するとは思えません。今の立場に在る限り、再び同じ暴挙を繰り返す。関わった身として、捨て置けません」
するとロウエンは目を瞠った。眉を寄せ、真正面から向き直る。
「……って、あんた、まさか……」
視線が腰に佩いた剣に注ぐのに気付いて、カミューは静かに笑った。
「わたしは傭兵です。金にならない殺しはしませんよ」
自虐的な台詞を、ロウエンは首の一振りで退ける。
「駄目駄目、そんなの全然説得力ないって。あんたは金でどうこうってガラじゃない。毎日顔を付き合わせてりゃ、そのくらい分かるぜ」
でもね、と小声で言い添える。
「殺しはまずいよ。そりゃあ、殺したいくらい嫌な奴だけど、やっぱり駄目だ」
言葉を探すように視線を移ろわせ、やがてロウエンは顔を上げた。
「この街で騎士を殺したりしたら、大事だよ。それに、あんな奴のために、あんたに手を汚して欲しくない。レオナ姐貴も、多分あの娘だって、そう思うって」
言われて、カミューは自身の手元を一瞥した。
魔性の炎の住処、これまで幾多の命を奪ってきた右手。
けれど、完全なる弱者、心情的に肩入れ出来る相手を斬った過去はない。行動を共にしていたゲオルグが、仕事を選んでいたからだ。
そうした理屈からいけば、第三白騎士隊長は敵と見做すに充分な男だった。状況さえ許せば、あの場で葬り去っていたに違いない。
「あなたは……善良な方ですね、ロウエン殿」
ポツとした呟きに、女は怪訝そうに眉を顰める。注視から顔を背け、カミューは目を伏せた。
彼女は知らない。既に一人、騎士の命を摘んでいるとは、想像も及ばないだろう。
まして怨嗟の中で這い回り、復讐の完成だけを夢見てきた人間だとは。
「善良だって? 役人から金を毟り取って、逃げて来たおれが?」
「……でも、あなたは他人のために憤れる方だ。あのレディやレオナ殿を、決して裏切ったり見捨てたりなさらない」
信頼に真心を返す───「彼ら」もそうだった。
あの輪の中で生きられたら、どうだったろう。同じつとめに身を置き、心から微笑み合う一瞬は、どんなだっただろう。
「そりゃあそうだよ。だっておれ、姐貴や皆が好きだもの」
言い差して、ロウエンは外方を向いた。
「……あんただって可愛い弟分だからな。何かありゃ、すっ飛んで助けに行くぜ?」
言ったは良いが、急に照れが勝ったらしく頬に朱が上る。が、いきなり鍋が噴き始め、慌ててそちらに意識を戻すロウエンだった。
「味付け、今度はどうかな?」
「……良いと思います」
「ようし、このまま煮込んで……と。この時間じゃ、まだ店の連中も寝てるだろうし、夕方あたりに持って行くかな」
「それなんですが、ロウエン殿」
独言を遮って、カミューは柔らかく言葉を挟んだ。
「わたしに行かせていただけませんか」
え、と見開かれる瞳を見詰めて言い募る。
「あのとき、わたしがもっと早く気付いて出て行けば、彼女もあそこまで恐ろしい思いをせずに済んだ筈です。今なお気鬱が続いていると聞いては、責任を感じてなりません」
ずっと外出を控えてきた青年の突然の申し出がロウエンを戸惑わせた。表情を見取って、カミューは続けた。
「前にいただいた焼菓子の御礼も言いそびれたままですし」
「うーん、でもなあ……」
ロウエンは考え込んだ。
大抵の女ならば、床について窶れた顔を、他人に、特に異性には見せたくないだろう。まして彼女は自身の「仕事」に引け目を感じている。焼菓子の件では、カミューに少なからずの好感を抱いていると察せられたし、そんな相手に置き屋を訪ねられて平静でいられるとは思えない。
だがその一方で、こうも考えた。
整った容貌、丁重な言動。魅力的な男の素養を多く持ち合わせているにも拘らず、カミューは不思議と異性を感じさせない。区を巡回する赤騎士たちの禁欲的な気配とも微妙に異なる、頑なな潔癖さがカミューには備わっている。
この、色と欲が混濁する東七区において、そうしたものをまるで匂わせない男は稀有だ。彼ならば、性別を越えて娘を和ませられるかもしれない。
また、カミューにとっても、それは良い兆候であるように思われた。
唯一の例外──白騎士の事件──を除いて、彼はレオナやロウエン以外とは一切接触を持とうとしてこなかった。巡回騎士が立ち寄る刻限や、店が開いている間には、必ず自室へと戻って、顔を出そうとはしなかったのだ。
出来る限りに狭い世界に閉じ篭ろうとしているとしか見えなかった人間が、初めて自分から他者に歩み寄ろうとしている。何やら複雑そうな事情を抱えているらしい青年に、「この街で生きる」という選択肢が浮かび始めているのかもしれない、そんなふうにロウエンには感じられたのである。
再びカミューが言った。
「先程の、白騎士隊長の件ですが……手は打ちます。ちゃんと、ロウエン殿の御気分を害さぬ遣り方で。彼女にも、わたしの口から伝えておきたいのです」
───そこまでだった。
ロウエンは鍋の蓋を閉めて、にっこりした。
「何事も経験、……かもな。分かったよ、行ってきな。けどね、カミュー」
身を迫り出して、琥珀色の瞳を凝視しながらロウエンは言った。
「他の女の子連中に「御礼」とか「タダ」とか言われても、ホイホイ乗っちゃ駄目だぜ」
「……は?」
「真っ直ぐあの娘を訪ねて、真っ直ぐ店を出る。いいかい、香水の匂いなんか移してきたら───夕飯は、食わせてやらないからね」
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