盟主の少年の話では、風に負けて幾度か下層に落ちたことがあるらしい。従って、落命する程の痛手を受けることはないのだろうが、それでも着々と急降下している現実は十分に脅威だ。
何より、カミューの肉体を傷つけてしまうという事態に戦いた。よもやこんなことになるとは思わず、薬品の類も持ち合わせていないのだ。
伴侶の身を誰よりも案じているつもりなのに、自身で禍をもたらしてしまうとは。不甲斐なさ、申し訳なさできつく目を閉じ掛けたマイクロトフは、そこで鋭い叫びを捉えた。
「マイクロトフ!」
悲痛な呼び掛けに目を剥けば、同様に落下してくる自分の姿がある。カミューが同じ失態を働く筈もなく、追って飛び降りてきたのだと理解するのに時間は要らない。
つい先程まで閉めた扉のような拒絶を漂わせていたカミューが、けれど今は全身でマイクロトフを案ずる伴侶に戻っていた。差し伸べられる大きな手、悪鬼さながらに険しさを増した顔、自分の身体だけに多少の差異はあるが、想いは切ないほど伝わってきた。
───どうしておまえまで落ちてきた、痛い思いをするのはおれだけで十分だったのに。いや、正しくは傷ついてしまうのはおまえの身体なのだが。
埒もなく考えている間にカミューが追い付いた。漫然と落ちたマイクロトフとは異なり、おそらくは地を蹴って飛んだためだろう、下層の地面まで僅かというところで二人の手は重なったのだ。
すかさずカミューは逞しい腕でマイクロトフを絡め取った。抱き込むように包まれたマイクロトフは愕然とする。
これでは、落下の衝撃を受けるのは───
急いで体勢を入れ替えようと試みたが、既に遅く、下層の地が迫っていた。重い地響きを立てて背中から地面に叩き付けられたカミューの唇から低い呻きが洩れる。
「カミュー!」
慣れない身体で受け身も取れなかったらしい。その上、マイクロトフの体重まで衝撃を上乗せされた彼は言葉も出ないようだった。即座に起き上がって覗き込むマイクロトフの視線の先、大きな体躯は無防備に横たわるばかりである。
「カミュー、大丈夫か?!」
完全なる防護を受けて衝撃から隔てられ、無傷のまま着地を果たした彼は、上層の崖を見上げて青ざめた。想像していたよりも遥かに高低差がある。自分を抱えて地に激突したカミューの身を思い、冷や汗が迸った。
「無事、かい、マイクロトフ……?」
漸う零れた声は弱い。途切れる言葉に自らの名を聞いた刹那、眼裏が焼けるようだった。
「カミュー……何故……」
戦慄く掌で投げ出された手を包み、それから細心を払って支え起こす。そっと岩肌にもたれ掛けさせてやり、肉体の損傷を確かめ始めた。
「何故、おまえまで……落ちるのはおれ一人で良かったのに。まして庇うなど……」
震え声で責めると、カミューは穏やかに微笑んだ。
「どうして、かな……」
そこで、ふと気付く。
「自分の身体だったからか? だから傷つけたくなかったのか……?」
束の間押し黙った彼は、すぐに苦笑した。
「……そうか。そう言えば、わたしたちの身体は……」
打ち付けた身体が痛んだのか、苦しげに顔を歪めて続ける。
「咄嗟の瞬間に、そうそう利己的な計算は働かないよ。おまえが危ないと思ったら飛び下りていた、それだけさ。でも、かえってすまないことをしてしまった……こちらがおまえの身体だったというのに」
聞くなり、マイクロトフは地に減り込むほど恥じ入った。
幸い、落ちたのは苔生した地面だったため、外傷は擦り傷程度のものだ。寧ろ深刻なのは打ち身で、呼吸をするのすら難儀そうに見える。
普段から生傷の絶えない我が身が多少の怪我を負ったところで惜しむ気持ちなどない。その痛苦を味わっているのがカミューであるというのが辛かった。
もし逆の立場なら、己の肉体を守ろうといった計算は働かない。伴侶が危機に陥ったのを目の当りにしたら、何を置いても駆け出すだろう。
つまりはそういうことなのだ。
自制と沈着を信条とする青年も、同じだけの想いをまっとうして空に舞ったのだ、と。
「すまない、カミュー」
岩壁にもたれる伴侶の前に膝を折り、たおやかな肩を震わせる。
「すべてはおれの失態なのに……気が利かず、おまえを不快にすることを口にしてしまうようなおれなのに、おまえは身体を張って助けてくれたのだな……」
「……張ったのはおまえの身体だけれどね。それにしても頑丈な身体だな、もう大丈夫だ」
カミューは幾分長めの息を吐き、言葉通りだいぶ楽になったのか、穏やかに言った。
「さっきのあれは……わたしが大人気なかった。別におまえから軟弱だと非難された訳でもなかったのに、つい、八つ当たりをした」
そこで彼は手を伸ばし、マイクロトフの柔らかな薄茶髪の乱れを撫でた。
「日頃から感じていたことだ。おまえは鍛えた分だけ応えてくれる肉体を持っている。わたしにはおまえほどの底無しの体力は望めない。鍛え方が足りないと言うかもしれないが、それがわたしだ。根本的に何かが違う」
太い指の驚くほど繊細な動きに心地良さを擽られながらマイクロトフは反論した。
「鍛え方が足りないなどとは思っていない。それにおれとて、おまえほどの敏捷な動きは望めないぞ」
だから、とカミューは薄く自嘲を浮かべた。
「ないもの強請りなのさ。わたしの方が、より羨望が強かったということかな……少なくとも、八つ当たりせずにはいられないくらいには、ね」
「カミュー……」
徐に、視界が滲んだ。瞳に映っているのは己の顔の筈なのに、そこに見慣れた優しい笑みが重なる。薄明りの中でも浅黒い頬を両手で包み、マイクロトフは憑かれたように唇を寄せた。
「……自分の顔相手に、よくもそういう気分になれるな」
唇が重なる一瞬に、カミューが呆れたように呟く。苦笑わずにはいられなかった。
「おれもそう思う。だが……」
ひっそりと瞼を閉じる。
「こうしてしまえば、おまえだ。どんな姿をしていようと、おれが唯一と決めたカミューだ」
触れるだけのくちづけは、狂おしいほど熱かった。忍びやかに押し入った舌先が溶け合い、掻き立てる情熱はいつもと変わらぬ激しさだ。
暫し求め与えて離れた唇が洩らした吐息は、肌寒い洞窟内であるのを忘れさせる温もりに満ちていた。
「考えてみれば、おれたちは互いと入れ替わっただけだ。まったく別の誰かになってしまった訳ではない」
するとカミューも困ったように笑いながら頷いた。
「……まあね。違う誰かの身体に入ったおまえとはくちづける気にはならないけれど、これは許容範囲……かもしれないな」
「おれはおまえの姿形に惹かれた訳ではない。魂の在り方と言うか、輝きとでも言うか……そうしたものに惹かれたのだ」
「詩人だね」
軽く揶揄したカミューだが、次の瞬間、唇が笑みの形のまま強張った。目前のマイクロトフの徒ならぬ熱情を感じ取ったのだろう。
「……マイクロトフ?」
「困った事態になった、カミュー」
思い詰めた調子で琥珀の瞳を煌めかせて言い募る。
「姿形だけが魅惑される要因でないと立証されたぞ。どうやらおれは、その───」
白い肌を耳まで染めて、熱に浮かされたように瞳を潤ませての陳情は、途切れたものの、正しくカミューに理解されたようである。唖然とした次には、烈火の如き罵倒が洞窟内を飛び交った。
「どうしておまえは……わたしの身体を安易にその気にさせるな! そんな節操なしの身体だった覚えはないぞ!」
「お、おれもそう思う。だが……」
勢いに押されて幾分反省し掛けたマイクロトフではあるが、身のうちに点った熱は如何ともし難かった。
「……そうなってしまったのは仕方がなかろう?」
「し……、『仕方がない』で済ませるな!」
間近にあった身体を腕の長さの分だけ押し退け、更に足りないと見たのか、躄るように壁伝いに移動しながらカミューは叫ぶ。
「だ、第一おまえ……違うんだぞ、入れ替わっているんだぞ! 何をどうしたら行為が成立すると思っているんだ!」
「確かに、いつもとは逆になってしまうが……大丈夫だ」
「な、何が大丈夫なんだ」
「どういった負担を負うかは実体験した。元の身体に戻っても耐える自信がある」
「違う、そういう問題ではない!」
本来自分のものである腕に羽交い締められたカミューは、狼狽え、未だ嘗てないほどの激烈な抵抗で応えた。
「許容範囲と言ったではないか」
「ここまで許容した覚えはない!」
「だが、今……おまえが欲しくてならない。打ち身にはちゃんと配慮する。抑えられないんだ、カミュー」
「抑えろ! 何も今でなくても良いじゃないか、そっちの身体は自制が得意な筈だ、頼むから抑えてくれ!」
足掻くカミューを地に捩じ伏せたところで少しだけ理性が邪魔をした。見下ろした顔に欲望の矛先が逸らされたのだ。
けれどそれは逸れただけで、折れた訳ではなかった。
彼は目を閉じ、脳裏に愛しい美貌の青年を描いた。容姿だけに惹かれた訳では決してないが、やはり容姿も重要かもしれないと、その瞬間マイクロトフは微かに思った。
「カミュー……好きだ、愛しているぞ」
「わたしの声で軽々しく愛を説くな、落ち着け、冷静になってくれ!」
「分かっているだろう、入れ替わってもおれはおれだ。そういうのは不得手だ」
基本的に力は上でも、未だ多少は打撲が禍しているのか、カミューの抗いは容易に押さえ込める程度のものでしかない。そんな痛手を被ってまで自らを守ろうとしてくれた伴侶の心が愛おしく、本気で彼が嫌がっているという事実を隠蔽してしまうほどにマイクロトフは燃え上がっていた。
衣服の上から弄るほどに、終にカミューの声音は哀願に達した。
「嫌だ……離してくれ」
「案じなくていい、優しくする」
普段は何の頓着もなく身につけている青騎士団長衣だが、このときばかりは喉元のプレートやベルトの数を忌ま忌ましく思った。目を閉じたままなので、簡単に服を剥がせられないのだ。
「念のため聞くけれどね、この身体……男を受け入れた経験はないのだろう?」
「当然ではないか」
じゃあ、と野太い声が泣き出しそうな調子で訴える。
「初体験じゃないか。入れ替わってまで初めての痛みを味わうなんて、あんまりだ」
一度で十分なのに───そう涙声で続けられては堪らない。猛り狂っていた欲求に水をかけられたようだった。
朝一番に襲った衝撃に、ここまで沈着に対処してきたカミューも、打撲の痛み、果ては唐突かつ理不尽な求愛に堰が切れたらしい。幼げに肩を震わせ、頬に一筋の涙を伝わらせるのを見たマイクロトフは、またしても自戒も及ばぬ自責に打ちのめされた。
「す、すまない」
濡れた頬を拭い、なおも背けようとする顔を捕えて切々と詫びる。
「悪かった、つい……ただ、おまえへの想いが抑え切れなかっただけで」
宥めるように短い黒髪を梳く。
「おまえはいつでも許してくれるから……甘えていた。そうまで厭うとは思わなかったのだ、……入れ替わっただけだし」
最後に付け加えた一言はまずかったようだ。カミューは黒光りする瞳で睨み付けてきた。
「い、いや違う。入れ替わってもおまえへの気持ちが変わらないのを確かめて、どうにも堪らなかったのだ。だが、もう大丈夫だ。無理強いなど、誓ってしない」
カミューは疑わしげにマイクロトフの下半身を一瞥した。鎮火を確認したらしい。
「……確かに、たとえ姿が変わってもおまえを愛しく思うけれど」
前置きしてから彼は言った。
「自分の身体に抱かれるのは許容出来ないよ。唇を重ねるだけで精一杯だ」
先程の抗いで息を乱し、目許を潤ませたままの伴侶だが、やはり自分の顔では色香は感じない。ひとたびは失い掛けた理性も、戻ってくれば強固になるというものだ。今度はぴくりとも盛り上がらない肉体に安堵して、それでも胸は疼いた。
カミューが自己愛に溺れる人間でないのは誰よりも知っている。実のところ、くちづけも歓迎しているふうではなかった。
それでも、そう言い添えてくれるのがカミューなのだ。常にマイクロトフを尊重し、大概のことなら許してくれる──さっきは許してくれなかったが──何処までも寛容で、柔らかく包み込んでくれる生涯唯一の伴侶。
目許を濡らす雫を今一度そっと払い、改めて覆い被さった。性的な興奮のない抱擁だと悟ったカミューは、今度は暴れるでもなく、されるままになっている。
抱き締めて、頬にくちづけるだけで心は満ちた。温もりを噛み締めるだけで十分に安らげた。
「おまえが好きだ、カミュー」
「……分かっているよ」
おずおずと背に回された腕に熱が走る。次第に込められてゆく力は、だが青騎士団長のもので、締め技を受けているような錯覚を覚えずにはいられなかった。
「もう、一度だけ、くちづけ、ても、良いか?」
やや息を弾ませながら控え目に問うと、カミューは顔を見せぬまま小さく頷いた。今になって子供のような泣き顔を見せたのを恥じているのだと思い至り、沸き上がる慕情に喜悦する。
日頃身体を重ねるたび、堪え切れずに溢れる涙を幾度となく見せていても、先程のように感情のままに流す涙には、また違った羞恥を覚えるのだろう。
「好きだ……」
夢のように囁いて薄く開いた唇を寄せて。
───しかし、今度のくちづけは予想外の方向から阻まれた。
「そこな二人。いったい何をしておるのだ」
突然の第三の声に驚愕して跳ね起きたところ、少し離れたところに唖然として立ち尽くす、捜し求めた人物と正面から目が合った。
「いや、その、これはつまりメイザース殿……違うのです」
起き上がりこそしたものの、依然としてカミューに馬乗りになっているマイクロトフを食い入るように見詰め、老魔術師が低く小さく呟いた。
「前々からそうではないかと感じてはいたが……」
言い逃れられない現場を押さえられながら、往生際も悪く、何とか取り繕おうと試みたマイクロトフに与えられた言葉は無情だった。
「……よもや逆とは知らなんだ。これは意外、そうか、そうであったのか」
横たえられたままの青騎士団長が、またしても涙目になっていた。
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