出現した敵をのんびりと見遣ったカミューが軽く言う。
「『にちりんまおう』か。これは一撃という訳にはいかないかな。『騎士攻撃』でも試してみるかい?」
疲労困憊している身に与えられた揶揄は、自分の声であるため、たいそう忌ま忌ましく聞こえた。
「出来ればカミュー……勘弁して貰えないだろうか……」
「了解した」
言うなり彼はダンスニーを眼前に掲げた。どう見ても自分の構えにしか見えず、驚いて声を上げる。
「カミュー?」
「今の身体に馴染んだ技を駆使するまでさ。休んでいろ、マイクロトフ。わたしが始末をつける」
カミューは対峙した敵を睨み据えた。凄まじい覇気と殺気の奔流が噴き出すようだ。
剣の向こう、悠然と構えていた魔物がぴくりと震える。攻撃も出せぬままに竦み、暫し力を量るようにカミューを凝視した後、『にちりんまおう』は静かに薄闇に溶けていった。
「……戦わずして勝つ、それも一つの戦法だ。相手の力が劣る場合、逃がすという選択肢があるのだからね」
闘気を納めたカミューが振り向いて微笑んだ。
冷静に事態を把握し、最善の策を為す。目指そうにも到底叶わぬ『青騎士団長』の姿が、いつもより一回り大きく、頼もしく見えるマイクロトフだった。
その先はカミューが先鋒を担って洞穴路を進んだ。
大抵は先のように威圧で魔物を退けたが、なかには無謀にも向かってくるものがある。そうした敵には容赦なく、彼は見事な模倣でダンスニーを打ち下ろした。
「それにしても、重い剣だな」
一応はぼやいてみせるが、そんな大剣を軽々と振り回す筋力に感心しているふうでもある。彼もマイクロトフが感じた伴侶の肉体への感嘆──生憎と現在、マイクロトフの方はひどく息切れしているが──を覚えているようだった。
「しかし、カミュー……メイザース殿は何処まで潜っておられるのだろうな」
かなり奥まで進んだ筈なのに、肝心の魔術師の気配がない。微かな不安を過らせながら問うと、カミューも溜め息をついた。
「困ったね。出来ればここへ着く前に捕捉したかったんだが……」
口調に感じるものがある。肩越しに前方を見遣った途端、マイクロトフも眉を寄せた。
そこは風の洞窟の探索における難所、突風が進路の右から左へと吹き抜ける地であった。
その風の勢いたるや、人の横断を許さぬほどの凄まじさだ。不用意に足を踏み出せば、たちまち風に煽られて、待ち受ける崖から下層へと転落してしまうのである。
以前、盟主の少年の供として訪れたときには、数人の仲間と大岩を動かし、風を塞いで通り抜けた。あのとき使った岩は今も通路に鎮座している。けれど今回は二人だけ、果たして動かすのは可能だろうか。
「メイザース殿は魔法でも使って通られたのだろうか」
独言気味に呟くと、カミューがはっとしたように風の侵入口を見た。それから満足げにマイクロトフを見詰めて頷いた。
「それだよ。『烈火』を使うんだ」
「岩を燃やしてどうするのだ?」
「……燃やすばかりが『烈火』の使い方ではないよ。一瞬でもいい、炎の力で風を塞き止めるんだ。その間に走ってここを抜ける」
「な、成程」
カミューが生来から宿す攻撃魔法紋章、その絶大なる威力は幾度も目の当りにしている。策は理解したし、魔法を放ってみたかったのも事実だ。
ただ、マイクロトフはこれまで魔法紋章を宿したことがなかった。彼は骨の髄まで剣士なのだ。二つ目の紋章が宿せるようになった今も、剣腕に関する紋章ばかりを用いている。
マイクロトフはしなやかな右手に視線を向け、必死に知識を紐解こうと努めた。その様子を一瞥したカミューが、不安を隠せない面持ちに変じた。
「第一レベル魔法『炎の壁』で十分だろう。詠唱の文言はロックアックスで学んだな?」
「あ、ああ……大丈夫だ、覚えている」
高位紋章は一般的に店頭に出回る品ではない。だから騎士団の座学も概要を流すだけなのだが、幸いにも勤勉を極めたマイクロトフは文言を一言一句思い出せた。
「先ずは右手に意識を集中させる。炎が燃える光景を思い描きながら詠唱開始」
騎士団における魔法術の指導官さながらにカミューが説く。淡々とした声に合わせて、風の侵入路に向けて魔法詠唱を開始した。
「狙いは左右の岩壁だ。そこへ向けて炎を飛ばし、更に障壁となるよう強く意識する」
刹那、マイクロトフの両脇から吹き出した炎が岩肌を直撃し、それから壁のように広がって風の侵入を塞いだ。
「走れ、マイクロトフ!」
叫びながらカミューが駆け出す。指導付とは言え、初めての攻撃魔法成功に放心していたマイクロトフも慌てて身を翻した。
魔法の効力が消える前に辛くも向こう岸へと駆け込んだ二人は、肩で息を吐きながら微笑み合う。
「初めての割には上出来だ、マイクロトフ」
「おまえが助けてくれたからだ」
「入れ替わってしまっていても、二人ならば何とかなるものだね」
短い黒髪を撫で付けながら言ったカミューに胸を掻き毟られた。
そうなのだ。
こんな突飛な事態に落ちても、何とかここまで辿り着けた。一人では途方に暮れるばかりの現実でも、二人だから立ち向かえる。今更のように伴侶の存在を感謝し、打ち震えずにはいられない。
「さて、次だ」
堅い声音に気を取り直せば、またしても同じような突風が進路を妨害している。
「難所は全部で三カ所あった筈だ。あと二回、さっきの調子で頼むよ」
最愛の伴侶に頼られている。否、正しくは頼られているのは『烈火』かもしれないが、奮い立つには十分な檄だった。
二度目の魔法は先程よりも速やかに、且つ正確に岩壁を抉り、見事に目的を果たした。
そのまま道を進み、三度突風と向き合ったとき、カミューは案じる眼差しでマイクロトフを見詰めてきた。
「大丈夫かい?」
「無論だ。コツも分かってきたしな」
「そうではなくて……身体の方だ。今度は今までの中で一番距離が長い。走れるかい?」
気付けば、肩が上がっている。後先を考えず魔物と対決して疲弊した身に、魔法使用と全力疾走は相当の負担であったらしい。気付いてしまったばかりに一気に力が抜けるようであった。
「……この程度で困憊するおれではないのだがな」
決して悪意あっての物言いではなかった。けれど、即座にカミューの瞳は冷え、微笑みが凍った。
「すまなかったね、鍛え方が足りなくて」
機嫌を損ねたときのカミューの言葉は、剣を突き付けられたときのような寒々とした竦みを掻き立てる。それが柔らかくも甘くもない声だっただけに、此度は鈍器を振り翳されているが如き心境であった。
「い、いや……そういう意味では……」
慌てて抗弁に入ろうとしたが、巧みな論述を駆使する身体を得たところでマイクロトフはマイクロトフだ。ひとたび閉ざされてしまったカミューの心を和らげる語彙など容易に浮かばない。もぐもぐと唸っているうちに、ぴしゃりと命じられた。
「さっさと風を止めてくれ」
「わ、分かった……」
───二人ならば苦難も克服出来る。
彼はそう言ってくれたのに、何と迂闊なぼやきを洩らしてしまったのか。敢えて体調を問うてくれたカミューこそが、互いの体力の差を痛感していたのだろうに。
悄然として、けれど命じられたつとめは果たさねばと己を叱咤し、魔力を解き放つ。呼び出された炎は、主人の心情に反応してか、前二回よりもやや勢いが劣るように見えた。
「行くぞ!」
鋭い声音に弾かれたように駆け出す。
前を行く幅広い後ろ姿を追い掛け、気怠い身体を必死に叱咤して───そして、後僅かで難所を抜けるというところまで来て、失墜した。
あ、と思ったときには遅かった。
足をよろめかせたときには凄まじい突風が炎の壁を割り裂いて迫っており、慌てて踏ん張ってはみたものの、常よりも軽くなった身体は抗い切れずに攫われていた。
宙に浮いた爪先が懸命に地面を求めるも、願い虚しく、横殴りの風に煽られて通路の右端に広がる闇に追い遣られる。伸ばした手は空を掴み、次にいっそうの浮遊感を覚えた。
「う……おおおおおおおっ?!」
雄叫びを上げての落下が始まった。
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