城の住人たちは一日の始まりに慌ただしかった。
医務室に出入りする人々、朝の散歩を楽しむ老人等々、彼らは並んで歩く騎士団長を目にすると何かと声を掛けてきた。
普段に比べて受ける挨拶の言葉が遥かに長いのは、社交性に富んだ赤騎士団長の姿に拠るものだろう。マイクロトフはその度に冷や汗を流しながら必死に伴侶が口にするだろう返答を捻り出すのだった。
図書館に着く頃には、精神的疲労も限界に達していた。ただでさえ下肢は昨夜の酷使から倦怠を訴えている。これでメイザースが不在なら、その場で座り込んでしまいそうだった。
が、得てして懸念は現実となるものだ。ほうほうの体で辿り着いた朝の図書館は閑散としており、何処を見回しても目指す老人の姿はない。
「おかしいな。ここにおられないとなると、所在の見当がつかない……」
困惑したまま尚も周囲を確かめるカミューに一人の女性が気付いた。図書館を与るエミリアである。眼鏡の奥の瞳を煌めかせながら彼女は二人に近づいてきた。
「お早いですね、何かお探しの本でも?」
こうした場合、返事をするのはカミューの役目だ。だが、ここまでの道程で疲労困憊に陥っているマイクロトフには言葉が出てこない。察したらしいカミューが代わりを請け負った。
「メイザース殿を探しているのだが……何処におられるか、御存知ないか?」
あら、と小首を傾げたエミリアは困ったように微笑んだ。
「メイザースさんでしたら、昨日の夜から城を空けていらっしゃいますわ」
「な、何だと? そんな馬鹿な!」
己の姿形も忘れ、マイクロトフは思わず声を荒げてしまった。
苦しい偽装も残り僅かと思えば自らを叱咤出来たのだ。なのに、ここへ来て肝心要の魔術師が不在とは。さながら溺れている最中に掴み掛けた板切れに振り切られたような心地である。
しかし、すぐに頭は冷えた。エミリアが唖然と自分を凝視していたからだ。発言を反芻した後、マイクロトフは冷え冷えとしたものを間近のカミューから感じた。穏和な赤騎士団長が拳を握り、紅潮しながら女性に詰め寄るなど、あってはならないことだったのである。
「……っ、失礼。ここにおられるとばかり思っていたので、平静を欠いてしまった、のです。許していただけますか、レ、レ……レディ」
最後の方では自分の顔をした伴侶が泣き笑っていた。誠心誠意の模倣は、あまり彼の気に入るものではなかったようだ。
エミリアの身体は幾分引き気味だった。その様子を見たカミューは、彼女に隠し通す無理を悟ったらしい。マイクロトフを押し遣るように進み出て丁寧に詫びた。
「申し訳ありません。実は、これには深い事情があるのです」
そうして二人は、初めて第三者に秘密を打ち明けたのだった。
不可解を解消された後も、エミリアにとって笑いを堪えるのは至難であったようだ。吃逆のような息遣いを繰り返し、やや顔を背けながら頷いている。
「た、大変でしたのね……お察しします」
それから先程のマイクロトフの台詞を思い出したのか、『レディ』と小声で呟いて吹き出した。
「苦しい演技でしたわね。事情は分かりました、普通にお話ししてくださいな」
他に誰もいませんから、そう付け加えられてマイクロトフも力を抜いた。
「メイザース殿が何処へ行かれたか、心当たりはないだろうか」
「風の洞窟だと思いますわ」
眼鏡をずり上げながら彼女は言った。
「昨日、閉館間際にいらっしゃったんです。『やはり魔法の研究には洞窟が一番、これから籠もる』と仰ってましたから」
図書館どころか、本拠地内にも不在と分かった失意は生半ではない。思わず愚痴も零れ出る。
「何故、あの御仁は洞窟などを好まれるのだ……」
「暗くて湿ったところが落ち着くんじゃないか?」
軽く揶揄して、カミューは表情を引き締めた。
「風の洞窟なら馬で一っ走りだ。行こう、マイクロトフ」
「だ、だが……」
エミリアとカミューを交互に見ながら首を傾げる。
「風の洞窟なのは確かだろうか? あの方が過ごしておられたティントの坑道という可能性は……」
「ないね」
「ありませんわ」
二人は同時に、あっさりと否定した。
「考えてもみろ、次の戦いがいつ始まるかも分からないのに、そうそう遠方まで出向かれる訳がなかろう? それに、『瞬きの手鏡』がなくては戻ってくるのに難儀する」
ロックアックス攻略を目前に控えて、盟主の少年は最後の仲間集めに方々を回っているのだ。帰還の手助けとなる秘宝を持たずに赴ける場所は限られる。拠って、メイザースが向かったのは本拠地から然程遠くない風の洞窟であるという推察は正しい。
エミリアにも予想出来ることなのに、何故おまえは───そう言いたげな黒い眼差しが切ない。悄然と項垂れるマイクロトフを一瞥したエミリアが『気になさらないで』と慰撫してきた。おそらく、端正な美貌の悲しげな様子に胸を衝かれたのに違いない。
「きっと、魔法の改良をしていらっしゃるのね。昨日メイザースさんに貸し出した本の謎が解けましたわ」
机から帳簿を取り上げる。そこにはメイザースの署名と『三日で魔力が上がる本』『魔法の威力は気合い次第』、更に『第一レベル魔法連発で強敵を倒せ』といった題名が並んでいた。
「あの方、ここに有る本は読んだものばかりと豪語なさっていたけど、この三冊は記憶になかったみたいなの」
「……でしょうね」
カミューは神妙な顔で帳簿を睨んでいる。これらの本を参考にして改良された魔法を自身らに使うつもりなのかといった不安──あるいは不満──なのだろうと推察された。
「急いで行ってみます。ありがとうございました」
厳つい顔に似合わぬ柔らかな口調で感謝を述べられたエミリアは、束の間の戸惑いの後、苦笑した。事情をすべて理解した今も違和感が拭い切れないような表情だった。
「お役に立てなくてごめんなさい」
それから彼女はマイクロトフに向き直り、忘れ掛けていた苦難を思い出させてくれた。
「厩舎までバレないようにお祈りしていますわ。それと……こう言っては何ですけど、あまり御上手ではないから『レディ』はやめておいた方が良いんじゃないかしら、マイクロトフさん」
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