「……完成していた訳だね。お伝えしたら、さぞ喜ばれるだろう」
寝台に半身を起こしてカミューが言った。彼らしい、思い遣りに溢れた言葉だが、現状を鑑みると素直に頷けないマイクロトフだ。
「だ、だが……何が起きたというのだ?」
「犬や猫には一瞬でも、それより体躯の大きい人間に浸透するには時間が要った、そういうことだろうね。現にわたしたちはこうして入れ替わっている」
そこでマイクロトフは鈍痛と戦いながら座り直した。
入れ替わりが完成したのは行為の後、それも処置が済んだ後、二人が眠りに落ちてからであったらしい。
それは色々な意味で幸運だったと言って良いだろう。もし、愛を交わしている最中にくちづけようとした顔が自分のものだったら。あるいは今、これから交情の後始末をせねばならない我が身であったとしたら───想像した途端、怖気が背を這い下りる。
「近年稀に見る恐ろしい目覚めだったよ」
カミューは微笑み掛けて、すぐに顔を強張らせた。
「どうした?」
「何だか、この顔……笑い難いな。頬の筋肉が硬いというか、にっこりするのに慣れていないとでもいうか……」
こんな揶揄には憮然と反論するのがマイクロトフの日常だ。けれど今朝ばかりはそうもいかない。ずっと胸に蟠っていた思いが堪らず零れた。
「おれは、すまない気持ちでいっぱいだ」
「何がだい?」
カミューは幼げに小首を傾げた。いつもの姿ならばたいそう好ましい仕種なのだが、現状ではときめきも沸かせようがない。見詰める黒い瞳は優しさよりも剣呑を感じさせるばかりだ。
「メイザース殿の申し出を受け入れてしまったのはわたしだからね。詫びるのはわたしの方だよ、マイクロトフ」
心からの陳謝も自分の声ではありがたみが半減するものだと思いながら首を振った。
「そうではない。おれが言っているのは、つまり……」
ふと、彼は薄衣ひとつ纏っていない己に気付いた。普段は全裸だろうが気にも止めないが、それがカミューの身体なら別である。上掛けを手繰り寄せ、おずおずと身体に巻き付けた。
「こうしておまえになってみて、初めて分かった。おれはいつもおまえに……おまえに、こんな……」
唇を噛み、殆ど敷布に額が触れるほど項垂れて声を搾る。
「こんなにつらい思いをさせていたのだな……」
微かな喉の痛みまで覚えてしまい、彼はいっそう小さくなった。
「拒まれる度に恨めしく思ってきた自分が恥ずかしい。身体は重いし、足も攣っているような感じだし、……それにこの何とも言えぬ痛みが……」
「───マイクロトフ」
地を這うような唸り声が割り込んだ。顔を上げると、馴染み深い体躯が戦慄いている。紅潮した頬は、色白なカミューの顔ならば美しく慕わしかっただろうが、浅黒く険しい自分の顔では高熱に耐える病人さながらだ。
「もう黙れ。それ以上ふざけたことを口にしたら殴るぞ」
ぷるぷる震える大きな拳を凝視する合間にも彼は続ける。
「自分の身体だからと容赦するわたしではないよ。この手で思い切り殴ったら、他の痛みなど気にならなくなるだろうね」
言いながら更に力を込めたようで、太い指が関節を鳴らした。マイクロトフは慌てて口を噤み、了解を示すためにコクコクと頷く。
「取り敢えず服を着て、それから考えよう。裸のままではどうにも落ち着かない」
思慮深い口調で言い放ったカミューは、静かに寝台を抜け出した。これまでのように行為後の弊害はなくとも、本来の自分よりも大柄な体躯が扱い難いのだろう、幾分億劫そうな所作だった。
床に脱ぎ散らかした服を手にするのを見てマイクロトフは眉を顰た。
「違うぞ、カミュー。それはおまえの服だ」
「え?」
彼は真紅の騎士服を掴んでいる。束の間押し黙り、漸く思い至ったのか、がっくりと逞しい肩を落とした。
「……そうだった。今はおまえだったな」
沈着を繕ってはいるものの、やはり動揺しているのだ。自分ばかりが焦っている訳ではないと分かり、マイクロトフは少しだけほっとした。
改めて取り上げた衣服を着用し始めたところで彼はげんなりと訴えてきた。
「マイクロトフ……目を逸らすくらいの配慮はして欲しいのだけれどね」
「おれの身体だ。見たところで、どうと言うこともないだろう?」
「そういう問題ではない、落ち着かないんだ。おまえも早く着替えてくれ、そんなふうに布を巻いていてはレディみたいじゃないか」
そして最後に低く付け加える。
「……まじまじと観察するのは禁止だぞ」
駄々っ子のような言いように笑みが零れ掛けたが、やはり可愛らしさは今一つであった。
マイクロトフは下された命に忠実に、可能な限り白い裸体を見ないように着替えを開始した。
慣れない服には違和感を覚えたが、自らの騎士服よりもベルトの類が少ないため、着衣自体は速やかに進む。ただ、極端に短くなった上着の丈にはどうしようもなく溜め息が出た。戸惑いを感じているのはカミューも同じらしく、刻々と失意が増しているようだ。
「この服は……面倒だな、……止めても止めてもまだベルトが……」
首を伸ばして顔を振る。
「それにこのプレート……顎が埋まりそうで鬱陶しい」
「文句を言うな、おれとて脚が露出して恥ずかしいのを我慢しているのだぞ」
反論は至極もっともだと認めたらしい。カミューはそれ以上何も言わず、黙々と作業を進めた。やがて完成したのは日常通りの騎士団長、但し、そわそわと落ち着きのない騎士団長たちである。
「ともかく、早く元に戻していただかなくてはね」
しどけない息を洩らしながら寝台に腰を落として青騎士団長が言えば、仁王立ちで乱暴に髪を掻き毟る赤騎士団長が鼻息も荒く同意する。
「そうだな。だが、この時間帯ではまだ休んでおられるのではないか?」
「どうかな……御老人は朝が早いと聞くけれど」
窓の外を見遣りながらカミューは嘆息した。明け方ではあるが、城の大多数の住人の活動が始まるには確かに少し早い。彼は僅かに上体を揺らした。肩を竦めようとしたのだろうが、幅広い肩が重かったのか、痙攣したようにしか見えなかった。
「そういう意味ではおまえは老人体質だね。戦地でもないのに、こんな時間に爽やかに目が覚めるなんて……いつ以来だろうな」
「おれの方は爽やかとは言えなかったぞ。意識は覚醒しているのに、目が開かず、身体も動かなかった」
ポツと零すと、カミューは微かに笑んだ。
「してみると、早起きというものは肉体の習慣というより、精神における習慣なのかもしれないね。興味深い発見だ」
しみじみとした述懐の途中でマイクロトフははっとした。何故自分が早朝から起き出すようになったのかを思い出したのだ。
「カミュー、おれには早朝訓練がある」
するとカミューは呆気に取られて目を見開いた。
「おまえの代わりに参加して来いとでも?」
「い、いや……それは無理だろう。どういった鍛練を行っているかを教えるには時間が足りない。だが、何も言わずに訓練を放棄すれば部下たちが怪訝に思う」
そうだね、と彼も深刻な面持ちで頷く。
「無用な混乱や詮索は避けたいところだ。しょうがない、青騎士を捕まえて不参加を表明してくるよ。ついでに朝食も取って来る。食事をする間にメイザース殿をお訪ねしても失礼にならない時間になるだろう」
おそらくは肉体が食物を欲しているのだろう。朝のカミューには珍しく、食事への意欲満々であるのを窺わせる発言だ。逆にマイクロトフは微妙に食欲の沸かない今の身体を少しだけ悲しく思った。
「それじゃ、行ってくる」
「ま、待て、カミュー。それも違う」
最後に彼が取り上げたものに声が上擦る。怪訝そうに振り返るのに向けて慎重に続けた。
「そっちはユーライアだ」
「あ」
しくじったと言わんばかりに顔をしかめて──引き攣った顔はとても怖かった──カミューはダンスニーを握り直した。自らを落ち着かせるように幾度か呼吸を繰り返してから毅然と顔を上げる。
「……大丈夫。長い付き合いだ、気をつけて行動すれば、おまえを装うくらい訳無いさ」
「そ、そうだな……」
確かにカミューなら何とかなるだろう。問題は自分の方だ。
日頃メイザースは図書館に入り浸っているらしいが、そこまでの道程を考えただけでも不安で身が竦みそうになる。この先、カミューが粗野だとか、ぶっきらぼうになったと評価されぬよう、心底注意せねばならないだろう。
そうして再び戸口に向かい掛けたカミューの背に、彼はたいそう小さな声で呼び掛けた。
「待ってくれ、カミュー。もうひとつ重要な問題が……」
「まだ何かあるのかい?」
疲れたように返す口調。マイクロトフは消え入りたい心地で唇を開いた。
「その……実は非常に言い難いのだが……、先程から用足しに行きたくて」
黒い瞳がすっと冷える。殆ど聞き取れないほどの弱々しさで、甘やかな赤騎士団長の声は核心に至った。
「……つまり、『そういうとき』でもないのにおまえに触れて良いものかどうか……」
ここまで守り通した忍耐がぷっつりと切れたようだ。終にカミューは噴火した。
「変な気遣いを働かせている場合か! わたしの身体が病気になったらどうするんだ!」
野太い怒声に一喝されて飛び上がりそうになる。
───成程、訓練時などの青騎士たちはこんな衝撃を感じているのか。
「生理現象の処理に性的思惑は挟まない!
必要最低限しか見ない、触らない! 厳守しろ、マイクロトフ!」
「わ、分かった!」
思わず直立しそうになる迫力で命じた後、カミューは廊下に出て勢い良く扉を閉めた。荒々しい動作は自分の姿そのものである。妙なところで感心しながらマイクロトフは考えた。
早朝における肉体の鍛練は長年の習慣だ。一日でも欠かすと僅かではあるが調子を崩す。
だが、ここで戻ってきたカミューに腕立て伏せや腹筋運動を頼もうものなら、今度こそ張り倒されるに違いない。彼は言葉通り、容赦の二字を交えぬだろう。
痛い思いをするのは自分だから良いが、カミューの身体に傷がつくのは避けたい。元の身体に戻ったら鍛練を倍にして遅れを取り戻さねばなるまい。
それは、如何なるときも伴侶を尊重するマイクロトフなりの誠意の結論であった。
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