盾と剣(つるぎ)


9.

間近に迫った敵兵の顔は生涯忘れることが出来ないだろう。
殺意と恐怖、動揺と焦燥を浮かべた修羅の顔。けれどそれを蔑むことなど誰にも出来はしない。
完全なる劣勢からすでに撤退も念頭にあるであろう彼らは、ここで突入してきたものが忌むべき敵の指揮官であることを十分理解しているに違いなかった。
憎悪と恐慌に塗れた兵が、もはやこれまでと決死を以って臨んでくる。一時も馬を止めず、カミューは敵の刃を右に左にと受け流しながら突き進んだ。
ミゲルら、近衛の騎士と付き従う第一部隊の面々もまた、疾風のような騎士団長に遅れまいと剣を振るいつつ敵中を無尽に駆け抜ける。
馬上から振り下ろした剣は確実な手ごたえを伝えてくるが、ミゲルには考える余裕などなかった。
最初に敵を斬ったらどうなるか、目の前に死が横たわったらどう感じるのか───けれど、その答えは出ない。
自らの剣が傷つけた相手の末路を見届けるどころではなかった。ただカミューの背を追い掛け、彼に向かおうとする攻撃を排除するだけで精一杯で、そこに思考や感傷など入り込む余地は皆無だった。
今では彼もはっきりと悟っていた。
ローウェルや先ほどのカミューが口にした事実。敵にとって最大の目的は一軍の長である青年を屠ることなのだと。
カミューに向けられる攻撃の苛烈さは他騎士へ向かうそれの比ではなく、近衛として彼を護るよう与えられたつとめが如何程に重きを為すのか、ようやく実感したといったところだった。
ふと、視界の隅に突っ込んでくる槍の先が見える。
「───させるか!」
馬上から可能な限り身を伸ばして剣で槍を弾き飛ばす。ほんの僅かに視線を向けたカミューの表情は窺えなかった。
悲鳴と怒号が交錯する敵陣、後方から追われる気がするのは策が正しくはたらいているからだろう。
このまま関所方向へと抜けて再び元の位置まで駆け戻る。第二・第三部隊と合流して総攻撃に転じ、敵をデュナン領から押し流す───それがカミューの取った策だった。
ランド率いる別働隊は兵がミューズ方面へ流れるのを防ぎ、且つ関所を開放することによって敵を自領ハイランドへと撤退させるための布陣。
何故カミューが敵の殲滅を避けるのか、何故ご丁寧にも関所から逃がそうとするのか、ミゲルには分からない。
目の端を飛び交う鮮血、ゆっくりと崩れていく敵の兵士。
考えるのは後でいい、いつしか彼はそう思っていた。
生きていれば時間など幾らでもあるのだから───

 

 

不意に視界が開けた。
敵陣を抜けたのだ。安堵する間もなく、味方の待つ陣へと進軍の向きを変えるカミューに改めて気を引き締める。
一度だけ、背後を振り返った。敵兵の中にはすでに関所方面へ向けて逃亡を図るものも出ているようだ。音を立てて崩れていくような布陣に微かに痛みを覚える。
───そのときだ。
ミゲルの目にほんの一瞬だけ不可解な何かが過ぎった。それが何であるのか捉えようとしたが、無念にも四散してしまう。彼は得体の知れない悪寒に苛まれて考えようと務めたが、通り過ぎてしまったものを呼び戻すことは出来なかった。
釈然としないものを噛み締めながら馬を定位置に寄せたミゲルは、同じようにオルテスが眉を寄せているのに気づいた。
「……カミュー様、少々気になることが」
攻撃魔法の射程圏を外れて幾分騎馬の速度を落としたカミューがオルテスを見返す。
「何か?」
「先の戦いで、ミューズ市軍は俘虜を取られましたでしょうか?」
その問い掛けはカミューにも意外なものだったらしい。彼は瞳の色を深めて部下を見詰めた。
「……いや、そのようには聞いていない。今朝方の書状にも記されてはいなかった」
「敵陣の中に市軍の軍装を見た気がします」
ミゲルはあっと思った。捉え損なった違和感はそこにあったのだ。
「何だと……?」
ほぼ並足まで馬の速度を落としたカミューが眉を寄せながら背後を振り返る。そこには敵たちの狂乱が残るばかりだった。
「アレン隊長もかようなご報告はなされなかった……見逃される筈もございません。されど、確かに……」
思い切って口にはしたものの、オルテスも自信に欠けているのだろう。珍しく歯切れの悪い口調だった。ミゲルはそこでおずおずと口を開いた。
「団長、おれも見ました」
向き直るカミューよりも意外そうな顔をしているのはオルテスだった。
「何かが気になったのですが……オルテス殿のお言葉ではっきりしました。ほんの一瞬で見間違いかとも思いましたが、敵陣の最右に設えられたテントあたりで市軍兵を見た気がします」
経験浅き新任騎士に味方されたことはオルテスの矜持に多少面白からぬものがあったらしい。彼は憮然としたが、ミゲルを見る目には出撃前にあった冷たいものが消えていた。
「俘虜……だと?」
カミューは携えていた遠眼鏡で敵を一望し、その上で深々と考え込んだ。
確かにミューズ市軍にとって先の敗戦は屈辱的なものであったろう。それは手の内を明かさずに遠回しな援軍を求めたことからも明らかだ。彼らはマチルダ騎士団に出陣を請いながら、決して自らの置かれた劣勢を認めようとはしなかった。
しかし、その後カミューが送った書状で態度を軟化させ、物資による援護まで申し出てきた市軍でもあるのだ。そこには無用な見栄も意地もなく、共に手を携えて共通の敵を退けようとする都市同盟本来の在り方が見えてもいた。
今の状況であれば、市軍が俘虜を取られた事実を隠匿する理由などない。俘虜奪回によって優位を振り翳す騎士団でないことは十分に承知している筈なのだから。
そこへ第一のつとめを為し終えたローウェルの騎馬隊、更には装備を整えた第二・第三部隊も合流してきた。
「ご無事で……カミュー団長!」
「総員、総攻撃に向けての備えを固め終えました、カミュー様!」
アレンとエルガーがそれぞれに声を張り上げるが、カミューは黙したまま再度敵を一望するように目を細めた。
「……如何なさいました?」
ローウェルが荒い息を殺しながら低く問うのに小さく首を振り、カミューはオルテスを凝視した。
「オルテス、直ちにミューズの使者殿の許へ走り、事実の確認を」
するとオルテスは仰天したように目を見開いた。
「カミュー様! わたしは近衛の任を与えられた身にございます! お傍より離れることは……」
「目にした者が最も確かだ、行け! 敵陣内に同盟兵を捨て置いたまま勝利しても意味はない」
そこでローウェルらはぎくりとして目を見開いた。
「し、しかし……」
なおも躊躇うオルテスにカミューは厳しく言った。
「二度は言わない、直ちに事実を明らかにせよ」
ぴしゃりとした宣言であった。カミューは何処までも沈着な君主の片鱗を覗かせている。
オルテスはキッと唇を噛み締めた。
「……拝命致します……っ」
そのまま遥か後方に位置する医療小隊に向けて、馬は恐ろしい速さで小さくなっていった。
「カミュー団長、我が部隊は水も洩らさぬほど念入りにつとめを果たしました。誓って市軍捕虜の存在などは認められませんでしたぞ!」
やや紅潮しながらアレンが声を荒げるのにカミューは頷いた。
「分かっている。俘虜を得ているなら、敵にもそれなりの戦い方が在った筈……けれど……」
カミューは珍しく困惑していた。
実際に市軍の軍装を目撃したのは僅かに二人の部下に過ぎない。同時に二人とも確信というには些か弱いものを窺わせた。
常にきっぱりとものを言うオルテスが口篭もり、更にミゲルは彼の進言があって初めて目撃したものを思い出すといった曖昧さ。けれど聞き流すことは出来かねる意見───
「隠しておいた俘虜を盾に退却しようという心積もりでは?」
勇みに踏鞴を踏み続ける馬の首を叩いて宥めながら第三騎士隊長エルガーが控え目に意見を述べる。こうして敵に体勢を整える時間を与えてしまうことに苛立つようにローウェルは首を振った。
「敵は長くミューズ領に留まり情勢を窺っていた連中です。我ら騎士団がそこまでの配慮を市軍に払うとは予測していなかったのでは……」
いずれにしても、と彼は強い眼差しで上官を見詰めた。
「……ここで手を緩めては……」
「分かっている」
ミゲルは図らずも己の証言が予想以上に事態を大きくしたことに戸惑っていた。しかし逆に、次第に目撃した事実はくっきりとしていくようで、少なくとも敵の中に市軍兵が囚われていることへの自信は深まるばかりだった。
カミューは一度だけ嘆息した。続いてアレンとエルガーに目を向ける。
「予定通り敵を押し流す。第二・第三部隊総員で森側方面から攻撃を加える。悪戯に深追いするな、第一の目的は敵のハイランド領内への撤退である」
「拝命致します!」
二隊長は短く礼を取ると、自部隊を纏め上げて敵の左側へと進軍を開始した。再び残された第一部隊は指示を仰ぐようにカミューを見守り続けた。
「現在、オルテス殿が市軍の使者殿に確認に……」
カミューに従っていた騎士の一人がローウェルに説明したが、彼を含めた全員が難しい顔であった。混乱と戦いの最中にオルテスとミゲル垣間見たもの。疑うわけではないが、信じかねてもいるのだろう。
そうこうしている間にも、敵は関所へ向けての行軍を開始していた。すでに戦意は喪失したかに見える。後方からの攻撃に押されるような格好で、彼らは在るべき地に戻り行こうとしている。
「……もし本当に敵中に市軍兵が囚われているなら、見捨てることは出来ない」
やがてカミューは重々しく呟いた。はっと周囲が注目する中、彼は誇らかに頭を上げて敵を睨み据えた。
「けれど、このまま手薬煉引いていても事態は変わらない。ミゲルが目撃したというテントのあたりに向けて部隊を進める」
緊迫した場に出された己の名にミゲルは震えた。
「オルテスをお待ちには……?」
カミューはきつく目を閉じた。オルテス騎士の騎馬の速さは赤騎士団でも折り紙つきである。その男を以ってしてもこれだけ時間が掛かるのだ、よほど情報は錯綜しているのだろう。
「……撤退間際の兵が敵の俘虜に対してどう出るか……これ以上は待てない」
足手纏いになるものを切り捨て、同時に敗残の恨みを間近の敵に叩き付けて。
それは古から繰り返されてきた戦の悲哀だ。カミューの言わんとしていることを的確に理解した騎士たちは、憤然と隊形を整えて号令に備えた。
「市軍兵を目視したら、先ず救助に全力を注げ。何があろうと犠牲にしてはならない」
しなやかな指先が誇りの向かう先を示すように空を舞う。
「───行くぞ!」
カミューとローウェル、双璧を先頭に戴く騎馬隊が進軍を開始した。たちまちのうちに敵との距離は狭まり、遠目に見るよりも遥かに混乱している様が見て取れた。
終に魔力も尽きたのか、敵からは攻撃魔法による迎撃もなかった。間に合わせのような弓の飛来する中を突き進んでいた彼らは、そこで今度こそ目を見張った。
もはや統制の取れた一軍とは言えなくなった、右往左往する兵の中に、確かにミューズ市軍の軍装をした兵が数人在る。彼らはまさにカミューが恐れた通り、撤退の置き土産にと抹殺されようとしているところであったのだ。
「……許さぬ!!」
声を張り上げたローウェルが最初の敵を両断した。その隙にカミューが駆け抜けざまに俘虜を戒める荒縄をユーライアで断ち切る。不意に自由を与えられた兵は、崩れ落ちた敵の剣を握り締めて周囲を窺った。
「馬を奪え! 離脱するぞ!」
命じながらローウェルは次の敵に斬り掛かっていた。先ほどとは異なり、完全に乱戦の中に留まって剣を振るうことになった第一部隊は、二人の上官が次々に市軍兵を解放するのを横目で見守りながら敵を近づけぬよう細心を払った。
囚われていた兵は全部で四人、思いがけず少ない。ミゲルはそのうちの一人が敵の馬を略取して這い登る様を見詰め、だが何故か胸に重い不安を覚え続けていた。
敵に捕縛されていた男たちの不安が乗り移ったのか、それとも───

 

 

「カミュー様! 市軍兵を連れて離脱を……!」
秩序を失いかけている闘争から主君を護ろうとするローウェルの必死の叫びだった。躊躇うことなくカミューは応じる。同盟を結んだ都市の兵を安全な場まで導くことを優先したのだ。
彼は促すように市軍兵を顧みると、華麗な手綱捌きで混乱から抜け出た。続いたのは近衛騎士と軽傷を負った四人の俘虜のみであった。
幾ばくか馬を進めた後、カミューは市軍兵が追いつくのを待とうと振り返った。ミゲルは傍らの騎士団長が普段よりも厳しい目をしていることを意外に思う。彼ならば、命長らえた同盟都市の兵を微笑みにて迎えようと無意識に決め付けていたのだ。
「……我が名はマチルダ・赤騎士団長カミュー」
密やかにも感じられる宣言。次いでミゲルは自団長の右手がユーライアを握り直すのを見た。

 

嫌な予感がした。
とてつもなく不快な、寒気を伴った予感が。

 

無言のままだったミューズ市軍の俘虜が手にした得物を振り翳すのと、遠くから覚えのある声が絶叫するのは殆ど同時だった。

 

「……市軍は俘虜など取られていない! カミュー様、それは───」

 

 

───敵。
狡猾な罠を張り、味方を装って。
想いを捧ぐ唯一の人に牙を剥いているのは忌むべき敵。

 

 

それもまた反射だった。
カミューの左、死角から振り下ろされる白刃に向けて馬に鞭を入れたミゲルは、煌めく軌跡が己の左肩から右腹部へと斜めに走るのを自身の目で見た。
そして、如何なるときも聞き漏らすことのない慕わしい声が悲痛に呼ぶのを遠いことのように聞いた。
「ミゲル……!!」

 

 

何があろうと傷つけさせはしない。
たとえそのために命を落とそうと───

 

 

ミゲルは鮮血を迸らせながら、自らを斬った男の右肩へと剣を振り落とした。一瞬驚いたように目を見開いた敵が瞬時に絶命したのが分かった。

 

皮肉なものだ。こんなときに初めて知るなんて。
これが人を殺すということか。
そしてこれが───

 

腹部に当てていた手がねっとりと紅く染まっていた。
焼け付くようだった痛みが嘘のように退いていく。痛覚すら失われていこうとする闇の中、ミゲルは己を見詰める悲しげな琥珀を見たような気がした。

 

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ようやく指令をクリア。

一応、半殺してますv
……が。
赤のためなら地獄からでも舞い戻る。
それが我が家の赤騎士団員の条件。
何て執念深い(←× ○ケナゲな)野郎共……。

 

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