8.
敵を誘い出す策は的確にはたらいているようだった。
今では遠目にもはっきりと陣形が崩れているのが見て取れる。敵も何とか陣を整えようと務めているのだろうが、休む間もなく迫り来る騎馬隊の波状攻撃に為すすべもないらしい。
遠眼鏡で刻々と変化する戦況を逐次見守り続けるローウェルが、ふと意を量るかのようにカミューを一瞥した。美貌の騎士団長は微かに頷くことで部下の問いに答える。ローウェルは伝令の任を与る騎士を呼び寄せた。
「アレンに告げよ、これより次の策に入る」
「拝命致します、ローウェル隊長!」
馬が矢のように飛び出していく。伝令騎士が第二部隊と合流して程なくした頃より、敵の陣形は関所方向へ向けて大きく流れるが如き歪を為すようになった。
「これは……?」
またしてもミゲルは我知らず呟いていた。途端にオルテス騎士が睨みつけたが、騎士団長が再度の講義を始めぬよう配慮したのか、自ら面倒臭そうに口を開く。
「第二部隊は攻撃の手を緩め始めた。敵を関所方向へ流すためだ」
オルテスの解説は実に手短で、戦経験のないミゲルには理解し難かった。困惑しているのに気づいたのか、彼は大仰な溜め息を洩らした。
「……敵に退路を与えているのだ」
「な、何故ですか?」
ミゲルが驚いて瞬くと、オルテスはカミューを窺うようにしながら口篭もった。
「敵の殲滅が最終目的ではないからだよ」
言葉を詰まらせたオルテスの代わりに、相変わらずのんびりと二人を見もせぬままカミューは言った。
「ど……どういうことです?」
確かに敵とは言えど人の命だ。騎士団の教義も無為な殺戮を厳重に禁じている。しかし、それはあくまで結果としてであり、最初から敵を逃がす策を弄するなど聞いたことがない。
カミューは食い入るようなミゲルの視線に試すような瞳を返した。
「一から十まで答えてしまっては芸がないな。その答えは自ら考えるがいい、ミゲル」
そう言って再び前方に向き直る。途方に暮れたミゲルはオルテスを見たが、彼も冷たく顔を背けるばかりだった。
そうこうしているうちに、終に敵の陣形の様相に大きな変化が明らかとなった。向かって左側面が完全に国境の森から切り離され、全体が関所方向へと伸びるかたちとなっている。
「見事だ……アレン、エルガー」
カミューは前線部隊を率いる二部隊長を独言のように慰労した。
彼は二つの報告を待っていたが、やがてそのうちの一つがもたらされた。息を切らせて舞い戻ってきたのは、当の二隊長である。ほぼ与えられたつとめを果たして誇らしげに表情を輝かせているアレンとエルガーは、互いの無事を眼差しで祝福し合ってからカミューに礼を取った。
「ご報告申し上げる! 残り二度ほどの攻撃を以って敵陣後方に回り込めましょうぞ!」
「森側は完全に切り離しが完了致しました!」
よし、と頷いたローウェルがカミューを見詰める。
ほぼ時を同じくして、待ち望んでいたもう一つの報告が為された。最後尾に位置している医療を託された小隊の騎士が馬を巡らせてきて、戦況を見守っている要人たちに向けて声を張り上げる。
「ミューズからの物資が届きましてございます!」
一同がおお、と声を弾ませた。広がる戦火の中、そろそろ二部隊手持ちの札が手薄になっていたのである。
「……使者殿を厳重にお護りするように」
端正な容貌に目立った安堵も浮かべようとはせず、カミューは静かに命じた。
「アレン、エルガー、これより二部隊を退かせる。札の補充をした上で総攻撃に備えよ」
「はっ!」
「……ローウェル」
名を呼ばれる前に、第一部隊長は部下から強弓を受け取っていた。番えた矢は鏃に特殊な加工を加えたもので、騒乱の最中にも耳に絡みつく音を発する種の品である。
彼は逞しい腕で弓を引いた。放たれた矢は異様な響きを撒き散らしながら空高く昇っていく。それを見届けた上で、カミューはゆっくりとユーライアを抜いた。傍らに従う第一部隊長をちらと見遣り、かたち良い唇を綻ばせる。
「では行こうか。二小隊ほど借りる」
「はい、カミュー様」
ローウェルは素早く振り返って自部隊を二つに割った。無論、カミューに添う部下を上位小隊にすることを忘れない。
ミゲルは束の間呆然とした。よもや騎士団長自らが剣を抜いて敵陣に突っ込むとは思ってもみなかったのだ。そこで出陣前、自部隊長に言われたことを思い出す。
『戦場であの方が後方でのんびりと部下の戦いを眺めておられるだろうと思うなら、考え違いも甚だしい』───あれは本当だったのだ。
副長ランドと共にもっとも近しく存在する部下であるが為に、ローウェルは上官の思考を正しく理解しているのだろう。
「わたしは中央から右に抜ける。左は任せた」
「心得ましてございます」
屈強の騎士隊長も愛剣を抜き取りながら眼差しを返す。彼らに漂う無比なる信頼の流れを心から羨望しつつ、ミゲルは手綱を絞って剣を抜いた。
馬術の技は正騎士叙位の前後から死に物狂いで磨いた。訓練時、自部隊長の感嘆を誘うほどには上達した。けれど、これから向かうのは未知の世界だ。過酷ながらも命を保証された訓練とは異なる、文字通り死と隣り合わせの領域。
「仮にも近衛に任ぜられた身、足手纏いにはなるな」
不意に馬を寄せたオルテスが小さく囁く。
侮蔑なのか檄なのか、ミゲルには今ひとつ判別し難かった。だが、言われたことは紛れもない事実である。何があってもカミューについていかねば意味がない。彼を護り、臆することなく敵中を駆け抜けてこそ、掛けられた期待に応えられようというものだ。
「……肝に銘じて」
頷き返したミゲルに、オルテスはやや眉を寄せた。意図はどうやら侮蔑気味であったらしい。それが分かったことで逆にミゲルは四肢から余計な力が抜けるようだった。
戦経験のない、期待の幾倍も多くの懸念を寄せられている我が身。自らが逆境にこそ奮い立つ質であることを、ここへきてミゲルははっきりと感じたのである。
───かつて散々モップとバケツを抱えて試練と戦った身に、何を恐れるものがあろうか。
なめらかに剣先を空に掲げた美貌の青年を見詰めながらミゲルは息を飲み込んだ。
矢の合図に従って次々に退いてくる騎馬小隊の最後の一団が行き過ぎると同時に、抜けるような声が第一部隊に命じた。
「───続け!!」
赤騎士団の主君を追うように、騎馬部隊は一気に駆け出した。味方の勇壮なる戦いを焦れながら見守っていた第一部隊の騎士らの勢いは凄まじく、轟く蹄の音によってまともな聴覚さえ働かない。
ミゲルは仲間の近衛騎士らとカミューを囲むようにして馬を駆っていたが、予想通り天才的な馬術を誇る自団長についていくのは生半可なことではなかった。
「遅れるな、ミゲル!」
鋭い叱責を放ったのはカミューの左に位置するオルテスだ。騎士団長の利き手の死角を防護する役目を与えられた彼は近衛の中でも最も優れた剣腕を持つ。
そんな男から見れば、自分はつくづく不安材料なのだなと考えるだけの余裕が、まだミゲルにはあった。彼は馬に鞭を入れて速度を上げると、与えられたカミューの右後方の位置にぴたりと着いた。
最初の衝撃が来た。
敵の放った攻撃魔法である。それらは札によって防御されたが、波状攻撃が一旦止んだことで多少敵にも余裕が生じたのだろう、すかさず第二弾の魔法が放たれる気配があった。
次の札の発動は間に合わない───ミゲルがそう覚悟したとき、間近のカミューから薄紅い光が零れた。
剣を握り、紋章を掌る右手が高々と指した空、そこへ立ち昇っていく紅蓮の炎。放たれた烈火の壁が雷の魔法を塞き止め、消し去った。
刹那、息を止めて見惚れる己にミゲルは気づく。
赤騎士団はカミューに護られている。
ほっそりとしなやかで、優美で端正な若き騎士団長。
けれど彼は誰よりも力強く男たちを支える柱なのだ───
「ご武運を、カミュー様!」
併走していたローウェルが鋭く叫んだ。彼は敵の左、森側から攻撃を加えるために自部隊の大多数を率いて距離を取り始める。そうして初めてミゲルはカミューに従う騎士の少なさに唇を噛んだ。
これは『呼び水』と同じ心理作戦なのだろう。敵は数に劣るこちらの隊を叩こうと躍起になるに違いない。そこを突破することで更に敵陣を関所方向に流れさせようという意図なのだ。
いずれにしても、カミューが危険な道を選んだことは間違いない。それが彼という指揮官であり、部下の庇護に甘んじるだけの剣士でないことの証なのだ。
雨のように降り注ぐ敵の矢を潜り抜ける、疾走する風の如き騎士団長の背。そこに涙しそうな感激を見出しつつ、ミゲルは剣を握り直した。
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