7.
太陽は刻々と頭上に駆け上がり、散らばる陣幕がざわめき始めた。
騎士たちの身繕いは瞬時に整い、辺りには厳然たる軍馬の蹄の音が轟き渡る。
速やかに隊列を整えていく勇壮なる男たちの中、ミゲルはいつしか胸を高鳴らせている自分に気づいた。それは敵を屠ることにではなく、仲間と共にひとつの意志を掲げて突き進むという状況によって生み出される猛りであり、いずれの騎士の表情にも浮かぶものである。
ぐるりと目を巡らせれば、すでに軽鎧に身を包んだ端正な赤騎士団長が見えた。未だ兜はつけておらず、天高い陽射しに照り返る薄茶の髪が金色に輝いている。ふとローウェル第一部隊長が馬を寄せ、何事か言い募った。カミューは苦笑し、面倒臭そうに手の中で兜を回していた。
この地に布陣する三部隊がそれぞれに完全な整列を終えたのを見計らい、カミューの傍らに位置を取るローウェルが声を張り上げる。
「これより敵陣に向けて進軍を開始する!」
静かな行軍の開始だった。
各部隊の担うつとめは朝のうちに伝えられている。殊更に雄叫びを上げるでもなく、仲間うちと檄を飛ばし合うでもなく、彼らは整然と馬を進め始めた。
左右に第二・第三、中央にカミューを掲げるかたちで第一部隊。風の行き過ぎる先には蹄鉄が掻き削った大地が舞う。
静やかな行進は、やがて遥かに距離を隔てた彼方に鎮座する一軍を望めるようになったところで停止した。個々に踏鞴を踏む馬の息遣いが折り重なる。
対する敵も騎馬の軍勢に気づいたのだろう、肉眼では茫としか見えないけれど、俄かに緊張が駆け抜けていくのが感じられた。
遠眼鏡にて相手の様子を窺っていた第一部隊長ローウェルが、僅かに視線を巡らせて上官を見た。戦に臨むとは思えぬまでに涼やかで常と変わらぬ美貌が真っ直ぐに敵に向かっている。そこには部下たちのような勇みもなく、あまりに見慣れた穏やかさだけが漂う。
そういえば、とローウェルは過去を反芻した。
遠い日、新任騎士隊長として初めて戦場に出たカミューもそうだった。ローウェルと対を為すかたちで最前線に布陣した彼は、そのとき弱冠十七歳。
にもかかわらず、沈着につとめを果たし抜いたカミュー。戦神にすら愛されているかの如き、凄まじくも美しき戦いぶりによって多くの男たちを跪かせた若き騎士。
今もなお忘れ得ぬ衝撃と感動を懐かしく思い返したローウェルだったが、ゆっくりと首を振って感傷を押し込めた。
続いて目を向けた部下が恭しく一対の弓矢を捧げ持ってカミューの横へ馬を寄せる。弓は古より赤騎士団に伝えられるもの、矢は真紅に染め上げられた特注の品である。
しなやかな手を伸ばしてそれらを受け取ったカミューは、やや物憂げに自らの装備を整えた。軽く弓の張り具合を確かめた上で矢を番えると、一度だけ長く息を吐いた。
注がれていた部下たちの注視が前方へ移る。カミューは視線を中空へ投げ、それから瞑目した。
「……古の戦神よ、我らに加護を───」
小さな呟きながら、取り巻く男たちの耳には柔らかな声がはっきりと聞こえた。
「礼と節、剣の導く先に誇り在る勝利を」
きりきりと引き絞られる弦だけが静寂の中に生きる唯一の指針。
「赤騎士団長カミューが命ずる───進撃開始!」
澄み切った声が叫び、放たれた矢が高々と天に駆け上がっていった。同時に左右に布陣していた第二・第三部隊が弾かれたように飛び出していく。
驚嘆すべき速度で敵に向かっていく自団の仲間を見据えつつ、ローウェルはカミューが部下に弓を戻すのを横目で見た。
「……かなり端折りましたな」
最高司令官の戦開始の宣誓。部下を鼓舞しながら勝利を請う誓詞詠唱は本来もっと長々しいものである。カミューよりよほど多くの戦経験を持つローウェルであるがゆえ、思わず洩れた一言だった。
そんな男に苦笑混じりの一瞥を返し、カミューは艶やかに微笑んだ。
「励まさねば奮い立てぬ部下は持ち合わせていない。軍神は真に力在るものに味方するだろうから、くどくどしく助力を求めるつもりもない。それに───」
そこで彼は自らの背後に残った第一部隊の騎士らを一顧して肩を竦めた。
「長い演説に聞き入るなど、戦う前から疲れるじゃないか」
赤騎士団・第一部隊の男たちは、ここが戦場であることを一瞬忘れて唇を綻ばせた。
左右に展開した二部隊は小隊ごとにおよそ縦長の陣形を組みながら一気に敵に突き進んでいる。上空からの一望ならば残された第一部隊と敵の間に二本の橋が掛けられているかのように映ることだろう。
向かって右、ハイランドとの関所方面側を任されているのは第二部隊である。先頭を切って馬を駆る部隊長アレンは最初の札の発動を命じながら自らも魔守の封を解き放つ。
魔法攻撃の射程距離に入った途端、空を裂くようにして雷鳴が轟いた。が、一団を護る輝きは耳を劈く雷の魔法を巻き取り、吸い込んだ。第二射が放たれるまでの詠唱に費やされる僅かな隙、そこを突いての最初の攻撃が敵の前線兵士に振り翳される。
装備にこそ統一性は見られないが、敵は明らかに熟練した兵士だった。疑うべくもない、ハイランドの尖兵である。だが彼らはミューズ市軍に対して絶対だった魔法攻撃の効を潜り抜けて目前に迫った騎士に相当な動揺を見せた。
アレンは敵の左、国境の森側に同時に攻撃を掛けた第三部隊を見遣り、隊長エルガーが小隊を退かせるのに合わせるようにして部下に退却命令を与える。鮮やかな撤退の後に残るのは、さほど多くはない敵兵の亡骸のみである。
前線に陣取る兵が騎士と混戦を繰り広げる間に魔法兵が再び攻撃魔法を唱えたときには、次の小隊が入れ替わっていた。彼らも第一陣同様、守護の札を発動させてからの突撃である。魔守を掻い潜った魔法が数人の騎士を傷つけたが、いずれも致命傷とは成り得ぬものだ。騎士は再び敵陣の前面を叩き、一気に退いていく。
遥か後方からその様子を遠眼鏡にて睨むローウェルが満足そうに呟いた。
「……敵は相当浮き足立っておりますな」
カミューは黙したまま頷く。
彼を囲むようにして陣取っているミゲルは、ついさっきはあれほど近しく感じられた青年が触れ難い威厳に包まれているのを物寂しく思った。彼方では味方が敵と命を懸けた攻防を展開しているのに、間近のカミューの機微を窺うのに精一杯になっている自分を恨めしくも思う。
「……あの」
僭越だろうかと悩みつつ、ミゲルは小声で切り出した。
「カミュー団長……もう少し下がられた方が良いのではありませんか……?」
彼の気遣いはもっともなものであった。
流石に現在、第二・第三部隊との交戦に忙しい敵からの攻撃はない。しかし、距離があるといっても敵の様子が一望出来るように、相手からもこちらは丸見えなのだ。旗兵が握る、風に翻るマチルダ騎士団の旗は、ここに総指揮官在りと敵に告げているのである。
戦場においては如何様な逆襲も在り得る。出来るだけ安全な場所に居て欲しいと願ってしまうのは部下として当然の心とも言えた。
けれどカミューはミゲルが問うた途端に肩を竦めた。
「ミゲル、何故こうした戦法を取っているか分かるか?」
先ほどから二部隊が行っている波状攻撃のことを言っているのだろうとミゲルは頷く。
「あれならば敵の魔法攻撃を無効と出来ます」
「……そこまでは机上の理論さ。本当の狙いはその先にある」
「え……?」
カミューはのんびりと馬の首にもたれ掛かり、ちらと若者を見た。
「絶対の自信を持っていた攻撃をやぶられて動揺しているところへ敵が襲い掛かってくる。当然、彼らは逆襲を図るが、肝心な敵があっさりと退いてしまう……さて、彼らはどう出る?」
謎掛けのように問われてミゲルは眉を寄せた。カミューは答えを待たずに微笑む。
「おそらく彼らの指揮官の指示は『動かぬこと』……最初から魔法兵に頼った陣形だ、剣による混戦には対処し切れない。けれどね、前線の兵の心理というものはなかなか複雑に出来ている。目の前で退いていく敵を追わずにはいられないのさ」
見るがいい、とカミューは彼方の敵陣を指した。
「遠目にも分からないか? 最初の布陣よりも、やや前に出てきているように見えるだろう?」
ミゲルは呆然としてその光景を見詰めた。
敵は国境の壁や森にへばりつくような陣形を敷いていた。けれど、確かに今はその形態が崩れているように見える。言ってみれば、前面に突出し始めているようなのだ。
カミューは静かに続けた。
「策は呼び水……彼らは第二・第三部隊によって徐々に誘い出されている。絶対なる命を受けながら、どうしても彼らが前に出てきてしまうのには、もう一つ理由がある。ここに欲しいものがあるからだ」
「欲しいもの……?」
「わたしの首さ」
物騒なことを口にしながら彼は朗らかな口調でさえある。
「餌はより明確に見せてやる必要があるだろう? わたしとしてはもう少し前に出たいくらいだけれどね」
そこで傍らのローウェルが渋い顔をした。二人の間で散々交わされた遣り取りなのだろうと察してミゲルが息を吐いたとき、近衛騎士仲間である一人の男が振り返った。
「……ミゲル。ここは学び舎ではないぞ、戦場だ。カミュー様のご注意を逸らすような真似をしてはならぬ」
この近衛騎士はほぼカミューと同年齢であり、名をオルテスという。
容貌・体躯にも恵まれた理性的な騎士だが、言葉尻が辛辣であることで有名だった。彼の吐く論は常に周囲の耳に痛く、第一部隊の中でもあまり仲間に立ち交わらない男だとミゲルは認識していた。
「す、すみません……!」
確かに戦いの真っ最中にカミューに講義させたことは詰られても仕方ないことだ。ミゲルは慌てて謝罪したが、カミューは小さく苦笑した。
「相変わらず手厳しいな、オルテス……まあ、そう言うな。兵にとって常に戦場は学び舎さ。但し、命懸けの……だけれどね」
「───僭越ながら、カミュー様はミゲルに甘過ぎておられるのでは……」
やや低めた声で言うオルテスに、今度はローウェルが顔をしかめた。
「場を弁えよ、オルテス……ミゲルもだ。戦況に目を戻せ」
最高部隊長である男の鋭い諌めに二人は即座に礼を取る。ただ一人、名を言及されなかったカミューもまた、やれやれといった様子で手綱を握り直すのだった。
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