15.
ミゲルがオルテスの加護を受けながらミューズ市を経ったのは、それから4日後のことであった。
瀕死の重傷を負った身のあまりに早い出立にホウアンは呆れた顔をしていたが、目覚めて後のミゲルの回復への執念には鬼気迫るものがあった。
それが唯一の存在の傍へ一刻も早く戻りたい一念であることを認めた医師は、困ったように微笑みながら最後の診察に勤しみ、渋々ながら了承したのだ。
オルテス騎士が最後まで残ったのは、こうしたミゲルの心境を慮ったために違いない。未だ完全に体力を取り戻したとは言えず、それでも這ってでもロックアックスに戻ろうとするであろう若き騎士を護り、無事に故国へ導くための配慮、それが彼の随行だったのである。
時折ふらつく身体を叱咤しつつ、ロックアックスへの帰還はゆっくりと果たされた。
その間、ミゲルはオルテスから多くを聞かされた。時に辛辣で周囲に交わらぬよう心掛けているかのような男は、自ら選んだ騎士の道を厳しく考える人間だった。
いつ、命を落とすかも知れぬ身であるがゆえに必要以上に他者と交友を結ばない。それは死した後に嘆く友を作りたくないという彼なりの竦みであり、怯えだったのだとミゲルは知った。
けれど、と彼は恐る恐る口にしてみた。
───あなたが失われたら、やはり皆が悲しむだろうと思われますが。
するとオルテスは意表を突かれたように瞬いて、ひっそりと微笑んだ。
友情とか、親愛とかいった言葉では言い尽くせない確かな絆が騎士の間には流れている。たとえ彼が憎まれ役に徹することで後顧の憂いを断ち切ろうと願っても、崇高なる誇りの許に集う騎士たちには血にも似た深い絆が存在するのだ。
彼も十分に分かっているのかもしれない、そうミゲルは思った。それでも尚且つ恐れを抱く、オルテスの人間らしさが其処に在るのだと。
関所を越え、マチルダ領に入ると気候が一変する。ミューズ領は真冬のこの時期にも薄い外套で凌げるが、ここからは事情が変わる。
病み上がりの身を気遣い、前もってミューズで入手していた厚手の上着をミゲルに渡しながらオルテスは揶揄した。
顔色が優れないな、今からカミュー様のお叱りに怯えているのか。
ミゲルは苦笑をもって答えた。
───怒った団長がどれほど恐ろしいか、あなたはご存知ないから。
オルテスはにやりとし、『そんなカミュー様を知っていること自体、皆の妬みを受けるには十分だ』と一蹴した。
ほんの僅か離れていただけなのに、ロックアックスの街が見えてきたとき、ミゲルは重い感慨に息を詰めた。生きて戻るということの意味を我が身で実感したのである。
遥か遠くに聳え立つ居城、其処に待つ慕わしいひと。
───戻ってきました。
もう一度、あなたの傍らで剣を振るうために。
心中で呟いたミゲルは、出陣前よりも僅かに強靱な『男』の顔となっていた。
「ミゲル、戻ったのか!」
「良かったなあ、おまえ……完勝した戦いの唯一の犠牲者ってのはイマイチ締まらないぞ」
「これで晴れて赤騎士団、総員生還。まったくもって奇跡だ。今宵我が部隊は非番、皆で飲みに出るか」
第一部隊の詰め所を覗いた途端、居合わせた騎士らが一斉に走り寄って口々に声を上げる。男たちは新任騎士でありながら重要なつとめを果たした若者を心から慰撫し、帰還を喜んだのだ。
手荒く小突かれる歓迎を受けたミゲルは戻らぬ体力に負けてよろめいていた。無言のまま見守っていた隊長ローウェルが最後にゆっくりと歩み寄る。
顔を上げ、真っ直ぐに上官を見詰めたミゲルの頭に唐突な拳骨が落ちた。
「い、いたた……」
「痛むのは生きている証だ、大馬鹿者めが」
顔をしかめて頭を擦るミゲルを、彼は溜め息で見下ろした。
「カミュー様が生還なさらねば戦は負け……だからといって『代わりに死ね』と命じたつもりなどないぞ、たわけ者」
「は、はい……それはもう十分に……」
病み上がりに容赦ない拳骨はあんまりだ、そう恨みがましく涙目になるミゲルだったが、ふとローウェルの苦しげな表情に気づき、同時にオルテスに言われたことを思い出して丁寧に頭を下げた。
「すみませんでした、隊長……」
「その言葉はカミュー様に取っておくのだな」
心からの謝罪はぴゃりと切って捨てられる。
「慣例にはないが……一応、報告に伺うがいい。この時間なら、私室におられる筈だ」
「は、はい」
「……覚悟して臨めよ」
ここでもやはり不穏な忠告を出され、ミゲルは消沈した。ローウェルはその傍らに立つ男をも慰労した。
「ご苦労だったな、オルテス」
「は、なかなか楽しい任でございました」
朗らかに言ったオルテスを周囲の騎士が驚いたように見る。これまでの男には感じられなかった明るさがあったからだ。
「……オルテス、今日くらいはおまえも飲みに付き合わんか?」
一人がおずおずと切り出すと、彼は軽く頷いた。
「ミューズからの道程、モンスターと遭遇して結構な金を得た。一杯ずつなら奢っても構わない」
初めて仲間の輪の中に入ろうと試みるオルテスに、ミゲルもまた温かな心地を覚えた───が、続く言葉には憮然とした。
「ミゲル、貴様は除外だ。一応は怪我人だからな、兵舎で大人しく養生しろ」
「大丈夫です、連れて行ってください」
「馬鹿者」
「慮外者」
オルテスとローウェルが同時に言う。
「ここまで面倒見てやったのに、何故わたしが奢ってやらねばならんのだ。それにおまえは赤騎士団・近衛の法を破った。自粛しろ」
「……それは知らなかったのに……」
「これ以上おまえを遊ばせる時間などない。さっさと身体を元に戻してつとめに臨め」
「………………はい」
ミゲルががっくりと肩を落としたとき、詰め所に現れたのは青騎士団・第一部隊長マイクロトフである。
「失礼、ミゲルが帰還したと聞いたのですが……」
「おお、マイクロトフ殿。貴君も一発どやしてやって欲しい」
ローウェルが笑って歓迎するのに一礼し、マイクロトフは控え目に口にする。
「申し訳ない、少々ミゲルをお借りしても宜しいか?」
「構わぬ、どうせこやつは今しばらくは療養の身……何なら従者に貸し出すが」
とんでもない申し出に目を白黒させているミゲルを可笑しそうに見遣ったマイクロトフは、改めて深い礼を取った。
「では、お言葉に甘えて。ミゲル、話がある」
マイクロトフはミゲルを城の中庭に誘った。
よくカミューと待ち合わせて語らいに使う庭は、冬枯れて見るからに寒そうだった。彼はミゲルが手にしたままだった外套を纏うよう命じ、ゆっくりとベンチに腰を落とした。
「……運が味方したようだな、何よりだ」
低く言った男にミゲルは項垂れた。
「すみません……おれ、口ばかりで……自分が情けないです」
「そうでもないぞ」
座るよう促したマイクロトフだが、ミゲルは悄然と立ち尽くしたままだ。嘆息して首を振る。
「おれはカミューの生還を疑わずに待つことが出来た。傍におまえが居たからな」
「マイクロトフ隊長……」
「だが」
そこで男は厳しい目で若者を睨んだ。
「履き違えるな、ミゲル。カミューが戻ることだけが全てだなどと……、おれはそんなふうには思っていないぞ」
言わんとすることは痛いほど分かる。ミゲルは小さく頷いた。
「おれが焦れながら待つしかない間、おまえはあいつの傍らで戦うことが出来る。そして……おまえの気持ちは誰よりも理解しているつもりだ。けれど───死ぬなよ、ミゲル」
深い漆黒の双眸が真摯に見詰め続けている。そこには想い人を見る激しさとは異なる、凪のような静かな情愛があった。
「……苦しめないでやって欲しい」
迷うように紡がれた言葉。ミゲルははっとして顔を上げる。
「カミューは……護られるが故の他者の犠牲を生涯忘れないだろう。そして己を責め続ける。そんな目に遭わせぬよう、生き抜いてくれ」
ミゲルは切なく微笑んだ。
「それは……隊長にも当てはまることですね」
「───ああ」
分かるのだ。
同じように一人の人間を想う者同士だからこそ。
どれほど拒まれようと、カミューが危地に立たされれば、やはり飛び込んでいくだろう。我が身を傷つけても、彼の人を護らんと祈るだろう。
けれど、そのために彼を遺して逝ってはならない。
彼の足枷にならぬよう、見えない疵とならぬよう。
「……体調はどうだ?」
不意にマイクロトフが調子を変えて訊いた。
「はい、まだ万全ではありませんが……もう傷も痛まないし、大丈夫です」
それから苦笑しながら付け加える。
「……団長私室の床磨きくらいなら、何とか……」
冗談混じりの一言に、だがマイクロトフは難しい表情となった。
「それで済めばいいがな」
「廊下磨きもつくでしょうか……?」
いや、とマイクロトフはミゲルを見詰め、自身の頬を擦りながら言い難そうに告げる。
「右を殴られたら、大人しく左側も差し出しておけ。おれに出来る助言はそれくらいだ」
← BEFORE NEXT →