16.
「カミュー様、先ほど門兵からオルテスとミゲルが戻ったと報が入りましたぞ」
団長私室の扉を開いた副長ランドが、やや声を弾ませて告げる。が、続いて彼は僅かながら眉を寄せた。設えられた机に向かう騎士団長は顔も上げず、短く『そうか』と答えるばかりだったのだ。
若き指導者が自らを庇って負傷したミゲルを心底案じていたのは明らかだ。それは近しく在るランドには痛いほど分かっていた。
戦場では幾らでも人は傷つき、死ぬ。逐一気に病んでいては到底身が持たない。
そうやって慣れていくことを恨みながら、しかし振り返ることは許されない。それが上に立つ者の苦悩であり、課せられた荷とも言える。
ランドとてミゲルを案じなかったわけではない。
将来を嘱望する若者──あるいは散々赤騎士団上層部を悩ませた過去を持つ暴れ馬として目を掛けてきた騎士だ。初陣で傷ついた彼の帰還を祈らない日はなかった。
ましてカミューは───
目の前で部下が己の代わりに血を流したのだ。常に冷静で感情を露にせぬ青年なだけに、ひっそりとした微笑みの裏にどれほどの懊悩を隠し持っているか、想像に難くない。
ロックアックス帰還時、その後に続いた御前会議の席上においてのカミューは、中枢の騎士らの目にも憔悴著しく、危うげに見えた。沈着の影に併せ持つ部下への慈しみや責任、それは自らへの刃となって胸を裂いていたに違いない。
しかし彼は僅か一晩で日常を取り戻した。
上官の機微にはかなり聡いと自負するランドにすら、心情を覗かせない。ゴルドーに進言した二通の書状の草案を作り終えた後は、ごく当たり前の毎日が送られている。
数日前、ミューズに残した第一部隊長ローウェルが戻り、どうやらミゲルが危地を脱したとの報が為されたときも彼は眉根ひとつ動かそうとはせず、ただ薄く笑んだだけだったのだ。
それでもカミューの若者への情は疑うべくもなく、生還を果たした報を喜ばぬ筈もないというのに───
「カミュー様……?」
「ああ、聞いているよ。ランド……これなんだが」
ようやく顔を上げたカミューは数枚の書面を揺らしながら副官を招いた。机の前に直立する男は、渡された書面に目を落とす。
「あのとき敵が放置していった武具や装備を売り払った明細だ。今回の出陣で予算は綺麗に使い果たしたからね、ミューズ市へ札の代金を送った残りは赤騎士団の財として保持しておく」
「は……」
ランドは小さく苦笑した。
敵の陣を調べ、使えそうなものを持ち帰るよう進言したのは第七隊長ランベルトである。商才を買われて赤騎士団の武具調達を与る彼は、あの混乱の中で己の才を如何なく発揮したようだった。
「それにしても、これは……商人は泣きましたでしょうな」
「もう諦めたようだった。わたしが赤騎士団長を勤める限り、薄利は覚悟の上だとぼやいていたよ」
カミューは艶然と微笑んで背もたれに沈む。そこに常と異なる気配は見えず、先ほどの報告も宙に浮いたかたちとなったままだ。そこまでくると流石にランドも切り出さずにはいられない。
「カミュー様、ミゲルに出頭の命を出しましょう」
「必要ない。負傷兵は所属部隊長に帰還報告を果たすことのみ義務付けられている。こちらから呼びつける必要はない」
きっぱりと言い放ったことで微かに表情を硬くするランドを見遣り、カミューは幾分口調を緩めて続けた。
「……呼ばずとも、そのうち顔を出すさ。ローウェルあたりにせっつかれて、ね」
「はあ……」
言われてみれば当然の気がするランドである。無骨ながら誰よりも礼節には厳しい第一隊長のことだ。そうした配慮を欠く筈もない。
それでもカミューの素っ気無い態度には何処か蟠るものが残る。首を傾げ続けていると、今度こそカミューは明るい笑顔となった。
「いいのかい、ランド? そろそろ第五・第六部隊の合同演習の刻限だろう?」
演習に立ち会うことになっているランドはぎくりとして背を正した。
「左様でございました。では、任に向かいます」
「頼んだよ」
生真面目な副官は即座に部屋を出て行こうとしたが、そこで話題の人物と鉢合わせた。ノックしようとした姿勢のまま、いきなり開いた扉に驚いて目を見張る若者にランドは満面の笑みを浮かべた。
「よく戻ったな、ミゲル」
先に上官から慰撫されてしまったため、きまり悪そうに頭を下げたミゲルが改めて言上する。
「ようやく帰還が叶いました。遅れて申し訳ありません」
「大事ないか?」
「当分は療養を命じられましたが……鈍らぬ程度の鍛錬は怠らないつもりです」
ランドはふと眦を緩めた。
かつてはとんでもない無法者だった少年が、何時の間にか立派な男の顔になっている。
生死の境をさ迷ったからか、一皮剥けたような成長ぶりだ。この若者はいずれ赤騎士団の宝となるだろう───そんな予感がある。
だが、当のミゲルにはランドの心中を量る余裕まではなかった。部屋の奥深く在る人を思うだけで、自然と落ち着きは失われてくるのだ。
次第にそわそわと室内を窺う若者にランドは苦笑した。彼自身、これ以上は時間が許さない。
肩を叩いた副長が去っていくのに軽く礼を払った後、ミゲルは息を飲み込んだ。
開かれた扉の奥に待つ唯一の人。無理を押してでも戻らねばならないほど、会いたくてたまらなかった騎士団長。
ミゲルの来訪に気づいているだろうに、彼は机に視線を落としたまま持ち込んだ書類の裁可を続けている。
ミゲルはゆっくりと足を踏み出し、静かに扉を閉めた。歩み寄って机の前に立ってはじめて、カミューは物憂げに顔を上げる。生きて再び相見えたことに歓喜しつつ、ミゲルが帰還の言上を口にしようとしたとき。
「……理由は分かったか?」
「は?」
唐突に問われて戸惑うミゲルだが、暫し考えた後、質疑の焦点を思い出した。もう随分前のことのような気がするが、戦場にて投げられた課題のことだと思い至ったのだ。
───何故、敵に退路を与えるか。何故、敵を殲滅に至らしめないのか。
「……政治的な配慮だと思います」
ミゲルは慎重に言葉を選びながら切り出す。
「完全に敵を叩いてしまっては、ハイランド兵が侵入したという証を消してしまう……穏健政策を採るアガレス・ブライト皇王に注意を促すと同時に、主戦派の一味に我がマチルダ騎士団の実力を見せつける……そのためではないかと」
背筋を伸ばしてそれだけ伝えたが、相変わらずカミューは無表情のまま見返すばかりだ。やがてふっと吐息を洩らすと、彼は軽く肩を竦めた。
「───オルテス、か。なるほど、親しくなったようだな」
あっさりと看破されて動揺し、それでもミゲルは必死にカミューを見詰め続けた。
どちらかと言えば駆け引きには疎い質であるミゲルがその結論に至ったのは、カミューの言う通りオルテス騎士の影響からだ。ミューズでの数日、それからロックアックスへの帰還の旅の間の遣り取りで聡明な仲間から得たものは大きい。
彼も無論、あのときミゲルがカミューから与えられた課題を忘れた訳ではなかっただろう。決して直接的な回答を示してはくれなかったが、様々な情報やこれまでの歴史を紐解いて、ミゲルに道筋を与えてくれたのだった。
そこで漸くカミューは薄い苦笑めいたものを浮かべた。握っていたペンを置き、真っ直ぐに部下を凝視する。
「……まあいい、人を誑し込むのも才覚のうちだ」
「た、誑し……?」
「才覚という言葉が気に入らなければ、『持って生まれた美点』とでも言おう。死にかけても得たものは皆無ではなかったようだな、ミゲル」
「カミュー……団長」
未だ綻ばぬ上官の唇に、ふと焦燥を煽られる。
「あの……」
絞り出したものの、なかなか二の句が続かない。自らを叱咤して告げた言葉は震えていた。
「すみません、でした……」
「本心からそう思うかい?」
刹那、鋭い問いが飛ぶ。ミゲルは僅かに俯いた。
「……今さっき、ラウルに会って……聞きました、『盾と剣』の話……」
ああ、とカミューは目を細めて背もたれに沈む。両手の指先を合わせて続きを促す。
「それで……? 己の行為をいたく反省したとでも?」
束の間の逡巡の後、ミゲルは低く言い切った。
「───……いいえ」
やや意外な面持ちで瞬くカミューを見据え、それからポリポリと頭を掻く。
「あ……、いや、反省はしています。責ある役目を与えられながら見事果たすことが出来なかった。冷静を失い、醜態を曝したことは恥じています。ミューズの医師殿にも、オルテス殿にも散々怒られました」
思い遣りに満ちた彼等の言葉を反芻して苦笑し、でも、と彼は威儀を正す。
「でも、たとえ団長がそれを望まれずとも……次に同じ事態に遭えば、やはりおれは同じ道を選びます」
「ミゲル、───」
何事か言い掛けたカミューを遮るために緩やかに首を振る。
「おれは剣となり、同時に盾となります。護るための盾ではなく、戦うための盾……剣と等しき力を持つ、決して折れない強靱な盾に」
胸に燃える想いが在る限り、カミューの許で戦う限り、彼の望みはミゲルの望みと相容れない。忠誠を、そして命を捧げるものと捧げられるものの間には深い隔たりがある。
けれどマイクロトフがそうであるように、ミゲルもまた、その一点においてだけは退くことが叶わない。
己の選択がカミューを傷つけると分かっていても、信念だけは曲げられない。それはミゲルの誇りであり、譲れない意志なのだから。
「折れない盾、だと……?」
カミューは幼げに瞬いた後、弱く呟いた。大きく頷いて微笑み掛ける。
「部下に望むのは盾ではなく、共に戦い続ける剣……そうラウルに言われたそうですが───どうせなら両方とも望んでください。いけると思うんです、おれは悪運も強いし」
「………………」
「何があろうとも、絶対に団長の前では死にません。だから……」
それから窺うように俯き加減のカミューを覗き込む。
「団長……?」
カミューはげんなりとした表情で首を振るなり、ゆっくりと立ち上がった。立ち尽くすミゲルに歩み寄って向き合うと、もう一度溜め息をついた。
「それがおまえの出した結論か」
「はい」
「からくも命を拾った結果がそれか」
「……はい」
「わたしが……これほど自分のために他人を犠牲にしたくないと望んでいても、敢えてそれを退けるという訳か」
微かな悲嘆さえ滲ませた口調に胸を突かれたが、すでにミゲルに迷いはなかった。
「……同じほどに団長の無事を望んでいるつもりです」
「───馬鹿が」
掠れた声で吐き捨てるなり、諦めた表情が続ける。
「……勢いばかりの連中には閉口させられる。言い合うだけ無駄というものだろうな」
束の間、ミゲルは吹き出しそうになった。無意識にであろう、洩れた『連中』というひとくくりに該当する屈強の騎士が容易に想像出来たからだ。それをじろりと睨みつけ、カミューは力なく呟いた。
「不心得者と罵り、腹立ち紛れに殴ったところで───びくともしないんだろうね、おまえは」
騎士隊長やマイクロトフに嫌というほど脅かされてきたミゲルだ。一応は竦んでいるのだが、と内心思いつつ直立を続けると、上官のしなやかな手が伸びた。
無駄だと思っているなら、出来れば中止して欲しい。
体調はともかく、恋する相手に殴り飛ばされるのは、そこに至るまでの彼の悲憤を見せ付けられるようで少し悲しい。
些か感傷的に祈りながら目を閉じたミゲルだったが、覚悟した打撃は訪れなかった。頬に触れた掌の思いがけない優しさと温かさに、逆に目を開けることが出来なくなる。
「……一団を率いるものとして捨てねばならない感傷なのだということは分かっている」
自らにこそ言い聞かせているような、吐息めいた言葉。
「それでも願わずにはいられない。誰一人として、わたしのために命を落とさぬよう……別に、目前の死に限ったことではないよ」
「………………」
「覚悟するがいい、ミゲル。今、このときの誓いを破る日が来たら……今度こそ許さない」
厳粛な命にそろそろと目を開けると、間近に艶やかな琥珀が在った。その瞳を自身だけに向けることが出来なかった無念よりも、これより先、視線の向かう未来に共に進むことへの感慨が勝る。
「……肝に銘じます」
短く、けれど心底から答えた彼に、やっと待ち望んだ笑みが与えられた。頬から離れていく掌の温もりを惜しんでいると、続いて朗らかな口調が言う。
「───とは言っても、気を揉まされてこのままというのはやはり腹立たしい」
は、と目を見張るミゲルの肩を親しげに叩くなりカミューは続けた。
「しばらく顔は見たくない。そのつもりで心掛けてくれ」
「えっ……?!」
仰天して息を飲み、執務室を出て行こうとするカミューに追い縋る。
「ま、待ってください!」
彼に会いたい一念で無理を押して帰還を果たしたのだ。なのに、顔も見たくないとはあんまりではないか。ならば殴られる方が余程マシだ。
「これまでの経験からいくとね」
背を向けたままカミューが言う。
「それがおまえ『たち』のような連中には最も効果的な罰であるらしい。当分は無視させていただくよ、ミゲル」
「カ、カミュー団長……!」
「早く通常任務に復帰出来るよう───大事にするといい」
最後には肩を震わせながら部屋を出て行った赤騎士団長に、残されたミゲルは呆然とするばかりだ。
やられた。
確かにこれは痛烈なしっぺ返しだ。愛しい人に目を向けてもらえない、恋する若者にとってこれほど辛い罰があるだろうか。
「……死神よりも酷い上に、最悪な陰険っぷりだ……」
虚ろに独言を洩らしながら自問を重ねる。
「何処をどうしたら、ああいう策が出てくるんだ? 心掛けるなんて出来るか、畜生……」
最後に、噛み締めたカミューの言葉から唯一の光明を見出す。
「…………これは……マイクロトフ隊長に対処法を聞くしかないか、やっぱり……」
想い人の伴侶は果たしてミゲルにも可能な打開策を持っているだろうか。やや暗澹なる心地に陥るも、やがて仄かな温みが灯る。
一騎士に過ぎない人間の命を重んじ、愛しんでくれる上官たちがいる。
案じ、憤り、そして祝福してくれる男たちが。
最後の最後まで大切な人の傍らに在るために足掻く、それこそが真の忠誠だとミューズの医師は言った。
生きるつもりで足掻き抜いて、それでも倒れたなら許されるであろうと先輩騎士は同意した。
赤騎士団に属するものは、皆そうした信念と覚悟のもとに剣を握っている。己の命を軽んずることなく、それでも勇敢に戦火の中に飛び込んでいくのだ。
───先頭に立つ美貌の指導者を信じるが故に。
折れない盾となることは、命を捨てるよりも余程苦難を伴う道だろう。けれどミゲルがカミューの傍らで生きるためには他の道は在り得ない。
戦いは、若者に新たな道を選ばせた。
生涯繰り返される選択のたびに味わう微かな痛み、それが人を強くする───そう信じたいとミゲルは思う。
「さて、と……取り敢えず筋力鍛錬あたりから始めるか」
ぽつりと呟いて扉に向かった。
ふと巡らせた瞳に壁際のキャビネットの上に置かれた品が映る。すっかり質素になった室内の唯一の装飾、清廉に輝く小振りの花瓶には厳寒の季節と思えぬほどの花々が零れていた。
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END