13.
からからに乾いた喉がひどく痛む。
薄暗がりに朧な光が揺れているように感じるのは気の所為か。
最後に見たもの、それを思い返そうとして彼は呆然とした。己を見返す、決して違えようがない唯一の瞳。あれはこれほどまでに凍てついた色合いだっただろうか?
耳鳴りと共に脳裏を巡るのは、出陣の前に自らが口にした一言。
遠い誓いを遵守する───果たして自分はそう出来たのか。
ならば何故、今、目の前に浮かんでいる彼の人はこんなにも悲しい目をしているのだろう。
ああ、すみません。
おれは期待に応えられなかった。
けれど悔いはない、あなたの盾となって終わるなら───
けれど美貌の想い人は微笑んではくれなかった。憐れむような眼差しを残して背を向けようとする人に、彼は愕然としながら震え出す。
何故だ。
何故あなたは答えてくれない?
感謝してもらおうなどとは思わない、あなたを護ることがおれのつとめだったのだから。
けれど、そんな冷たい顔のままで去ってしまわないでくれ、たった一度でいいからおれの名を呼んで。
あなたを想い、あなたのために死にゆく部下の名を。
でなければ、おれは───
「カミュー団長……!」
ひからびた喉が振り絞った絶叫は掠れ澱んでいた。そして自らが放った声が幕を剥ぎ落としたかのように、ミゲルは覚醒の縁に辿り着いた。
全身に滲む冷や汗に戦慄いて、開いた目に飛び込むものを漫然と窺う。見慣れぬ天井、ちらちらと揺れている燭台の灯り、そして自身を見詰める穏やかな眼差し。
「ああ、良かった。今度は意識がはっきりとしているようですね」
見知らぬ男がにっこりする。寝台の上で幾度も荒い息を吐くミゲルを宥めるように、手にした布でそっと額を拭ってくれた。
流れる汗が布に移る感覚、それによってミゲルはようやく己の生存を実感した。続いて男が口に当ててくれた水差しから注がれる水のたとえようもない美味さに陶然とする。喉を鳴らす彼を男は静かに諭した。
「あまりいちどきに飲み過ぎないように……身体に障りますからね」
やんわりとした忠告ながら水差しを引かれてがっかりしたミゲルは、未だ朦朧とする我が身を励ましながら口を開いた。
「ここは……?」
「ミューズ市ですよ。先の戦いで負傷なさった騎士の方々のうち、自力でお戻りになるのが難しかった怪我人をお世話しているんです」
男は眼鏡越しの穏やかな瞳を輝かせた。
「あなたが最も危険な状態でしたが……良かった。もう大丈夫ですよ」
では、この男は医師なのかとミゲルは謝辞を紡ごうとした。しかし疲弊し切った身を案じたのか、笑いながら首を振って男は先んじた。
「無理はいけません。あなたは8日もの間、生死の境をさ迷っていたのですから……」
「8日……」
「その間に殆どの騎士の方は治療を終えてロックアックスに戻られました。残った怪我人はあなたが最後です」
何てザマだと自嘲に口元を歪めるミゲルに医師は静かに続けた。
「わたしはホウアン、このミューズで微力ながら医術を施しております」
「ホウアン……殿」
ロックアックス出身のミゲルも、高名な医師ホウアンの噂は耳にしたことがあった。それほどの男が尽力してくれた、そのお陰で何とか生を繋ぎ止められたのだと感激が迫り上がってくる。
「感謝……します、ホウアン殿……命拾い、しました……」
「わたしは大したことはしていません」
ホウアンは温和に笑って首を振る。
「あなた自身の運と……そして仲間の方々の祈りのお陰です。大怪我をなさった方に言うのも何ですが……あなたは恵まれた方ですね」
意味が分からず瞬いていると、医師は寝台脇に設えた椅子の上で姿勢を正した。
「昨日まで、あなたの隊長殿がここにおられたのですよ」
「ローウェル隊長が……?」
ええ、とホウアンは頷いた。
「覚えていないかもしれませんが、あなたは昨日から徐々に意識を取り戻し始めたんです。危地を脱した、それを見届けた上で隊長殿はロックアックスに戻られました」
そこで彼は一旦言葉を切り、枕元のテーブルに置かれている燭台の短くなった蝋燭を交換し始めた。ミゲルはもたらされた情報に困惑していたが、あまりに疲弊していて思考が巧くはたらかない。やがて考えるのを放棄して医師の声を待つことにした。
「怪我人の手当てを申し出たミューズへの礼節……と仰っておいででしたが、挨拶言上することで十分にお役目は果たされたと思います。殆どの騎士の方々は三日ほどでご帰還なさったのですよ。それを昨日までお残りになったのは、多分……」
あなたのためでしょう、という言葉は出なかった。騎士隊長ともあろう身のローウェルが、一騎士、しかも新参のミゲルの安否を気遣って居残ったというのは、あまりに感傷的過ぎて憚られたのだろう。
「……おれ如きのために……隊長が残る訳が、ありません……よ」
苦笑混じりで切れ切れに言うと、ホウアンは緩やかに首を振った。
「どうでしょうね……わたしには軍隊の成り立ちというものは良く分かりません。しかし、人が人の救命を願い、案じる姿は人一倍見てきたつもりです。最初の日、市長や市軍に挨拶に行かれた以外、隊長殿は殆どこの部屋に詰めておられましたよ」
ミゲルは呆然として医師を見詰め返す。
「ローウェル隊長が……おれを案じて……?」
「……というより、たいへんご立腹なさっておいででした」
ホウアンはくす、と笑って立ち上がる。壁に吊るしてあったミゲルの騎士服──血塗れて破れ、悲惨なボロと成り果てていた──の隠しを探り、一片の紙切れを取り出して戻った。
「隊長殿からです」
何とか差し伸べることが出来た手が小さく畳まれた紙切れを受け取り、目前に翳す。途端にミゲルは絶句した。
紙の中央、如何にも殴り書いたような手跡の文字は、ただ一言だけを記していた。
『たわけ者』
「実に言い難いことですが、隊長殿とご一緒した数日間、それはそれは罵倒の連続でしたよ」
可笑しそうに笑いながらホウアンは言う。
「初めは伝言を頼まれたのですが……流石に病み上がりの患者に『たわけ者』とは言えないとお断りしたら、それを残していかれました」
ミゲルは紙片を見詰めたまま、視界がぼやけてくるのを止められなかった。
短い、叱責でしかない言葉に秘められた危惧、憤り、焦燥、そして情愛。無骨な武人である男の心の襞がたった一言に詰め込まれている。
「あなたは恵まれていらっしゃる。上の方にそこまで気に止めていただくなど……。軍隊では多くの人が傷つき、死んでいくものです。悲しいことだけれど、次第にそれに慣れていく人も多い。けれど、そうして僅か一人の部下の痛みをも思い遣る人の許で働けることは幸運とも言えるのではないでしょうか」
「………………」
無論、戦いというものが常に感傷を許すとは限らない。此度のローウェルの行動には、ミゲルが赤騎士団の最高位である人物を護って負傷したという点が加味されていることは間違いなかった。
改めて自責が込み上げ、ミゲルは目を伏せて唇を噛む。
ホウアンは豊かな経験によって患者の機微を察する能力に優れていたらしい。そんな彼を見て口を開く。
「……騎士団長殿を庇った負傷だったそうですね」
思いあぐねる一点を突かれたミゲルは弱く頷いた。
「無様です……、逆に足を引くような真似を……」
覚醒したばかりで長々と会話することを敢えて医師が許すのは、早いうちにミゲルの胸を晴らした方が良いと判断したからなのだろう。無言の促しに彼は続ける。
「あの人の死角に敵がいる、そう思った途端……何が何だか分からなくなって」
「団長殿をお護りするおつとめを与えられていたそうですが」
ええ、とミゲルは微笑んだ。
「でも……そんな任などなくても、おれは……」
艶やかな微笑み、慕わしい姿。
彼の身体に敵の刃を伝わせるくらいなら。
「あの人を護れるなら……死んでも良かったんだ……」
独言のように呟いた彼に、医師はやや表情を硬くした。
「忠誠のためなら容易く命も投げ出す……武人というのはそういうものなのでしょうか……」
「忠誠……だけじゃありませんから」
「え?」
「おれは……あの人にすべてを捧げている。命も身体も、何を失くしても構わないほど大切な人だから───」
戸惑ったように瞬くホウアンを真っ直ぐに見詰め、ミゲルは薄く笑った。
「初恋、……なんです」
正に虚を突かれて目を丸くする医師。我ながら滑稽だと思いつつ口元を歪める。
「……可笑しいでしょう? おれもあの人も男で……おまけに上官。何よりあの人には生涯を誓い合った相手がいて、おれなんて割り込む余地もないのに」
「え、ええと……その……」
ホウアンはしどろもどろになって頬を染める。
「それでも構わない。二度目も三度目も、おれは何度でもあの人に恋をする。だから護りたい、生きていて欲しい。そのためなら、おれの命なんて───」
暫し固まっていたホウアンは一度だけ大きな溜め息をついた。
思いがけない若者の告白、それも同性の上官へ向けての切ない思慕。けれど温厚にして誠実なる医師は真摯にそれを受け止めたようだった。
「……誠意というものは伝わるものです。たとえ恋が報われないとしても、あなたの誠は団長殿に感謝をもって受け止められていると思いますよ」
「ええ……」
「でもね───ミゲルさん」
医師はふと声を硬くした。
「だとしたら……違うのではないでしょうか」
「違う……?」
「あなたに限らず、騎士の方々は騎士団長殿に心からの敬意をお持ちのようでした。わたしには軍隊における立場や忠誠といったものは理解出来ませんが、そうまで慕われる方であるならば、その方もまた部下の皆さんを心から思っておられるのではないでしょうか」
その通りだ、そうミゲルは心中で誇らしく同意する。
此度の戦いにおいて改めて思った。
私物を売り払ってまで部下の備えを固めたカミュー。自ら先頭を切って馬を駆り、紋章によって一団を護り───戦う部下たちを煌めく琥珀で見詰め続け。
「あの人の……部下であることを誇りに思ってます……」
「ならばミゲルさん。そんな方が部下の犠牲を平然と受け止められると思われますか?」
「───え……?」
先ほどまでよりもやや厳しい顔になったホウアンが切々と説く。
「中には部下を盾にして生き延びることを当たり前と感じる上官もいらっしゃるでしょう。けれど……あなた方が慕われる団長殿はそうした武人ではない。だとしたら、ご自分を庇うがために傷つく部下を目の当たりにして、やはり傷つかれたのではないでしょうか」
ぎくりとした。
それまで務めて意識の外に押し出そうとしていた懸念と不安。明快な言葉によって対峙させられたそれは、まさに夢の中でミゲルが見てきたものを示していたのだ。
哀しげな瞳を投げて背を向けたカミュー、それは正にホウアンが告げた一言を示唆しているのではないか。
凍りついた美貌、言葉の通じないものに説くことの虚しさを諦めたような表情、拒絶すら感じさせた冷たい後ろ姿。
ミゲルが取った行動によって傷ついたカミューの心、そして無意識にそれを案じていたが故に現れた幻だったのか。
「で、でも」
ミゲルは必死に医師を見上げ、半身を起こそうともがいた。浮いた背を慌てて寝台に戻したホウアンがそっと首を振る。
「いけません、まだ安静にしなくては」
「でも、おれは───団長を護るのはおれのつとめだったんです、間違ってはいないと……」
「……何が正しくて何が間違いなのか……それはわたしにも分かりません。けれど、一つだけ。それほどまでにその方を想うなら、『死んでもいい』などと考えてはいけません。その方のために生きねばならないと思います」
「………………」
「戦といは惨く、悲しいものです。生きるも死ぬも一瞬の運、必ずしも運が味方してくれるとは限らない。けれど、その中にたった一つだけ活路があるとしたら、生きようとする強い意志ではないかとわたしは思います。初めから死ぬつもりで臨むなど……団長殿は期待なさるでしょうか?」
「それは……」
瞬くミゲルにホウアンは満面の笑みを浮かべる。
「生きなさい、ミゲルさん。最後の最後まで大切な人の傍らに在るために足掻く、それがあなたの本当の忠誠ではありませんか? 団長殿はあなたが元気に戻られることを祈っておられると思いますよ」
幸いにもその願いは叶うようですね、と付け加える。
ミゲルは空を見上げたまま、果てしない自問を重ねるばかりだった。
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