12.
先ほど会議室で帰還後初めて顔を合わせたカミュー。
その様子がただならぬことはすぐにわかった。淡々と言葉を繰り出しながら、彼らしい輝くばかりの精気が失われている。
それは誰よりも近しく存在するマイクロトフ、そして忠実なる彼の部下以外には読み取れなかったらしい。他の騎士団要人は、カミューが騎士団長としての初陣に多少気疲れしたのだろうと見ていたし、案ずるほどのことではないと判断したようだった。
カミューは敵を同盟領から退けた将であり、その後の策も万全に根回しした完璧なる勝者だった。にもかかわらず、こうして虚ろな眼差しを見せる彼がマイクロトフは恐ろしくてならなかった。
個人として比類なき武功を挙げながら、騎士団長と第一隊長を失った十代の初陣───その折にもカミューを包んでいたひどく危うい気配。赤騎士隊長らに事情を聞いた今、マイクロトフにはこうして彼を訪ねる以外に何も考えられなかった。
長い沈黙を破ったのはカミューの方だった。小さく苦笑うと、身に纏っていた装備を外し始める。
「湯を使ってもいいかい? ロックアックスは冷えるね、指先の感覚がなくなりそうだ」
「カミュー……」
肩当てのベルトを外そうとしている指が僅かに震えているのを見て、マイクロトフはそっと手を伸ばした。刹那、竦んだように怯む細身の肢体に胸を裂かれつつ、彼は慎重に肩当てを取り去る。
「ああ……ありがとう」
軽装となって、寝台の上に畳まれていた湯上りのローブ一枚を手にすると、カミューは真っ直ぐに浴室に向かっていってしまった。取り残されたマイクロトフは束の間躊躇っていたが、後を追って浴室の扉を開ける。
几帳面な彼には珍しく衣服を床に脱ぎ散らしたまま、カミューはさっさと湯船に身を沈めていた。戦場の砂塵を拭い落とすように両手にすくった水で顔、それから薄茶の髪を流す。
マイクロトフは濡れた横顔に何の感情も見えないのを案じながら、落ちた衣服を整え始めた。それを一瞥したカミューは憮然と呟く。
「……何をしているんだ、らしくもない……」
「それはおまえの方だ」
言い返してからマイクロトフは首を振った。
「……いや、おまえらしすぎるのかもしれないな。胸に溜め込むのは相変わらずだ」
そこでカミューは黙して揺れる湯を睨み付けた。
「───あいつは馬鹿だ」
吐き捨てるように呟く。
「馬鹿だとは思っていたが……あれほどとは思わなかった」
パシャ、と弾けた湯がマイクロトフの足元を濡らす。濡れた湯船の縁にも構わず腰を下ろし、背を向けたままカミューの言葉を待つ。
「あれが罠でないと……わたしが何もかも真っ正直に信じ込み、欠片も疑わなかったとでも思うか?」
「………………」
「策を弄するものは常に疑心と隣り合わせだ。罠であった場合を想定するのは一団の将として当然の責務じゃないか」
「……ああ」
「たとえ死角側から攻撃されようと、間近の殺気を感知出来ないとでも思うか?」
「……おまえならば切り抜ける」
「そうだ」
重々しく同意したマイクロトフに、カミューはやや弱くなった語調で続けた。
「……間に飛び込んでくるなんて、救いようのない大馬鹿だ」
マイクロトフは振り返らず、そっと手を伸ばして想い人の肩に触れた。苛立たしげな罵詈の裏に隠された心情を的確に伝えるかのように、一団の将としてはひどく薄い肩が震えた。
「……ミゲルの容態は?」
短く問うと、カミューは深い溜め息を吐いた。
「左肩から右腹部……鎧ごと両断された。医療部隊が処置をしたが、敵の武器が強力過ぎた。失血が多くて……」
報告ではミューズ市にて手当てを受けている騎士は二十余名ばかりである。自力でロックアックスに帰還が難しい者のみが彼の街の援助を受けることとなっていた。ミゲルはその中で最も重篤な怪我人であり、正に生死の境にいるといった状態だったのである。
「あいつは……おまえと同じ事を口にしたんだ、カミュー」
ポツリと言ったマイクロトフにカミューは浴槽から目を向けた。幅広い背を縮こまらせて縁に座る男は低く続けた。
「……『機会を与えられたのだと思う』、と……昔のおまえと同じ事を言って戦に臨んだんだ」
そこで初めてマイクロトフは振り返り、見上げるカミューに微笑み掛けた。
「すまない。おれはおまえと一緒に憤ってやることは出来ない」
「マイクロトフ……?」
「おれにはミゲルの気持ちが分かる。あいつが取った行動……何を思い、何を望んだか……多分分かると思うから、あいつを頭から非難することは出来ない」
瞬くカミューを真っ直ぐに見詰めながらマイクロトフは首を振った。
「理屈ではない……衝動なんだ。そしてそれは、おまえの傍に在る者ならば誰しも抱く衝動の筈だ」
如何なるときも共に在りたい、けれど万一のときには我が身を捨ててでも護りたい───赤騎士団員のみならず、マイクロトフにも在る想い。
想いを捧げた当人を苦しめると分かっていながら止められない、けれどそれがカミューの周囲に付き纏う真実であるのだ。
「ずっと昔、言ったことがあったろう? 自ら切り抜けられないとは思わずとも、おまえが危険に曝されれば身体は動く。それは衝動だ、……おまえを大切に思うが故の」
「……………………」
「そうして傷ついたミゲルは、おれの姿そのものでもある。だから非難など出来ない」
大きな掌でくしゃりと柔らかな髪を乱し、マイクロトフは笑った。
「馬鹿馬鹿と責め立てているのを聞くと……おれが怒られているような気がしてくる。その辺で勘弁してやってくれ、カミュー」
俯いたまま男の愛情込めた所作を受け入れていたカミューだったが、ふと乱された髪の中から見上げた瞳は悲しげだった。
「……退いてくれ、上がる」
短く命じられてマイクロトフが立ち上がると、ほんのりと上気した肌に水滴を纏いながら湯船を出たカミューがローブを拾い上げた。艶やかな肢体から目を逸らす男に、静かな声が問う。
「今夜は夜勤ではなかったんだな」
そこで出陣前の甘い約束を思い出したマイクロトフは途端に頬を染めた。
「あ、ああ……いや、だが、その……別にそういうつもりでは……」
しどろもどろに言ってから、諦めたように付け加える。
「おれ自身、話をしたいとは思っていたが───実は、ランド副長にも頼まれた」
「ランドに?」
「……おまえを一人にしておくのが不安でおられたらしい」
年若い上官が痛みも苦悩も一人で抱え込む質であることを、副長ランドは誰よりも熟知している。
ここへ来る途中でマイクロトフは呼び止められた。酒宴も始まる刻限であるのに、彼はカミューを案じて部屋を訪ねようとしていたのだ。鉢合わせたマイクロトフに同じ意図を悟ったランドは、安堵したような顔で彼に一切を託し、酒宴の席へ戻っていったのだった。
それを聞いたカミューは小さく肩を竦めた。
「気の回り過ぎる副官は苦労するな……」
「苦労も悦びと見えるぞ、おれには」
居室に戻ったカミューは続くマイクロトフを振り返った。
「いずれにしろ、来てくれて良かった」
言いながら彼はしなやかな両腕を男の首に絡める。マイクロトフは驚いて強張った。
「カミュー……?」
「……出陣前の続きを」
いつもなら、そんなカミューの誘いに理性など働こう筈もない。
けれど今ばかりは───
部下が自らを庇って負傷し、死地にある。
たとえ戦いで沸いた血がさせるのだとしても、そんな状況下で肉体の悦を望むなど、カミューらしくない。
それとも言葉だけではない、肌を温める慰めを欲しているのか。
当惑するばかりのマイクロトフに、彼は冷めた目で笑った。
「……誤解しないでくれ、マイクロトフ。わたしが欲しいのは、優しいいたわりでも慰めでもないよ」
「カミュー……?」
触れんばかりに寄った唇が甘い吐息と共に言う。
「ミゲルがわたしの代わりに受けた痛み、彼の血の上に安穏と生き戻った己の罪を贖うだけの罰だ」
マイクロトフは目を細め、腕の長さの分だけ肩を掴んでカミューを引き離す。
「……それをおれに求めるのか……?」
「おまえだからだ」
カミューは淡く微笑んだ。
「おまえしか……頼める相手はいないよ、マイクロトフ」
赤騎士団長カミュー。
自らの周囲に築かれていく犠牲に、彼は決して自身を許すまい。流された血の分だけ、積み上がる屍の数だけ自らを傷つけていくだろう───遠い日にマイクロトフが予感した未来は確実に現実と化している。
部下の前では冷静を取り繕い、騎士団長の鎧を纏い続ける。近しい者でこそ朧な心情は察するだろうが、それでもここまでとは思うまい。
今、彼の心は血を流しながら叫んでいるのだ。
己を庇って生死をさ迷う若き部下のため、そしてそれを食い止められなかった自身を責め続けながら。
「……嫌な役割を用意してくれるのだな、おまえは……」
低く言うと、カミューはすまなそうに男の頬に手を当てた。
「甘えていると言ってくれ」
「───……くそっ」
マイクロトフは手荒くカミューの腰を引き寄せると、そのまま投げ捨てるように寝台に沈めた。勢い良く圧し掛かって両手首を押さえ込み、息を乱しながら改めて問う。
「……後悔しないな?」
「後で文句は言わないさ」
刑場に引き出された罪人のようにそっと目を伏せた青年に、マイクロトフはなおも怯む我が身を叱咤して覆い被さった。
やがて燭台の灯りも燃え落ちた薄暗い室内に響いた押し殺した苦鳴は、遠い街で戦い続ける若者のための祈りであるかのようだった───
激情に沸騰した血が冷めていくのに呼ばれたように、マイクロトフは浅い眠りから浮かび上がった。
乱れ果てた敷布を探る手は求める温もりを見出せず、軽い頭痛を堪えながら起き上がった。
巡らせた視線の先、窓辺に佇むほっそりした影。ローブを肩に掛けただけの姿でもたれかかる頼りなげなカミューがいる。
外は雪化粧によって普段の眺めを一変していた。なおも降りしきる雪が闇を薄白く染めている。
寝台から降りて歩み寄ったマイクロトフは、僅かに目を細めて溜め息を洩らした。
ローブから覗くなめらかな脚に伝う汚濁と鮮血、いずれも己の為した行為によるものだと思うと、まともに見詰め続けることも出来ない。たとえ相手が望んだことであろうと、愛するものを傷つけねばならなかった男の心理は複雑なものであった。
「……すまなかったね」
掠れ切った弱い声が不意に呟く。背後で見守るマイクロトフを振り向こうともせず、カミューは静かに続けた。
「嫌な思いをさせた」
「───カミュー……」
「馬鹿は……わたしの方かもしれないな……」
ひっそりと自嘲の響きが言うのにマイクロトフは一気に距離を詰めた。顔は見えぬまま抱き締めたカミューは、先刻の暴挙のためか、やや熱を持っているようだった。
「ミゲルは大丈夫だ」
耳朶を甘噛みしながら囁くと、自らを拘束する腕にカミューは掌を重ねた。
「身体は頑丈そうだ、失血如きに負けたりはしない」
「……ああ」
「苦労して正騎士になったばかりだというのに、そう容易く死ぬ筈がない。そんなしおらしい男には思えないぞ」
「…………ああ」
「何より……おまえを悲しませることをミゲルは望むまい」
おれと同じに、と付け加えるとカミューは苦笑に肩を震わせた。
「そうだね……生きて戻って来て貰わねば困るんだ。何しろわたしは腹を立てているのでね。二、三発張り飛ばしてやらねば気が済まない」
棺を開けて殴り飛ばすのは止められるだろうし、と呟いたカミューに一応の落ち着きを認め、マイクロトフはほっと息を抜いた。ついでに、とばかりに揶揄してみる。
「……あまり気は進まんが……ミゲルのために泣いてやるなら胸を貸すぞ?」
「何故わたしが?」
カミューは初めて振り返った。激しい情交に憔悴しながら、普段の姿を取り戻した彼は真っ直ぐにマイクロトフを見詰めながら言い放った。
「心得違いの馬鹿へ贈る涙などは持ち合わせていない。あいつが戻ってきたときのために、拳を磨いておこうかとは思うけれどね」
「……一応、怪我人なのだし……平手にしておいてやれ」
「───考慮しておこう」
微笑んだカミューにマイクロトフはゆっくりと唇を寄せた。
それは生きて戦地から戻った心の伴侶と今宵初めて交わす、情愛を込めた恋人らしいくちづけであった。
← BEFORE NEXT →