命の唄


「置いて行け、だと……?」
自失したような復唱が、次には激昂を伴って震えた。
「傷ついたおまえを置いて、独り逃げろと?! そんなことが出来ると思うのか?」
「思う、思わないの問題じゃない。それが最善というだけのことさ」
男から距離を取ったカミューは愛剣を手に薄く笑う。
「誤解しているようだけれどね、わたしはおまえに『逃げろ』とは言ってない。先に行け、……そう言っているんだ」
「……っ、同じことだろう!」
「違う」
笑みを納めたカミューは厳しい眼差しでマイクロトフを見詰めた。
「援軍は間近を通るかもしれないが、よもや我々が森に踏み込んだとは思わず、通り過ぎてしまう可能性が高い」
「それは…………」
「ここで追い付かれたらどうなる? まともに己の間合いさえ保てぬような森中で戦うことの不利は承知しているだろう?」
マイクロトフは唇を噛み締めたが、すぐに首を振った。
「地の利など味方せずとも、戦ってみせる。不利というなら相手とて同じことだ」
「わたしは満足に戦えない」
「おれが護る!」
終に激昂したような叫びが走った。
「命に懸けて護ってみせる! 何があろうと……たとえ引き摺ってでも、連れて行くぞ!!」
睨み据える瞳。灼熱を孕んだ漆黒に射貫かれ、カミューは疼く愉悦に満たされた。
「忘れていないか、マイクロトフ? おまえが言ったことだよ。おまえがどれほど奮迅のはたらきを為してくれようと、敵が攻撃魔法を放てば……そこでわたしは終わりだ。おまえだけでも先に森を出て、回復の手段を持った仲間を連れてここへ取って返してくれた方が余程合理的というものじゃないか」
「………………」
展開された論旨を十分に理解してはいても、やはりマイクロトフには頷くことは出来かねるようだった。
「……駄目だ、やはり置いてはいけない」
「マイクロトフ」
「『満足に戦えない』───そう自ら口にしているではないか! そんなおまえを残して、どうして……!」
激情に拳を震わせる姿を暫し見詰め、カミューは忍びやかに微笑んだ。
「ならば、今すぐにおまえの憂いを断ち切ろうか?」
言いながら自身の首筋に当てたユーライアの刃。マイクロトフは蒼白になった。
「おまえは言ったね、『最後の一瞬まで信念を貫く』と。わたしも同じだ。死ぬために残る訳ではない、おまえを信じて残るんだ。おまえの枷とならぬようにと、自己犠牲を気取るつもりもない。それが考え得る最良の策だと思うからだ」
でも、とカミューは目を細める。
「どうあっても共に残るというなら、その理由を消すことにする。屍と心中するほど愚かではあるまい?」
「カミュー……」
マイクロトフは幾度か唇を噛み、遠くに耳を澄ませた。
眼差しに行き過ぎる痛みと煮えるような葛藤。
それは最後に崇高な決意に塗り潰されていった。
「───分かった」
一度だけ、何かを振り捨てるように強く首を振った後、マイクロトフは静かに言う。
「直ちに森を出て援軍と合流を果たした後、ここへ誘導する。一刻も早く戻るから……何としても堪えてくれ」
「待っているよ」
にっこりした青年の貌を束の間睨み付け、男は目を伏せた。
「……おまえは残酷な男だな」
唇が呻く。
「だが、……愛している。死ぬなよ、カミュー」
思わず見開かれた琥珀を振り向くことなく、マイクロトフは夜陰に身を翻していった。
遠ざかっていく足音に暫し瞑目してから、カミューは樹木の根元に崩れ落ちた。完全に人の気配が消え去った薄闇に向けてひっそりと呟く。
「愛している、……か」
形良い唇が自嘲気味に歪んだ。
「こういうときに吐くには気が利き過ぎた台詞だ。おまえの方こそ残酷な男だよ、マイクロトフ……」

 

 

 

◆   ◆   ◆

 

 

 

語った言葉は本心であり、同時に偽りにも等しい賭けでもあった。
応急処置によって幾分勢いこそ抑えられているものの、相変わらず出血は続いている。疼痛は何とか耐えているが、失血による消耗は防ぎようがなかった。
マイクロトフを信じている。
けれど、彼が間に合う保証などない。先に敵に追い付かれれば、そのときは覚悟せねばならないことをカミューは十分に理解し抜いていた。
それでもマイクロトフは最後まで己の役割を果たそうと努めるだろうし、それが自身の支えとなる。
手に手を取って希望のない闇に立ち止まるなど、二人の生き方では有り得ない。仲間の救援を求めて走る男も、そしてこうして残る自身も、同じ道を目指して戦っているのだ。
そう考えれば耐えられる。
鈍く重い腹部の痛みも、独り残される孤独も、そして迫り来る敵に掻き立てられる焦燥さえ。

 

ともすると遠のく意識を繋ぎ止めるためだけに、幾度も繰り返し故郷の唄を思った。
戦いに赴いた男を想って乙女が切々と紡ぐ唄。死の概念と向き合って初めて生命の重みを知る、そんな乙女の唄を最初に耳にしたのは故郷の何処であったろう。
───最後の一節がどうしても思い出せない。
男は乙女の元へ帰ったのか、それとも戻らなかったのか。

 

「……思い出せないまま逝くのは未練が残るな」
呟きながらカミューは剣を握り直し、それを支えに膝を起こした。背を木に預けたまま、静かに構えに入る。
人いきれがざわめき、葉陰に揺れる松明の火が大きくなる。落ち葉を踏み締める音が近づいたときには心は凪いでいた。
ほんの僅かに木々が途切れた平地、そこへ続く最後の茂みを押し退けた王国兵が、ぎくりとしたように目を剥く。
「いたぞ、こっちだ!」
叫びに応じてわらわらと集まってきた敵の数、十数名ほど。いつもならば余裕で相手に出来る数を、しかしカミューは苦く噛み締めた。
指揮官らしき男が松明を手に一歩進み、敵の負傷を認めた刹那、陰湿に問うた。
「同盟のコソ泥が。毒槍を食らった感想はどうだ?」
カミューは艶然と笑む。
「あまり趣味の良い武器とは言えないな」
「小数で敵本拠地付近に潜むのだからな、何事も備え在れ、だ」
「良い心掛け、……と言っておこう」
減らず口を、と小声で吐き捨てた王国兵はカミューの周囲を素早く窺う。
「もう一人いた筈だ。何処だ?」
「さあね、途中で逸れてしまったみたいだ」
「貴様……!」
あくまでも軽い口調に挑発されたのか、別の兵が剣を振り上げて一気に間合いを詰めた。
「仲間と逸れたとは気の毒だ、後であの世で会わせてやる!」
叫びながら突っ込んでくる兵は、怪我人であることに侮ったのか、防御が隙だらけだった。
静寂の森に走る白刃の煌めき。王国兵は悲鳴も上げずに地に倒れた。
「……!」
敵兵は知らず息を飲んでいた。
紅に染まった腹部の布、止めきれなかった鮮血は白い下衣をも浸食している。見た目から瀕死同然と捉えていた認識を一変させられる素早い剣捌きに誰もが目を見張る。
「貴様、雑兵ではないな。何者だ?」
押し殺した声で詰問した指揮官にカミューは毅然と返した。
「新同盟軍に集った一剣士に過ぎないが、マチルダの元・赤騎士団長とも呼ばれている」
ざわ、と一同は顔を見合わせた。畏怖、そして功名への滾りがそれぞれの表情に浮かんでくる。
「……同盟軍リーダーを諦めてこっちを追って正解だったな」
指揮官は独言のように呟いた。
ウィンを追っても、同盟軍本拠地から出てくる援軍に叩かれるのは必至だった。どのみち、存在を知られたからには、あの偵察拠点は捨てるしかない。
指導者自ら敵地に乗り込んできたからには、同行者が軍内でも武勇に秀でた戦士であることは間違いなく、ならばせめてその者を屠って拠点と相殺するしかない、そう考えたのだろう。
マチルダ騎士団を離反した赤騎士団長。
彼は、騎士団統治者ゴルドーへ売る恩として絶好の品となる。ハイランド王国軍の尖兵として、強大な軍事力を誇るマチルダ騎士団領と戦わずして結ぶための価値在る土産を持ち帰ることが出来るのだ。
カミューには、可能ならば捕縛、最低でも首級を持ち帰ろうという敵・指揮官の思惑が明解に読み取れた。逆の立場であっても同じく考えるだろう。
だが、容易く目的を遂げさせるつもりは毛頭ない。彼の中に潜む焔が決意によって燃え上がっていた。
「ルカ様はキバ将軍の離反にたいそうお怒りだ。敗残の我らの帰還をお許し下さらなかったが……これでお怒りも解けよう」
指揮官は背後の兵らを鼓舞してからカミューを睨めつける。
「生きたまま連行するぞ、行け!」
即座に数人の兵が躍り掛かってきた。カミューは樹木で背後を守ったまま、攻撃を待ち構えた。
意外にも、間合いの取れない狭い平地であることはカミューに味方した。
負傷から、身軽に動き回ることは最初から放棄している。対して敵兵は一度に彼を囲むことが出来ない。たとえ失血に脅かされていても、一対一の勝負ならカミューに分がある。
磨ぎ澄まされた勘と剣技が、内なる焔に応えて闇に翻った。攻撃の一瞬を掻い潜って細身の剣が一閃するたび、敵兵は崩れ落ちる。味方の半数近くが戦闘不能に陥る頃になると指揮官は青ざめた。
「こ……、殺せ! 構わん、殺せっ!!」
「生憎、まだ命は惜しいのでね」
くす、と笑ったカミューは次の敵を斬り捨てていた。
動くほどに出血は増したが、ここまで来れば逆に激痛が意識の覚醒に役立った。
鮮血に塗れながら笑みを失わない美貌の青年に、王国兵は恐怖に襲われたらしい。じりじりと後退し始めた部下に指揮官は歯噛みした。
「退け! わたしが攻撃魔法で動きを止める、その間に首級を取れ!」
放たれた怒声。王国兵は慌てて指揮官を護るかたちで退いていった。
樹木を背にしたまま、カミューは目を細めた。
兵が作った防壁の奥に在る指揮官。そこへ斬り掛かるだけの力は既にない。
残されたたった一つの手段。愛剣を携えた右手が焼けつく痛みを纏う。
咆哮さながらの轟音が木々の狭間を駆け抜け、カミューと敵兵の間に紅炎が踊り狂った。
ごく狭い範囲に炸裂した攻撃魔法に王国兵はたちまち阿鼻叫喚となって逃げに入る。ひとり沈着を守った指揮官が部下を叱咤しているが、彼もまたカミューが高位紋章を宿していたことに動揺しているようだった。
間を壁の如く二分した炎を忌ま忌ましげに見詰めるも、次第に表情が侮蔑を浮かべる。
「怪我で目測を誤ったか、赤騎士団長殿? 我らは一兵たりとも失われていないぞ」
「………………」
「おまけに運に見放されたな、そちらは風下だ」
カミューは霞み始めた視線を周囲の木々に向ける。紋章によって燃え上がった数本の樹木が、乾いた風に乗って彼の方へ火花を落としている。
「自滅とは正にこのこと、己の放った魔法に焼かれるが良い、離反騎士殿」
無駄な労力は使わぬとばかりに指揮官はゆったりと見物に入った。部下の一人が伺い出る。
「よ、宜しいのですか、首級は……?」
「名のある剣士だ、土産は剣で事足りる」
それを聞いてカミューは薄く笑った。

 

血気に逸っていると思いきや、なかなか冷静な指揮官だ。
軍の偵察部隊の指揮官レベルが保有する紋章の程度は知れている。高位紋章の『烈火』と競うのは不利と判断した。かといって、互いの剣の力量を鑑みて、このまま攻撃し続けることは望ましくない。
ならば傍観に徹すればいい。
いずれ炎に巻かれて焼け尽きる騎士、残された剣は持ち主の末路を雄弁に語る───そう考えているのだ。

 

「……それとも、これは計算だったか?」
ふと、指揮官がそれまでの調子を違えて聞く。
「死した後、辱しめを受けまいという騎士の誇りとやら、なのか……?」
最初の火の粉が肩に降る。カミューは曖昧に微笑んだ。
「少なくとも……ここに首無しの死体を曝す訳にはいかないのでね」

 

今、この瞬間にも半身の無事を願っているであろう男のために。

 

「……マイクロトフ」
彼は喉の奥深く小さく呻いた。
「おまえに言い忘れたことがあったのに……」

 

背を預ける樹木に炎が移った。幹を伝い下りる紅蓮の怒号が秘めやかな独言を絡め取ろうとしていた。

 

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ここで赤が死んだら
A級戦犯はビッキーちゃん。

 

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