王国兵が目的遂行の瞬間に息を詰め、そして端正な赤騎士団長が静かに目を閉じた刹那。
「カミューさん!」
聞き慣れた声が夜陰に響いた。
はっとする間も無く、凄まじい羽音が燃える木々の間を旋回して風の向きを変える。見上げた上空には一旦高度を上げてから急降下してくる一体のグリフォンがあった。
獣の背に鎮座する二つの影を認めるよりも早く、カミューは光の幕に包まれた。同盟の指導者が放つ『大いなる恵み』の魔法である。
続いて、敵とカミューの間に舞い降りたグリフォンから峻烈な風が巻き起こる。敵兵の中を駆け抜けた風は、瞬時でカミューの周囲から炎を煽り、敵一網を凪ぎ払った。
「カミューさん! 大丈夫ですか?!」
叫びながらグリフォンの背から飛び降りる少年、放った魔法で掃討した敵を確かめるように冷めた目で一瞥している少年。
「ウィン殿……、ルック殿……」
膝が砕け、カミューはずるずるとその場に座り込んだ。支えるように手を伸ばしたウィンが顔を歪めながら首を振る。
「酷い出血だ……もう一度回復をかけますから」
「待ちなよ、ウィン。ぼくがやる」
言いながらグリフォンから下りたルックが歩み寄ってきた。彼が使ったのは『優しさの流れ』、降り注ぐ慈雨が傷を癒しながら、同時に周囲を鎮火させた。
燻臭に顔をしかめたルックは、傷を覆った布切れを取り去りながら無感動に言う。
「塞がったようだね。魔法で毒気も抜けただろうけど……貧血までは面倒見れない。あとは自力で何とかしてもらわないと」
淡々としたいつも通りの口調が可笑しく、カミューは眦を緩めた。
「お二人とも、何故ここに……?」
「マイクロトフさんに聞いたんです」
「マイクロトフに?」
思わず目を見張るとウィンは微笑んだ。
「本拠地から仲間を連れて敵陣に向かっていたんですけど、丁度森の外へ飛び出してきたマイクロトフさんと鉢合わせて。それで事情を聞いて、ここを教えて貰ったんです」
ルックが憮然と補足する。
「まさか森に潜んでいるとは思わないからね。ぼくらが通り過ぎた後ならどうするつもりだったんだろうね、まったく」
確かにその危険性もあった。鋭く指摘されて失笑せずにはいられないカミューだ。
「毒が使われたかもしれないって言うし、一刻を争うからフェザーに乗せて貰ったんです。方向は聞いていたけど、松明の明かりなら上空からの方が見付け易いと思って。敵陣攻撃の方はビクトールさんが指揮を取ってくれてます」
「そうでしたか……ありがとうございました、お二人とも。命拾いしました」
そこで同盟軍随一の魔術師が眉を寄せた。
「一応聞いておくけどね、『烈火』を使ったんだろう? 王国兵は完全防御魔法でも持っていたの?」
燃え跡から、少年は攻撃が微妙にずれていたことに気づいたのだろう。詰問口調に苦笑する。
カミューが身にさだめた理。
如何なる窮地にあっても攻撃魔法を人に向けない、それは過去に己の紋章が人を焼く凄惨を目の当りにした彼の絶対の誓いでもあった。
「……わたしは剣士です。『烈火』で人を屠るのは気が進みませんでしたので」
控え目に言うとルックは大仰な溜め息を洩らす。
「騎士の信念、って訳? それで自分の命を縮めるなんて馬鹿げてるよ。そういうのは青騎士団長だけにしておいて欲しいね」
嫌味混じりに断言された途端、カミューはたまらず吹き出した。
状況に応じて信念を曲げねば生き残れない───マイクロトフに諭したのは他ならぬ自分であるのに。
同じことで責められている。しかも、遥かに年下の少年から。
「……わたしとしては、『命』を延ばすための手段でもあったのですが」
小声を聞き取れなかった少年たちが顔を見合わせたとき。茂みが揺れ、大柄な影が飛び出した。
「カミュー!」
別れてから然程経った訳でもないのに、随分長いこと離れていたような気がする。顔を歪めて走り寄ってくるマイクロトフを見詰めながら、カミューは柔らかく微笑んだ。
「……わざわざ追い掛けて来たの? 律儀だね、まったく」
口振りこそ冷淡であったが、魔術師の少年の瞳は温かい。場を空けたウィンに代わって傍らに膝を折った男は、荒い息を抑えようともせずにカミューを腕に迎え入れた。
「カミュー……良かった……」
押し殺した呻きと震える体躯。途端に張り詰めていたものが溶け出し、カミューは安らいで目を閉じる。
「ああ……、思い出せそうだよ、マイクロトフ」
「…………?」
「あの唄の最後は、確か…………」
───それが最後の意識だった。
◆ ◆ ◆
目蓋を穏やかな光が刺していた。
柔らかな敷布の感触、心地良く温められた空気。最後に、流れる深い声が意識に止まる。
ゆっくりと開いた目が最初に見たものは、寝台の傍に引き寄せた椅子に腰掛け、あてもなく視線を漂わせながら唄を啄む男の姿だった。
紡がれる音節があの唄だと悟るには、少し時間が掛かった。カミューの目覚めに気づかぬまま、最後まで唄い終えた男は溜め息をつく。
「……意外だよ。おまえが唄を嗜むとは思わなかった」
弱く呼び掛けると、弾かれたようにマイクロトフは向き直った。たちまち歪んだ顔は、どんな表情を取ろうか迷っているかのようだった。
「カミュー……」
起き上がろうとするのを押し止め、マイクロトフは幾度か口を開き掛けた。その躊躇いを擦り抜けるようにカミューはにっこりした。
「何処でその唄を?」
「……リィナ殿だ」
マイクロトフは俯いた。
「おまえがあまり気にしていたから……あのとき洩らした一節から、残りの詞を尋ねてみたのだ。そうしたら、ついでだからと節も教えてくださって……、それで…………」
幾分照れたように頭を掻く。
「もう一度唄ってみてくれるかい?」
「しかし……上手くはないぞ」
「……聴かせてくれ」
静かな促しに諦めたのか、彼は背を正した。覚えのある懐かしい節が部屋を満たし始める。
豊かで低いバリトンは、方言色の強い唄を危なげなく唄い熟す。男が唄を会得するまで何程の時間を眠って過ごしたのだろうか。
───あのとき。
駆け戻ってきたマイクロトフを見たとき、ずっと思い出せずにいた唄の終節が蘇った。
戦地へ出た男を待つ乙女は、孤独と不安の歳月を耐え抜く。訪れる歓喜だけを信じ、男の無事を日々祈り続ける。
そして───
乙女の切なる祈りに応え、男は命を勝ち得て故郷に戻るのだ。
邂逅に、生在る至福を噛み締めながら唄は終わる。
命を讃えた故郷の唄は、即ちカミューにとってマイクロトフに通ずるものであったのかもしれない。
「も、もう良いだろう?」
慣れぬことに紅潮して、マイクロトフは顔を逸らした。それからそっと手を伸ばし、カミューの頬に触れる。
「……おれは間に合わなかった」
「マイクロトフ?」
苦しげな述懐に眉を顰めて瞬いていると、頬に当てられた手が震え出す。
「事情はウィン殿らにお聞きした。あのとき、フェザー殿が同行していたから良いようなものの……でなければ、おまえは……」
そこで言葉を切った男を間近に見詰め、カミューは苦笑した。
「あながちそうとも言えないさ。運というものはね、マイクロトフ……より強く望む者に味方するものだ。おまえは運を従えることでわたしを救ってくれた。感謝しているよ」
「カミュー……」
暫し思案していた男だが、漸く吹っ切れたように唇を綻ばせた。己の尽力を卑下する虚しさに気づいたから、あるいは生きて伴侶を取り戻した喜びが勝ったのだろう。
そこで彼はふと表情を引き締めた。
「では……今度はおれが怒っても構わないか?」
「何だって?」
彼は言葉を選びながらとつとつと続ける。
「人に攻撃魔法を使いたくない……、それはおれにも理解出来る気がする。だがそれは、おまえ自身が死地にあっても貫かれねばならないものなのか?」
「………………」
「おれに『信念を曲げろ』と命じておきながら、おまえも相当融通が利かないと思うぞ」
嘆息して肩を落とす。
「よもや死ぬ気だった訳ではないだろうな、カミュー?」
カミューは一瞬押し黙り、次には穏やかに笑った。
「防壁を作ることで時間が稼げると思った。夜の森だからね、目印になるだろうとも考えた」
「だが、風下だったそうではないか。炎に巻かれる可能性は考えなかったのか?」
不満そうに問い質す男に軽く肩を竦めた。
「……失血で判断力が低下していたのかもしれないな」
疑念も露な眼差しから俯いて逃れ、小さく呟く。
「死を選んだつもりはないよ。ただ……」
「ただ?」
───ただ、思っただけだ。
無惨に首を奪われた遺体よりは焼け落ちた身体の方が良かろう、と。
姿形さえ判別を許さぬ屍なら、この誠実なる伴侶に希望を繋ぐことが出来るから。
何処かへ逃れて生きている、そう望みを与え続けられただろうから───
「ただ……何だ?」
追求を諦めない黒き瞳を真っ直ぐに見返す。
「……ただ、ルック殿に言われたよ。強情は青騎士団長一人で十分だと、ね。おまえと一緒にされたのは痛かった。信念は違えずとも、次はもう少し上手くやるよう心掛けるつもりだ」
マイクロトフは一瞬呆け、それから渋い顔で首を振る。
「死に掛けた挙げ句、『次は上手くやる』? おまえと一緒にいると命が縮みそうだぞ」
「それはお互い様だよ。でも───」
言い掛けた薄紅の唇を温かなくちづけが覆った。情熱的に貪られながら、あの別れ際に伝えそびれた言葉を胸のうちで囁く。
でも、愛している。
命尽きる瞬間まで、おまえを信じている。
だからこそ足掻ける、こうして生き抜くことも出来るのだ。
想いは力となって人に宿る。
願いは奇跡となって人を守る。
そうしてわたしは生きていく───
漸く解放された唇が甘く請うた。
「……もう一度、あの唄を頼んでもいいかい?」
「え?」
「おまえの声で聴きたいな」
「………………」
たちまちマイクロトフは困惑げに眉を寄せた。照れ臭そうに目線を逸らす様に笑みが零れる。
「どうやらリィナ殿は教えてくださったらしいね。あれは生ける喜びを唄った『命の唄』、そして……戦う恋人に向けた情熱的な愛の唄でもある。だから、生き抜いたわたしのため───唄ってくれ、マイクロトフ」
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