暫し馬を走らせた後、背後を振り返ったマイクロトフはうんざりしたように呻いた。
「……まだ追ってきている」
「それはそうさ」
並んだ青年が含み笑いを込めて返す。
「敵の将を目前に、むざむざと逃がした。せめて残りの我々くらいは血祭りに上げねば腹が納まらないというものだろう」
成る程、と呟いてマイクロトフは嘆息した。
「ウィン殿らは御無事だろうか……」
独言のような言葉を、しかしカミューは無言で流した。
同盟軍中でも抜きん出て優れた剣士が一緒なのだ。現在追手の追撃を受けている自分たちの方が余程窮地である。
彼は周囲を窺いながら思案した。
思った通り、本拠地の城に遠くはない。このまま馬を走らせていれば、今少し時は要するだろうが、いずれ援軍と共に引き返してくるウィンに合流出来る。
松明の数から鑑みるに、追撃者たちは十数名ほど。どうやら頭に血を昇らせて状況を失念しているらしい敵を、合流地点まで誘導し続ければ勝ちも同然───現在考え得る、順当にして最善たる道。
けれど、カミューにはそれを受諾出来ない訳があった。
「……マイクロトフ」
「何だ?」
「前方に小さな森が見えるだろう?」
言われてマイクロトフは目を凝らした。確かに、広々とした平原にぽっかりと浮かぶ樹木群が認められる。
「おまえはこのまま馬を進めて、ウィン殿らに合流しろ」
言葉の意図を計りかねた男が瞬く間にも、馬は忠実に大地を蹴り、森を引き寄せていた。
鬱蒼と茂る木々の群れの端を過ぎる刹那、カミューは静かに微笑んだ。
「───後で迎えに来てくれると嬉しい」
そのまま疾走する馬から飛び降りる。精一杯の受け身を取ったものの、衝撃は激しく、ただでさえ揺れていた意識が束の間遠のいた。
「……くっ……」
傷ついた左脇腹からの出血は落下の衝撃で更に勢いを増していた。
戦いの中で生きてきた経験からしても、マイクロトフと共に仲間と合流するまで堪えるべきであったろう。ただの槍疵であったなら、たとえ意識を失うほど重篤な事態であろうと、そうした。
が、朧げながらカミューはそれが単なる負傷でないことを察していたのだ。
馬上に揺られるごとに意識は霞んだ。よしんば落馬を逃れても、確実に速度は落ちる。マイクロトフとて必ず気付くだろう。
敵に追い付かれ、戦闘に入ったなら。
怪我人を抱えたマイクロトフは確実に不利となる。だから敢えて道理を冒し、馬を捨てることを選んだのである。
片手で傷を押さえながら遠くなっていく二頭の馬を見遣ったカミューだったが、次には呆然として目を見開いた。
彼が転がった少し先で、むっくりと身を起こす大柄な影。
腰を擦りながら歩み寄る青騎士団長は、怪訝と不機嫌を同じだけ浮かべていた。
「マ、……」
震えた唇が直ちに厳しく叱責する。
「何をしているんだ、おまえは?!」
「それはおれの台詞だ」
マイクロトフは憮然としたまま目を細めて追撃者たちの位置を確かめている。
「誰が一緒に飛び降りてくれと言った?」
「そうだな、あまり突然だったので満足に受け身を取る暇もなかった。あちこち痛むぞ」
それから彼は踞るカミューに目を戻す。
「どうして馬を捨てたりする? あのまま援軍と合流した方が───」
そこでマイクロトフは言葉を飲み込んだ。
弾かれたように片膝を折り、カミューを覗き込む。月光が理由を浮かび上がらせた途端、低い呪詛が洩れた。
「……くそっ」
彼はもう一度迫り来る敵兵に視線を投げ、それからカミューの腕を掴んだ。苦痛の呻きが零れるのも構わず、荒々しい程の勢いで引き上げるなり、躊躇なく森へと踏み込む。
意図を察して諾として従うカミューに肩を貸したまま、マイクロトフは吐き捨てるように言った。
「……おれはおまえのそういうところが腹立たしい」
「わたしはおまえのそういうところに苛立つよ」
応戦してのけた声は、けれど弱く掠れていた。
◆ ◆ ◆
どれほど進んだだろうか、生い茂る木々と密やかな生き物の気配だけが見守る夜陰の中でマイクロトフは足を止めた。
慎重にあたりを窺うと、樹木の一本にもたれさせるようにカミューを下ろす。傷をあらためた上で、彼はきつく目を閉じた。
「……回復アイテムを持っているか?」
カミューは軽く肩を竦めることで答えた。
「何故、黙っていた?」
再びの詰問には柔らかな口調が応じる。
「言ったところで何が変わるものでもないさ。薬は持っていないし、手当てする暇もなかった」
「違う! おれが言っているのは……」
───何故、身も心も分け合った半身に何も伝えようとせず、独り残ろうなどとしたのか。
言葉こそ詰まったものの、マイクロトフの思いは歴然だった。肩を震わせ、それでも思い直したように手早く止血に入る男からカミューはゆっくりと視線を逸らす。
「……傷は深くない。ただ……血が止まらないから、馬を下りて止血しようと思っただけだ。それをおまえは……『後で迎えに来てくれ』と言っただろう?」
「そういうときには『共に残れ』と言うものだ」
間に合わせの布切れを繋ぎ合わせて包帯を作るマイクロトフが憤懣も露に吐き捨てた。
長い付き合いだ。どれほど巧みに言葉を操ろうと、下馬を決したカミューに在る想いを読み取れない男ではない。
枷になるまいとする誇り高さが愛しい。
───そして、目的のために躊躇わず自身を捨てる潔さが憎かった。
「っ……」
強く締め上げる腹部の包帯に、カミューは無意識の苦鳴を洩らす。
確かに傷自体は深くない。けれど、出血は多かった。
止血もせずに馬に揺られたこと、恐ろしい速さで疾走する馬から飛び降りた際の衝撃を置いても、出血量は尋常ではない。
二人の最大の懸念は敵の槍刃に何らかの毒物が塗られていたらしいことであったが、ここで出来ることは何もなかった。
「……行くぞ」
処置を終えてマイクロトフは命じる。額に汗を滲ませるカミューに片手を差し伸べながら続けた。
「これだけの月夜だ、おれたちが馬を捨てて森に入ったことはハイランド兵にも目視出来たに違いない」
「……だからおまえには先に行って欲しかったんだ。わたし一人なら力尽きて落ちたとでも思わせられたかもしれないのに……」
「結果論だ」
憮然と言い合っていた二人は、そこで束の間沈黙した。静寂が広がる彼方に、松明らしき朧な光が揺れたのだ。
計らずも的中した予感に舌打ちし、マイクロトフは改めてカミューの腕を取った。
「援軍到着の頃合まで森を進み、時を稼ぐぞ」
腰を上げたカミューは、再びマイクロトフに肩を借りながらゆっくりと歩き始めた。確実に背後から追ってくる人の気配を認め、小さく笑う。
「……敵に背を向ける、か。迎え撃たないのかい? 誇り高き青騎士団長殿の主義に反するのではないかな?」
するとマイクロトフは進路を塞ぐ木立ちを睨んだまま低く返した。
「割り切る。もし、敵が攻撃魔法を有していたら……おれはともかく、今のおまえは危ういだろう。主義などよりも、おまえの命の方がおれには重い」
赤騎士団長は一瞬呆け、そして破顔した。
「そう言い切るあたり、おまえは怖い男だよ」
「……どういう意味だ?」
「惚れ直してしまう、ってことさ」
草を踏み締める干からびた音、荒い息遣い。
月は目指す先を暖かく照らしていたが、それは同時に敵にも与えられる恩恵だ。
片時も歩を休めることは叶わず、ただ味方の到来を待って森を彷徨う。苦い行軍が続く中、ふとカミューが呟いた。
「───『宵闇に、ひとり荒れ野に佇む日』……、次は、……次は何だったかな……」
マイクロトフは眉を寄せた。不可解そうな瞳が窺う。
「……何の話だ?」
「唄だよ。さっきから思い出せない詞があるんだ」
「唄?」
何をいきなり、と言いたげに顔をしかめて首を振る。
「グラスランドに伝わる唄でね、子供の頃に聞き齧ったんだが……駄目だな、終盤が思い出せない」
「カミュー……」
マイクロトフは、ややずり落ち気味になっていた青年の身体を引き上げてから溜め息をついた。
「もう少し緊張感を持ってくれ。おまえは負傷し、その上こうして敵に追われている。呑気に唄など思い出している場合では───」
理に叶った諌めを、だがカミューはひっそりと笑って遮った。
「ただの唄じゃない、生命を賛えた唄なんだ」
それに、と声を低める。
「……こんなとき、だからだよ。何かに意識を集めていないと、……気が遠くなりそうなんだ」
ぎくりとして止まった男の足に、俯いたままカミューは小さく唇を綻ばせた。
完全には思い出せない故郷に伝わる唄の一節に、今の心境そのままが在る。
わたしを大切に思うなら、たったひとつの願いを聞いて。
わたしのために、何があっても生き抜いて───
脳裏に過った詞を噛み締め、彼は男に囁いた。
「時間の問題だ。このままでは追いつかれる。そうなる前に……わたしを置いて行け、マイクロトフ」
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