「置いて行け」
掠れた声が囁いた。
「駄目だ」
即座に強い口調が一蹴する。
「……行くんだ」
今度は幾分穏やかな声が命じた。見上げる瞳は何処までも静かで、心の奥底まで見透かすかのようだった。
「状況を的確に見極めよ───騎士の教えだ。分かっているだろう?」
喉元まで迫り上がった激情を制したのか、頑なに歩を進め続ける男の体躯は震えていた。
「困らせないでくれ……」
低い呟きが洩れると同時に、のろのろとした足取りが終に止まった。弾みでよろめた男は、だが視線を揺らそうともせず、ただ前を見据えたまま厳しく言い放つ。
「最後の一瞬まで信念を遵守せよ、それも騎士の教えだ」
支える腕に力を込められ、白い顔が苦笑を浮かべた。
「おまえにしては見事な切り返しだ、……そう褒めてやりたいところだけれど」
荒い息遣いの中、彼は男の腕から逃れ出ようと身じろぐ。慌てて支え直そうとした男の掌が不快なぬめりに滑った。
間に合わせの包帯として使った布も、既に元の色を留めていない。男は己の手を染めた紅を嫌悪の瞳で睨みつけた。
一瞬の隙をぬって解放を得た彼は、傍にあった樹木のひとつに背を預けた。そして、零れ落ちる命の雫を片手で押し止めながら愛剣の先を男に向ける。切っ先は迷うように揺れていた。
「……信念も状況に応じて柔軟に違えるべきだな。でなければ生き残れないぞ」
「カミュー……」
初めて男は揺らぎを見せた。険しかった表情が、はぐれた子供の如き気弱を漂わせる。それを見届けた彼は、漸く常なる微笑みを浮かべた。
「真にわたしを思うなら……置いて行くんだ、マイクロトフ」
───月明かりだけが頼りの黒い森。
対峙する二人の間を刻が虚ろに通り過ぎていった。
◆ ◆ ◆
ハイランド王国と戦線を構えるジョウストン新同盟軍。
夜陰の中に立ち並ぶ陣幕群の一画で、盟主ウィンの一行は、時折行き過ぎる敵兵に息を殺しながら嘆息していた。
「しかし……また、えらくとんでもないところにすっ飛ばしてくれたもんだぜ」
潜めた声で傭兵ビクトールが言えば、
「陣幕の陰だったことは不幸中の幸いです」
元・マチルダ青騎士団長マイクロトフが生真面目に同意した。
つい先日、新同盟軍は戦闘の末にハイランド王国・第三軍団長キバ将軍を味方に引き入れることに成功した。
その際、王国内で皇王アガレスが皇子に暗殺されたという情報を得た。真相を探るべく指導者ウィンは、ごく小数の仲間と共にサウスウィンドウの街に出向くことにしたのである。
新同盟軍にはテレポート魔法を駆使する少女がいた。
一瞬のうちに目指す場に移動出来るこの魔法は、デュナンに点在する各都市との連携を求める同盟軍には貴重なものだが、術者の問題であるのか、時折暴発する。まるで見当違いの街に飛ばされ、いっそ地道に移動した方が早かった、ということもあるのだ。
ただ、相対的に見れば失敗の確立が高過ぎるという程でもない。よって今日も一行は少女を頼ったのだが、今回は憂き目を見た。
「このところ成功続きだったんだけど……久しぶりにやられた、って感じですね」
くしゃりと髪を掻き回して言ったウィンに、元・赤騎士団長カミューは苦笑した。それから、やや表情を引き締める。
「しかし、これは怪我の功名というものです。本拠地間近にこれほど大掛かりな偵察部隊が駐屯していたとは……」
居城の大鏡の前で少女に向き合い、次の瞬間には敵陣のど真ん中だった。
流石に一行は焦ったが、中でも沈着なる赤騎士団長が直ちに分析に入り、デュナン湖を望む景色や星の位置、あたりの土の具合などから、この場が同盟軍本拠地たるノースウィンドウの城から然程離れていないことを割り出した。
おそらくはキバ将軍との一戦の際に逃げ落ちた一団が、本国ハイランドからの命を受けて偵察部隊として留まったのだろう。
新同盟軍にとって先の戦いは将たるキバと息子であり軍師であるクラウスを落としたことで終わっている。敗残の兵たちを狩り立てる必要を認めず放置した訳だが、それが裏目に出たらしい。
戦地跡に敵兵が潜むことは珍しくない。だが、こうして大胆に陣営まで組むことは意想外だった。
暫し軽口を叩き合った後、ビクトールが重く切り出した。
「さて、どうするよ? おれとしちゃあ、ここが前線拠点となる前に潰したいところだがな」
「確かに」
カミューは低く同意する。
「このような場所に敵陣を残しておく訳にはいきません。が、……今の我々には少々苦しいですね」
敵はざっと見渡しただけでも百は下らない。
片やこちらは総勢四名である。もともと情報収集のつもりであったから、戦いに対する万全の備えを保持しているとは言い難かった。
いずれも一騎当千の使い手であるが、満足に回復系のアイテムも持たぬ以上、乱戦は如何にも分が悪い。何より、同盟の指導者であるウィンを無謀な戦いで危険に曝す真似は出来なかった。
言葉にはされないカミューの懸念を的確に受け止めたのだろう、傭兵が深く頷く。
「一旦退いて、仲間を引っ張ってくる……やっぱ、そいつが得策だな」
───しかし、と一同は考え込んだ。
退くことこそが至難なのだ。
彼らが置かれているのは、まさに陣の中央。
先程マイクロトフが述べたように、たまたま並び立つ陣幕の間に挟まれた場だったことが幸いして、今のところは敵兵の目から逃れているが、一歩でも踏み出そうものなら直ちに発見されてしまうだろう。
「動くなら急がねば……。こことて、いつ気付かれるか分からない。囲まれてからでは遅い」
マイクロトフの言葉に頷いた一同は、己の武器を握り直した。身を乗り出して素早く周囲を窺ったカミューが琥珀の瞳を煌めかせる。
「幸い、敵は馬を持っています。あれを拝借するのは如何です?」
「誇り高き騎士さんが、馬泥棒か?」
揶揄するビクトールに婀娜めいた笑みが応える。
「時間と余裕があれば、更に色々と持ち帰りたいところですが」
傭兵は吹き出しかけた。
「おまえのそういうところが好きだぜ。よし、馬をかっぱらって陣を突破する。いいな、ウィン?」
だが、振られた少年は僅かに顔を歪めた。
「はい。でも……、ぼく……」
仲間の三人ほど馬術を極めていない盟主のあえかな戸惑いをビクトールは一蹴した。
「大丈夫、おまえはおれが抱えていく。なーに、二人乗りだろうが何だろうが、敵さんの追撃を振り切るくらい屁でもねえさ。とにかく、しっかり掴まってりゃいい」
「す、すみません。お願いします」
仲間のうちでも特に古参である傭兵の朗らかな物言いは、危地にあって心強いばかりだ。二人の遣り取りに微笑んだ騎士団長らが更に互いに視線を移し、決意を交わし合った。
「んじゃ、あの見張りが木の陰に入ったら行動開始だ。遅れるなよ、ウィン」
仕切ったビクトールが最初の歩を踏み出すタイミングを計り始める。
得も言われぬ緊張の後、鋭い声が一喝した。
「行くぜ!」
一同は一斉に陣幕の陰から飛び出した。少し離れた陣幕の傍に繋がれている数騎の馬を目指して走り抜ける。
ハイランド兵たちもすぐに気付いた。大声で敵の存在を叫ぶ一人をビクトールの剣が素早く薙ぎ倒す。その間にカミューが馬を繋ぐ杭に駆け寄り、立て続けに縄を斬り落とした。
呼び掛けに応えてあちこちの陣幕から敵兵が姿を現した。既に休んでいたのか、中には状況が把握出来ずに目を丸くしているものもいたが、部外者が馬を奪おうとしていることだけは理解したようだ。たちまち包囲に入るハイランド兵を一瞥したマイクロトフは怒鳴った。
「ビクトール殿!」
「おうよ! ウィン、来い!」
束縛を絶たれて自由になった馬の一騎に身軽に乗り上げた傭兵が少年に手を差し伸べる。しかし、その名を聞いた刹那、敵兵の表情が一変した。
新同盟軍の要である少年───馬泥棒の一派の正体を知った彼らは直ちに全力での攻撃を開始し、二人の騎士団長らは近づけまいと防戦に応じた。
その隙にウィンを馬上に引き上げたビクトールが叫ぶ。
「脱出するぞ!」
「お先にどうぞ、ビクトール殿」
美貌の赤騎士団長は艶然と微笑んだ。それを聞いた馬上のウィンは目を剥いたが、歴戦の勇士であるビクトールは微かに唇を噛んだだけで手綱を引いた。
「ビクトールさん!」
「黙ってろ、舌噛むぞ!」
携えた星辰剣の柄で馬の尻を叩いた彼は、一瞬で見極めた敵の包囲の穴に向けて突っ込んでいく。
「早く来いよ、二人とも!」
慌てふためく敵兵の間をぬって、遠い声が叫んでいた。
「……そのつもりです、ビクトール殿」
不敵に笑った青騎士団長が、飛び掛かってきた兵に愛剣ダンスニーを打ち落とした。
すべてに優先するのは指導者の安全である。彼らが瞬きの間に自身らの役割を決したのは、培ってきた戦いの本能というものだ。
撤退において、しんがりは最も危険であり、それだけに一任されることは栄誉なのだ。ビクトールが躊躇せずに先行したのは、何よりも二人の騎士団長の力を信ずる証だった。
ウィンらを追おうと馬に近づく敵兵に、煌めく細身の剣が一閃する。夜闇に舞う血飛沫が端正な美貌を陰欝に染めた。
幾度目かの交戦を経て、二人は互いの背を合わせた。
「マイクロトフ、先に騎乗しろ」
「何?」
たちまち顔を険しくした男にカミューは笑う。
「馬の扱いならわたしの方が上だ。走り出すついでに別の一頭にも鞭を入れてくれ」
「……飛び乗るつもりか?」
「時は有効に使わなくては、ね」
溜め息混じりに首を振ったマイクロトフは、次の刹那、馬に向けて身を翻した。妨害に走り出す敵兵との間に割って入ったカミューが風のような剣戟をもって男を護る。
長槍を、あるいは縄をもって脱出を阻もうとするハイランド兵が前方に立ち塞がっても、だがマイクロトフは怯まなかった。自身よりもはるかに多くの敵と対峙しているカミューを思えば、思案している暇などない。
「退け!」
振り上げた大剣、命ずることに慣れた声。
思わず、といった様子で敵兵が身を硬くした隙に馬に乗り上げ、脱出の方向に鼻面を向ける。
駆け出す一瞬に傍近くまで寄った敵があったが、攻撃には至らなかった。どさりと崩れ落ちる兵士の背後、愛剣ユーライアの血糊を振り払うカミューがいる。
「行くぞ、カミュー!」
命じられたように、もう一頭の馬尻を剣鞘で一打しながらマイクロトフが叫んだ。
追い縋る敵を剣先で一蹴したカミューは、走り出した馬に並走して手綱を掴む。そのまま見事に騎乗を果たし、先んじた男を追い掛けた。
陣営の最端には防壁と見える低い土豪があった。軽やかな跳躍で二騎はそれを飛び越える。
───その一瞬。
赤騎士団長は端正な顔を僅かに歪めたが、ほんの一瞬のことであった。
だからマイクロトフは気付かなかった。
最後に彼を護って敵を排除したとき、別の兵が繰り出した槍の刃先がカミューの左脇腹を掠めていたことに。
疾走する対の馬を真円の月が見下ろしている。
追撃者にとって加護となるであろう光は、流れ落ちる鮮血を無言で照らし続けていた。
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