マチルダ騎士団の再興、それは離反を果たしたすべての騎士の願いであり、デュナン大戦後の大いなる使命であった。
ロックアックス城に帰還して以来、彼らは身を休める暇もなく事態の収拾に奔走したが、一時的ではあっても敗戦国に与したかたちの自領平定には多くの苦難が広がっていた。
崩れた治安を侮って巣を構える賊は後を絶たず、かつて強大な軍事力を礎に領内安寧に絶対を誇った騎士団領を脅かした。
流民の問題は更に深刻だった。
『国』を失ったハイランド領民はジョウストン新都市同盟軍の戦後処理を恐れて流出を続け、深い森にて国境を接するマチルダ領に侵入するものもあった。
こうした流民には道義的な対処が計らわれたが、中には暴徒と化す一群もある。彼らは盗賊暴漢と紙一重の存在であったが、その背景を鑑みれば安易に武力行使に訴えることも躊躇われ、騎士団は制圧に苦慮した。
混乱を鎮めるのは戦うよりも難しい───赤騎士団長カミューは幾度も口にし、その都度騎士らは実感を噛み締めた首肯で応じたものだ。
けれど騎士らは誠実に己のつとめを果たし続けた。
血しぶくような尽力の末に、漸く領内に秩序の欠片が戻り始めた矢先のことである。領内隅々に配備した見張りの騎士から不穏な報が届いた。ハイランドとの国境を分ける深い森の入り口に、尋常ならざる数の流民が群れているというのだ。
早速、ロックアックス城では対応に向けての議会が招集されることになった。
「……では、同地に一軍を差し向ける方向で」
赤騎士団副長が参席する要人らを見回すと、無言のまま賛同の挙手が生じた。
「編成は如何相成るのでしょう?」
穏やかに白騎士隊長の一人が問う。座を囲む白騎士隊長らは最後まで主君ゴルドーに従ったもの、即ち新同盟軍に参加した離反騎士と戦った面々であるが、今は過去を捨て、騎士団領をかつての姿に戻すために尽力している。
質疑の意味は、今は多くの騎士が任を抱えて領内に散っており、手隙の部隊が少ない現実を憂いたものだった。
「現在、城に残っているのは青・赤両騎士団が各二部隊、白騎士団が一部隊……」
諳んじるように呟いた赤騎士団長カミューは、そのまま躊躇なく言い放った。
「わたしが行く。第七部隊に出立の準備を」
軽やかな命に副官が一礼しようとした刹那、向かいに座していた青騎士団長マイクロトフが閉じていた目を開けた。
「……それは同意しかねる」
異を唱えられたカミューはもとより、周囲の者たちも訝しく思った。彼らは言葉もなく、真意を求めるように険しい表情の男を見守ったが、真一文字に引き結ばれた唇はその後の言葉を留めたままだ。
「どの部分を反対しているんだい?」
やや躊躇気味にカミューは問うた。
共に騎士に叙位されて幾年、互いをこの世で唯一の伴侶と認めた歳月は、親友として過ごした日々に追従する長きに渡る。
同じ価値観を有するとカミューは信じていたし、それを疑ったこともない。意に反するというなら相応の理由がなければ承服出来ず、カミューにはそこに通ずる諸々を思い浮かべることが叶わなかった。
マイクロトフは暫く押し黙っていたが、やがてポツと答えた。
「……おまえが自ら出向くという点だ」
それを聞いてカミューは朧げな暗雲が晴れるのを感じた。
誰よりも勇敢な伴侶は、だがカミューの動向に関してはひどく繊細な一面を持つ。彼の無類の武力や才覚を心から信じながら、どうしても危険から隔てたいという願望を捨てられずにいる男なのだ。
彼は苦笑し、柔らかく諭し始めた。
「今現在、我々は旧ハイランドと手を組んだ騎士団とは異なる存在……ハイランド領民から見れば、謂わば敵。流民の受け入れは吝かではないけれど、彼らが暴徒と化す可能性は捨て切れない」
一同は理解を示して続きを待つ。
「ここで騎士団の代表が赴くことは、相手の感情を鎮めるのに効果的だ。それに……、わたしにはいざというとき臨機応変な対処を取る自信がある。よって、名乗りを上げたのだけれど……それでも不満かい?」
最後に揶揄の調子が混じった。
常ならば座を覆う深刻な気配を払拭し、総勢の心を和ませる話術である。実際、同席していた殆どの騎士は納得だとでも言いたげな笑みを浮かべたが、唯一人、彼の伴侶だけが相変わらず厳しい顔のまま卓上に握った両手を見据えていた。
「……マイクロトフ様」
傍らの青騎士団副長が気遣わしげに声を掛けたが、マイクロトフはそれ以上反対するでもなく、かと言って賛同を示す訳でもなく、闇色の瞳をひっそりと閉ざすばかりだった。
「出立は明朝、経緯はその都度使者を送って報告する。異存ないだろうか?」
カミューの問い掛けに一同は了解を送り、決議は為された。
何処かいつもと違う重苦しい閣議が散会となる。出立の準備のため、直ちに行動せねばならないカミューだったが、要人らが次々に席を立つ中で最後まで身じろぎもせずに席上に残る男に目を細めた。
───何かがおかしい、けれど糾す時間がない。
不快な異物感が胸を圧迫していた。敢えて振り払うように背を伸ばし、カミューは議場を後にした。
雲一つない闇空に、細い新月が浮かんでいた。
滲むような静謐の中、ただ情景だけが行き過ぎる。
無音の世界には闘争の痕跡すらなく、けれどそこには悲憤を通り越した哀惜が横たわる。
慟哭の叫びが封じられた世界、在ってはならない筈の未来。
───そう、これは『未来』だ。
唯一恐れ、回避を願わずにはいられなかった終焉。
威儀を正して立ち尽くす騎士たちの姿。
献花もなく、鐘の音もなく───ただ痛みだけが支配する、束の間の送葬。
遠かった像が次第に近づいていく。
この先は、幾度となく呪詛をぶつけた瞬間だ。
居並ぶ騎士を掻き分けるように進む視点が、終にはそれを映し出す。
恐怖、嫌悪、悲嘆、絶望。
掻き抱こうと試みる両腕は、だが虚しく空を擦り抜ける。
それでいて掌は鮮血に塗れ、纏わりつく紅の生々しい温もりが凍った嘔吐を誘った。
彼は吐いた。
魂までも吐き出すかの如く、地に転がって喘いだ。
……そうして最後に気付く。
己の唇から迸る吐瀉物、それが濡れた掌と同じ色であることに。
深夜の訪いにカミューは僅かに眉を寄せた。
昼の会議から、慕わしい男の中に蟠るものがあるのは理解している。それでも一応の決定は見た訳だし、出立を控えながら睡眠を削ることの愚を悟らぬマイクロトフではない。
「どうしたんだい?」
逆に気遣わしく尋ねると、彼はゆっくりと首を振った。
「報告に来た。此度の任、おれが青騎士団・第三部隊を率いて向かうことになった」
それは、カミューが想定していたあらゆる範疇を超えた一言だった。暫し呆然と瞬き、それからゆっくりと男を室内に誘った。
「意味が良く分からないんだが……」
小首を傾げて質す青年に真っ直ぐに当てられる瞳。日頃は感情を克明に語る漆黒の双眸は、だが今宵ばかりは不可思議な深淵に沈み落ち、心のうちを窺わせようとはしない。
マイクロトフは淡々と答えた。
「あれからもう一度閣議を招集したのだ。結果、国境に向かうのはおれということに決まった」
これもまた、カミューには理解出来ない言及だ。
「閣議って……わたし抜きで?」
重々しい頷き。重なる不可解が揺れる怒りを呼び込もうとしていた。
「どういうことだ? 決定を覆す……確固たる理由が有るなら、それは譲ろう。だが、その場からわたしを外すとはどういう了見だい?」
マイクロトフは微かに目を伏せたが、再び合わせた視線はきつい光を放っていた。
「おまえを傷つけるのは本意ではない。だが、どうしても理由を聞かねば納得出来ないと言うなら、やむを得ない。この任がおまえには不適切だからだ。おまえは言ったな、『騎士団の代表が赴くことが肝要だ』と。その点において、おまえは不適切なのだ」
幼げに瞬きを繰り返すカミューには、伴侶の言葉が何一つ理解出来なかった。食い入るように見詰める琥珀から目を逸らすことなく、マイクロトフは畳み掛けるように言い募る。
「現在抱えている問題が片付いた折には、おれを新生マチルダ騎士団の団長に、という動きがあるのは知っているだろう?」
カミューは注意深く頷いた。
古い軛を断ち切って最初に離反を切り出し、自由な信念のもとに新同盟軍に走った彼を、騎士たちは新たな秩序の指針と見ている。マイクロトフをマチルダの全騎士の長として迎えることを願う声が広まっているのは事実であった。
無論、反する意見もないわけではない。
特に赤騎士団内にはカミューが指導者としてマイクロトフに劣ると見做されるのを懸念する空気があった。
いずれにしろ、先の話だ───そうカミューは考えていたのである。
「つまり、現時点で騎士団の代表という立場に最も近しいのは、おれということになる。何より、おまえはマチルダの民ではない。これは有名な話だから、ハイランド流民でも耳にしたことはあるだろう。おまえが出向いたところで、マチルダ騎士団の総意とは捉えられないかもしれない」
マイクロトフらしからぬ感情を交えぬ論述が、無情にカミューを打ち据えた。衝撃に暫し言葉もなく、やがて洩れた声は掠れていた。
「……別にわたしは『騎士団の代表』などといった立場が欲しい訳じゃない。会議でも言ったように、それがわたしに合ったつとめだと考えただけだ」
「………………」
「たとえ都市同盟領の生まれでなくとも、マチルダ騎士である今のわたしが騎士団の意として受け入れられないと?」
抑えた言及の次には、常なる沈着が押し流された。
「おまえは本気で思っているのか?」
男の胸倉を鷲掴み、激しく揺さぶる。
「他の者ならばいざ知らず、おまえが? こんなにも長く共に戦い、寄り添って生きながら……この街で半生を過ごしたわたしを、グラスランド出自だというだけでマチルダの民とは言えないと?」
これまで一度として考えたこともなかった。
こんなふうに、伴侶が見知らぬ男に見える日が来ようなどとは。
底知れぬ疑念と混乱、そして兆す悲哀に震える手にマイクロトフは静かに眼を細めた。
「……だから傷つけるつもりはなかったと言っただろう? それでも理由を求めたのはおまえだ、カミュー」
見下ろす黒い瞳は硝子玉のように酷薄な光に満ちている。これまで信じてきたすべてが崩れていくような喪失感がカミューを引き裂き、喘がせた。
ゆるゆると濃紺の騎士服を握っていた指が離れる。それは心の隔てにも似て、至極ゆっくりと、躊躇いがちな所作だった。
「……分からない」
苦悩を湛えて首を振り、彼は数歩後退った。それから片手で顔を覆い、背を向けて長椅子に崩れ落ちる。
「わたしには……何も分からない」
マイクロトフは立ち尽くしたまま、続く呻きを噛み締めた。
───わたしはおまえの何を見誤ったのだろう。
未来への展望がもたらした齟齬、そう称するにはあまりに突然の亀裂だった。これまで同じ価値観の許に在ると信じていただけに、断崖の割れ目に落とされたに等しい。
カミューは形良い唇を噛み、無言のまま項垂れる。長椅子の背から覗く青年の肩は不似合いなほど脆く、儚かった。
束の間、マイクロトフはその肩に向けて片手を伸ばし掛けた。けれど掌は微かに震え、そのまま身体の脇に下りた。
「……見送りは不要だ。夜が明け切らぬうちに城を出る」
低く囁くが、青年は振り向きもしない。ただ、押し殺した声が虚ろに応えた。
「そのつもりはない。おまえの顔など見たくない」
冷えた言葉がどんな表情から投げられたのか、マイクロトフには見ることは叶わなかった。
黙したまま踵を返し、扉に手を掛けたところで向き直る。長いこと躊躇してから、マイクロトフは密やかに言った。
「……あと数日で新月だ。闇は深く、ゆっくりと眠れることだろう」
「………………」
「───行って来る、カミュー」
翻った群青の衣が扉の向こうに消えたときに白い眦を伝い落ちたのは、行き場を失った恋慕の情であった。
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