マイクロトフに率いられた青騎士団・第三部隊が出立して五日、カミューは抱えた任に没頭することに努めていた。
執務に追われていれば何もかも忘れられる。
この期に及んで価値観を異にした伴侶を思う痛み、十数年もかけて築き上げた己の居場所が、結局砂上の楼閣に過ぎなかったことへの失意。
悲嘆が自らを押し潰さぬよう、ひたすら責務遂行に打ち込む彼を、周囲は遠巻きに見守っている。
閉じた心が何を思うか───それを解しているからか、何も言わず、ただ事務的に接するよう心掛けているようであった。
唯一、腹心であった副官のみが常に何事か言いたげに視線を向けていたが、これも僅かばかり胸に咎めるものがあるからだろうとカミューは考えた。
二日前に国境からもたらされた最初の報は、集結したハイランドの流民との間に多少の小競り合いはあるものの、どうやら暴動めいた動きへの懸念はないというものだった。
戦闘が回避されそうなことに少しだけ慰められたカミューは、自らに残された最大の懸案の総仕上げに入った。
マチルダ領は大戦時にハイランドに与したため、一時的に都市同盟領内における自治権を剥奪されている。これを大戦前の状態に戻すことが最終的な騎士団再興とも言えた。
新国家の宰相は、今後のデュナン一帯の安寧のため、戦前の自治権の条項に若干の修正を加えることを求めており、カミューは幾度かミューズに草案を送っていた。これが漸く最終段階に入り、正式文書の取り交わしまで至っていたのだ。
───これが騎士団での最後の仕事になる。
カミューは既にマチルダを去ることを決意していた。
先日の口振りからして、マイクロトフはマチルダの全騎士団長に就く心積もりなのだろう。
そうした日が来たならば進んで裏に回って助力しようと考えていた自身が、今は虚しい。
彼の主張に要人らは賛同した。つまり、騎士団にとってカミューが必要とされた時期は過ぎ去ったのだ。
この上、騎士団に留まる必要もなければ、そう望む理由も失われていた。
筆を置いて、カミューは提出文書を推敲した。
後はマチルダ騎士団の印章を押せば完成だ。印章はかつて白騎士団長が保持していたが、今はカミューが管理している。しかし、これはマイクロトフが帰還して後、処理してもらう方が良かろうと考えた。
重要文書専用の書筒を用意しておこうと書棚に歩み掛けた彼は、不意に軽い目眩を起こしてよろめき、長椅子の背に縋った。
「カミュー様!」
間が悪いことに、丁度入室してきた赤騎士団副長が狼狽えて走り寄ってくる。
「如何なさいました、御気分でも……?」
「……何でもない」
幾年も誠実に勤めてくれた副官であるが、彼もまたマイクロトフ同様の考えを秘めていたのだと思うと胸が冷えた。閉じた心は確実に口調に現れたのだろう、副長はやや眉を顰た。
「お疲れなのでしょう、少しお休みくださいませ」
心からの慰撫を感じさせる声音から顔を背け、机上の文書をちらと見遣る。
「後は騎士団印を押すだけになっている。マイクロトフが戻り次第、ミューズに送ってくれ」
ふと、副長は怪訝そうに首を傾げた。
「何ゆえカミュー様が押印なさらないので?」
それは、と言い掛けて言葉が続かない。あまりに邪気なく問われたために口籠っていると、副長は微かな溜め息を洩らした。
「不遜は重々承知しておりますが、敢えてお願い申し上げましょう。そろそろ御不快を納めてはいただけませぬか。騎士隊長らも消沈致しておりますゆえ」
御無礼を、と断わりながら男はカミューの腕を支えて長椅子に座るよう誘った。その仕種はこれまでと変わらぬ誠意に満ちていて、戸惑いがカミューを従順に陥らせる。
腰を落とした彼の足下に跪くなり、男は深く頭を垂れた。
「査察の任の決定をカミュー様に内密に変じたことには、改めてお詫び申し上げます。最初の議会の時点で気付かなかったのは不覚にございました」
気付くとは、わたしがマチルダ騎士として不相応であることに、か───
喉元まで出掛かった自嘲は、だが穏やかな声に塞き止められた。
「マイクロトフ様に再招集され、恥じ入るばかりにございました。副官を拝するわたしこそがカミュー様の御身体に留意せねばならぬというのに……お許しください」
そうして再び丁重な礼を払う。次第に困惑が増してカミューは琥珀を瞬かせた。
「何の……話だ? わたしの身体……?」
はい、と副長は真摯に頷く。
「カミュー様は現在、騎士団における事務案件の殆どを果たしておられます。その多忙たるや、他騎士の比に非ず。この上、査察の任まで負わせるなど……責務過多に過ぎるというもの。あの場で気付くべきでした、申し訳ございませぬ」
そこまで無言で聞いていたカミューだが、押し寄せた混乱が目を霞ませた。
「わたしを任から外したのは……過労を気遣ったからだと……?」
身を乗り出して必死に問う。
「わたしが赴いても騎士団の意と認められぬと……、だからマイクロトフが代わりに出向いたのではなかったのか?」
すると今度は副長が不可解な表情を見せた。暫く思案した挙げ句、彼はおずおずと返す。
「マイクロトフ様はいったい如何様な御説明を為されたので?」
そこでカミューは初めて激しい行き違いが生じていることを悟り始めた。
何とか溝を埋めんと、あの夜マイクロトフと交わした言葉を並べた途端、副長はうっすらと苦笑した。
「カミュー様は御身を気遣われることを厭われる御性情、故に説得は任せよとマイクロトフ様は仰せでしたが……何とも苦しい理由をつけられたものでございますな」
それから真っ直ぐにカミューを見詰める。
「今、このマチルダにカミュー様の御出自に頓着するものがありましょうか。カミュー様は我らの気高き赤騎士団長、それを認めぬものなど皆無です」
「だが……」
深い息を吐いて副長は首を振った。
「……やはりマイクロトフ様の御懸念は正しゅうございましたな。斯様な戯言を真に受けられた───カミュー様が御疲れでおられた何よりの証です。疲労は思わぬ落とし穴と言えましょう。常なるカミュー様であれば笑い飛ばされたことでしょうからな」
それにしても何たる理由を、とやや呆れ気味に嘆息する男を見詰めつつ、カミューは呆然とするばかりだった。
確かにマチルダ帰還以来、多忙を極めてきた。優れた政治力を誇る彼は、各都市との交渉事の一切を担っていたし、領民から寄せられる陳情の吟味もすべて彼の役割であったのだ。
領内にて剣を振るいながら治安回復に努める騎士を思えば、自身の体調など顧みる暇もなく、ただ目の前に積み上がる案件をこなすことに尽力せずにはいられなかった。
そんなカミューを無言で案じ続けていた男の配慮だったという副長の言葉は、突然の変貌を果たしたマイクロトフよりも遥かに理解し易い。
更に副長は後押しするかのように温かな笑みを浮かべた。
「体調を気遣われたことを御不快に思っておられるのだとばかり思っておりましたぞ。騎士隊長らも何とお声を掛けたものかと、気落ちするばかりでした。斯様な齟齬を来していたとは……やはりわたしが御説明申し上げるべきでしたな」
これで気は晴れたかとばかりに控え目に顔を覗き込まれ、カミューもまた薄い苦笑を浮かべた。
久々に見る上官の表情に安堵したのか、副長はにっこりした。立ち上がり、机から提出文書と騎士団印章の入った小箱を取り上げてカミューに差し出す。
「我がマチルダ騎士団の指導者はマイクロトフ様とカミュー様の御二方。たとえこの先、どちらか御一方が全騎士団長位に立たれたとしても……それは位階としての名に過ぎませぬ。我がマチルダの騎士団長として押印を───カミュー様」
促され、しなやかな手を伸ばした。
切々と諭されるうちに、数日来の哀惜が癒されるのをはっきりと感じるカミューである。見失ったとばかり思った伴侶の心や部下たちの誠意が、今も変わらず傍に在ることに泣き出したいほどの至福を覚えた。
副長の言う通り、いつもの彼ならばあの夜のマイクロトフの言及に対してもっと冷静に対処出来た筈だ。鵜呑みにし、ただ失意に打ちのめされた自身は、蓄積した疲労によって心弱くなっていたのかもしれない。
押印し終えた文書を満足そうに手にした副長は、先程カミューが用意しようとしていた書筒を取り出し、封をする。
「早速ミューズに向けて発信致します。明日は一日ゆっくりと御休みくださいませ、カミュー様」
幾分強い口調で言ってから、急いで続けた。
「お訪ねした用件を失念するところでございました。この続きはマイクロトフ様に直接糾されなさいませ。伝令が参りました、査察に出た青騎士団・第三部隊は明後日にも戻りますぞ」
おかしな理由で惑わせたことを、心ゆくまで責めて差し上げると宜しい───小声で付け加えられた一節に吹き出しかけたカミューは、ふと暮れ行く窓辺を見遣った。
忍びやかな薄闇の訪れ。
胸を裂いた夜の狭間に洩れた伴侶の言葉が脳裏を過る。
「……次の新月はいつだったかな」
独言のように呟いた上官に、副長は目を細めた。
「明晩です。それが何か……?」
いや、と首を振ってカミューは微笑んだ。
あのとき、振り返ってマイクロトフの顔を見なかったことを微かに悔いながら。
翌日、配慮に甘えて自室で過ごすカミューの許へ多くの部下が訪れた。
どうやら敬愛する赤騎士団長との間に誤解が生じていて、更にそれが解けたことを聞きつけたらしい。
多忙を案じ、少しでも分け持たせて欲しいと訴える男たちの表情は、副長の言を裏付ける誠意に溢れていた。
重く伸し掛かっていた失意の一端は失われたが、完全に気懸かりが消えた訳でもなかった。
幾度も反芻したあの夜のマイクロトフの言動。
黒硝子のような瞳で己を見据えていた表情を思い返すたびに不可解が胸を刺す。
何故、彼はあのようなことを口にしたのだろう。
確かに日頃から気遣いに対して素直に応じてきたとは言い難い身だ。だからといって、他に言葉は幾らでもあったであろうに。
マイクロトフは論述が不得手な男であるが、あのときはいつもと違って見えた。淡々と語る言葉のひとつひとつは彼のものとも思えぬほど理詰めに終始し、だからこそ逐一カミューの胸を抉ったのだ。
夜になり、寝支度を済ませて、窓の外に浮かぶ弓のような新月を見上げて嘆息した。
細く脆い、頼りない月明かり───確かに闇は深く、疲れた身体に染み渡るようだ。
最後にもたらされた一言こそ、マイクロトフの真意であったのだろう。
───執務に心身を削る伴侶に深い眠りを望む心。
それを知った今、凍てついた眼差しや冷然たる口調との違和感は広がるばかりである。
いずれにしても、明日になればすべてを明らかに出来るだろう。この一夜さえ過ごせば、すれ違った心を取り戻すことも可能な筈だ。
「……マイクロトフ」
なめらかな指先をそっと窓に伝わせる。
「早く戻れ、マイクロトフ……」
それは切実な祈りであった。
寝台に横になってどれほどが過ぎただろう。
泥のような眠りに在っても剣士の本能は損なわれることはない。カミューの並外れた自衛の触手が掠れた物音を拾い上げた。
鋭く半身を起こして愛剣の鞘を掴んだ彼は、戸口に立つ大柄な影に息を飲む。
「マイクロトフ……?」
廊下から差し込む仄かな明かりを背に、男は無言のまま立ち尽くすばかりだ。
「……マイクロトフ」
弾かれたように寝台から立ち上がる彼に、伴侶らしからぬおずおずとした声が問う。
「入っても構わないか……?」
当たり前だと舌打ちしながらカミューは男に駆け寄った。
微かな躊躇から、直前で足を止める。その躊躇いを察したのか、マイクロトフは別れた夜とは別人の如き切ない瞳でカミューを見詰めた。
「もう……おまえに触れることは許されないだろうか」
耐え難い慕情がカミューを満たした。歩み寄り、悄然と俯く男の両腕を掴み締める。
「……巫山戯たことを言っていないで、さっさと抱き締めろ、馬鹿」
次の刹那、力強く背に回る腕に呼気を奪われ、カミューは甘やかな酩酊に落ちた。
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