遺志


「………つらかった」
多くを語らず、けれど胸を占めていた思いを弱く告げると、逞しい体躯に戦慄きが走る。
「すまない」
「話は聞いた。あれが真実だったのだと考えても良いのかい?」

 

心が分かたれた訳ではなく、ただ配慮に基づく苦肉の策だったのだと……?

 

切実な問い掛けは、更に力を増した抱擁に肯定された。
「思い遣りなら、もっと真っ直ぐに伝えてくれ。おまえが出立してからというもの、どれほどわたしが思い悩んだか分かるか、マイクロトフ?」
「……すまない」
苦しげに陳謝だけを繰り返す男は不器用な幼子のようで、これまでカミューが愛し続けた男そのままだ。目を細めて笑みながら、彼は広い肩に頬を預ける。
「わたしも部下に指摘されるまで自分が疲れていることに気付かなかった。だからかな……、あれが演技だとは思えなかったよ」
するとマイクロトフは微かに唇を歪めた。
「おれも、心にもないことを口にするあまり緊張で強張っていた」
軽く吹き出して、カミューはゆっくりと力を抜いた。温もりを噛み締めるように柔髪にくちづけた男が低く言う。
「おまえに拒絶されても已む無しと覚悟していた。なのに、悔やまれて胸が潰れそうだった。別れ際の後ろ背が眼裏に残って……片時も離れなかった。弱いな、おれは。会いたくて……あの夜をやり直したくて、気が狂いそうだった」
「マイクロトフ……」
合わせた瞳は狂おしげな漆黒に射貫かれ、改めて呼び掛けようとした唇は情熱に塞がれた。
魂さえも吸い取らんばかりのくちづけに、身をしならせてカミューは応えた。弄る指先が硬い背をなぞり、高ぶる熱を伝えていく。
もつれ合うように闇中を進み、やがてカミューは長椅子に崩された。思わず、といった苦笑が浮かぶ。
「───ここで?」
あと僅かな距離に控える寝台をちらと一瞥したものの、性急に寛げられた衣服に言葉を噤む。一瞬さえも待てない高揚は、彼もまた同様であったのだ。
肌を伝う剣士の指が荒々しく快感を煽り立て、噛みつくようなくちづけが掠れた悲鳴を呼び覚ます。自らも手を伸ばして男の衣服のうちを探ったカミューは、ふと眉を寄せた。
「冷え切っている」
ひとたび身を起こしたマイクロトフが困ったように笑んだ。
「今宵はひどく冷える。急いで駆けたものだから、随分と風を受けたし……」
そうか、とカミューは男を引き寄せた。
「青騎士団が戻るのは夕刻くらいになるとばかり思っていたよ」
「おれだけ先に戻ったのだ。一刻も早くおまえに会って、……詫びたくて」
「危うく、すれ違うところだったよ」
くすりと笑って言う青年をマイクロトフは怪訝そうに凝視する。
「昨日、事の顛末を教えられたんだ。でなかったら……、おまえが戻ったときには、わたしはマチルダから消えていただろう」
え、と目を見張った男に笑みながら続けた。
「新生マチルダ騎士団───おまえの統治体制においてわたしの存在は無価値だし……寧ろ争いの火種になるかしれない、そう思ったからね。自治権回復の執務が終わったら騎士団を辞すつもりだった」
「……カミュー」
マイクロトフは険しい表情で彼を見詰める。
「今も騎士団を去ろうと考えているのか?」
小さく頷いて目を閉じる。
「多少の誤解はあったけれど……あのときのおまえの言葉は、あながち的外れとも言えまい。だから……」
「カミュー」
今度はやや強い口調で遮ったマイクロトフが真っ直ぐに瞳を覗き込む。
「おれは騎士団長位に就くつもりなどないぞ」
「え?」
幼げに瞬いていると、男は苦り切った表情で呻いた。
「いったい何処へ行くつもりだったんだ、カミュー」
「何処、って……」
諸国を旅して回るか、あるいは故郷の地に戻るか。
はっきりとした望みがあった訳ではない。ただ、騎士の街から離れようと考えていただけで。
そう返すと、マイクロトフは苦笑した。
「本当に危ないところだったのだな。おれは騎士団長の位になど就く気はない」
でも、とカミューは口籠る。
騎士たちのみならず、領民すべてがそれを望んでいるだろう。漸く混乱を納めた騎士団領を護り導く絶対の指導者、そこにマイクロトフを戴くのは自然の流れである。
だが、彼はひっそりと首を振った。
「確かにおれもおまえも己の正義に従って新都市同盟軍に参加した。だが、ひとたび捧げた騎士団への忠誠の誓いを踏み躙じったのも、また事実だ。騎士団を再興するのは離反によって秩序を破壊してしまった元・騎士団長としてのつとめ。だが……、生まれ直した騎士団を導く役目は他のものに譲りたい」
静かに、あの夜のように淡々と語りながら、今はまったく別の男のようだ。朧げにカミューが予感していた進退を切々と語るマイクロトフは、雄々しくも美しく、そして温かかった。
「今もおまえが旅立つつもりなら、一緒に行っても構わないか……?」
優しい唇が額を掠める。
「何処へ行くのでも良い。ずっと傍に在ることを許してくれるか、カミュー?」
「……当たり前だ」
きつく瞑目して逞しい背を掻き抱く。
「離してなどやらない。何処までも引き摺っていってやる。今度わたしを一人にしようものなら、殴ってでも心得違いを正してやる」
怖いな、と笑いながらマイクロトフは震える唇を塞いだ。
己の肌で冷えた男を温めようと、カミューは燃え上がる供物と化した。
性急に貪る伴侶の情熱に息を切らせ、穿たれた肉に歓喜の嗚咽を洩らしながら───耳朶に囁く苦しげな響きに身を捩る。
「好きだ、カミュー」
重厚な作りの長椅子が微かな軋みで室内を揺らす。
「おまえだけを……愛している」
押し殺したような呻き。
「未来永劫、おれはおまえと共に在る」
極まった律動に激しく揺すぶられ、カミューは喘ぎ、男の名を呼び、溶け落ちる意識の中で鳴き濡れた。
───理性を手放して愉悦の淵に沈む影を、遠い新月が見守っていた。

 

 

 

 

 

 

 

ぼんやりと開いた琥珀の瞳に、柔らかな光が飛び込んだ。幾度か瞬き、漸く追いついた思考が夜明けを知る。
巡らせた視界は、しかし広々とした寝台の敷布を捉えるばかりで、夜通し狂乱を分け合った男の姿は消えていた。
部屋の隅に設えられた置き時計を窺い、カミューは苦笑する。
過ぎるほど真面目な男だ。任務明けのこんな朝でさえ、習慣にしている訓練に臨んだらしい。
のろのろと起こした身体に情交の跡はない。丁寧に清められた肌は清潔な夜着に包まれ、身のうち深く疼き続ける倦怠だけが昨夜の名残りである。

 

───幸福だった。
底知れぬ失意を味わっていただけに、すべての淀みが晴れた今、カミューの心は澄み渡り、凪いでいた。
マイクロトフと共に旅立つ。
長く過ごした街に別れを告げ、何処とも知れぬ未来へ向けて馬を駆る。
騎士たちは驚き、悲しむかもしれない。けれど、必ず理解してくれる筈だ。
どんな空の下に在ろうと二人が騎士団を愛していること、その誇り高き正義を見守っていること───同じ信念の元に戦った記憶が常に胸に輝いていることも。

 

カミューは寝台から滑り出た。
ミューズから自治権の承認が下りるまで然程時間は掛からないだろう。彼だけならばいざ知らず、同時に二人の指導者を失う騎士団が乱れることのないよう、万全を尽くさねばならない。
着替えに手を掛けたとき、控え目に扉が叩かれ、応えを待たずに赤騎士団副長が顔を覗かせた。
「カミュー様、宜しいでしょうか?」
常になく堅い表情で躊躇いがちに声を掛けられたカミューは小首を傾げた。
「どうかしたかい?」
「早馬が着きました。査察中の……青騎士団からの報です」
さては一人先んじて帰還してしまった騎士団長に狼狽えているな、と小さく笑む。
壮年の副長は、だがそこで激しく戦慄いた。幾度か首を振り、かろうじて顔を上げる。
「どうか、どうか御心を鎮めてお聞きください。マイクロトフ様が───」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ロックアックスの街から僅かに南下した草原。
枯れ草を踏み締めて馬を並べる男たちを、カミューは緩やかに眺め回した。
城に残っていたすべての要人が沈痛な面持ちで見守る中、馬上から朗らかに言い放つ。
「……そんなに深刻な顔をしないでくれ。何も今生の別れという訳ではない。そのうちにロックアックスにも顔を出すさ、おまえたちが誠実につとめを果たしていることを堪能するためにも、……ね」
旅装束に身を固めた青年は良く晴れた空を見上げ、改めて部下たちに視線を当てる。
「わたしたちの為すべきは終わった。後を押しつけるようで些か気が引けなくもないが……、離れたところから騎士団を見守る目も必要ではないかと思う。マイクロトフも同じ考えだ」
微笑んで、同意を求めるように傍らの馬を一瞥する。
「マチルダ騎士団の未来を、剣と誇りが護るように───いつも二人で祈っている」
項垂れる騎士の中から赤・青両騎士団副長が進み出る。
「どうぞ、お健やかに……」
言葉を詰まらせた青騎士団副長にカミューは苦笑した。
「おまえの大切な男は、わたしが責任をもって面倒見るよ」
はい、と肩を震わせる様を困ったように見詰め、カミューは隣を窺う。
「……相当信用がないな、マイクロトフ」
今度は赤騎士団副長が口を開いた。
「騎士団は常に御二方をお待ち申し上げております。どうか……、そのことをお忘れになられませぬよう」
「勿論だよ」
美貌の青年は夢見るように微笑んだ。
「戻る場所が在るから心置きなく旅立てる。再び訪れるその日まで、騎士団を、民を護って欲しい」
「───御意」
きつく瞑目した男に合わせ、一同は一斉に深い最高礼を取る。
「では……行こうか、マイクロトフ」
ほんの短い別れであるかのように、カミューは軽く騎士らに片手を挙げると、愛馬に鞭を入れた。並んでいたもう一頭も、緩やかに足を踏み出す。
弾むような並み足で視界から遠ざかる二頭を見守っていた騎士団の要人らであるが、やがて抑え切れぬとばかりに赤騎士団・第一隊長が呻いた。
「宜しいのですか、こんな……!」
搾り出された悲痛な訴えに、赤騎士団副長は俯いたまま応じた。
「誰がお止め出来るというのだ」
「……しかし!」
男たちは小さくなる馬影を見遣ったまま唇を噛む。次第に堪えかねたようにあちこちから低い嗚咽めいた響きが生じた。
赤騎士団副長はゆっくりと顔を上げ、陽炎のように揺れる前方を睨み据える。

 

馬上の優美なる後ろ姿、そして彼の駆る馬に細い縄で繋がれて走る、主人なき馬───

 

「……たとえ我らには見えずとも、カミュー様には見えておられるのだ。常に傍らに寄り添う魂の半身、……雄々しき青騎士団長の御姿が」
そこまで呟いて、彼は己の頬に伝う涙に気付いた。
焼ける目に慕わしき上官の影が揺らぐ。それでも最後まで見送ることが自らのつとめと、己を鼓舞した。

 

澄んだ初冬の風に吹かれて、新たな人生に踏み出す赤騎士団長カミュー。
その隣には、確かに愛した男が存在するのだ───たとえ肉体が失われていても。

 

男たちはいつまでも草原に留まった。
二つの影が完全に視界から消え失せても、真摯なる祈りを捧げ続けた。

 

いつか。
いつか再び青年が戻るようにと。

 

───ただそれだけを、心から。

 

 

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