───これで良かったのだ。
故郷の街から遠く離れた空を見上げながらマイクロトフは思った。
未来を曲げることが出来た、その満足に笑む口元は夥しい鮮血に塗れ、思うに任せぬ呼気が終焉の訪れを予感させた。
それでも彼は幸福だった。
誰よりも愛しい人を護り抜いた───それは何より願った結末であったから。
遠くに叫ぶ部下たちに心中で詫びながら、マイクロトフはゆっくりと目を閉じた。
夜ごと同じ夢を見るようになったのは、いつからだったか。
最初は馬鹿げた悪夢と自嘲して、次第に夜を恐れるようになった。
それは常に同じ場景の反復だった。
かつて幾度か査察の任に赴いたことで見覚えのある、遠い国境の森。
晴れた空にぽっかりと浮かぶ新月に見下ろされて地に横たわる赤騎士団長。
部下たちに囲まれて一人逝こうとする彼を、手出しすることも叶わぬままに見守るばかりの夢───
恐れ続けた伴侶の喪失、無力に喘ぎながら慟哭する忌まわしき一幕。
それが一種の予知ではないかと思い至ったのは、国境付近の流民の報を受けたときである。
刻は新月間近、地理的にも符合する。そして任に就かんと乗り出した伴侶が、予感を確信にと導いた。
あの夢が未来を警告しているならば、何としても違えねばならなかった。焦燥を掻き立てられ、彼は強行手段に訴えることにした。
カミューが疲労困憊しているのは事実である。要人らはマイクロトフの意を速やかに受け入れた。
───カミューを欺くことはつらかった。
色々と理由は考えたのだ。疲れているであろう身を案じているのだと正直に告げようかとも過った。
けれど、最後の最後に過った懸念がそれを押し止めたのだ。彼の代わりに、あるいは自身が命を落とすかもしれないという可能性が。
もし死によって隔てられるなら、いっそ憎まれた方がいい。たとえ己が失われてもカミューが嘆かぬよう、伴侶の座から消えることが最善なのだ───そう思った。
並べ立てた偽りは、幸いにも思惑通りにはたらいた。
心を閉ざしたカミューに満足せねばならない筈なのに、狂おしい後悔が胸に沈んだ。
査察の任に精魂を傾けることで、あの哀しげな後ろ姿を忘れようと努め、けれど果たすことは叶わなかったのである。
流民の中には敵対の姿勢を見せるものもあったが、申し出た助力に素直に従うものが大半であった。
順調に任は進み、幾度か伝令を走らせて、終に帰還前夜を迎えた。
新月が高い空に昇り、結局予知は夢に過ぎなかったのかもしれないと思えるようになった頃。
明朝早くに移動を開始するため、最後の見回りに出た。
深い森の木立ちを掻き分けて進んだ。洩れた民がいないかを確認するためであった。
僅かに開けた木々の狭間。巨大な樹木の根元に生じた窪みに幼い少年が潜んでいるのを見つけたのは、見回りを切り上げて戻ろうとしたときである。
いったいいつから隠れていたのか、痩せて震える子供は恐怖に竦み、声を掛けても窪みの奥深く籠もるばかりだ。
騎士団員が到着した際、蹂躙されるのではないかと狂乱に陥って森に散った民があった。その殆どは説得に応じて草原に設えた陣に身を寄せていたが、取り溢してしまっていたらしい。
マイクロトフは優しく呼びながら膝を折った。騎士団に敵意がないこと、温かな食事の用意も整っていることを告げながら、脅かさぬよう細心を払いながら少年に手を差し伸べたのだ。
───だが。
数日来、一人薄暗い森で過ごした恐怖から少年は完全に我を失っていた。忍ばせていた小さな短剣を握り締めたまま、マイクロトフに突っ込んできたのである。
無防備に子供を受け止める姿勢を取っていた彼は、冷たい刃に胸を刺し貫かれた。闘争の意志を持たぬことを示すために重装備を解いていたことも禍して、それは子供の力ながら致命傷となってしまったのである。
低い苦悶の呻きを洩らした騎士団長に、驚愕した部下らが次々に駆け寄ってきた。
子供を押さえつけて血塗れた短剣をもぎ取る彼らに、マイクロトフは苦しい息から命じた。
悪意ではない、怯えた子供のしたことだ。
責めるな、罰するな、騎士の正義を貫け。
人を傷つけた衝撃が少年の理性を蘇らせたらしい。捕えた騎士の腕から零れ出てマイクロトフに取り縋り、幼い口調で幾度も詫びた。
笑みながら応じた彼は、少年を流民たちの中に戻すよう部下に指示した。
誰の目にも既にマイクロトフが瀕死であることは明らかで、応急処置を施す手は震えていた。軍医が間に合わぬことも、マイクロトフには分かっていた。
これはあの夢そのままだ。
悲嘆に打ちのめされる騎士に見守られ、今まさに旅立とうとしている騎士団長。
身に纏う色彩が赤から青へと変わっただけで、他は寸分違わず、夜ごと身を苛んだ失意の光景そのものである。
ならば、勝ったのだ。
決して許せぬ未来を歪めることに成功した。カミューが受ける筈だった苦痛を我が身で代わる、決然たる想いは果たされたのだ。
彼はあの夜の冷酷に傷ついて、もはやマイクロトフを伴侶とは認めまい。そんな男の喪失を、これまでのように悼むことはないだろう。
───ああ、けれど。
耐え難かった。
最愛の人を傷つけたまま逝くこと、最後の記憶が哀しげな後ろ姿であったことも。
覚悟して選んだ道でありながら、その悔恨は胸を抉った傷よりもマイクロトフを切り裂き続ける。
それでも心優しき伴侶の青年が僅かでも心揺らすことのないように、目に見える『死』を前に幸福だった過去を蘇らせることのないように───彼は涙に濡れて覗き込む腹心の部下に穏やかに命じた。
おれの遺体をカミューに見せるな、此の場で荼毘に付して灰に還せ。
そうしてマイクロトフは静かに目を閉じた。
悲痛に呼び掛ける騎士の声も、次第に遠く朧げに掠れてゆく。
ふと。
懐かしき響きが耳元を過る。
マイクロトフ……───
はっとして開いた瞳に、見える筈もない遠い城、伴侶の自室が映る。
そして続いて浮かぶのは、甘やかな琥珀を月に当てながら窓辺に佇む美しき赤騎士団長。
───戻れ、マイクロトフ。
幻の貌には切ないばかりの祈りが溢れている。
薄れゆく意識に予感が走った。
もしかすると、彼は知ってしまったのかもしれない。
マイクロトフの画策が、すべて彼を護るためであったということを。
苦笑せずにはいられない。
───そう言えば、要人らの口から事実が洩れる可能性に配慮してこなかった。最後まで迂闊だった青騎士団長、詰めが甘いとカミューは笑うことだろう……。
唐突に零れた笑いが部下を戸惑わせたようだった。
必死に呼ぶ男にマイクロトフはひっそりと告げた。
おれは、戻る。
けれど、溢れる鮮血は言葉を不快な音に変えるばかり。
闇色の瞳を細い月に向けたまま、彼は再び目を閉じた。
───カミューが呼んでいる。
愛しきひとの許へ還るのだ。
たとえ命が失われても、永劫の誓いに従おう。
伴侶の傍らに在るために、空を駆け、則を越える。
自らの最後の息がひっそりと消えるのを幻のように噛み締めながら、纏う肉体の殻を脱ぎ捨てて、滾る恋情が遥かな夜に駆けていった───
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