死に絶えたような静寂の中、二人はしばし無言で向き合っていた。が、ふと思い出したように、従順に控えていた愛馬を呼びながらマイクロトフは踵を返した。戻って来た彼は、座り込んだままの少年の頭に、手にした布を投げて寄越した。居間に忘れてきた上着だった。
「夜、武器も持たずに村の外に出るのは自殺行為だぞ」
軽く諌めてから、マイクロトフはゆっくりと少年の隣に腰を落とした。雄々しく魔物を切り捨てていた剣士の炎は消え、静かな親愛が伝わってくる。カーマイアは鼻を啜った。
「まったく……探すのにどれほど苦労したと思う。子供ではないんだ、行き先はちゃんと残していけ」
そんな物言いに、思わず自嘲の笑みが洩れた。
「……出てきたんだ……」
同じ方向を向いたまま、応じようとしない男をちらと窺う。
「聞いただろ、おれのこと」
「……少しだけ、な」
マイクロトフは微かな溜め息をついた。
「だから……追ってくれなくても良かったんだ」
搾り出すように呟いた少年に、初めて男は目を向けた。くいと顎を掴まれ、顔を傾けられる。月明りに照らされているのは、打たれた方の頬だった。
「本気でやられたな」
マイクロトフは苦笑混じりに言った。
「あいつは手よりも先に口が出る。殴るのは余程のときだ」
うん、と小さく頷く。
「わかってる……」
「……おれたちの所為なのだろう、カーマイア?」
やや沈んだ声が闇に溶けた。
「詳しいことを聞いたわけではないが……おれたちの関係がおまえを傷つけたのだろう?」
「違うよ!」
必死に遮った。やっとのことで見詰めたマイクロトフは、我が事のようにつらそうな顔をしていた。
「違う、おれはあんたたちの関係で傷ついたりなんかしない! おれは……ただ……」
「……カミューは頭のいい奴だ。おまえが隠そうとしても、大体のあたりはつけたんだ、カーマイア。おまえは道場の誰かからおれたち絡みの嫌がらせを受けていた。おそらく……今回怪我をさせた道場主殿の息子に」
カーマイアは俯いて、唇を歪めた。
「嫌になっちゃうよ、隠し事のひとつも出来ないなんて」
膝を抱え込み、ゆっくりと力を抜いた。
「……おれの存在が、あいつらには面白くないんだ。でも……だからと言って、奴の言ったことは許せない。おれはね、マイクロトフ……本当はナジールを殺してやりたかったんだ」
今となっては隠す必要もないだろう。口下手で不器用な男は、ただ黙って聞き流してくれるに違いない。
「おれのことなら幾らでも馬鹿にすればいい。親なしの、盗っ人って罵ればいいんだ。だけど、あんたたちのことを悪く言うのは我慢出来ない。おれの所為で、二人が……たまらなかった」
ふと、涙が溢れ出た。
「……もっと素直で、誰からも好かれる奴を拾えば良かったんだ───カミューにそう言った。それだけじゃない、もっと……もっと酷いことも。怒るのは当然だよ」
両腕の中に顔を埋めて泣きじゃくる少年を、しばらく男は無言で見守っていた。ひとしきり泣いた頃、彼は静かに口を開いた。
「カーマイア……おれの両親は優しくて素晴らしい、尊敬出来る人間だった」
唐突にもたらされた話題を怪訝に思い、顔を上げると、精悍な顔は真っ直ぐ正面を見詰めていた。さながら、そこに居ない誰かに語り掛けているように。
「父は騎士で……戦場で亡くなられた。母は父の後を追うように病で逝った。親を失くしたおれは、叔父夫婦のもとで育った」
初めて耳にする身の上話に、一瞬胸を占める痛みを忘れて聞き入るカーマイアだ。
「おれと叔父夫婦は本当の親子ではない。だが、二人はおれをとても愛してくれたし、おれは二人を心から尊敬していた。そんなおれたちは、紛れもなく『家族』と呼べる存在だった。そうは思わないか?」
問われるままに頷く。愛情によって結ばれた絆を家族と言わずに何と言おう。
「何をもって、『家族』と定義するか。互いの愛情や信頼……、他に何がある? 血か? 血が繋がっていても、不幸な家族は幾らでもある。逆に、そうでなくても幸せな関係は幾らでも作れる。同様に、たとえ世に認められずとも幸福な絆というものはある。カーマイア……間違っていると思うか?」
カーマイアは必死で首を振った。そんな彼にマイクロトフは温かく微笑んだ。
「おれとカミューの関係は、確かに公言することの出来ないものかもしれない。だが、必要とあらば、おれは誰憚ることなく宣言して回れるぞ。おれはカミューを愛している、この世でただ一人の相手なのだと」
柔らかく溶け出した心が、ぽつりと呟いた。
「それは……カミューが止めろって言うんじゃないかなあ……」
ああ、と彼は苦笑した。
「だが、それくらいの覚悟はある。おれたちは恥ずることなく互いを求め、今日まできた。おまえがおれたちの代わりに腹を立てるなど無用だ、カーマイア」
固く節くれだった指が、ごしごしと少年の頬を擦る。涙を拭われているのだとは思えぬほど、荒っぽい仕草だった。
「カミューが何故殴ったか、おまえは理解していない」
「え……?」
「何もかも見透かすあいつが、おまえの吐いた言葉の裏に隠されたものに気付かないとでも思うか? おまえが一人で苦しみを飲み込もうとしたからだ。子供のくせに、甘えようとしなかったからなんだよ」
そこで彼はポンと少年の頭を小突いた。
「勘弁してくれ、カーマイア。確かにあいつの怒った顔は綺麗だが……おれには笑顔の方が好ましい。まして泣き顔など……、心臓に悪いぞ」
カーマイアは愕然として男を凝視した。
「泣いてた……? カミューが?」
「涙も見せずに、な」
困ったように息を吐き、マイクロトフは少年の髪を掻き回した。
「分かるんだ、長い付き合いだからな。殴ったときの顔を見ただろう? あいつが表情を失くすのは、度を越して怒ったときか、悲しんだときだ。おれの見たところでは……どちらかというと後者だな。おまえを探しに出ようとしたら、その上着を投げつけてきた」
草原の夜の冷気から身を守ってくれる一枚の上着。闇に消えた自分を探しに馬を駆ってくれた男の想いと同じだけ、上着はひび割れた心を温かく撫でてくれる。
「おれ……戻ってもいいのかな……」
切なさが堰を切って溢れ出しそうだ。両手で我が身を抱き締めながら、弱い声で繰り返す。
「戻っても……いいのかな、マイクロトフ……」
ほろほろと頬を伝う涙が上着に転々と染みを残す。
「カミューは許してくれるかな……これまで通り、笑ってくれると思う……?」
マイクロトフは少し考えてから、勢いをつけて立ち上がった。
「そいつは自分で確かめてみたらどうだ? おまえの意志で決めることだ。だが、一応言っておくが……多分夕飯は朝の残りだぞ。あの様子では、カミューが支度にかかるとは思えないからな」
にやりと笑う男に呆気に取られた。が、考えるよりも早く立ち上がろうと動いていた。
差し出された手は大きくて、伸ばした少年の手をすっぽりと包み込んだ。そこから流れてくるものが愛情に他ならないと感じた途端、力の抜けた腹部から空腹の響きが鳴り渡った。一瞬目を見張ったマイクロトフは、明るく笑いながら彼を覗き込んだ。
「……再考するならば今だぞ、カーマイア」
すっかり夜も暮れた村に戻り、馬の首越しに家が目視出来るようになったとき、カーマイアは胸の潰れるような痛みを覚えた。
扉へ至る石段に腰を落としたほっそりした影。長い上着を肩に掛けただけのカミューが、路に向けて視線を落としていたのだ。
待っていてくれたのだろうか───ずっと。
マイクロトフが捜索に走り回っている間、彼はずっとこうして行き違わぬよう二人が戻るのを待ち続けていたのだろうか。
初春とはいえ、夜は冷気に包まれる草原の村だ。カミューの服装は決して万全とは見えない。カーマイアはたちまち曇りそうになる瞳を必死に凝らして青年がゆっくりと立ち上がるのを見守った。
マイクロトフが歩を止めるなり、転げ落ちるように馬から降りる。足を踏み出すには勇気がいった。その場に立ち竦む彼に、続いたマイクロトフが呆れたように声を掛けてくる。
「何をしている? この期に及んで、夕飯がないのは嫌だという訳でもあるまい?」
「そんなんじゃ……」
「殴るなら、もう片側にしてもらっておいた方が無難だな。結構腫れている」
不穏なことを言われたが、殴って許してもらえるなら、たとえ当分見られぬ顔になろうと構わなかった。のろのろと踏み出す足は鉛のように重い。カミューがどういう表情をしているか、とても見返すことが出来なかった。
やっとのことで家の前まで辿り着き、両手を握り締めて項垂れていると、ゆっくりとカミューが石段を降りてきた。
「カミュー……おれ、おれ───」
震える声が何とか陳謝を紡ごうとしたとき。
カーマイアはふわりと甘い香りに包まれた。しなやかな腕が、少年の強張った背を抱き寄せる。顔を埋めることになった胸は、布越しであっても仄かに冷えていた。
「……わたしたちは『家族』だよ」
忍び込むような声が耳元に囁いた。ぴくりと戦く少年をしっかりと抱き締めたまま、カミューは優しく続けた。
「お帰り、カーマイア」
途端に溢れ出た涙を堪えることも出来ず、ただ細身の青年にしがみついて泣くばかりの少年を、背後からマイクロトフが彼を抱くカミューごとすっぽりと包み込んだ。
鼻先をくすぐる淡い花のようなカミューの香りと、日向のようなマイクロトフの匂い。
ここが帰る『家』なのだ、カーマイアは幾度もそう噛み締めた。
マイクロトフの予想通り、食卓には冷え切った朝の残りの肉とパサついた野菜が並べられていた。だがそれは、紛れもない『家族』の食卓だった。
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