洩れ聞こえてきた微かな響きに少年は目を覚ました。
窓の外に草木が揺れる密やかな音が流れている。静寂なる自然のさざめきをぬって、あえかな吐息が聞こえてきた。一度は上掛けに潜り込んだものの、耐え難い衝動に駆られて寝台を抜け出す。足音を潜めて扉口に立つと、吐息は切ない啜り泣きを含んでいた。
少年カーマイアはグラスランドに生きる孤児だった。盗人紛いの人生を送ってきた彼は、生活によって培われた無類の聴覚を持っている。身を守るため、殊更敏感である必要があったからだ。
雨露を凌ぐ住処を与えられ、こうして柔らかな寝台に横たわっていても、身に染み付いた習性は消えない。同居人たちの寝室は少年の部屋から一番離れていたが、夜風にさえ溶けるような物音も、少年の脳裏に克明なる情景を描くのだ。
胸に過ぎる小さな罪悪感。恋人たちの秘事を窺う。だが、思春期のカーマイアにはあまりに甘い誘惑である。
───たとえそれが世間の定義にいう『恋人』とは少しばかり異なっていても。
押し殺すようなくぐもった響きが、次第に切羽詰った喘ぎとなる。日頃は凛と結ばれた、あるいは柔らかな笑みを浮かべる唇が狂おしげに相手を呼ぶ声は、未だ年若い少年にさえ官能の灯火を点す。
まずい、そう思ったときは遅かった。
少年は身の内を走り抜けるような疼痛を覚えた。次に、衣服を濡らした迸りに自嘲の溜め息を吐く。夜陰の中で箪笥を漁り、物音を潜めて着替えを済ませた。汚れた夜着を丸め、もう一度嘆息する。
こうして彼らの交情によって疼きを掻き立てられたのは幾度目であることか。そのたびに恥じ入る心地を味わいながら、同時に熱い思いが溢れてくる。それは愛し合う恋人たちの息遣いを間近に感じることで得る幸福であったかもしれない。
孤児であった彼を住処に招き入れてくれたのは、遠い北の地からやってきた二人の青年であった。少年が彼らに抱いた愛情は、二人が同性で愛し合っていることを知ってからも揺らぐことはなかった。
元・マチルダ騎士であったマイクロトフ、そしてカミュー。
愛して止まぬ二人の青年は、流浪の孤児である少年に住処と名を与えてくれた。そして何よりも微笑みと温もり、少年が飢えるほど欲していたものをくれたのだ。そんな二人が心の底から愛し合い、求め合うことを祝福こそすれ、どうして非難することなど出来ようか。
彼らがそうして互いの想いを確かめる行為を、厭うつもりなど毛頭ない。むしろ、微笑ましくも思う。生真面目で無骨なマイクロトフが優美で聡いカミューをどんな言葉で包んでいるのか。凛然としたカミューが恋人の腕の中でどれほど忍びやかに咲き誇っているのか。
だが、そこまでくると、カーマイアは必死の自制を働かせねばならなくなる。甘やかな笑みを浮かべるカミューは、少年がこれまで目にした如何なる人間よりも美しく、慕わしかった。彼に対してこんなときめきを覚えることは論外だと自戒しても、若い身体は正直である。
明日は誰よりも早く起き出して、汚れた夜着を始末せねばならない……あの、鳥のように健やかな目覚めを果たす男よりも。
再び寝台に転がった少年は、相変わらず洩れてくる甘い吐息から逃れるため、頭から上掛けに潜り込んで息を殺した。
───早く、夜が明けるといい。
心からそう思った。
あれほど固く祈ったにもかかわらず、食卓のテーブルにはすでに芳しい茶の香りが漂っていた。衣類の処理は後回しだと自嘲しながら、カーマイアは幅広い背に向かって呼び掛ける。
「おはよう、マイクロトフ」
「早いな」
男らしい顔だちが笑みを浮かべて振り返った。寝不足気味の少年に気付いたらしく、やや怪訝そうに眉が寄る。
「……どうした? 眠れなかったのか?」
すぐには答えられずにいると、鍋から肉の弾ける美味そうな音が聞こえた。カーマイアはくすりと笑い、カップに茶を注ぎ食器を並べた。
マイクロトフが朝食を作る日は、少年にとって喜ばしいものだ。朝から豪快に肉料理が並ぶことも珍しくない。この大男が料理とは、と最初はかなり警戒したものの、さすが軍人だっただけのことはある。戦地では飯盒の経験もあったと嘯いた男は、意外なほど巧みな料理の腕を披露してカーマイアを驚かせたものだった。
「カーマイア、皿を取ってくれ」
命じられて皿を手に側へ寄ると、彼は程好く焼けた肉の塊を鍋から移した。肉汁の匂いが鼻腔をくすぐり、カーマイアは突然ひどい空腹を覚えた。
「寝不足なら、たっぷり食べて元気を出せ」
「カミューは?」
「……まだ寝ている」
席に着きながらマイクロトフは短く答えた。これも今更なのでさして驚かないが、さすがに昨夜自分が陥ってしまった状況を思うと黙っていられなかった。
「ねえ……こんなことはおれが言える筋じゃないことは分かってるんだけどさ……」
サラダと呼ぶにはあまりに無造作に引き千切られた野菜の残骸を突付きながら、おずおずと切り出す。
「ちょっと、過ぎるんじゃないかなあ……。その……つまり夜の、さ……」
マイクロトフは咀嚼を止め、虚を衝かれたように瞬いた。次の刹那、食器を取り落としかねない勢いで狼狽する。
「な、な、な……何を……!!!!」
「だからカミュー、起きられないんじゃない?」
「ちちち違う! あいつの寝起きの悪さは昔からで……い、いや……そういうことではなく!」
二人が恋人同士であるということを知ったのは早かった。
カーマイアが気付いたことをカミューはすぐに察したが、マイクロトフに伝わったのは三人で暮らし始めて一ヶ月も経った頃らしい。努めて何気ない振りを装う男に限界を感じたのか、カミューが洩らしたのだ。
予想外に、マイクロトフは開き直った。これまで必死に隠し通そうと振舞っていたのが嘘であるかのように、ごく自然な恋人としての態度が現れた。目の前でカミューの柔らかな髪にくちづけたり、出掛けるときには指先で頬に触れてみたり。もっとも、態度や口になど出さずともマイクロトフの瞳を見ていれば想いは瞭然だったけれども。
カーマイアはそんなマイクロトフの真っ正直な姿が好きだった。世界中のすべての人間が二人の関係を禁忌としても、最後のひとりとして彼らを祝福する、そんな意志に満たされている。
そうしてもうすぐ、出会いから半年が過ぎようとしていた。
「あのさあ……誤解しないでよね。おれ、あんたとカミューが、何ていうか……うまくいってるのは凄く嬉しいんだ。ただ、その所為でカミューがさ……わ、わかるだろ?」
マイクロトフは屈強の体躯を持っている。行為の詳細は分からずとも、時折目の前で抱擁を交わす二人を見ている身としては、逞しい腕がカミューを抱き壊すのではないかと案じられるのだ。
無論、カミューも騎士として鍛えられた青年、柔ではないだろう。だがしかし、カーマイアにとっては彼はどこまでも優美で繊細、しなやかな麗人であり、マイクロトフとは別の生き物のように思えてしまう。
示唆されたことを理解したのだろう、マイクロトフは紅潮したまま大きく首を振った。
「ま、待て。おれはそんなにカミューに無理はさせていないぞ。第一おまえ、どうしてそんなこと……」
───知らぬは本人ばかり。
カーマイアは心の中で嘆息した。夜通し響いた切ない声を、いったいどう思っているのか。無理──といっても実際カーマイアにはよくわからないが──をさせていないとしても、睡眠を削らせているのは確かだろうに。
「聞こえるんだよね、その……カミューの……、さ」
正直に告げると、今度こそマイクロトフは愕然とした。それから難しい顔でゆっくりと口を開く。
「……カーマイア、カミューには言うな」
「当たり前だろ、そんなこと恥ずかしくて言えないよ」
清廉で肉欲など微塵も感じられない美しい青年に、とても申告出来るような話ではない。まあ、それを言うなら目前のマイクロトフも、色恋沙汰について論じ合うような相手であるとはとても思えないのだが。
「ああ、そうしてくれ。でないと───」
「でないと?」
「……今よりも更に声を殺すようになるからな」
「……………………………」
こうした問題でマイクロトフが頼りにならないことを思い知らされたカーマイアは、軽く肩を竦めて肉を頬張った。マイクロトフも了承を得たと判断したのか、朝っぱらから旺盛な食欲を披露する。
「……妙案を思いついたぞ、カーマイア」
しばし無言で食を進めていた男が、不意に満面の笑みを浮かべた。
「今後、剣の鍛錬の時間を倍に増やす」
「ええっ?!」
マイクロトフは日々少年に剣技を仕込んでいた。今でも充分な時間を費やしているものを倍増すると言われては、思わず声も裏返る。
「じょ、冗談だろ? 何で?!」
「要は、おまえの眠りが浅いのが問題なのだろう? これまでより鍛錬を厳しくすれば、疲れて熟睡出来るようになる。おまけに剣の腕もあがる、一石二鳥だ」
自分の思いつきが素晴らしいとばかりにマイクロトフは何度も頷く。これまでの付き合いから、彼がこうなったら止められないことをカーマイアは知っていた。
「ヤブヘビだよ……あんまりだ……」
別に疲れていないから眠りが浅いわけではない。ずっとそういう生き方をしてきたから、泥のように疲弊していても感覚だけは鋭敏なのだ───という主張など挟む余地もなかった。
「今日は村の道場へ行く日だったな、戻ってきたらみっちりと訓練をつけてやろう。ああ、これならば万全だな」
今夜も『その』心積もりなのか、との心の声は、喉元までせり上がったところで消えた。得意気な意見の中に、カーマイアにとって重きを為す一言が含まれていたためだ。
「……道、場……」
「昼から出るのだろう? おれもこれから少し出掛けてくるから、片付けを頼む。カミューがちゃんと食事を取るよう、見張ってくれるとありがたい」
「……何処へ行くの?」
「釣りだ」
マイクロトフは朗らかに答えた。
「たまには魚料理がいいと……昨夜カミューが言っていただろう?」
結局、彼はカミューが一番大切なのだ。知らず苦笑が零れ出る。およそ忍耐とかじっとしていることの苦手そうな男が恋人のために釣竿を握る姿を想像すると、先ほどの理不尽極まりない決定さえも甘受しなくてはならない気になるのが不思議だった。
「いっぱい釣れるといいね……」
「ああ、この次はおまえも連れて行ってやるからな」
微笑んだ少年の頭に大きな手が乗せられた。小さな子供にやるように、ぐしゃぐしゃと髪を乱す温かな掌。そこから伝わる疑いようのない親愛に、カーマイアは俯いた。
彼らは素晴らしい人間だ───たとえ誰が何と言おうとも。
そう強く自らに言い聞かせ、唇を噛んだ。
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