もう一人の同居人が起き出してきたのは、すでに日も高くなってからのことだった。朝食の片付けも済ませ、食卓のテーブルで書の練習をしていたカーマイアは、ようやく現れた青年にほっとしつつ、同時に気まずさも覚えた。
───カミュー。
彼は少年の胸を常に騒がせる。それは恋慕めいた感情に近かったかもしれない。
この村の路地裏で初めて出会ったときから、彼ほど美しい笑顔を持つ人間を知らなかった。涼やかな、けれど張り詰めた細身の剣を連想させる美貌、穏やかで柔らかな物言い。彼は、孤独と警戒心の中で生きてきた少年の心を一瞬で溶かした。
マイクロトフへ寄せる思慕とは微妙に異なる、気恥ずかしさを伴った想いは、確かに思春期の始まりを予感させたものだ。
優美さの中に野性の獣の如き敏捷性を秘めた日頃のカミューだが、恋人との交わりを持った翌朝は印象が変わる。気だるげに髪を掻き上げる仕草や、情交の熱を残したような瞳の色合い、そんな直視し難い蟲惑を纏うのだ。
「……おはよう、もう昼だよ?」
努めて平静を装いながら呼び掛けると、彼は掠れた声で返した。
「カーマイア……」
彼らが与えてくれた名を、その甘い声で呼ばれるたびに至福を覚える。かつて世界は少年に冷たく厳しいものだったけれど、優しい響きに包まれるたびに胸の奥から温みが込み上げてくるのだ。
「もう少し早く起こしてくれても良かったんだけれどね……」
ゆっくりと椅子に腰を落とす青年の、ごくありふれた上着の襟元から覗く首筋に気を取られる。ふとした拍子に見え隠れする薄紅の鬱血が、昨夜の激しさを物語るようだ。見てはいけないような、だが視線が引き寄せられるような、幼い葛藤が胸を刺す。
「一応三度、声掛けたんだけど」
「……部屋の外から? 起きるわけがないだろう」
苦笑してカミューは首を振った。だからといって、寝室にまで踏み込んでいけるわけがないだろう───少年は心中嘆息した。
「カーマイア……すまないが、濃いお茶を一杯貰えるかい?」
声を出すのもつらそうだ。少年は熱くなった頬を悟られる前に慌てて支度に取り掛かった。カミューが好むグラスランド産の葉をたっぷりと使い、注文通りの茶を入れる。自分がこうして誰かの為に何かをする、そんなことさえ少年には今までになかった喜びなのだ。
カミューは丁寧に入れられた茶を啜りながら、続けて少年が温め直して食卓に並べ始めた朝食の残りに溜め息をついた。
「……朝から肉かい? それに……このウサギの餌みたいなのはサラダなのか……?」
妙に愚痴っぽいのは疲れが残っている所為だろう。そんな一面を見せることは彼が気を許していることの証のようで、ひどく嬉しい。
「ちゃんと食べなよ、カミュー……見張ってろってマイクロトフに言われたんだ」
「善処するよ」
カミューは顔をしかめながら千切った野菜の欠片を突付き、のろのろと遅い朝食を開始した。
「マイクロトフは?」
「釣りに行ったよ、今夜は魚料理だって。でも……不漁だった場合の策も取っておいた方がいいかもね」
「そのときは三人で空腹を抱えて眠ることにしよう」
ひっそりと美しい笑みを洩らしながら彼は言った。そんな些細な何気ない言葉の端に、マイクロトフを信じる心情がちらつく。如何なるときも揺らぐことのない信頼を彼らと分かつことが出来たら、どんなに幸福なことだろう。
二人は村でこれといった生業を持ってはいなかった。
日々の糧は、時折マイクロトフが村の外で狩るモンスターから入手する品々を道具屋に持っていけば充分賄える。鍛錬と実益を兼ねた狩りに勤しむ男とは裏腹に、カミューはのんびりと日がな机に向かい、書物を読み耽っていることが多かった。後で知ったが、彼はグラスランドの地方色の濃い書を翻訳しては幾ばくかの稼ぎとしていたらしい。
いずれにしても、彼らがここでの生活に何の不安も持っていないことは確かだったし、それは居候の身である少年にとってもありがたいことであった。
「そろそろ道場へ行く時間だろう? 見張っていなくても食べるから、準備をして構わないよ」
刹那、満ち足りた気分は失速した。カーマイアは正面の椅子を引いて座ると、おずおずと切り出した。
「カミュー……話があるんだけど」
「何だい、改まって……?」
「おれ、道場をやめたら駄目、かな」
少年の同居人たちは、満足な教育を受けたことのなかった彼に色々な知識を習得させ始めていた。剣術はマイクロトフ、学問はカミューと主な役割分担も為されているようだった。
ある日、二人はカーマイアにひとつの提案をした。この村には若者を鍛錬するための道場がある。そこへ入門して体術を磨けというものだ。
単に武術という意味での鍛錬であれば、マイクロトフというこの上もない師がいる。不思議に思ったものの、断る理由もなかった。二人が良かれと思って勧めることならば、と二つ返事で了承して道場の門を叩いておよそ二ヶ月、前々からの願望が終に口をついてしまった。
この家での決定権は殆どカミューが握っている。温和で声を荒げたこともない青年は、だが絶対の権勢を誇っているのである。マイクロトフに相談するよりも彼に直接持ちかけた方が早道だ、そう判断したわけであるが、それは予想以上につらい作業だった。案の定、カーマイアの言葉が終らないうちに美しい眉は潜められ、心配そうな表情が見返してきた。
「何か問題があると?」
「……そういう訳じゃ……」
カミューは茶を置いて、真っ直ぐに少年の瞳に向けて語り出す。
「道場主のエダン殿は立派な人物と見受けられた。だからこそ、君をあずけることにしたんだよ。先日エダン殿にお会いしたときには、君の上達ぶりを褒めてくださったものだけれど……合わないのかい?」
違う───喉元まで出掛かった言葉を噛み締める。黙り込んでしまった彼をしばらく見守ってから、カミューは静かに諭した。
「カーマイア……何故、君をあそこへ入れたか分かるかい? 体術の取得だけが目的であれば、わたしたちが指南することが出来る」
「だから、カミューたちが教えてくれれば……おれ、一生懸命やるよ」
「そういうことではないんだ」
柔らかく首を振り、彼は続けた。
「わたしたちは君に剣を教えることが出来る。標準語や歴史、社会学というものを与えてやれる。だが、ひとつだけ……同世代の友人だけは、この家に居るだけでは得られない。互いを切磋琢磨し、高め合えるような……かつて、そして今もわたしとマイクロトフがそうであるように、心許せる友を見つけて欲しいと考えたからなんだよ」
「…………」
「それとも……周りの仲間と上手くいっていない、とか……?」
「───そんなことはないよ」
少年は掠れた声で否定した。それから一度だけ唇を噛み、何事もなかった明るい顔で青年を見返した。
「うん、わかった。ごめん、おれ……負担を掛けてるんじゃないかって思ったんだ。カミューたちがそう思っていないなら、いいんだ」
思慮深い琥珀色の瞳が瞬いた。それでも怪訝そうに彼は問う。
「本当に? 問題があったのではないと……?」
「ないよ」
カーマイアは笑って首を振った。
「居候の分際で、道場にまで通わせて貰ったんじゃ申し訳ないかな、って……そう思っただけだよ、本当さ」
未だ納得しかねるといった表情の青年から目を逸らすと、慌てて席を立った。
「もう行かなきゃ。それじゃあね、カミュー。ちゃんと食べなきゃ駄目だよ?」
「ああ……気をつけていっておいで」
村の外れにある住処から道場までは、ほぼ村の半分を横断する。始めの頃は弾むように通っていた道程が、次第に重く遠くなったのには理由があった。
身体を動かすのは苦にならない。盗っ人紛いの生活をしてきた少年だ、逃げ足には自信があるし、反撃を食らったときの反射もそこそこのものがある。けれど、マイクロトフに剣の稽古を受けるようになってからは、彼は心から強くなりたいと考えるようになっていた。
己に恥じない、正当な武力。
我が身を守り、大切な人を守るための誇らしい力が欲しいと願った。カーマイアは熱心に鍛錬に励み、道場へも喜んで通っていたのだ。
彼らが一時の気紛れで居候を許している、そうは思いたくなかったが、もともと不自然な関係だ。いつ綻びてもおかしくはない。いざ、再び一人荒野をさ迷う日が来ても、夢のようなひとときに得た恩寵は必ず役立つことだろう。少年の努力はそうした哀しい決意に根差したものだったのである。
強い意志は確実な成果を生む。カーマイアの上達ぶりは道場主の感嘆を誘うほどだった。カミューの言う通り人格者であるエダン師匠は、優れた資質と熱心な努力を併せ持った少年を殊のほか気に掛けてくれ、手厚い指導で遇してくれた。
───だが、そこに弊害があったのだ。
広い門構えの道場の敷地手前で、カーマイアは殆ど止まりそうになる足取りに歯噛みした。
カミューにああ言ってしまった以上、逃げ帰ることは出来ない。自らを叱咤しながら門をくぐり、俯いたまま鍛錬場に向かおうとした。やがて視界に地面に浮かぶ複数の影が飛び込んでくる。ぐっと唇を噛んで顔を上げた彼を、数人の門弟仲間が迎えた。
「よう、盗っ人の孤児野郎。遅かったな、男二人の親御さんは元気かよ?」
悪意も露に言い放った相手の蔑む眼差しが、竦むカーマイアを見下ろしていた。
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