西に沈む影 後編


村の住処に戻り、取り敢えず庭先の樹に馬を繋いだ。水を与えて毛づくろいをしてやると、久しぶりに疾走を満喫したためか、愛馬はどこか嬉しげに見えた。それが僅かにカミューの心を慰めた。
────少し自分のことにかまけ過ぎたかもしれない。騎士団時代から苦楽を共にした、今となってはロックアックスの形見とさえ呼べる存在だ。栗色の首筋を緩く抱き締め、また走ろうと囁くと、愛馬は幸福そうに鼻を鳴らした。
「────……先生!」
感傷を遮ったのは少女の切迫した声だ。振り返ればユーナが小さな顔を真っ赤に染めて走り寄ってくるところだった。
「ユーナ……?」
だが少女はカミューの前に辿り着くなり息を切らせ、しばし口を開けない有り様だった。
「た、大変なの……エルドさんのところで……」
エルドというのはこの村で唯一の宿屋を営む主人である。だが、交易路からやや離れていることもあり、普段は村人相手の食堂としての趣が強い。夕暮れともなれば村の人間が集まって、楽しい語らいに花を咲かせる憩いの店なのだ。
「落ち着いて話してごらん。エルドさんがどうかしたのかい?」
「む、村の皆が集まってるの……あのね、怖い男の人たちがいきなりやってきて、お店のお酒を飲んだり、怒鳴ったりして……止めようとしたエルドさんが蹴られて……」
そこでカミューも表情を引き締めた。一年間平和に過ごすことは出来たが、ここはグラスランドなのだ。盗賊まがいの一団や、無頼な通りすがりがふらりと立ち寄っても不思議はない。
「ロランさんたちが助けようとしたけど、皆ぶたれて怪我しちゃったんだって……先生、どうしよう……」
そこで少女はしくしくと泣き出した。ユーナがロランの娘エイミにたいそう懐いていることを思い出し、カミューは優しく少女の頭を撫でる。
「それで? 今はどうなっている?」
濡れた瞳が真っ直ぐにカミューを見詰めた。
「女の人が、お店に連れていかれそうになって……エイミお姉ちゃんも……村の人たちがお店の前で戦ってるんだけど……」
「────何だって?」

もう充分だった。
それ以上聞く必要もなく、カミューは愛剣の鞘を握り締めていた────もはや習慣的に身に付けていただけのユーライアを。
「先に行くよ、ユーナ!」
「せ、先生……!」
居間の暖炉の上に常に置かれていた剣が記憶にあったのだろう。あるいは無意識に、救いを求めるならば彼しかいない、そう少女の本能が命じたのかもしれない。
いずれにしても、カミューは村の安息を壊す輩を見逃すつもりはなかった。女性が集められているというなら、事は一刻を争う。酒と暴力に酔い痴れた無頼者が次に求めるのはひとつだ。この村の女性は誰もが心優しい貞淑な存在なのだ、汚すことなど許さない────
往来を軽やかに駆け抜け、目指す店の周辺に広がる闘争の雄叫び、打ち倒された村人の負傷を見た刹那、彼の心で何かが燃え上がった。
久しく忘れていた戦いへの高揚、四肢を駆け上がる緊張。身のうちを荒れ狂う烈火の闘気を、冴えた冷静な思考がバランスよく抑え込む。
倒れ伏しながら気付いた村人が、真っ直ぐに争いの輪に近づくカミューを制しようとしたが、細身の肢体から滲む覇気に狼狽えて叶わなかった。
やがて酔漢が彼に目を向けた。
「────おい」
仲間うちに声をかける。傷ついた村人を踏みつけていた一人が視線を巡らせ、ヒュッと野卑な口笛を吹いた。数人の娘を集めて店の中へと押し込もうとしていた連中さえ、どろりと濁った好色な目を隠そうともせずにカミューを眺め回す。
「驚いたな、こんなド田舎に大した美人だ」
「兄ちゃん……だよな、間違いなく」
「だがよ……言っちゃあ何だが、グズってる娘っ子より美味そうじゃねえか……」
耳に入る下劣な煽りは年若い頃から慣れている。今更逐一聞き咎める習慣はない。カミューは澄んだ琥珀の瞳で敵の数を素早く読んだ。
────七人。
平和慣れしているとはいえ、村の男が総出で戦って太刀打ちできないのだから、そこそこの連中なのだろう。カミューは僅かに距離を取って優美な立ち姿で宣言した。
「今すぐ村を出て行くならばよし、さもなくば……」
「さもなくば? どうしてくれるんだい?」
下卑た嘲笑が響く。
「そうだな、出て行ってやってもいい。兄ちゃんが一緒に来てくれるならなあ」
「そりゃあいい。なあに、命取ろうとは言わねえ。美味いもん飲んで食って……で、時々おれたちを楽しませてくれりゃ丸くおさまるってなもんだ」
ゲラゲラと囃子たてた男たちは、だが次第に笑いを飲み込んだ。相手が挑発に乗るでもなく、身を翻すこともなく、泰然と剣の柄に手を掛けたからだ。
「────生憎、おまえたちを相手にするほど不自由はしていない。一方的に楽しませるのも趣味ではないな」
村人たちは───遅れて走ってきて、ようやく輪に混じったユーナも───、初めて耳にしたカミューの声に呆然とした。常に甘く柔らかな調子で村人に返された声とはまるで違う。侮蔑を漂わせた冷め切った口調は、彼らが初めて耳にするものであったのだ。
当然、相手もそれを察する。男たちから発せられる感情は欲望混じりの好奇から数で捩じ伏せようという憤りに変わった。
「面白え……やってみな」
個々に得物を握り直した男たちに、カミューはゆっくりとユーライアを抜いた。習慣として己に強いた、身体をなまらせないための鍛錬。それ以外、この村では抜かれたことのない剣の切っ先が暮れなずむ残光に光を弾く。
男たちは彼の端正な容貌やほっそりした身体つきを完全に舐め切っていた。だから、相手が不意に視界から消え去り、仲間の一人の懐に飛び込んだのに心底仰天した。続いて地面に血飛沫が舞い散る。
一番カミューに近かったその男は、利き腕を血に染め、うめきを洩らしてがっくりと膝をついた。見守る一同は息を止めて光景に見入る。

 

カミューは────
一瞬で理解した。
自分がこの村にとって異形であることを。

 

久しく実戦から離れていながら、身体は即座に戦いに馴染む。平穏で静かな暮らしに満たされていると自身を偽りながら、この衝動は何と正直であることか。
死と隣り合わせの一瞬の緊張を、これほど心地良く感じる修羅が心の何処かに棲んでいる。敵の刃をかわす刹那の判断、数々の死闘に培われた攻撃に向かう反射は、何と馴染み深い感覚であることか。
血潮の中に舞う優雅な獣と化すカミュー。
頬に滴る返り血と白く清潔な頬の対比、冷酷に男たちを沈めながら片時も変わることのない穏やかで柔らかな表情。

 

巧みに剣を操りつつ、彼は思った。
もう、ここにはいられない────

 

酔漢たちの悲鳴と怒声が交錯するが、もっとも鋭敏に彼に突き刺さるのは村人の視線。それはこれまで与えられた温かな眼差しとは確実に違う。ついさっきまで酔漢たちに向けられていたのと同じ恐怖が其処にあった。
見慣れぬ闘争に怖気を覚えているにしろ、もう二度と以前には戻れないだろう。たとえ親しく接していても、彼らは今日のカミューを決して忘れまい。人の血に塗れ、刃を手に立ち尽くす姿を常に重ねずにはいられないはずだ。

 

────これまでだ。

 

ならば戦いは変わってくる。それまで致命傷を与えずに敵を挫くことだけに専念していたカミューは、確実に相手の息の根を止めることに転じた。傷ついてすでに戦意を喪失している敵を屠るには自らを叱咤せねばならなかったが、躊躇わなかった。
村人が明らかな恐怖をこめた視線を送る中、彼は六人目の男を打ち倒し、最後の男を眺め遣った。男の目には驚愕と焦燥、恐怖や憎悪が渾然となっていた。
戦場で敵を殺めれば、それは戦果として評される。命を奪う行為には変わりがないはずなのに、何故こうも違うのか────カミューはふとそんなことを考えた。向けられる恐れに寂寥を覚え、男が傍の娘を引き寄せるのに一瞬反応が遅れる。
「ち……近寄ってみろ、こいつを殺す!」
娘を盾にした男は怯えた声で怒鳴った。
「エイミお姉ちゃん……!」

 

叫んだのはユーナの声か。
────できればこんな場面を見せたくなかった。子供たちに学問を教え、人の命の尊さを解いてきた自分が、こうも容易く人を屠る。その矛盾と滑稽さに、笑い出しそうだ。多分その笑いはひどく乾いているだろうけれど────

 

「……離せ」
ゆっくりと歩み寄りながら彼は命じた。
男はエイミを前面に押し立てながらじりじりと交代する。小柄な娘は卒倒しそうな顔色のまま、真っ直ぐにカミューを見詰めていた。
────この娘が密かに自分に恋慕していたことをカミューは薄々知っていた。時折手作りの料理など届けてくれたこともある。
村の子供、特に可愛がっているユーナに慕われている彼だから────そう理由付けながら、乙女の眼差しには淡い憧れと慕わしい光が確かにあったのだ。
カミューはふと唇を噛み締めた。
────すべてを断ち切らねば旅立てない。また二の舞を繰り返す。
「もう一度言う、彼女を離せ」
「煩え、殺れるもんなら殺って────」
男は最後まで口にすることは出来なかった。目にも止まらぬ速さで突き出されたユーライアの切っ先が、エイミの頬のすぐ脇を掠めて男の喉首を貫いたのだ。
「…………────!!!」
村人たちはその瞬間、顔を背けて目を閉じた。零れるばかりに目を見開いたエイミは男の拘束が緩むと同時に崩れ落ち、続いて倒れる男から悲鳴を上げて後退った。
後には重い沈黙が降りてきて、累々と横たわる屍の間にひっそりと立ち尽くすカミューを包んだ。やがて凍りついた村人を掻き分けて村長が進み出る。初老の彼もまた、酔漢たちとの争いに負傷していた。
「カミュー、さん……あんた……」
「────死体の埋葬をお願いしても宜しいでしょうか……?」
彼は誰とも顔を合わせず、小さく言った。
「……わたしは……村を出ます。今すぐに、と言いたいところですが……支度もありますので明朝まではお許しください」
「あんた……そんな……でも……」
うまい言葉が見つからないのか、ただおろおろとするばかりの村長に、彼はようやく視線を合わせた。相手の目にある紛れもない恐れを見て取り、薄く微笑む。
「どうやらこの村は、わたしのような人間が居て良い場所ではない。もう少し西に向かってみようかと思います。これまで……色々と御世話になりました」
そこで深々と頭を下げたが、応えるものはなかった。カミューは最後に一度だけ母親に抱きかかえられるようにしているユーナと、父親に助け起こされたエイミを一瞥し、足を踏み出した。
そして、二度は振り返らなかった。

 

 

 

もし、中途半端に敵を撃退して村を去ったとしたら。
酔漢たちが更に仲間を集めて逆襲に訪れない保証はない。村を離れてから、旅の何処かで痛ましい噂を聞くくらいなら、あえて殺戮の鬼として語り継がれる方がましだ。
ここに居られなくなった以上、遺恨の根は断ち切って旅立つのが自分のつとめだとカミューは考え、そこに後悔や葛藤はなかった。だが、あれほど優しかった人々の顔から親愛が掻き消えたのは流石にこたえた。
歩き慣れた住処への経を、普段の何倍もゆっくりと進む。ここで育んだ穏やかな思い出を噛み締めるように、殊更ゆっくり、ゆっくりと────
疲労はさして感じない。むしろ久々の戦いを身体は歓迎さえしているようだ。それが恐ろしくもあり、悲しくもあった。
「所詮は戦いの中にしか生きられぬ身、か……」
小さく自嘲を吐いて苦笑した。
それが本当かもしれない。このまま更にグラスランド奥地へ進み、いずれかの部族の傭兵としてこの地に骨を埋めるのがもっとも相応しい生き方なのかもしれない────それも良かろう。

 

住処に戻り、井戸から水を汲み上げて返り血を流す頃には、紅い太陽が大地に半分以上消え行こうとしていた。
手ですくった水で顔を洗っても、浴びた大量の血飛沫は容易に落とし切ることが出来ない。已む無く手桶に満たした水を頭から被った。それを幾度も繰り返すうち、心までが冷え切った。頬を伝うのが水であるのか、あるいは涙であるのかさえ覚束なくなった頃、彼は背後に重い足音を聞いた。

────まだ仲間がいたのだろうか。

即座に身を強張らせ、傍に置いてあったユーライアの位置を目視する。まずは手桶を投げて相手の体勢を崩し、その間に剣を取ろう。
止まった足音に距離を測り、察知したことを悟られぬようゆっくりと振り返り────

 

 

そこで力の抜けた手から転げ落ちた手桶が、カランと空虚な音を上げた。
彼を迎えたのは、一瞬も忘れたことのない誠実な黒い双眸だった。

 

 

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追加指令(ちと間違ったか?)を入れたらば、
あらやだ、すっかり長く……
これまでよりは赤、書き易かったので。

それにしても悪者たち、
何気に娘さん方に失礼な台詞吐いてますなー。
自業自得じゃ(爆笑)

一応再会はした模様なので(笑)
次で本当に終わらせます。

 

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