「あ……────」
言葉が枯渇したようだった。
彼はただ目前の男を食い入るように凝視した。それがうつつの夢でないことを確かめるために、無意識に足元に伸びる影にさえ目を落とした。
悠然と立ち尽くす身体は旅装束のローブにすっぽりと包まれていたが、記憶の中の男そのままに雄々しく逞しい。やや削げたように見える頬が隔たれた時間を露呈し、カミューの胸を締め付けた。
「マ、イクロトフ…………」
やっとのことで吐き出した名にも、男は無反応だ。感情の窺えない静かな視線が真っ直ぐにカミューを見詰めるだけである。
やがて────
懐かしく耳に忍び込む低いバリトンが呟いた。
「……大立ち回りをやらかしたらしいな」
やんわりと唇が綻び、彼は目を細めた。
「また────見失うところだった」
マイクロトフは足元の影に視線を投げ、カミューを見ないように言い募る。
「すんでのところで間に合ったようだ」
カミューは最初の衝撃からようやく立ち直り、相手を観察する余裕を生じた。
一年ぶりに顔を合わせた男には、落ち着いた風格が感じられる。何処が変わったのかを具体的に指摘することは出来ない。
だが、直感だった。マイクロトフがカミューの望み通り、見事な指導者として歳月を過ごしたことは疑いようがなかった。
かつては何とも危なっかしく突き進む彼の本質が全身から立ち昇っていた。それがまったく消えたというわけではないが、何処となく落ち着いた気配が窺える。伴侶を失い、己の自制に頼るしかなかった彼は、そうして自身を昇華させたのだろう。
今のマイクロトフは、長くカミューが愛した一本気さを失わぬまま、力強く足を踏み締める英雄といった風情がある。
「────久しぶりだな、カミュー……」
洩れた言葉は以前と変わらぬ親愛な響きを含んでいる。初めて呼ばれた名に、朽ちることのない恋慕が溢れた。
「どうして────」
「……ここが分ったか、か? おれが捜し当てないとでも思ったのか?」
マイクロトフはくすりと笑うと懐から紙切れを取り出した。忘れよう筈もない、彼に宛てて書いた手紙だった。
「幾らなんでもそれはあんまりだぞ。言付けられた商人を辿って、結構早いうちにこの村を探り当てていたのに」
「ならば、……────」
何故、今日まで連絡をくれなかったのか────流石にあまりにも一歩的な非難に思えて口篭もる。そんなカミューを見守っていたマイクロトフは、遥か北方に目を遣った。
「おれは腹を立てていたんだ、カミュー」
言いながら、マイクロトフは手にした書状を真っ二つに裂いた。
「黙って去ったおまえに────」
愕然とするカミューの目前で、書状は更に細かく破られていく。渡る風が大きな掌から紙片を攫い、それは雪のように舞い散っていった。
「────そして、そうさせたおれ自身に」
「………………」
「……おまえの考えたことは分らないでもない」
ひとつの指導者の席に座る者を巡って意味のない争いが生じ、折角戻りかけた秩序が荒らされるのは耐え難いことだ、そうマイクロトフは同意を口にした。
「だが……おまえはそれをひとりで決めた。如何なることも分かとうと誓い合ったおれを置き去りにして。そのことを今更とやかく言っても始まらない。おまえがあれこれと気を回す人間であることは分っているし、良かれと思った道を進んだのだろうからな」
そこで彼は真っ直ぐにカミューを見詰めた。
「だが────同時に落胆したぞ」
「……………………?」
「いずれ起こり得る争いに、おれを巻き込まぬために身を退いた────それが理由だろう?」
否とは言わさぬ口調に無言で俯く。するとマイクロトフは長い息を吐いた。
「……要するに、おまえはおれを力ないものと見なしていた」
「それは……!」
「つまらない覇権の争いに巻き込まれれば、傷つく男だと考えた。ならば、そうなる前におれを守ろうとマチルダを去った……違うか、カミュー?」
冷めた口調は断罪にも似てカミューの胸を抉った。悄然と項垂れた彼に、だがマイクロトフは穏やかに続けた。
「……おまえにそう見なされたことには腹が立った。だが、そう思わせた自分にはもっと憤った」
はっとして顔を上げると、マイクロトフは温かな笑顔を浮かべていた。
「確かにおれはずっとおまえに頼り切りだった。そうやっておまえが影から支えてくれたから────道を違わずに進んでこれた。考えてみれば、おまえがおれを守ろうとする理由は充分あったと気付いた」
晴れやかな瞳が残照に藍色に輝いた。
「だから耐えた────おまえのいない一年を、おれ自身への戒めを込めて、騎士団を纏め上げることに費やした。そして今……胸を張っておまえを迎えに来る資格を得たと自負している」
「マイクロトフ────」
「もう大丈夫だ、カミュー」
彼はゆっくりと足を踏み出した────隔たれた最後の距離を埋めるために。
「新たな騎士団は磐石の秩序を打ち立てた。もう、おれたちが離れねばならない理由は何処にもない」
伸ばされた手がそっと自身を抱き寄せるのを、カミューは遠くのことのように感じていた。記憶よりもずっと熱い男の温もりが濡れた全身を包み込み、柔らかく癒していく。
「……一年前、おまえは自分の意志を通した。今度はおれの番だ」
次の刹那、回された腕に力がこもり、詰まりかけた息の中でカミューは狂おしく男を呼んだ。
「マイクロトフ────」
「────会いたかった、カミュー……」
再度呼び掛けようとした唇は、降りてきた唇に言葉を吸い取られた。
大地に長く伸びた影が西からの最後の光を浴びた後、緩やかに薄闇に溶けていった。
「驚いたぞ、村に入るなり何事が起きたのかと」
家に入り、カミューは濡れた衣服を着替え、マイクロトフは湯を使って旅の汗を流した。忍び寄る寒さを今は殆ど感じなかったが、カミューは暖炉に火を入れ、敷物に座り込んで湯上りの男を迎えた。
「商人の話では平和きわまりない村だ聞いていたのに、死体は転がっている、村人は放心している、────肝が冷えたぞ」
苦笑混じりに言うのに、カミューは薄く笑った。
「みんな……わたしを恐れていただろう?」
「────どうだろうな」
マイクロトフは目を細めて横に腰を落とした。
「それよりマイクロトフ……おまえ、一人でここまで来たのか……?」
一騎士団領の最重要人物がすることではない。そうした疑念を感じたのだろう、マイクロトフは笑って首を振った。
「そうしたいのは山々だったが、生憎その辺には信用がなくてな。おれを一人で行かせたら、おまえと二人、二度と戻らないのではないかとしっかり見張りをつけられた。死体の始末を請け負ったから、村人には歓迎されたぞ」
「戻る……って?」
「ロックアックスへ────決まっているだろう?」
今更といった調子でマイクロトフは投げ出されたカミューの手を握った。
「正直、騎士団での役割はもう終わったと思っている。だが……これから何処へ行くにしろ、おれが一年かけて築いたものをおまえに見て欲しい」
「しかし……」
視線を外して俯こうとする顎を、不意にすくい上げられた。
「おまえはおれの認める唯一の存在────何憚ることがある? 捨て置いてきた部下たちか? 出発当日、総出で抜け道まで見送ってくれたのは赤騎士団員だったぞ?」
それから困ったように目を細める。
「カミュー……頼むからそれを止めてくれないか?」
「────え?」
「昔のおまえはそんなふうに目線を逸らせたり、不安そうに俯いたりしなかったぞ? いつだって凛として胸を張って……綺麗な笑顔でおれを満たしてくれた。あの頃のおまえに戻ってくれ」
何を────偽ってきたのだろう。
胸に溢れる想いを押し殺しながら、屍のように虚ろに微笑みながら。
いつか背後に響く足音を、呼び掛ける懐かしい声を心の何処かで待ってはいなかったか。
抱き締める腕の強さに、見詰める眼差しに浮かぶ情熱に、隔たれた歳月は微塵もなかった。
以前と同じ────否、それ以上の熱に包まれたあの一瞬に、マイクロトフの過ごした苦難の一年の重さを知った。
彼の言う通り、自分はこの男を見誤っていたかもしれない。本当の大きさを、近過ぎて見定められずにいたのかもしれない────
「カミュー……」
ふと、声にこれまでとは違う熱が生じた。
「おまえをもっと確かめたい……いいか?」
最後だけ、おずおずとした口調だった。
何処までも雄々しくありながら、そこだけは以前と変わり映えしないマイクロトフに、カミューは知らず苦笑を洩らした。その笑みに昔通りのカミューを見出し、ほっとしている男に気付かぬまま────彼はそっと男の首に腕を回した。
「……ひとつ聞いてもいいかい? この一年、おまえはどう過ごしていた?」
するとマイクロトフは頬を染め、憮然として答えた。
「多分────おまえと一緒だと信じたい」
互いが別の誰かを求めようとはしなかったことに満足し、カミューは柔らかに告げた。
「…………頼むから加減してくれ」
「わかっている」
マイクロトフはゆっくりと敷物にカミューを倒した。
「……一晩かけて、一年分優しくする────」
マイクロトフの言葉に嘘はなかった。
長い飢えに荒れ狂っているであろう渇望を、彼は見事に抑えた。
久々の交わりは、どれほど心が求めても容易なことではなかった。カミューの全身は固く強張り、開かれる身体は苦痛を覚えた。
マイクロトフは急がなかった。言葉通り、気の遠くなるような時間を費やしてカミューのすべてを解きほぐし、ゆっくりと身を繋げた。それでも震える頬を撫で、幾度も名を呼び続け────
カミューは気付かなかった。
いたわるような優しく甘い愛撫、それを施すマイクロトフの手もまた、微かに震えていたことに。
気怠い疲労は、だが不思議と心地良かった。
朝一番の光と共に笑みをたたえた黒い瞳に迎えられたカミューは、自身の幸福がこの男にこそあることを改めて確信した。
「相変わらず早起きなんだな……」
ぼんやりと呟くと、マイクロトフは愛しげに頷いた。
「寝ている間に消えたら困ると思ってな」
「────まさか、一晩中起きていたのか?」
「一晩眺めても足りない。何しろ一年だからな」
「……これから日々、少しずつ埋めていけばいい」
そうだな、とマイクロトフはカミューの寝乱れた髪を掻き上げた。
「その……だ、大丈夫か……?」
自らが強いた行為を案じて、途端に昔のように顔色を窺う男に戻ったマイクロトフに笑いを禁じ得ない。
「平気だよ。一年分優しくされたからね────」
それもまた嘘ではなかった。
身の奥に未だ男の余韻は残る。四肢は重く、声も掠れているが、それは苦痛と名のつく感覚とも異なった。
想いに導かれたひと夜は、これまで交わしたどの夜よりもむしろ穏やかであった。餓えた分だけ燃え上がった男の激情は、ただカミューの身を案じるためだけに抑えられたのだ。かつてのマイクロトフには考えられない自制である。
そんな思考を察したのか、男は不穏な笑みを見せた。
昨夜の加減は已む無いことだ。だが再び肌が馴染んできたら────
マイクロトフの目論見はカミューに的確に伝わった。困惑もあり、可笑しくもあり、同時にそうして心を量れることが嬉しかった。
元々身の回りの品は多くない。
いつでも旅立てるようにと心掛けていたつもりはないが、身の内を流れる剣士の血が無意識にこの村を安住の地とは定めなかったのかもしれない。
マチルダを出たとき所持していた荷物を纏めると、殆ど家内は人の匂いがしなくなった。
────この時間ならば、まだ村の生活は始まらない。昨日の今日だ、顔を合わさずに村を出るに越したことはないだろう。相変わらず朝を苦手にしながら、いつもより機敏に行動を始めたのには、そうした切ない理由があった。
「あ────」
最後に卓上に置かれたままの暦に気付いたカミューは、細い声を上げた。
「どうした?」
歩み寄るマイクロトフは彼の目線を追い、それから感慨深げに溜め息をついた。
「今日が一年、だったのか────」
一年前の朝、カミューはロックアックス城下の屋敷の扉を一人で閉じた。
だが、今は────
二人で並んでかりそめの住処を後にする。
顔を向ければ温かな笑みが返る。
────もう二度と、ひとり凍える夜は来ないのだ。
愛馬を伴い、静まり返った村の往来を進み、エルドの宿屋の前に差し掛かる。昨日の痕跡は跡形もなく、地面に落ちた血の染みひとつ見出せなかった。
そのことにカミューがほっとしていると、宿屋から数人の男が現れた。いずれも旅装束に身を包んだ騎士たちだ。はっとしたカミューに向けて、彼らは丁寧に礼を取った。
「……おはようございます、カミュー様、マイクロトフ様。すでに街道沿いにて馬の支度も整っております。いつでもロックアックスへ向けて出立することが出来ますが……如何なさいますか?」
────『久しい』でもなく『会いたかった』でもなく。
彼らはごく当たり前のようにカミューを呼び、以前と変わらぬ崇拝の笑顔を向ける。
見覚えのない騎士もいた。マイクロトフの供をつとめたのは各騎士団入り混じった面々であるらしい。マイクロトフの言葉通り、もうつまらない確執に苦悩する必要はないのだろう。カミューは鮮やかに微笑んだ。
「到着早々、面倒をかけてすまなかった」
死体の始末を労うと、彼らは一様ににっこりした。
「変わらず、お見事な太刀筋でございました。いずれも苦しまずに逝ったことでしょう」
僅かながら許された気がして、胸を刺す痛みが和らいだ。
騎士らを率いて街道沿いにまで歩を進めたカミューは、そこに待ち受けていた村人たちの姿に息を飲んだ。村長をはじめとする、殆どの住人が集まったのではないかという光景は、昨日を彷彿とさせて彼の足を竦ませる。
だが────
代表して進み出た村長は、眦に光るものを浮かべていた。
「本当に行ってしまわれるんだね、カミューさん」
彼は深々と頭を垂れた。
「わしは……わしらはこれまで、あんな戦いを見たことがなかった。この村は平和で、それがずっと続くと信じていた。だから────恐れた。正直、あんたを恐ろしいと思ってしまったんだ」
カミューは穏やかに頷いた。
「……それが正しいものの感じ方ですよ、村長殿」
「いいや、違う」
彼は断固として首を振った。
「あんたはわしらを守るために戦った。あの連中が再び戻ってきて、もっと悲惨なことにならぬよう……一番つらい道を選びなさった。騎士さん方からそれを聞くまで、わしらは怯えるばかりであんたの心を分ろうとはしなかった────」
放心した村人の代わりに酔漢たちの亡骸を葬りながら、騎士たちはカミューが村を出て行くと語ったことを耳にした。そこで彼らは納得したのだ。
カミューの腕をもってすれば、殺さずとも敵を排除することは容易い。けれど、自身が村を出た後の報復を恐れ、敢えて殺戮を選んだのだと。
それまで目の前で行われた行為にしか気を向けることの出来なかった村人たちは、諭されて初めてカミューの苦渋を悟ったのだった。
困惑して振り返ったカミューに、騎士たちは静かな微笑みを浮かべている。
「わしらは、直面した『死』が怖かった。だが、エイミに言われるまで大事なことを見失っておった」
「…………?」
「娘たちにとって、暴力で身を汚されることは『死』にも等しい。あんたは……村の娘たちの命を守るため、自分を傷つけてまで…………」
村長はそこで絶句した。
視線を巡らせると、父親に寄り添われたエイミが深々と頭を下げた。他にも、あのとき毒牙にかかり掛けた数人の娘と親が涙ぐんでいる。
「忘れないよ、カミューさん」
村人の誰かが言った。
「あんたは娘の恩人だ。一生……忘れはしないよ」
「あんたの代わりの先生を探すのは容易じゃないだろうねえ」
「娘っ子たちが大勢がっくりきてるが……こうして迎えに来る人間がいるんじゃしょうがねえ」
「同盟領に戻っても……近くを通ったときには必ず顔を見せておくれ」
口々に寄せられる温かな声に俯くカミューの肩に、マイクロトフの大きな掌が乗せられる。
彼はゆっくり目を閉じ、それから顔を上げて村人たちを見た。彼らはこれまで目にしてきた儚げな笑顔ではなく、凛とした鮮やかな笑みに見惚れた。
「……一年間、御世話になりました。わたしも……生涯この村で受けたご厚情を忘れません。皆様がご健勝であられるよう……遠い空の下でお祈り致しましょう」
焦がれ続けた北の街で。
たとえいつの日にか其処を後にしても────
マイクロトフへの想いが色褪せなかったように、温かな記憶は何処までも胸に残るだろう。
「先生!」
ユーナを先頭に飛び出した子供たちが、ひしとカミューにしがみつく。
「忘れないでね、絶対ユーナのこと忘れないでね」
「ぼくのことだって忘れちゃ嫌だ!」
「先生に教えてもらったこと、忘れないから……」
「ぼくたち、いっぱい勉強するから────」
泣きじゃくる子供たちの頭をひとしきり撫でる。
────この村で過ごした一年は、決して孤独ではなかったのだ。
マイクロトフを想い、ひとり膝を抱えていても───
彼らがいたから慰められた。耐えられたのだ。
「────ありがとう……」
搾り出すカミューの傍らにはマイクロトフが寄り添う。周囲には誠意をもって見守る騎士が在る。
それは以前と少しも変わらぬ、カミューの在るべき姿であった。
やがて彼らが騎乗して東に向けて旅立つのを、村人たちはいつまでも見送っていた。振り返る瞳に、やがて村は沈み行く影の如く小さくなる。
「……ロックアックスがおまえを待っている」
惜別の痛みを思い遣ったのか、隣の馬上、そっと囁いたマイクロトフに向けてカミューは大輪の花のように微笑んだ。
「一年間のおまえの手腕を検分するのが楽しみだよ、マイクロトフ────」
終幕
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