「教養」の解体の後に
 
 
 
 言葉が空回りしている――そのように感じさせられることがしばしばある。
 人が議論するのを聞いたり、誰かの書いた文章を読んだりする。そこには、おびただしい量の言葉が飛び交っている。その中には、意味のはっきり分かる言葉もあれば、そうでない言葉もある。よく分からない言葉について、「それはどういう意味ですか」と質問しようかと思う。ところが、そうする間のないうちに、話題は別の方向に転じていって、またまたよく分からない言葉が次々と流れていく。無理をして議論を遮り、質問をしようかとも思うが、そうすると、「話の腰を折って、つまらない奴だ」と思われるかもしれないし、何より「こんな言葉の意味を知らないとは、教養のない奴だ」「流行遅れな奴だ」と思われそうな気がする。こうして、意味の分からない言葉が問いただされることなしに、そのまま流通していく。
 自分が発話する側にまわっても、似たようなことが起きる。自分が書いたり話したりする言葉の全てについて、その意味が明晰に分かっているとは限らない。よく分かっていない言葉をつい使ってしまう。それは、その方が格好いいとか、流行の最先端に連なっているという印象を与えるからといった理由の場合もあれば、まだよく説明できない、何か新しいことをいおうとして、それが適切な言語表現を獲得していないために、仕方なしに不明瞭な表現になってしまうという場合もある。もっと勉強すればよく分かるのだろうがその暇がないというケースもあれば、勉強したからといって正解が見つかるとは限らないような難問にぶつかっているというケースもある。いずれにしても、じっくりと考えている時間的余裕がないために、そのままにしてしまう。あるいはまた、この言葉を自分はどのように理解しているかを説明してしまうと、有り難みが消え失せそうな気がしたり、「なんだ。お前の理解はずいぶんいい加減だな。教養のない奴だ」といわれそうな気がして、説明なしのままにとどめておいた方が無難な気がすることもある。
 こうして、意味不明の言葉が至るところで垂れ流される。それについて問いただすことをたいていの人はしない。それでもって意志疎通が成り立つのかなどという問いを提出するのは野暮なことだ、という暗黙の了解があるかのようだ。意味が分かろうが分からなかろうが、とにかくその場限りで仲間意識を確認したり、ある時間を楽しく過ごせたという感覚さえもてれば、あるいは自分は流行の言葉を知っているのだということさえ顕示できれば、それでよいということなのだろうか。おそらく、それでよいという場面もあるのだろう。だが、知的職業に従事するとみなされている人たちの間の議論でさえもそうしたことが非常に多いとすれば――私にはそのように感じられてならないのだが――本当にそれだけでよいのかという疑問を出さないわけにはいかない。
 私だけでなく、こういった状況への苛立ちを感じる人も少なくないようだ。そうした人たちによってしばしば語られることの一つに、「教養の欠如」ということがある。人がある言葉の意味をよく分からずに使ってしまうのは、その人の教養が低いからだ。そういう現象が広がっているなら、それは現代社会が全体として教養を見失っているからだ。大学の教養教育が崩壊に瀕している。そこで、教養を再建しなくてはならない。あるいはまた、伝統的な教養では現代社会にふさわしくないので、新しい現代的な教養をつくりだし、それを共有するようにしなくてはならない。このようなことが盛んに語られている。「現代人の教養」を手っ取り早く身につけるためのマニュアル本といった類のものも、結構たくさん出回っているようだ。おそらく、これらの議論は、問題意識としては、先に私が記したのと重なるところがかなりあるのだろう。だが、へそ曲がりな私は、こうした議論にそのまま乗るだけでは問題の解決にならないのではないかという気がしてならない。だからといって、私に「正解」が出せるわけもないが、ともかく自己流に、何がしかのことを考えてみたい。
 「教養」の解体およびその再建の必要性といった問題は、大学の教養課程の再編などとも関連して、ここ十年ほど、一部で盛んに論じられた。怠惰な私は、あまり本格的に関係文献を読んだわけではなく、漠然と自己流に考えたにとどまるが、ともかくそうした問題についての自己流の考えをまとめてみる必要があるのではないかと感じる(このように、関係文献を網羅的に読むことなしに、それでもとりあえず自分の頭で考えられる範囲のことについてまとめてみようと試みるということ自体、後に述べる考えの一つの適用である)。
 
 
 そもそも「教養」とは何かということについては様々な考えがあり、誰もが一致するような定義はなかなか見あたらない。ここではさしあたり、一つの自己流の暫定的定義として、知識人の共有財産としての「古典」の総体――思想・哲学であれ、文学作品であれ、音楽や美術などであれ――が教養の核をなすと考えてみる。ここで重要なのは、それが「共有財産」であるために、それについては一々説明しなくてもよいという了解があり、そうした前提のもとで、知識人相互の議論が行なわれるということである。もちろん、個々の作品の解釈や意義付けはときとして大きく分かれることもあるが、それにしても、共通の知識が前提されているならば、論争も共通の土俵で争われうる。このように、知識人の間での議論が対立・論争・誤解などを含みつつもとにかく共通の基盤のもとで展開されるということが知的共同体の存在の証であり、それを保証するのが共有財産たる教養だ、というような観念が――実際にそのような状態があるかどうかはさておき、そのように多くの人が考えているという意味で――広まっているということが「教養」の定義だと考えてみる。
 現実には、誰もが古典の総体に通じているというのは幻想かもしれない。それでも、古典というものの範囲がそれほど広くない限定をもっているなら、何がそれに該当するか、その大まかな内容程度については、大なり小なり共通理解があると期待できる。例えばギリシャ神話や聖書の中のエピソードについては、西欧文明に属する人ならば特に説明なしにそれを下敷きにした文章を書くことができる。名作のパロディーとか「本歌取り」といったことが意味をもつのも、名作についての知識が共有されているからだということはいうまでもない。
 なお、ここでは、豊かな精神性という点は敢えて定義から外した。古典についての知識が共有財産となっているという条件は、豊かな精神性を発達させる基盤ではあるだろうが、その条件が外面的に受けとめられ、形骸化することもありうる。また、古典的教養と無関係に豊かな精神性が発達する可能性もないとはいえない。豊かな精神性について考えることはもちろん重要だが、それを教養と直結するのではなく、後者はその一つの条件だという風に考えてみる。
 さて、このようなものとして「教養」を考えるとき、現代では、その存立が様々な意味で難しくなっているように感じる。第一に、何が「古典」かということが確定しがたくなってきたし、第二に、「教養」を共有すべき「知識人」なるものが極度に拡散し、「知的共同体」を語ることが難しくなってもいる。以下、この二つの側面について考えてみたい。
 
 
 現代においては、「古典とは何か」という問いへのありうべき回答が極度に拡散し、一義的に確定することはほとんど不可能になりつつあるようにみえる。それには、いくつもの理由がある。
 一つには、「古典」と見なされうるものの候補が増大し、誰もがそれらの全体を知ったり、「古典」の名に値するかどうかをそのそれぞれについて判定するなどということは不可能になってきた。たとえば、かつては「古典」といえば、ギリシャ・ローマに始まり、ルネサンスを経て近代西欧につながる西欧文化の産物が圧倒的な主流をなしていた。それ以外には、せいぜいのところ、東洋のいくつかの代表的な精神的遺産(仏典、論語など)や日本の古典文学などが付け加えられる程度だった。だが、それは西欧中心的なエスノセントリズムではないか、世界各地の文化にはそれぞれにすぐれた精神的遺産があるのではないかということがいわれるようになった。そうなると、「古典」をどの範囲に求めるかが飛躍的に増大することになる。
 地理的・文明圏的な拡大と並んで、近現代の学問・文化の多様化・量的増大の中で、「新しい古典」も急増した。その勢いは二〇世紀を通じてほぼ一貫して加速し続けてきた。この点については、一々具体例を挙げるまでもないだろう。
 「古典」候補たりうるものが急増する一方、かつて古典とみなされていたものがその意義を疑われるようになっている。最も代表的には、マルクス主義およびそれに連なる種々の思想や社会科学がそれに当たるが、より広く「大きな物語の終焉」がいわれる中で、かつての古典のかなりの部分が権威を落としている。しかし、それらについても、今なお意義を失っていないとか、新しい眼で見直すべきだという主張も可能であり、古典としての意義の有無についての共通了解は全くなくなっている。
 こうして、「古典」と目されうる候補の数は無限といいたいほど増大し、それと同時に、それらの中でどれをまさに古典と判定するかは各人ごとに多様で、共通了解は全くないという状態が現出した。このような状態の中で、潜在的「古典」候補の全体像はおろか、その基本的な部分についての大まかな見取り図を獲得することさえも、個々人には不可能事となった。何が古典で何がそうでないかは、もともと論議の余地があったとはいえ、大まかには合意があると想定できたのに対し、今ではそのような合意は完全に失われている。
 他方では、知識人――というよりも、むしろ「知識産業に携わる人々」といった方が今日ではふさわしくなりつつあるが――の量的急増と内的異質性の拡大に伴い、拡散現象が急激に進行している。知識人が比較的狭いサークルをなしているなら、それらの人々の間で、いくら立場や意見や専門が異なっても最小限の共通性を語ることがともかくも可能である。これに対し、「知的産業の大衆化」ともいうべき状態が現出すると、「最小限の共通性」さえもいうことができなくなる。
 知的職業の量的拡大はその質的変化をも伴っている。知的職業人養成の制度化が進むにつれて、古典的著作などを読まなくても、もっと手っ取り早く教科書やマニュアルを読むことで知的職業につくことが可能になり、現にそのような養成方法が広まっている。
 トーマス・クーンのいう「通常科学」化には、古典によらずに教科書を通じて専門教育が行なわれるようになるということが含まれていた。古典的作品は科学史のような特定領域の専門家にとってのみ意味があり、それ以外の人にとっては、より現代的な教科書の方が、無駄なく明晰に要点を教えてくれる(1)。こうした傾向はいまのところ自然科学に顕著であり、人文社会系の大学教育ではいまでも「古典を読むことの重要性」が――少なくとも建前としては――いわれている。それでも、法曹養成のための司法試験予備校が大学法学部を脅かしている――現在進行中の「法科大学院(日本型ロースクール)」構想なるものはこれへの対抗なのだろうが、制度面での手直しを超えて、この趨勢を逆転させることができるのかどうかは定かでない――のをみると、この分野でも同様の傾向が進行しつつあるのではないかという気がする。
 全く別の例だが、若い作家が少年少女時代にはあまり読書をしたことがなく、古典的な文学作品もほとんど読んでいないなどということを平然として言うのを見聞きすることがある。そういうタイプの作家は昔からいたのかもしれないが、かつては恥ずかしくて公言できなかったことが、いまではごくさりげなく言われるという点に、時代の変化のようなものを感じる。どうやら、大量の古典を読んでいることが文学者たるための基本的な前提だというような観念自体が、いまでは通用しなくなっているようだ。
 だからといって、そうした「新しい知識人」たちが何の教養ももたないと決めつけるのは性急だろう。個々には千差万別だろうから、中には、本当に空っぽな頭にマニュアル的知識だけを詰め込んだような人もいるのだろうが、なにがしかの知的活動をしている人たちの中には、それなりに幅の広い「教養」をベースとしてもっている人も少なくないはずである。ただ、その場合の「教養」とは、かつての「教養」とはおよそ異質なものになってきていることが多いのではないだろうか。教養のジャンルが多様化したという面もあるだろう。クラシック音楽ではなく現代のポップ・ミュージックが教養だという人、哲学書よりもプロレスについての知識が教養の基礎をなす人、詩や小説よりもパソコン・マニュアルが教養である人等々である。こういう状況の中では、「古典」という概念自体も疑問にさらされる。「権威ある古典」と「軽佻浮薄な流行」とが確固として区別されるという二分法は、そう簡単には維持できそうにない。そうなると、「古典」という言葉自体が迂闊に使えなくなりそうである。
 先に、教養の定義の中核に「古典」という概念をおいた。だが、いまやそのように考えることは非常に難しくなっている。今日の状況で教養を考えようとするなら、「かつて古典という言葉で了解されていた、それに該当するもの」を考えるしかないのではなかろうか。それは、いってみれば、人々が知的活動を行なう際に暗黙の前提をなし、ある集団の範囲内で共有されている――と信じられている――ものという風なことになるだろう。
 
 
 事態がこういう風になっているとしたら、その中で「教養の再建」を唱えても、それは時代錯誤であり、ほとんど絶望的ではないだろうか。様々な教養論について私が懐く違和感は、そのような疑問に由来する。
 誰もに共有される教養はなくなった。このことを先ず事実として確認しなくてはならない。他方、様々な小集団ごとに共有される知識・発想・流行などはいまでもあり、小集団ごとのコミュニケーションやそれをめぐる知的作業はそれなりに行なわれている。問題は、それが非常に拡散しているために、小集団を超えた交流が非常に困難になっている点にある。これは「タコツボ現象」の深化といってもよい。タコツボ現象ということは何十年も前に丸山眞男によって指摘されて以来(2)、数多くの人によって繰り返し論じられており、その意味では決して新しい現象ではない。ただ、近年は、それに一層加速度がついたようにみえる。
 こうした状況への一種の処方箋として、「タコツボにばかり閉じこもっていてはいけない。もっと広い視野をもたねばならない」という風に説く人がいる。いわんとするところは分からないではない。しかし、それは単に非現実的であるばかりでなく、一種の思い上がりではないだろうか。「凡百の似而非知識人はタコツボに閉じこもっているが、自分のような本物の特権エリート知識人だけはその枠を超えられるのだ」という傲慢な思い込みがそこにはあるように思われてならない。むしろ、誰しもそれぞれ自分のタコツボの中で生きるしかないという冷厳な現実から出発するべきではないか。
 進行しているのは、教養の欠如や知識人の消滅ではなく、その拡散・多様化・断片化である。そのことを不可逆的な現実として認識した上で、そうした「断片化した教養」をどのようにして交流させることができるか――課題はここにあるように思われる。
 こうした状況の中での交流のためには、人は自らがどのような前提で物事を考えているのかを他者に対して説明し、また他者の発言に対して問いたださねばならない。かつてあったと想定されるような教養の共有を前提することができない以上、もしタコツボの中での共感だけに寄りかかるまいとするなら、自分のタコツボにおいては何が前提になっているのかを他のタコツボの人に対して説明しあうということが必要になる。では、これを具体的にどのようにして実現すべきか。課題が困難である以上、私に「正解」とか「名案」とかがあるわけではないが、さしあたりの思いつきを二、三記しておきたい。
 
 
 タコ壺にもいろいろな種類のものがある。ある場合には、部外者には理解困難でも内部の人々の間では高度な共通理解が確固として打ち立てられている――また、部外者にとっても、きちんとしたトレーニングによるその習得法が打ち立てられている――ということもある。ディシプリンとしての確立度の高い学問分野――クーンのいう「通常科学」――では、そのような状態を想定することができるだろう。この場合、専門家同士でのコミュニケーションにはあまり大きな困難はない。そして、彼らの間での議論においては、共通了解事項についてはわざわざ再確認する手間を省いて、その先のことだけを論じればよい。これはコミュニケーションにかかるコストを節約し、能率的な議論を可能にする。自然科学の分野での専門論文は、分量としてはごく短いものが主流だそうだが、そういうことが可能なのは、おそらくいま述べたような事情と関係しているだろう。このような分野においては、その専門家たちの内部ということだけを意識している場合にはさしたる問題は起きず(3)、部外者に対しての説明をどのようにするかということだけが課題となる。
 専門外の人への説明ということは、もし専門家内部での共通理解がしっかりしているのであれば、原理的にはそれほど難しいことではなく、心構え(非専門家を相手にしたときにどういう態度をとるべきか)とか技術的な事項(どういう説明の仕方が最も分かりやすいか)だけが問題となる。もっとも、技術的な事項というものも、いざ実際に考えてみると、それほど簡単とは限らない。教育とか啓蒙とかいったことをある程度本気で試みた人なら、自分たちにとっては分かり切ったはずのことを素人に分からせるのが意外に難しいということを痛感したことがあるだろう。これは学生とか一般社会人とかを相手にしたときだけではなく、専門を異にする知識人の間での討論についても、同様のことがいえる(そして専門細分化が進行した今日では、広い意味ではほぼ同じような専門だが狭い意味での専門が違うというような間柄でも、同様のことが起きる)。
 この点についても、万能の処方箋はないが、とりあえず私が痛感するのは、前提的な予備知識についての簡にして要を得た説明というものの重要性である。前提事項というものは本題ではないから、その説明が長すぎると文章が冗長になってしまうし、それを既に知っている人の眼から見れば無用な初歩的・入門的な話で、それが長いのは水準が低い作品だという風にみえてしまう。しかし、これをきちんと分かりやすく説明しないと、前提を共有しない人には話が通じない。従って、この点にかかわる説明は長すぎてもいけないし短すぎてもいけないということになる。実際問題として「簡潔」と「明快」を兼ね備えるのは非常に難しいことだが、それでも、それを目指して工夫するほかないだろう。
 以上では、専門(タコ壺)の中では共通了解が確固として打ち立てられているような場合を念頭においてきたが、実は、特に人文社会系の学問の場合、一見したところ共通了解があるようでいて、実はその中身について考えてみると意外にあやふやだったり、共通了解の中身がきちんと詰められていないといったことが少なくない。ある分野で、共通の専門用語(あるいは流行語)が広く使われているなら、「ともかくもその用語を使う」という限りでの共通性があることになるし、そのことによって仲間意識が確認されたりもするが、その用語によってどのようなことを意味しているのかとなると、実はあまりはっきりしないというようなことが珍しくない(4)。この小文の冒頭で、言葉が空回りしていると書いたが、その一つの大きな理由はこの点にあるだろう。
 言葉がその意味を問うことなしに、ただ流行だったり、「権威」とされていたりするだけで流通するという現象は、人文社会系の学問の分野では決して珍しくない。ある種の新語――多くは翻訳語――が、その意味が理解されないままに、中味は分からないが――あるいはむしろ、分からないからこそ――ともかく重要なものらしいと受けとめられ、ありがたがられるという現象を、柳父章は「カセット効果」と呼んでいるが(5)、これは面白い指摘である。柳父はこれを翻訳語特有の現象――そしてまた、翻訳語をつくるに際して、大和言葉でない「四角張った」漢語的表現が使われることにつきまとう特殊日本的な現象――と捉えているが、私は、翻訳語とか漢語的な表現に限らず、「カセット効果」はより広く見受けられる一般的な現象ではないかと思う。実際、「パラダイム」「オリエンタリズム」「ジェンダー」「想像の共同体」「脱構築」「ディスコース」「アイデンティティー・ポリティクス」「ポスト・コロニアル」その他その他、数多くの言葉がそうした「カセット効果」を発揮する形で使われている。
 この場合、それらの用語を共通の合い言葉として使うタコ壺の中にいる人たちの間にはあたかも一定の共通了解があるかのような外観がとられているが、実は、その了解はかなりあやふやなものではないか。こういう風にだけ言い切ると、やや極論になるかもしれない。先に挙げた一連の言葉にしても、決して本来無内容な言葉というわけではなく、それが提起されたのには――そしてまた、様々なねじれや拡散を含みつつも広く受容されたのは――それなりの意味があったと思う。ただ、本来どんなに重い意味のこめられた言葉であっても、その使われ方が安易である場合には、言葉がその内実から離れて一人歩きするという現象が起きる。
 そうである以上、「この言葉はどういうことを意味するのか」を明晰な言葉で説明するということは、ただ単に素人相手に分かりやすく啓蒙するというにとどまらず、自分自身の理解がどこまで深いものだったのかを反省するという意味をもつ。これを実践するのは、意外に難しいことであり、危ういことでさえある。何事も基礎的なことほど難しい。分かり切っているはずのことを改めて問い直すと、実はよく分かっていないことに気づく、ということは決して珍しくない。その一方で、基礎的なことが実はよく分かっていないということを自認するのはみっともないという意識もある。分かっている振りをした方が無難であり、分からないということを素直に認めると「権威」にかかわるというような意識があるから、なかなかその作業に迂闊には乗り出せない。中には、基礎を問い直すこと自体を専門とするような人もいるが、その場合には、「○○基礎論」「××原論」ということ自体が一種の秘教的なタコ壺になってしまい、そのタコ壺の外の人には手の届かないものになってしまう。「基礎論(あるいは原論)専門家」ではない人が、それぞれ自分の日頃行なっている作業を反省しつつ、自分なりの基礎論を提起してみるといったことがあってもよいのではないかと私などは思うのだが、そうした冒険に敢えて挑む人は滅多にいない。
 以上では、自分の属するタコ壺内での専門用語(ジャーゴン)や流行語について述べたが、自分の専門外の事柄(よそのタコ壺)に関心をもつ場合についても、同様の問題があるだろう。専門分化の行き過ぎの弊害が叫ばれて久しい。現代人はありとあらゆる領域に通じるなどということはできず、さしあたり何らかのタコ壺で生きるしかないが、と同時に、よそのタコ壺についても何らかの関心をいだくことはあるだろうし、タコ壺を超えた交流を図ることもあるだろう。これをどのように実現するかについて、これまた万能の処方箋はない。そんなものがあるなら、誰もこの問題で悩みはしない。一方では、できるだけ突っ込んで知りたいという欲求があり、他方では、それほど丁寧に勉強しているわけにはいかないという制約がある。そういう中で、しばしばとられるのは、よそのタコ壺における流行語について知ることである。その流行語が本来どういう意味なのかを正確に知るのは難しいが、ともかく「この言葉が流行らしい」ということだけなら、知ることができる。そこで、そうした言葉を、意味のよく分からないままに自分も使ってみる。その場合、この言葉を自分はこういうものとして理解した、ということを明示することは滅多になされない。それは面倒だし、しかも、自分の理解を明示すると、その間違いが指摘されて恥をかく恐れも大きい。どう理解したかを示さないままに、ただ口先だけでその言葉を使っている分には、無難であり、しかも流行に通じているとか、専門外の領域についてまで見識をもっているという外観を装うことができる。先に「カセット効果」ということについて述べたが、それは、その言葉を使いだした人々が安易な使い方をするだけでなく、周囲の人が、意味の分からないままに模倣をすることによって一層加速されていくのだろう。
 
 
 あちこちで難しい問題を提出しながら、ではどうしたらよいのかについては、これといった回答を出さない――出せない――ままに終わったような気もする。万能の処方箋がないのは当然であり、泥沼の中であがきながら、似たようなことを考えているよそのタコ壺の人たちと対話しようと試行錯誤を続けるほかないのかもしれない。
 そのような試行錯誤の一つということになるが、私はここ数年来、専門外の本を読んだときの読書ノートを私的な覚書として書く作業を続けてきた(一部に専門にかかわる著作も含むが、その場合も、純然たる専門の見地からの書評ではなく、より広い文脈における含意について考えてみた)。専門外の著作を相手にする以上、読みの浅さという問題がつきまとうのは不可避である。また、その本が属するジャンルにおける研究史の蓄積、特定の論点をめぐる論争史などについても、あまり正確な理解をもつことはできず、素朴な感想や思いつきといったものにとどまらざるを得ない。だが、それでも、何かを読んだということをただ「読みました」というだけのレヴェルにとどめず、自分なりに咀嚼し、吸収するためには、自分なりの理解をまとめ、書き記すという作業を経ることが必要なのではないかと感じるようになったからである。それらのノートは、研究の名に値するものではないので、これまで一切公開せず、私的な覚書にとどめてきた。ただ、そのようなものではあっても、他人に見てもらって、何らかの批評を受けることが、私自身の考えを練る上でも、相互交流・コミュニケーションということを進めるためにも、なにがしかの意味をもつのではないかと思うに至った。ホームページの中に「読書ノート」という欄をもうけ、そこに「未定稿」と断わりつつそれらの文章を収録することにしたのは、そうした考えに基づく。これにどのような意味があるのかは、今のところ見当がつかない。この後については、ホームページへの反応を見ながら、改めて考えてみたい。
 
 
(1)トーマス・クーン『科学革命の構造』みすず書房、一九七一年、二一‐二三、一八六‐一八七頁など参照。
(2)丸山眞男『日本の思想』岩波新書、一九六一年、一二九‐一五一頁。なお、丸山は「タコツボ型」ということをヨーロッパと区別される近代日本の特徴としている。ヨーロッパで元来共通の地盤から誕生した諸分野が後発国ではバラバラに受容されるために「タコツボ」になりやすいというような傾向は確かにあるかもしれない。しかし、ここではむしろ、現代社会では、そうした歴史的経緯に関わりなく、専門分化の急激な進行によって誰もが「タコツボ」を出られない状況が生じているのではないかと考えてみたい。
(3)もっとも、実際には、このような分野においても、それだけで済まない事態が起きることがあるかもしれない。その場合には、以下で述べる共通了解が確固としていない分野と同様の事情があることになる。共通了解がどの程度確固としているかは相対的な問題だから、完全に確立した分野と全くない分野という風に二分されるのではなく、度合の問題と考えてもよいかもしれない。なお、科学者とその部外者の間の討論の困難性について、金森修『サイエンス・ウォーズ』に関する読書ノートで考えてみた。
(4)この点について、クーン『科学革命の構造』に関する読書ノートの中である程度考えてみた。
(5)柳父章『翻訳語成立事情』岩波新書、一九八二年、三六‐四一、八三‐八六、一八九頁など参照。
 
 
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