トーマス・クーン『科学革命の構造』
 
 
 随分前から話題になり、「耳学問」で何となく分かった気になっていても、読む機会を逸していた、というような本が結構あるものである。そういう本を遅ればせに読むのは、「なんだ、今頃になって」といわれそうで、気恥ずかしいものだが、耳学問で分かった気になっていたことを確認するだけに終わらず、何か新しい発見があれば、自分としてはそれなりの収穫ということになる。
 この「現代の古典」(原書は一九六二年、邦訳は一九七一年の刊行)を、私は一九九〇年代に入ってようやく読んだのだが、それまで通念的に語られてきたことの再確認にとどまらないものを感じた。その当時とった読書メモをもとに、私なりの受けとめ方を書いてみたい。
 
〈通常科学とパラダイム〉
 日本の通俗的な解説ではしばしば、パラダイム転換と科学革命こそが貴く、既成のパラダイムにのっかった「パズル解き」としての通常科学は価値が低い、だから研究者たるものはみな新しいパラダイムの創造に努めるべきだ、といったニュアンスでの受けとめ方がみられる。しかし、クーンの書物を読んでみると、「通常科学」というものの価値をおとしめる趣旨にはとてもとれない。確かに「科学革命」のあり方を解明した研究なのだが、その前提として、むしろ「通常科学」の意義もそれなりに強調しているというのが私の印象である。
 そもそもあらゆる学問が「通常科学」であるわけではなく、ある条件をそなえてはじめて「通常科学」になるのである。ある学問が通常科学となること――つまりパラダイムをもち、それに基づいて研究が進められること――は、その分野の成熟のしるしとされる(一四頁)。また、パラダイムが研ぎ済まされていればこそ、変則性にも気づきやすく、科学革命も可能となる。だから、科学革命が起こり得るということ自体、パラダイムと通常科学の存在を前提しているのである。
 パラダイムがあるおかげで、研究は効率的に進む。それは、「基礎に立ち返ってまた繰り返すということをしなくても済むようになった」からである(二一頁)。通常科学化した分野においては、標準的な教科書による教育が確立し、専門人の基準が明確化する。大学院生は教科書を読めばよいのであって、古典を読む必要はない(一八六‐一八七頁)。科学として確立すると、評価は同業者の中でだけなされるようになる。難解な詩人や抽象的な神学者も、人の評価など気にしないといいつつ、実は世間一般の評価を気にしているのに対し、科学者は素人のことを気にする必要がない(一八五、一九〇頁)。
 こういった風なクーンの叙述を読むと、これまで「通常科学」でなかった分野がそのようになっていくことは一種の「進歩」ととらえられているのではないかという気がする。
 ここから先は私の考えだが、「近代化」「進歩」と「堕落」「退歩」は、常に表裏一体の関係にあり、両者を切り離して考えることはできない。「近代化」「進歩」を単純に賛美できるほど素朴な時代にわれわれは生きていないが、かといって、「自然に帰れ」というロマン主義を素朴に信奉することももはやできない。更にまた、「進歩」の果実だけを享受しつつ「堕落」「退歩」の側面を切り落とすなどという虫のいいことが可能かといえば、これも疑問とされる、という苦しい状況を出発点にするしかない。だから、私は「進歩」を無条件に賛美するつもりは毛頭ないが、「近代主義・進歩主義打倒」を叫ぶ「革命的」スローガンにも違和感をもたずにはおれない。おそらく、「進歩」のマイナス面を十分意識しながら、なおかつ不可逆的に進む「進歩」につきあうしかないだろう。
 学問の「通常科学」化の例に戻っていえば、難解な古典によらず明快で標準的な教科書によって教育が行なわれること、一々基礎にたち返らずにパズル解きに専心できること、素人の評価を気にせずに専門家集団内での評価が最優先することなどは、その分野における知識の蓄積を容易にし、加速することは明らかであり、その限りでは確かに「進歩」だといわざるを得ない。未だ「通常科学」化していない分野における知識の蓄積が、多分に偶然に委ねられ、それどころか、蓄積されたはずのものがきちんと受け継がれないということさえも珍しくないといった状況と比べるなら、その違いは明らかである。
 他面、そこには、ある種の視野狭窄とか思想性の衰弱といった問題が伴うのもまた不可避である。自然科学や工学・医学などの分野でしばしば指摘されるのは、業績の評価が専門家の間でだけ行なわれるようになると、その結果が広い社会に及ぶにもかかわらず、社会全体からのコントロールが利かなくなり、科学・技術が暴走するという危険性である。こうした問題は、核兵器開発に関連して最初に提起され、その後、とりかえしがたい環境破壊をもたらす各種の生産技術なり、脳死と臓器移植なり、遺伝子治療なり、その他、多くの分野で問題とされているのは周知の通りである(1)
 こうして、「通常科学」化による科学の「進歩」は、どうしてもメリットとデメリットの双方を含む。それはあらゆる進歩と同じく、効率化をもたらしてくれる以上、不可逆的な過程といわざるを得ない。もちろん、それに対する批判的な視座もまた必要とされるが、その批判を貫くのはそう容易なことではない。狭い専門家の閉鎖主義への批判が必要だといっても、そうした批判を行なう人自身がある程度まで「通常科学」の内容についての教育を受け、一定の心得をもっているのでなければ、そもそも議論のしようもないのだから、「通常科学反対」という威勢のいいスローガンだけを叫んでいれば済むわけでもないのである。
 
〈科学革命論〉
 前項でも触れたように、パラダイムがより厳密で、より徹底したものであればあるほど、変則性をより鋭敏に示すことになる(七三頁)。ということはつまり、科学革命というもの自体がパラダイムの存在を前提しているということになる。そしてまた、科学革命が起きてしばらくすると、新しいパラダイムが定着して、そのレールの上で新しい通常科学の営みが進行するということになる。
 では、パラダイムの転換はどのようにして起きるのか。この点に関して、クーンの説くところを確かめてみよう。ここに書かれているのは科学史・科学哲学の分野ではとうの昔に常識化していることなのだろうが、そのような予備知識をもたない人の間に通俗的に広まっているイメージとは、かなりかけ離れたところがあるように思われる。というのも、古いパラダイムが新しいパラダイムにとって代わられるのは、前者の間違いなり視野の制約なりが明白にされ、後者の有効性が確かめられるといった経過をたどるわけではないとされているからである。若干の解釈をまじえつつ、印象的な個所をいくつか拾ってみよう。
 物の製造と同じく、科学においても、道具を変えることは浪費であり、どうしても必要になるまではさしひかえられる(八六頁)。だから、「科学革命」は常時進められるべきものなどではなく、むしろ大抵の時には、しないで済めばしないというのが自然な態度である。
 科学はあらゆる可能な実験をするわけではない。パラダイムと照合するようなものを選んで、実験を行なう。だから、パラダイムが異なれば、何についてどのような実験を行なうかも変わってくる(一四二‐一四三頁)。
 異なるパラダイムは少しずつ目的が食い違っているので、証明によって決着をつけることはできない(一六七頁)。新旧パラダイムとも同じ言葉を使うことが多いが、そこにこめられている意味は異なるので、誤解が不可避に生じる(一六八頁)。異なるパラダイムの主張者は異なる世界で仕事をしているのである(一六九頁)。そのため、古いパラダイムで仕事をしてきた古い研究者は、説得されず、改宗しないことが多い。旧世代の転向によってではなく、新しい世代が新パラダイムを受容することによって、一定期間後に新パラダイムが勝利する(一七〇‐一七一頁)。新パラダイムの受容は証明の問題ではなく、改宗の問題であり、古いパラダイムで仕事をしてきた人が受けいれないのは、単なる人間的な頑固さの問題ではない(一七一頁)。
 それでも結局は新パラダイムが広まるのは、よりきれいだという美的感覚によるところが大きい(一七五頁)。過去の問題を解く能力よりも、新しい解くべき課題を提起する能力が問題なのである。「科学を進めるいろんな道のうちのどれをとるかの決定が要請されるとき、その決定は過去の栄光よりも将来の約束によらねばならない」(一七七頁)。しかし、「将来の約束」というものは、ことの性質上、予め一〇〇%の成功を保証することはありえず、「多分、この方が有望だろう」といった漠然たる予感によって判断されるほかないものだろう。
 こういう風にみてくると、解釈の仕方によっては、科学革命について随分シニカルな見方をしているともとれる。古いパラダイムよりも新しいパラダイムの方が「より正しい」とか、「より良い」ということが証明できるからパラダイム転換が生じるのではない。一種の美的感覚とか、将来の発展方向に関する漠然たる予感とか、科学者の大勢がどちらに向かうかによって決着がつけられるのである。とすれば、極端にいえば、「学界ボス」の政治力を含む「学界政治」とか、大衆心理の巧妙な操作――学者も人数が増えれば、一種の「大衆」になる――などによって決着がつけられるということさえ考えられる。実際、一部には、そのような解釈があるようである。
 冒頭にも書いたように、日本では(少なくとも通俗的に広まった解説のレヴェルでは)、既成のパラダイムに乗っかった通常科学は価値が低い、パラダイム転換と科学革命こそが貴い、といった発想が何となく流行っているが、クーンのいっているのはそんなことではない。ある意味では恐ろしいことである。「正しい」と証明されるからではなく、説明しがたい感覚のようなものに支えられた科学者の大勢の赴くところが科学革命を決するというのだから(なお、末尾の付記参照)
 
〈社会科学とパラダイム〉
 ところで、クーンの議論は、いうまでもなく直接には自然科学を念頭においたものである。では、それは人文社会系の学問にとっては、どのような意味をもっているだろうか。この点をきちんと詰めて考えることなく、何となくそのまま当てはめようとする発想が相当広まっているが、それはクーンの説くところとは大きく隔たっている。
 先ず確認しておかねばならないが、クーンは、「社会科学の分野ではパラダイムというものが、はたしてできているかどうかさえまだ問題である」(一八頁)と書いている。だとすれば、こうした領域では、「パラダイム転換」が課題なのではなく、むしろそれ以前的状況にあるということになる。
 実際、人文社会系の学問は、なかなか「通常科学」になりにくいという性格をもっている。もちろん、全くならないというわけではなく、経済学などは最もそれに近づいているといえるだろう(2)。理論社会学や心理学もそうかもしれない。学問の性格が大分違うので単純な並列は問題だが、法学も伝統が厚く、「通常科学」としての体裁をそなえている。また、人文系の学問は社会科学よりも「科学」化しにくいと思われがちだが、文献学や言語学などはむしろ「通常科学」化が進んでいるのかもしれない。こういった風な例をいくつか挙げることはできるが、それにしても、多くの分野はそれらよりも遅れているし、一応「通常科学」らしき体裁をまとっている分野にしても、その成熟度は自然科学に比べればまだかなり低いというのが実情だろう。そして、これまで「科学」でなかっただけに、それへの憧れが強いというのが一般的状況である(3)
 そうした分野の研究に従事している人は、一方において「通常科学」化したいという欲求をもちながら、他方では、そう簡単には「通常科学」化しない、またすべきではないという警戒心をもいだき、アンビヴァレンスに引き裂かれていることが多いのではないだろうか。アナロジーをするなら、「後進国」が「先進国」に憧れ、その模倣をしながらも、「先進国病」を早くも見抜き、「近代化」の途上にありながら「近代の超克」を早熟的に唱えざるをえない、といった状況と似ている。私自身の例でいえば、旧ソ連・東欧地域研究という分野は、日本の社会科学の中でも「通常科学」化が相対的に遅れている分野であり、何とかしてそれを推進しなくてはならないということが多くの人の課題となっている。私自身、その方向で努力しているのだが、しかし同時に、それだけでよいのかというのかという疑問にもとりつかれ、引き裂かれる想いをしている(4)
 このようなアンビヴァレンスは客観的条件によるものであり、避けがたいものだが、そのことが十分自覚されていないのではないかという感じさせられることもよくある。「通常科学」として確立していない分野の研究を職業とする人は、その分野を「縄張り」として確立することに利害をもっており、そのために制度化を進め、「通常科学」の体裁をつくろうとするのが常だが、同時に「パラダイム転換」を叫ぶということもよくある。「通常科学化」と「パラダイム転換」は明らかに矛盾する方向であるのに、その矛盾の意識なしに、両方を並列しているケースも少なくない。そもそも、ある分野がまだ「通常科学」化していないということは、パラダイムが確立していないということである。ところが、パラダイムがまだ存在していないにもかかわらず、「パラダイム転換の必要性」を説く――ジャーナリスティックな場面で学問論を語る人の大半はそうである――のは、どういうことだろうか。その方がジャーナリズム受けし、「格好いい」と考える風潮があるようだが、まだ存在してもいないものをどうやって「転換」することができるのだろうか。こういうものの言い方をする人は、自分のいっていることの意味さえ分かっていないように思われてならない。
 確かに、人文社会系の学問でも、それぞれの専門用語というものはあり、それによって基本概念が了解されているかの如き体裁をとってはいる。しかし、ではその用語を実質的にどのように理解しているかを問いただすと、人によって大きな違いがあり、実質的な共通了解などないのが大抵の場合である。
 「ジャーゴン」という言葉がある。特定の人々(世代、業界など)にのみ了解される隠語・符丁のようなものである。そうした言葉をむやみやたらと使うのは、その狭い範囲以外の人々の了解を排除するので、よくない態度だということがいわれる。私も、むやみと他人に分からない言葉を使うのははしたないと思うが、ここで問題にしたいのは、その点ではない。ある範囲内では間違いなくきちんと意味が了解されているのなら、そしてその外の人に対しても説明と伝達が可能であるならば、ジャーゴンを使うこと自体は悪いことではない。ごくありふれた例だが、寿司屋で「あがり」といえばお茶が出てくるし、「紫」といえば醤油が出てくる。そのことを知らない人の前で、「俺は通だよ」といわんばかりにこういう言葉を連発するのは趣味が悪いが、それはともかくとして、ここには共通の了解が確固としてあり、特に困った事態は起きない。「あがり」といったらコーヒーが出てきたり、「紫」といったらソースが出てきたり、あるいは「お愛想」といった途端に殴られたりといったことは起きないと、誰もが確信できるからである。
 これに対し、人文社会系の学問におけるジャーゴンは、しばしばその意味内容が明確に特定されておらず、人によって解釈が異なり、より明確な別の言葉に置き換えて説明されることもほとんどないといった類のものが少なくない。ある人があるジャーゴンを発するなら、そのことにより、「私は○○学の世界に属しています」という帰属意識は明確に表示されるし、同じ学界に属している人同士はそれによって連帯感を確認することができるが、では、その言葉で具体的に何を意味しているのかとなると、一向に明白でないということが珍しくない。かつてウェーバーは、貨幣とは何かについて、一〇人の経済学者に聞けば一〇通りの答が返ってくると述べたが(5)、政治学者に権力とは何かと尋ねたり、文化人類学者に民族とは何かと問うても同じことだろう。パラダイムがないというのは、こういうことを指しているのである。若干の例外はあるにしても、大半の人文・社会科学においては、自然科学におけるような厳密な意味でのパラダイム(6)は――少なくとも、当該分野の大半の研究者に確固として共有されるほどに成熟したものとしては――成り立っていないといわざるを得ない。先にみたように、クーンが考えるパラダイムは、一つの分野において共通の体系が一つあるだけであり、もしパラダイムが複数並立しているなら、それはその科学が例外的な「危機」にあることを意味するが、人文社会系の学問における「パラダイム」(らしきもの)はむしろ複数並存が常態なのである。
 もっとも、そのように厳密な意味でのパラダイムが成立していなくても、「通常科学」らしき体裁をつくることができないというわけではない。ある分野の研究者が増えると、学会が結成されたり、大学院で専攻分野として認定されたり、専門雑誌が刊行されたり、大学教師としての縄張りが確立したり、専門用語(ジャーゴン)が定着する等々の「制度化」現象が起きる。そうなると、ある「業界」に属しているという仲間意識、ジャーゴンとしての「業界用語」への習熟、「パズル解き」としての「業績」づくりなどにより、あたかも「通常科学」であるかの様相を呈することができるようになる。人文社会系の学問の通常科学化は、こうした側面によるところが大きいだろう。
 このこともまた、ある種の自然な過程であって、ともかくそのおかげでその分野の研究が隆盛になるなら、一概に悪いとは言い切れない。「社会史」も「女性学」も、そのようにして今日の隆盛を築いてきた。これも、「堕落」と表裏一体をなす「進歩」の一例だろうか。ともかく私としては、こうした傾向をむやみに倫理主義的に断罪する気はないが、かといって、そうした仲間うちでの「隆盛」だけに安住してよいのかという疑問を振り払うこともできない。
 先にも書いたように、「パラダイムがない」というのは、この言葉のかなり狭い定義によっていた。しかし、クーンの「パラダイム」という言葉は、注6で記したように、もう少し別の側面に力点をおいて解釈することもできる。それは、ある分野の研究活動を方向づけ、研究者集団に今後の指針を与えるものということである。この意味でのパラダイムは、先に「厳密な意味でのパラダイム」といったものがなくても成り立ち得る。あるテーマの実践的な緊要性とか学者の世界での流行などによって、「これこれこういう課題が重要であり、こういう方向へ進むべきだ」という漠然たる感覚が広まるということがある。ときには、「学界ボス」的な人が全体的な方向づけをすることもあるだろう。
 少し前までの人文社会系の学問は手工業的で、個人芸的な要素が濃かったので、そうした「全体的な方向づけ」は、たとえあったとしても、ごく緩やかなものにとどまっていた。どのような方向で研究を進めるかは、最終的には個々人の選択に委ねられ、「研究者集団全体としての方向性」というものはそもそも存在する余地がなかったのである。ところが、近年では、その点が、一種の外的条件によって変化しつつあるようにみえる。ここで、「外的条件」とは次のような傾向を念頭においている。
 近年の人文・社会科学の新しい傾向として、かつての「手工業」スタイルの研究がなくなったわけではないにしても、それとは異なる「大規模化」「組織化」の傾向が――自然科学に比べるならば、依然として桁が大分違うが――あらわれているように思われる。外国や、国内でも大学所在地から離れた地方へ行って実施する実態調査、各種の新資料の大量発掘、それらの大量データの数量的分析などが行なわれるようになり、そうした作業のために、かなりの額の資金、チーム作業(アルバイト的な補助人員を含む)、そしていうまでもなく多大の時間とエネルギーの集中的な投入を要するようになってきている。コンピューターの普及によりデータベースの類が大きな役割を演じるようになってきているが、データベースの作成に巨大な費用と労力が必要とされるのはいうまでもない。
 そうなると、個人が大した資金もかけずにひっそりと書斎にこもって行なう手工業的研究とは違って、大量の資金・人員・エネルギーをどのテーマに集中投入すべきかという問題が発生する。その選択が実践的な緊要性の基準によるのか、あるいは学者の世界での流行・ファッションによるのか、さらにはまた「学界ボス」間の力関係によるのかといった問題はさておき、ともかくある種の選択が行なわれ、「この分野では、今はこういう方向の研究が要請されており、そこに資金も人員も集中的に投入される」という状況が発生する。そして、そこから外れた方向での研究は、資金も恵まれないし、研究発表の場もあまり与えられないといったことが起こりうる。これが「通常科学」化のもう一つの側面だとすると、そうした時流に乗らずに、一人で静かに研究を進めるタイプの人にとっては、生きにくい時代がやってきつつあるといえるかもしれない。
 もっとも、幸か不幸か、今でも手工業的な研究の余地はなくなってはいない。「通常科学」化は学会をはじめとする組織化を不可避に伴うが、そのことと個人の内発性・自主性との関係もまた、学問の行方を考える上での大きな問題の一つである。
 
 
(1)一例として、村上陽一郎『科学者とは何か』新潮社、一九九四年。この本に限らず、多くの科学論は自然科学を念頭において書かれているために、「通常科学」であることは自明の前提とされている。
(2)それだけに、それに反逆する「ラディカル・エコノミクス」なども登場するということになるが、そうした潮流の登場自体、それまでの「通常科学」化の進行を前提している〔この文章の最初の草稿を書いたのは、「ラディカル・エコノミクス」流行の最盛時からは既にかなり経っていたが、まだその余韻のようなものがあった時期だった。私は経済学界の動向には不案内だが、その後、「ラディカル・エコノミクス」の退潮は一段と進んだようで、いまでは、ここに書いたようなことは雰囲気として時代遅れになっているのかもしれない〕。
(3)直井優「構造‐機能分析の展開――社会学における通常科学(ノーマル・サイアンス)への途」『思想』一九七三年五月号、は、「通常科学化」を成熟=進歩ととらえ、社会学におけるその進歩を称えている。この小文も、これに刺激されたところがあるが、趣旨は同じではない(私は直井ほど、進歩というものに楽観的になれない)。
(4)塩川伸明『ソ連とは何だったか』勁草書房、一九九四年、四九‐五二頁、同『社会主義とは何だったか』勁草書房、一九九四年、五三‐五四頁参照。本稿は、前者を書いたときに気になっていながら十分展開できなかった問題を敷衍しようとしたものである。
(5)ウェーバー『職業としての学問』岩波文庫(初版は一九三六年)、三四頁。やや我流にパラフレーズしたが、趣旨はそういうことと理解してよいと思う。
(6)実は、クーンのいう「パラダイム」とは何かということを厳密に理解するのはかなり厄介なことである。ある解説によれば、クーン自身が二一通りもの異なる用法をしているとのことだが(野家啓一『クーン』講談社、一九九八年、二一七、三〇五頁)、ここでそこまで立ち入ってはいられない。ここでは、我流の解釈だが、二つの側面に注目しておきたい。一つは、その領域に従事する人の大半が共通に了解する観念、基本発想、基礎概念、公理系、対象に対する見方、主要な理論的枠組みなどということであり、もう一つは、ある分野に属する大多数の研究者にとって模範・先例となる業績(あるいは、より広く、研究方向の大まかな指針)ということである。クーン自身は、どちらかというと後者に即した論じ方をしているが、自然科学の場合、それは暗黙に前者を含んでいるだろう。これに対し、人文社会系の学問にパラダイムがないというのは、後者はありえても前者があまりないということを意味する。本文で、「厳密な意味でのパラダイム」と書いたのはそういう趣旨である。
 
*トーマス・クーン『科学革命の構造』中山茂訳、みすず書房、一九七一年。原書: Thomas S. Kuhn, The Structure of Scientific Revolutions, The University of Chicago Press, 1962.
 
(最初の読書メモは一九九四年一月。一九九六、九八年などに一部改稿)
(付記) 元来この文章を書いたのは上に記したように一九九〇年代半ばのことだが、その時点では私はいわゆる「科学論」の動向に通じておらず、またちょうどその頃始まった、いわゆる「サイエンス・ウォーズ」については何も知らなかった。「サイエンス・ウォーズ」については金森修の著書への読書ノートでとりあげたが、そのときに仕入れた知識によれば、クーンは「科学論」者の間で高く評価される一方、現場の自然科学者たちの間ではむしろ評判が悪いようである(もちろん、細かくいえば、科学者も「科学論」者も多様であり、また彼らのクーン理解および評価も様々に分かれるようだが、そうした点にはここでは立ち入らない)。それはそれとして興味深いことだが、ここでは、自然科学にとってクーンの議論がどういう意味をもつかということよりもむしろ社会科学がどのように受けとめるべきかということが問題であり、その限りでこの旧稿の見地は維持できるように思うので、そのまま採録することにした(二〇〇一年二月記)。
 
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