備中國玉島及びその周辺
| <目 次> (0) 長遠院日樹上人 (1) 旧玉島市の残影 (1.1)備中玉島港界隈:2025/12/12追加(2025/03/14撮影 (1.2)柚木家(西爽亭):2025/12/12追加(2025/03/14撮影 (1.3)旧玉島市繁華街:2025/12/12追加(2025/03/14撮影 (2) 丸山住吉社石階 (3) 玉島の日蓮宗寺院 (4) 柏島天満町法華題目碑 (5) 備中玉島羽黒山清龍寺 (6) 天台宗玉谷圓乗院 (7) 曹洞宗圓通寺 (7.1)矢出真如庵 :2025/12/12追加(2025/03/14撮影 (8) 柏島薬師堂 (9) 寶龜山観音庵 :2025/12/12追加(2025/03/14撮影 (10)玉島臨港線(未成)遺構 (90)サイト「倉敷市」>「たましまアーカイブ」の紹介:2025/12/18追加 |
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(0)長遠院日樹上人
(1) 旧玉島市の残影
2025/12/18追加: ◇高瀬通し舟溜まり跡 ○サイト:倉敷市 > 文化・観光・スポーツ > 観光・魅力発信 > 観光情報 > みなと玉島空間 > 玉島ぶらっと > 玉島の史跡紹介 > 玉島の史跡紹介 常盤町・栄町・新地町(羽黒神社周辺) では次のようにいう。 「所在:玉島中央町1丁目7ー10(新地町・豊島屋南)」 (※)玉島中央町1丁目7ー10(豊島屋南)とは「高瀬通し舟だまり跡」の説明板設置場所の住所である。 「松山藩水谷候が玉島阿賀崎新田を開拓した万治寛文延宝にかけての約330年前、高梁川の水を入れた灌漑、水運両用の高瀬通しが船穂町水江の堅盤谷(カキワダニ)から糸崎七島を経て、玉島舟だまりまで91粁巾37米ー8.5米で開通された。 (中略) 荷を積み下ろす舟だまりは、羽黒山東側のこのあたり(※)約10アール(※)の水域であった。 羽黒山北側に延びる水路は、新町裏側に通じ阿弥陀水門から舟は港に出た。 明治になってからは、港町に地下トンネルが出来、舟はそこから港に出た。 昭和になって、高瀬通しはその機能を失い道路となり、家並みが建ち現代に至った。」 (※)「羽黒山東側のこのあたり」とは、「高瀬通し舟だまり跡」の説明板設置場所付近をいう。 (※)「10アール」とは1000uで、尺貫法でいえば約1反、坪でいえば約300坪である。 以上など参考に「高瀬通し舟だまり」の跡を探りと次のような結論となる。 推定玉島高瀬通し舟だまり跡:Yahoo地図 より 推定舟だまりは中央の(株)豊島屋本社・工場のある敷地を中心に、地図上に表示した@ABCDで囲まれた船底形の区画が「高瀬通し舟だまり」と推定される。 1)Bは「高瀬通し舟だまり跡」の説明板が設置されている場所である。 2)卍青瀧寺と表示している場所は明治の神仏分離の処置で羽黒山から下山し、新たに造られた新「清瀧寺」のある場所である。 (現在では、清瀧寺は再び羽黒山上に復帰している) 3)高瀬通しは玉島往来に沿って西側に掘削されていたが、この付近では埋めてられ道路の一部に転用されているようである。 地図上、玉島往来の西側に「用水路」(水路)が描かれ、現地で見ると、石垣で築かれ「高瀬通し」の遺構のようにも見える。 しかし、この「用水路」は高瀬通しではなく、「江戸末期の玉島港町分割支配略図」」などに見られるように 「本所悪水川」の名残りであり、「高瀬通し」の遺構ではない。 4)「本所悪水川」は水門を経て、玉島往来の下を暗渠で「溜川」と繋がる。 また、「溜川」は水門を経て、玉島港と繋がる。 ◇近世玉島の成立と干拓、玉島港の繁栄 ○「岡山の港」岡山文庫65、巌津政右衛門、日本文教出版、昭和50年 より 古代から中世の瀬戸内航路は児嶋の北側を通るものであった(児嶋は当時は嶋であった)。そして西行きの船は児嶋の北を通り連島の北を通り、さらに船は乙島と柏島の間を南下し、水島灘に出るものであった。(連島・乙島・柏島も往時は嶋であった)。 中世末期には藤戸海峡(児嶋の北)は通船不能となり、児嶋の南が瀬戸内航路となる。 寛永6年(1629)連島の北面新田と西阿知の河内新田が開発され、連島は陸続きとなり、東高梁川の流路が決まる。 寛永元年から正保元年(1645)の間に長尾新田・船穂新田が完成し、萬治2年(1659)爪埼・上成・古水門までの干拓が完成し乙島が陸続きとなる。つまり西高梁川の流路が決まる。 さらに寛文4年(1664)水谷氏は矢出から羽黒山の達する新堤と羽黒山から糸崎橋(※)までの堤防を築き、諸所に水門を設ける。 (※)糸崎とはよく分からないが、これは、あるいは「爪崎」の誤植であるかも知れない。 これにより、現在の通町・本町・団平町・矢出町・中島などの開発が進む。 寛文8年(1668)西高梁川右岸を検地し玉島村と命名、上成と爪崎を玉島村の枝村とする。 寛文11年水谷勝宗、阿賀崎新田を完成させ、同時に玉島西部に港を作る。この玉島港は旧乙島と旧柏島に挟まれた南北の長い港であり、現在もこの形を引き継ぐ。 阿賀崎新田の築堤は長さ約400m、幅約50mで、築堤上には港問屋の屋敷割がなされ、海岸沿いにはナマコ壁の倉庫が並ぶ景観となる。この問屋街は後に新町と呼ばれ、問屋ははじめ10軒であったが元禄年中には43軒を数える。 さらに港湾の浚渫を行い、千石船の接岸及び出入りが可能となる工事も実施する。 また萬治2年水谷勝宗は浅口郡水江(船穂水江)に堰堤を築き、水門・閘門を設け、船穂・長尾を経て玉島に至る延長約10kmの新川を掘り、高梁川を往来する高瀬舟を新川に導入する。 新川は「高瀬通し」と称し、新地町の南端から暗渠で連絡が可能であった。 高瀬舟は松山藩の蔵米を、また備中奥地の物産を玉島に運び、帰り荷には塩や肥料を積んで帰った。 まさに玉島は松山藩の外港の役割を果たす。 玉島港には阿波の藍問屋の船がよく入港し、近畿・九州方面の船も入港した。 江戸中期には日本海を西下し、関門海峡を通る北前船の入港が盛になる。 北前船はニシンの〆粕(しめかす)を主とし、これは玉島付近の主生産物であった綿の栽培に必要な肥料であった。玉島港からの積み荷は塩・綿などであった。 九州方面からは菜種などが着荷で、積み込みは綿であった。 しかし江戸後期には入港する船の数が減少する。 これは年々流入する土砂で港が浅くなったこと、他港との競争激化、綿の品質低下(水を含ませ量目の嵩上げ)が原因といわれる。だが北前船は明治になっても入港し、玉島近郊の綿作は明治20年ころまで続く。 明治24年7月山陽鉄道線が岡山以西に開通し、玉島港はその地位を追われ、ほぼ命脈を絶たれる。 ○「たましま 歴史百景」玉島テレビ放送、2017 より ※備中玉島と言えば、備中松山藩(水谷氏・板倉氏に代表される)支配の印象が強いが、決して松山藩一藩の支配ではなく、幕府領(倉敷代官所か)・諸大名の分割支配が実体であったことに留意すべきであろう。 近世玉島の領土・大名支配の実体は次のようである。 ◇近世玉島の支配関係 ●旧玉島市享保14年大名領有関係図:享保14年:1729年 寛永19年(1624)松山藩主であった池田氏が無嗣断絶した後松山は天領であったが、水谷勝隆が松山藩主となる。 以降水谷氏は、3代51年に渡り、高梁川下流の干拓し約一千町歩の土地を広げ、高瀬通しを築き、玉島港を整備し、玉島の繁栄の基礎を築く。 しかし、水谷家5万石は無嗣断絶する。松山藩領は天領となる。 元禄8年(1695)安藤重博が松山藩主になる。玉島・柏島の一部も松山藩領となる。 正徳元年(1711)石川総慶が松山藩主となる。 延享元年(1744)板倉勝澄が松山藩主となり、以降廃藩置県まで8代125年支配が続く。 一方 元禄15年(1702)天領となっていた乙島・阿賀崎・柏島などが浜松藩本庄氏の所領に加えられ、さらに上成・長尾・爪崎・玉島の一部・勇崎の一部は丹波亀山藩の所領となる。本庄氏の領地は再び天領となるが、亀山藩は青山氏46年間・松平氏121年の間存続する。 亀山藩は陣屋を玉島五軒家(現在の玉島2丁目、小字山下町)に置き、年貢の徴収のあたるという。 丹波亀山藩陣屋跡1 丹波亀山藩陣屋跡2:GoogleMap より、向かって左の建物は上本町集会所と思われる。 ※丹波亀山藩玉島陣屋:玉島五軒屋(34.541801896798646, 133.67498248820763)にあり、現在は稲荷明神となる。 ※直下に「丹波亀山藩陣屋・補足」の記事を追加。(2025/12/20) 富田は寛永9年(1632)備前岡山藩池田光政の領地となり、岡山藩は七島に領内の農民8名を移住させ、七島の北側を干拓し新田を開発する。 また光政は道越・七島・島地などを開拓し、寛文12年(1672)それらの領地を次男池田政言に分与し鴨方藩を立藩する。 その結果、富田は、富・道口・亀山が岡山藩、道越・七島・島地が鴨方藩として、また穂井田の陶・服部は備中岡田藩として幕末まで存続する。 以上玉島の支配関係は幕府・諸大名の複雑な「まだら模様」であったが、玉島港の商業街区は特に「入り組んだ」ものであった。 この複雑さが、玉島港が江戸後期に衰退していった一つの要因と考えられる。 ※次の項はサイト:「玉島歴史館」>「新玉島歴史散歩」>「14.玉島湊の衰退」による。 以上の考察のように、元禄15年(1702)玉島港の商業街区は天領・松山領・亀山領と三藩による分割支配地となり、明治維新までの約160年間にわたって続くこととなる。 その結果、玉島港及び港町は「三ヶ領軒並入組」として運営されることとなった。 ●玉島湊町付近分割支配図 天領(倉敷代官支配): 阿賀崎村のうち、新町・南町・仲買町 松山領(安藤→石川→板倉): 玉島村のうち、中島町・矢出町・団平町・土手町 亀山領(青山→松平): 玉島村のうち、本町・通町・山下町 2025/12/20追加: ◇丹波亀山藩陣屋・補足 ○サイト:「城下町と罪びと」>「岡山県丹波亀山藩玉島陣屋」 より 丹波亀山藩は備中国の飛び領、浅口郡七カ村で一万二千石支配の目的で、水運の便を得やすい備中国浅口郡玉島五軒屋(倉敷市玉島2丁目、通称・玉島山下町)に奉行所(役所)陣屋を置く。 玉島には、亀山藩から僅か五〜六人の役人を派遣していたとのことであり、備中に赴いた役人は、奉行一人、代官一人、他に用人三人程であり、その他の用人は現地の人々を雇い入れたという。 ※「新修倉敷市史 第3巻」の口絵に「甕港略量之図」(三宅正堂家文書 460頁)があり、そこには山下町付近に「亀山御役所」の表示があるという。 さて、この亀山藩陣屋であるが、その絵図が残されているという。 それは、「岡山県立博物館だより 58号」に所収の「資料あれこれ “御陣屋惣建物之図”の正体は」で明らかにされたという。 ○「資料あれこれ “御陣屋惣建物之図”の正体は」(「岡山県立博物館だより 58号」2002.11 所収) より 館蔵資料のなかに、「児島郡山田村御陣屋惣建物之図」の名称で登録されている1枚の絵図 (71.4×114.3) がある。 この資料の入っていた袋の表題からこの名称で登録されたと思われる。 この絵図には、陣屋の「御殿」のほかに、「御代官部屋」や「牢屋」などの建物が描かれ、かなり整った屋敷の構えである。 しかし、岡山藩領児嶋郡山田村の陣屋にはこのような整った陣屋が存在しない。 だとすれば、この絵図の屋敷はどこの屋敷なのであろうか。 「甕港略量之図」という絵図が『新修倉敷市史』第3巻に一部写真で掲載されている。 このなかに描かれている亀山御役所が、その敷地の形状や道路・門・神社の位置などほぼ同じということが判明する。 絵図の中に寺澤・田辺・金田・高見などの人物名が記されていて、亀山藩の資料から玉島陣屋詰の役人に同姓の人物がいることが分かる。 以上から、この絵図は丹波亀山藩玉島陣屋と考えて間違いないと思われる。 御陣屋惣建物之図:図版が小さく截然としないが、かなり大規模な屋敷であったと推定される。 天保二年(?)の年紀も見え、幕末のものであろう。 この図面自体の方位が不明であるが、鳥居のマークがあり、この社が現存する稲荷大明神だとすれば、 付近一帯が陣屋であったと推定される。 「甕港略量之図」:『新修倉敷市史』第3巻に掲載。 但し、新倉敷市史 巻3 は未見であり、画像は孫引きであり、これまた截然としないが、現在の地図tぽ対比して見れば、 亀山藩陣屋は上本町と山下町の境界にあったようで、陣屋の屋敷割は現地に残っているように見えなくもない。 しかし、現地は未見であり、確かなことは分からない。 最後に、本ページに「長尾の百姓一揆」の記事があるので、そのまま転載する。 新田開発も結局は”封建領主の農民数収奪の手段」であったのであろうか。 ≪参考≫ □長尾の百姓一揆 これは玉島付近に残る唯一の百姓一揆。 宝暦2年(1752)長尾村の小作人は飢饉で苦しみ、大地主二家に小作料の減免を願うが受け入れられず、二家の家屋を破壊した。 後の代官所(丹波亀山藩の陣屋で玉島五軒屋にあった)による厳しい取り調べの中、二人の青年(新四郎23歳、利兵衛19歳)が主謀者として名乗りでて、罪を一手に引き受け、死罪を執行されることになった。 村民は宝満寺住職に減刑を願ってもらおうと、処刑場の高梁川狐島河原へ運んだが、駕籠到着時には、処刑は終わっていた。 村民は、この様子を長尾神社から見ながら、二人が赦免されることを祈った。 その後長尾善昌寺の梵鐘に二人の法名を記し、境内の牛頭天王社内に霊を祀った。 玉島風土記:森脇正之、ザ玉島:ホームページ 2025/12/18追加: ●玉島の干拓の進展、玉島の支配関係、「三ヶ領軒並入組」、玉島港町の概要などについては このページ中の(90)サイト「倉敷市」>「たましまアーカイブ」の紹介>1.甕ノ海物語 より転載 の項 に多くの図版の掲載があるので参照を請う。
(1.2)柚木家(西爽亭) :2025/12/12追加(2025/03/14撮影:
(1.3)旧玉島市繁華街:2025/12/12追加(2025/03/14撮影
(2)丸山住吉社石階
丸山住吉社石階の踏石は基本的に「一枚石」の踏石からなる石段である。 各種情報を総合すると、 寄進したのは備中松山藩主水谷勝美であり、元禄2年(1689)玉島湊築造祈願の為(現地の石碑)という。 ※水谷勝美:水谷勝宗の長男。寛文3年(1663)生まれ。元禄2年(1689)備中松山藩主水谷家3代を襲封する。元禄6年(1693)10月6日逝去。31歳。 おそらく、この時に丸山住吉社も勧請されたものと推定される。 ※住吉社であるから航海・湊の安全を祈願し、祭神は底筒男命(そこつつのを)・中筒男命(なかつつのを)・表筒男命(うわつつのを)の住吉三神であったのであろう。 明治維新後、国学者や復古神道家の狂気で、寺院・神社は淘汰される時代となる。 大正5年丸山住吉社は羽黒神社に合祀される。(同時に町内各所に散在していた祠も合祀されるという。) 従って、現在住吉社は丸山には存在せず、跡地は公園に転用される。 GoogleMapなどで確認すると、跡地には石燈籠、小祠、手水石(文化元年/1804年紀)のほか英霊招魂碑・魚霊搭などが現存する。 ※手水石には文化元年(1804)の年紀があり、おそらく今はない丸山住吉社の遺構であろう。 ※英霊招魂碑は国家神道の残滓で未だに懲りない面々が固執する施設である。 例えば、直近のニュースで、嘘で塗り固め、声高に戦前回帰を唱えた某政治家の「留魂碑」が 同じ穴の貉によって奈良市三笠霊園に設置され、「この留魂碑を通して新たに多くの種がまかれ育っていくこと」を見守る といったことが報じられたが、今現在も同じ懲りない面々が跋扈している。 ※魚霊搭は昭和14年佐藤和平の建設である。 「玉島要覧」(昭和12年)によれば、 佐藤和平は魚問屋「中屋」(天保3年創業)の5代目であり、玉島魚市場「佐藤和平商店」を経営する。 本魚市場は県下水産界においてその設備・取引高で王座に君臨する。 その本邸・営業部は住吉山下にあり、数萬金を投じ、近年新築落慶す、という。 なお、現在は不明であるが、毎年「魚霊塔」前で「魚霊祭」が「中屋」によって、少なくとも昭和後期まで、挙行されていた。 以上のように、 丸山住吉社は羽黒神社に合祀されるも、水谷勝美寄進の一枚石の石階はほぼ寸分の狂いもなく、現存する。 ※※本石階は間違いなく、その整美さで、玉島随一の文化財であると評価できるものである。 住吉社石階の法量などは次のサイトに記載がある。 ○ページ「史跡に学ぶ・玉島の歴史 住吉神社石段」 では 「住吉神社石段は、元禄2年(1689)玉島港築造祈願のため建立される。祈願者は備中松山藩主水谷勝美である。石段は石段の幅、3m、横の石幅、27cm*2 全、3m54cmで95段ある。3mの一本石の石段は他になかなかない立派なものである。北前船で栄えた玉島を象徴している。」とある。 少々分かり難いが、石段の1個の石は幅10尺(3m)の一枚石でできていて、95段あることが知られる。 但し、95段全ての踏石が一枚石ではなく、上部の1/3程の石階は、石材の不足などの理由で、2枚の踏石の組み合わせである。 ○ページ「玉島路地裏探検−PART1・秋葉町の巻」 ※2025/12/12リンク切れ では 「備中33観音石碑が御出迎え 石段が見えると思う。羽黒神社石段(注:元の住吉社石段が正)で元禄2年(1689)玉島港築造祈願のため水谷勝美侯の寄進で建立される。石段の幅、3mあり、横の石が横の石幅、27cm*2、合計3m54cmの石段で95段ある。このサイズの石段はあまり類がない石段である。三叉路からは、仲買町、住吉神社石段、そして「備中33観音石碑」が参道入り口である。」とある。 備中33観音石碑というのは不明であるが、現地にそのような石碑があるものと推測される。新しい石造の祠があるのでそれを指すものかも知れない。
(3)玉島の日蓮宗寺院 (4)柏島天満町法華題目碑:2012/11/20追加
2012/11/10撮影: (5)備中玉島羽黒山清龍寺 (6)天台宗玉谷圓乗院 (7)曹洞宗圓通寺
(7.1)矢出真如庵 :2025/12/12追加(2025/03/14撮影) (8)柏島薬師堂 (9) 寶龜山観音庵 :2025/12/12追加(2025/03/14撮影
2025/12/13追加: ◆「ページ:【南備四国八十八ヶ所霊場 画像集24(32-34番)】 > 画像集.24」 より 上記ページに「寶龜山観音庵」の詳細が掲載されている。 よって、上記ページより、その概要を転載する。転載する概要は次の通りである。 ○「浅口郡誌」岡山県浅口郡、浅口郡、大正14 より 四、寺院調(大正11年調) 第二三三節 郡内各町村別、寺院調を表示せば左の如し。 寺院調・寶龜観音庵 「観音庵 勇崎寶龜 天臺宗叡山派 本尊:観世音菩薩 建立:天和二 本堂、教院、青面、金剛堂/一五四四坪 信徒:2000人 備考:黒崎村安養院末/第三一四節参照」 ※これによれば、堂宇は本堂、教院(※)、青面金剛堂(※※)があったようである。 (※)教院とは不明であるが、明治初頭に設置された小教院の遺構とも考えられるが、この地方に小教院設置されたのかどうかも不明、その可能性も低いと思われる。あるいは信徒も多いので、信徒が集う堂宇のようなものであったのかも知れないが、いずれにしても不明である。 (※※)「青面、金剛堂」とはある種の誤植と思われる。正しくは「青面金剛堂」(要するに庚申堂)であろうと思われる。 一五、寶龜山 第三一四節 勇崎に在り。 往古は丸山・眞名板暗礁・八幡山等と共に、今の水島の如くの列島たりしならんも、岩質粗鬆のため波浪に浸食せられ、現今の如く僅かに形骸を残せり。而して寛文六年(1666)新開成り、天和二年觀音庵の建立を見るに至る。 社寺根元記(こは明和九年當時の村役人五人組頭の連印あるものにて、勇崎村の庄屋、中藤家に藏せしも、今は所在不明となれりと云ふ。)の中、中塚一郎氏の抜萃せるものを略年表にして示せば左の如し。 天和二年(1682) 觀音庵建立 施主中藤傳吉(棟札寫) 元祿八年(1695) 觀音庵建替 植林 現今山上に老松の疎生するあるは、此時植ゑしものならん 元祿年中 庵持佛青面金剛一體 津之國天王寺、十禪師開元御免許狀 寶暦九年(1759) 再建 施主中藤重左衛門 當山の庚申堂は觀音庵の別字にして、嘉永年間(1848-1854)の建築に係り、元觀音堂に安置せしものと云ひ傳ふ。今寶龜の庚申とて地方に名高し。(第二三三節參照) 中藤傳吉は初代庄屋にして、現今の觀音庵は明治年間改築せしもの、庵は黒崎村安養院末なり。(第二三三節參照)」と記されている さらに ○「勇崎村誌 下巻」明治22年 (p.11-14)に 「安置佛ハ十一面観世音ニシテ僧行基ノ作ト云フ 花山院初メ備中西國三拾三𠩄(所)ヲ設ケ給ヒシ 此當観音堂ヲ以テ二拾番札𠩄(札所)ト㝎(定)メラル」とあり、 觀音庵(一名 望海庵)は観音堂の境内にあり、佛軆は青面金剛。観音堂守居庵は黒崎の安養院末庵で、尼僧が住んでいた。 「勇崎村誌巻ノ下追録」に「昭和十七年三月十九日 宗教法ニ依リ觀音寺ト改稱 寺院格トナル」 とある。 ※※なお「勇崎村誌」は未見である。 次に上記ページに掲載された諸情報を整理すると次のようである。 ・石階下の「寺号碑」の銘: 「當國順禮第二十番寶龜山觀音堂」「從是玉嶋圓通寺(江?)三十丁」「弘化四年(1847)丁未十月吉祥日 發願主泉」 ・石階の親柱の銘: 「文化十二乙亥(1815)四月」 ・鐘楼横に「札所石柱」2基: 1基は「淺口西國 六番寶亀山 本性院 江 十壱丁■」もう1基は「浅口順禮札所三十六番」 ・梵鐘の銘: 「諸行無常/是生滅法/生滅滅己/寂滅為楽、発起人・世話人・寄附者芳名録、紀年(昭和六十年十一月吉日)等」 ・鐘楼横の清浄水(手水鉢)の銘: 「明治廿九年丙申三月吉日」「願主 舩穂村 小野善藏義富」「周旋人 真田源三郎 國富鉄?治郎 石工■■ ■山■太郎」 ・自然石の手水鉢(陽石?): 庚申堂横にあり。 ・推定本堂跡の手水鉢の銘: 「■■ 施主 ■■ 元禄八■ 七■■■」 元禄8年(1695)は観音堂が再建された年(であるので、この手水鉢がある付近に本堂があったと推定される。) ・井戸の跡: 「勇崎村誌 下巻(p.14)」に「井 是者延享元子年(1744)四月四擇法印并清行 中藤氏 掘之」とある。 中藤氏は勇崎村の庄屋 ・井戸横の石燈籠の竿の銘: 「金毘羅宮 吉備津宮」『南無金毘羅大権現』 ・奉開扉大慈大悲観世音菩薩供養塔: 「奉開扉大慈大悲觀世音菩薩供養」「具足神通力廣修智方便」「觀音妙智力能救世間苦」 「維時明治廿九丙申歳春三月下旬 謹建之 施主 黒田耕平 中藤*舜平 中藤■之助 世話人 真田源三郎」 *舜は「日」の下に「舛」の字 ・近年の参道築造・境内整備の石柱の銘: 「参道築造 境内整備 寄進 西■■」「境内ノ荒廃極マルヲ篤志モテ裏参道ヲ築造ノ上 当山ヲ旧観ニ復セシモノ也 平成二年(1990)七月」 ※これによると、35年程前に裏参道の築造、境内整備が行われたようである。 ◆本堂跡の推定 寶龜山境内の東に寺号碑が立ち、そこから石階が立ち上がり、境内に入る。石階上には山門があったという文献はないので、山門はなかったのであろう。石階を上がれば、そこには大きな面積の平坦地(更地)がある。 そこに残るものはほぼ中央に井戸の跡と石燈籠(金毘羅大権現など)の竿だけである。 観音庵には本堂・教院などもあったと記録されるので、おそらくこの広い平坦面に本堂・教堂が建っていたものと推定される。 ※画像はいずれもGoog;eMap より 推定本堂などの跡地1:北方を望む、左端は鐘楼 推定本堂などの跡地2:東方を望む、中央やや上に石階の最上部が写り、右端は井戸跡である 推定本堂などの跡地3:中央が井戸跡、その右が石燈籠の竿、左端に石階の最上部 鐘楼・庚申堂及び石仏類はこの本堂など跡の西側に位置する。 (10)玉島臨港線(未成)遺構
(90)サイト「倉敷市」>「たましまアーカイブ」の紹介:2025/12/17追加 なお 1.甕ノ海物語 より転載
【補遺】:「玉島歴史館」>「第2部:新玉島歴史散歩」 より
【補遺】:「玉島歴史館」>「第2部:新玉島歴史散歩」 より
◇江戸中期の吉備の中海の状況 2.備中玉嶋湊物語 より転載 3.甕港物語 より転載
【補遺】:「玉島歴史館」>「第2部:新玉島歴史散歩」 より 4.玉島いしぶみ探訪記 上 5.玉島いしぶみ探訪記 中 より転載 【補遺】:「玉島歴史館」>「第2部:新玉島歴史散歩」 より 2023/07/05作成:2025/12/20更新:ホームページ、日本の塔婆 |