(4)柏島天満町法華題目碑:2012/11/20追加
碑文より、享保15年屋守佛乗寺18世日融上人の発願で建立されたものと推定される。
2012/11/10撮影:
○天満町題目碑1:「南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩 四百五十年忌 御報恩」
※日蓮上人450年遠忌の報恩塔である。450年遠忌は享保16年(1731)と思われる。
○天満町題目碑2:
※民家と比較して分かるように相当な大型の題目碑である。
○天満町題目碑3:向かって右側面:「願主堺之住人■(頌)■(日?)■(受?)三千ヶ寺参詣成就」
※堺の住人何某が3000ヶ寺参詣成就とある。
○天満町題目碑4:裏面:「發願者佛乗寺■(十)八世■(日)■上人 ■(享)保十■(五)■■ 7月十三日」
※発願は仏乗寺18世(仏乗寺歴代譜によれば18世は日融上人、享保15年11月68歳にて遷化)であり、
年紀は享保15年とある。
○天満町題目碑5:向かって左側面:「■■(辰)之年中大坂失火焼死之霊魂諸国■之■(旲?)魂■(自)■■」
※他の年紀および「「■■(辰)之年中」から「大坂失火」とは享保9年(甲辰・1724)の「妙知焼け」と推定される。
「妙知焼け」とは享保9年3月21日午の刻(正午)、南堀江の金屋治兵衛の祖母妙知尼宅より出火、翌22日申の刻
(午後4時)まで燃え続ける。大坂三郷の2/3の408町が焼失する大火であった。
以上等を総合すれば、この大型の題目碑は、享保15年屋守仏乗寺18世日融が、日蓮上人450遠忌、堺住人何某の3000ヶ寺参詣記念、および享保9年の大坂大火の焼死者にたいする慰霊のため、この地に建立されたものと推定される。
この碑は旧道に面した丘側(西側)に建つ。今この碑の建つところの旧道東側(海側)は人家が建ち、さらにその東側も昭和40年代頃港が埋め立てられ新道が作られ、港を往来する船からは見えなくなっている。
しかし、建立当時は当然昭和戦後の新道はなく、さらには旧道東側はすぐ港(海)であり、玉島港に出入する船から良くみえたのではないだろか。さらにこの界隈一画は遊郭であったといい、かなりの賑わいがあり、碑の建立の好地であったように思われる。
2013/01/15追加:
「日樹上人傳」原田智詮、昭和36年 では以下のように述べる。
「享保15年7月13日発願者仏乗寺18世日融上人」願主の三千ヶ寺参詣成就を遂げた順海日受は日蓮大菩薩450年忌を兼ねて、享保9年3月大坂の大火に焼死の諸霊の為、玉島天満町に高さ11尺5寸(3.48m)の供養塔を建立。
※以上から、向かって右側面:「願主堺之住人■(頌)■(日?)■(受?)三千ヶ寺参詣成就」は「願主堺之住人順海日受三千ヶ寺参詣成就」と知れる。
裏面:「發願者佛乗寺■(十)八世■(日)■上人 ■(享)保十■(五)■■ 7月十三日」は「發願者佛乗寺十八世日融上人 享保十五年 7月十三日」と知れる。
(5)備中玉島羽黒山清龍寺
遠く西国(備中玉島)に羽黒権現が祀られる。
玉島羽黒権現は江戸期に関東の大名が西国に転封され、その大名によって羽黒権現が勧請され、本来は羽黒権現の信仰圏でない地に祀られたケースと思われる。
※その大名は常陸下館藩から備中成羽藩を経て備中松山へ移封された水谷氏である。
出羽羽黒大権現と比べると比較にならない規模ではあるが、ここでも明治の神仏分離の影が見え隠れする。
現在羽黒権現のある地は羽黒山と呼ばれる碗状の小丘である。
(※ここでも羽黒権現は明治の神仏分離の処置で羽黒神社と改号される。)
干拓で陸続きになる前は乙島・柏島の2つの島に挟まれた「阿弥陀山」と伝承?する小島であったと云われる。
万治元年(1658)備中松山藩主水谷勝隆が玉島地方の干拓に際し、阿弥陀山上に出羽国羽黒大権現を勧請する。
(あるいは水谷氏の本貫地常陸下館の羽黒権現を勧請したとも云う。)
※因みに、水谷氏は備中移封前は常陸下館を領していたが、下館に於いても、初代下館城主水谷勝氏は羽黒権現を勧請し、
同時に羽黒大権現別当天台宗清瀧寺を建立すると云う。但し、羽黒権現は羽黒神社として現存するも、別当清瀧寺は明治の神仏分離の処置などで廃寺となる。
寛文5年(1665)第2代藩主水谷勝宗、社殿を改築、阿弥陀山東斜面に別当羽黒山清瀧寺を建立する。
清瀧寺初代別当には京都青蓮院仙海和尚(勝隆実弟)を招じ、開山とする。
なお現在の羽黒権現社殿は嘉永3年(1845)、幣拝殿は安政4年(1852)の再建という。
その後の清瀧寺は以下のように変遷すると推測される:(資料不十分のため推測)
玉島羽黒権現付近地図
明治の神仏分離の処置で、羽黒権現は羽黒神社と改号、羽黒山東参道途中にあった清瀧寺(旧清瀧寺)は羽黒山を下り、羽黒山北側すぐの地に移転
し新に清瀧寺(新清瀧寺)を建立する。(推定)
羽黒山東参道途中にあった旧清瀧寺の建物(山門・本堂)はそのまま残され、公共施設?や学校?などに転用されたと思われる。
その後120年前後の時が経ち、近年(少なくとも昭和後期あるいは平成の初期)になり、下山した新清瀧寺は旧地(羽黒山東斜面参道途中)の旧清瀧寺に移転つまり復帰し、旧清瀧寺建物(山門・本堂)が再び清瀧寺として使用され復活していると思われる。
なお清瀧寺が羽黒山の旧地に復帰した後の新清瀧寺の境内・堂宇もそのまま清瀧寺として残存する。
2023/05/14追加:
○「玉島要覧」安藤嘉助、玉島町玉島商工會、昭和12年 より
◇郷社羽黒神社
祭神は玉依姫、相殿はスサノウ・大国主である。
※スサノウが相殿とあるので、明治維新の神仏分離令で付近の牛頭天王が配され合祀されたものと推定。
萬治元年(1658)備中松山藩主水谷勝隆がこの地方の干拓を企図し、舊領地常陸下館に出羽羽黒山の分霊を勧請し羽黒宮と稱していたのを、更にこの地に移祀し、開墾の成就を祈願し、更に工成るに及んで、寛文5年(1665)水谷勝隆の嗣勝宗が社殿を改築し、羽黒大権現と稱へ、祈願所とし、新たに一寺を建立し、清瀧寺と命名し、別當と為す。
明治3年神仏分離の処置で羽黒神社と改号する。
※この時、羽黒権現は国家神道丸出しの玉依姫とされたと推定され、祭神とされる神々も国家神道に翻弄され、崇敬の念など微塵もないことに苦笑していることであろう。
◇清瀧寺
山号は羽黒山、天台宗叡山派(比叡山末)、玉島榮町に在る。元は羽黒山上に在りしを、神仏分離の蛮行で、羽黒山北麓の現地に遷したものである。
羽黒山は承和年中慈覚大師が渡唐の時、阿弥陀の尊像を造って安置せし山で、元の名を阿弥陀山と称していた。
※清瀧寺創建の由来は上記の羽黒神社の項に記載の通りである。
開山は仙海、水谷伊勢守(勝隆)の子(弟?)で東叡山寛永寺天海の弟子である。
本尊は旧阿弥陀山に在った尊像である。(※慈覚大姉作の阿弥陀仏か?)
2023/07/12追加:
備中玉島羽黒権現は、小規模ながら、明治維新の神仏判然令に基づく所謂「神仏分離の処置」が型どおりに行われたのであるが、近年、珍しくも、いったんは下山した別當(寺院)が神仏分離前の場所に「復活」「再興」されたようである。但し、それは、分離された寺院(青龍寺)がもとの場所に復帰しただけであり、分離された神社(羽黒神社)が廃され、神仏分離前の羽黒権現に復した訳ではない。
明治維新前の玉島羽黒権現は、仏体(本地である聖観音・阿弥陀如来・大日如来かあるいはその内の1体であろう)が祀られていたものと考えられる。
ところが、明治の神仏分離の処置の結果、現在では「郷社羽黒神社の祭神は玉依姫、相殿はスサノヲ・オオクニヌシである。」(「玉島要覧」)という。
明治の神仏判然令で、神仏は分離され、権現は廃されて神社に改組、羽黒神社と改号、祭神には記紀神話の神と取替られ、復古神道の神社が捏造された典型例である。
なお、羽黒権現の仏体がどのような仏体で、そしてどのように処置されたのかは、常識的には清龍寺に遷されたと考えられるが、手持ち資料にはその記載がなく、分からない。
ただ、一般的な神仏分離の処置では別當(寺院)は廃寺となり、その姿を消すが、玉島羽黒権現の別當清龍寺は、山下北方に下山・移転され、廃寺は免れる。さらに加えて、上述のように、平成の前後であろうが、神仏分離でいったん下山した寺院(青龍寺)が再びもとに在った場所に復帰したようである。
蓋し、非常に珍しい例というべきであろう。稀有の例というべきであろう。
よって、ここに特記する。
但し、神社(羽黒神社)が廃され羽黒権現が復活した訳ではないことも再度付記しておく。
2005/05/04撮影:
旧/現羽黒山清瀧寺:羽黒山東参道に復帰した清瀧寺。この境内・建物は神仏分離前の清瀧寺の境内・建物と云う。
旧/現羽黒山清瀧寺山門:天台宗・清瀧寺の扁額を掲げる。
新羽黒山清瀧寺2:維新後に移転した地に残る堂宇
2007/03/17撮影:
旧羽黒山清瀧寺1
新羽黒山清瀧寺山号碑
2013/03/17撮影:
羽黒権現東参道:向かって右中段に旧/現清瀧寺がある。
旧/現羽黒山清瀧寺2
新羽黒山清瀧寺3 新羽黒山清瀧寺4
:新清瀧寺境内には、移転後も、羽黒山清瀧寺石碑、鳥居、本殿(本堂)、観音堂(推定)、庫裏、法華石塔、護摩殿合天井寄進石碑が残る。
2014/09/27撮影:
新清瀧寺石柱 新清瀧寺本堂 新清瀧寺観音堂 新清瀧寺法華塔 旧/現清瀧寺石垣
(6)天台宗玉谷圓乗院
→ 備中玉島圓乗院
(7)曹洞宗圓通寺
作成予定
(8)柏島薬師堂
2017/10/08撮影:
柏島天満町題目碑からおよそ5町北に柏島薬師堂がある。
現柏島薬師堂:元は背後の石階を上った堂屋敷にあった。現薬師堂より一回り大きい堂宇であったが、何時しか腐朽し、取り壊され、石階下に小宇として再建され、堂内の仏像も遷座したものと推定される。
石階手前には宝暦14年(1764)の石造地蔵菩薩坐像の巨像と文政9年(1826)の大石燈籠とが現存する。
柏島薬師堂石階:この石階の上の壇が薬師堂境内であるが、ここに薬師堂があった、現在は更地となり、この地方に分布する札所と禅宗関係と思われる石塔(判読は困難)のみが残存する。
堂内には薬師三尊及び十二神将と近年の厨子(薬師如来坐像)が安置される。
諸仏はおそらく上述の石造地蔵菩薩坐像や石燈籠と同時代の江戸中期か末期の造立であり、決して優れたものではないが、この縁起も知られない薬師堂の諸佛として護持されていることをここに記す。
柏島薬師堂薬師三尊十二神将 柏島薬師堂薬師三尊 柏島薬師堂十二神将1 柏島薬師堂十二神将2
柏島薬師堂厨子内薬師如来
(9)玉島臨港線(未成)遺構
→ 国鉄玉島臨港線(未成線)
2023/07/05作成:2023/07/05更新:ホームページ、日本の塔婆