備 中 國 玉 島 及 び そ の 周 辺

備中國玉島及びその周辺

                         <目  次>
(0) 長遠院日樹上人
(1) 旧玉島市の残影
(1.1)備中玉島港界隈:2025/12/12追加(2025/03/14撮影
(1.2)柚木家(西爽亭):2025/12/12追加(2025/03/14撮影
(1.3)旧玉島市繁華街:2025/12/12追加(2025/03/14撮影
(2) 丸山住吉社石階
(3) 玉島の日蓮宗寺院
(4) 柏島天満町法華題目碑
(5) 備中玉島羽黒山清龍寺
(6) 天台宗玉谷圓乗院
(7) 曹洞宗圓通寺
(7.1)矢出真如庵 :2025/12/12追加(2025/03/14撮影
(8) 柏島薬師堂
(9) 寶龜山観音庵 :2025/12/12追加(2025/03/14撮影
(10)玉島臨港線(未成)遺構
(90)サイト「倉敷市」>「たましまアーカイブ」の紹介:2025/12/18追加



(0)長遠院日樹上人

左は日樹上人供養塔:備中黒崎屋守法福寺にあり。


長遠院日樹上人は備中黒崎の産である。
下総飯高檀林、中村檀林の能化を経て、元和5年(1619)池上・比企ヶ谷両山16世(復暦)となる。
日奥上人の不受不施義を継承し、関東不受不施派の魁であった。
寛永7年(1630)身池対論にて、信濃伊奈に御預けとなる。
翌、寛永8年配所にて寂す。年58。


日樹上人(日樹上人供養塔・日樹上人略伝・日樹上人墓碑・日樹上人開基寺院など)については、

長遠院日樹上人」のページを参照下さい。


(1) 旧玉島市の残影
(1.1)備中玉島港界隈
 :2025/12/12追加(2025/03/14撮影

◇玉島の高瀬通し
○玉島港付近の「案内板」 から(要約)
 備中玉島は、備中松山藩水谷氏による干拓による新田開発がなされたことによって、新しい発展を迎える。
水谷氏は玉島に山島港を築港する。この玉島港は瀬戸内海に対しては北前船の寄港地となり、高梁川水系に対しては高瀬舟のターミナルとなる。つまりは備中松山藩の外港の役割を担うこととなる。
玉島港は元禄期(1688-1703)にその最盛期を迎え、汐止め堤防上に商人を誘致し新町を形成し、当時は問屋40数軒と200棟以上の蔵が立ち並ぶという。
  ◆備中玉島イラストマップ:玉島港舟溜まり付近の「案内板」より転載

2025/12/20追加:
○明治30年測図に見る高瀬通し
 地理院地図<1/20000「玉島」明治30年測図>より、高瀬通しの追跡が可能な部分を抽出して示す。
明治30年測図というから、まだ江戸末期の様相をほぼ残しているのではないかと推測する。
従って、現在では埋めたてられるなどによって、不明確になっているルートを比較的容易に辿ることができる。
 なお、抽出した地図には山陽鉄道の文字はないが、現在の山陽本線の鉄道線は「山陽鉄道」と標記されている。
 因みに、山陽鉄道の歴史は次の通り。
明治24年7月14日:倉敷駅 - 笠岡駅間が延伸開業。玉島駅(現在の新倉敷駅)・鴨方駅・笠岡駅が開業。
明治39年12月1日:山陽鉄道が国有化。明治42年:神戸駅 - 下関駅間、兵庫駅 - 和田岬駅間を山陽本線と称す。
水江(又串)の分岐(高瀬通しのスタート)から爪崎までのルート:下図拡大図
 水江(又串)の分岐(高瀬通しのスタート)から爪崎までのルート
図の左上に水江・又串とあり、ここが高瀬通しの閘門である。
高梁川に沿って南下し、水門から向島、筋川(舩穂村)を経て、長尾に至る。水門付近から右岸は鴨方往来となる。
長尾の集落を過ぎ、爪崎に至る。
爪崎にて鴨方往来と玉島往来が分岐する。(鴨方街道は西進し、玉島街道は南進する)

爪崎から玉島港舟溜まり(高瀬通しのターミナル)までのルート:下図拡大図
 爪崎から玉島港舟溜まり(高瀬通しのターミナル)までのルート
爪崎にて鴨方往来と玉島往来が分岐する。(鴨方街道は西進し、玉島街道は南進する)
爪崎から右岸が玉島街道となる。
しばらくして山陽鉄道と交差する。
高瀬通し土手には多くの櫨が植えられていたというも、現在この山陽鉄道の南北に3本の櫨の木が確認できるのみである。
3本の櫨の木を過ぎ、やがて東に溜川、西に本所悪水川を見て、南西に方向を転じ、やがて玉島港町羽黒山下の舟溜まりに至る。
本図では舟溜まりの形状が截然とはしない(舟底のような形には見えない)が、あるいは明治30年ころには多少舟溜まりの埋め立てが進んでいたのかも知れない。
 なお、羽黒山上に楕円形記号と○記号が描かれる。
これは、当時の地図記号によれば、楕円形記号は都道府県庁支所、○記号は町村役場を示すという(国土地理院)。
明治30年玉島村と阿賀崎村が合併、玉島町となるので、○記号は羽黒山清瀧寺に設置された玉島町役場、
明治11年〜大正11年まで、羽黒山清瀧寺に浅口郡役場が設置されていたというので、楕円形記号は浅口郡役場を示すのであろう。

※※上述の「備中玉島イラストマップ」及び上記の「地理院地図<1/20000「玉島」明治30年測図>」を基準にして、「高瀬通し」の各種情報を勘案して、GoogleMapで高瀬通しをバーチャルに辿ると、高瀬通しの現状は次のように概括することができる。
 高瀬通しは浅口郡水江(船穂水江・又串)で高梁川から分岐し、閘門式水門を経て、高瀬通しと呼ばれた水路となる。
その高瀬通しは高梁川右岸土手下を少し南下して鴨方往来と交差する、交差後は鴨方往来と並列してしばらく西南方向に向かう。
高瀬通しの現状はと言えば、その機能を失ってからは、水路幅は狭められ、また暗渠となっている部分も多くある。また住宅地では地域民の生活と一体化した橋・ゴミステーションなども多く設けられる風景も見られる。
 西南方向に並列して向かう鴨方往来と高瀬通しはやがて現在の「新倉敷駅」のやや北側に達し、さらに並列して少し進むと爪崎に至る。
爪崎では西進する鴨方往来と南進する玉島往来が分岐する。
高瀬通しは爪崎から西進する鴨方往来と分かれ、ここからは南下する玉島往来と併進する。
爪崎までは、高瀬通し右岸が鴨方往来であったが、爪崎からは高瀬通し左岸が玉島街道となる。

 少し進むと当時の櫨の木が今に残存する。
2025/11/20追加:
 櫨の木は2本、3本、4本残存するとの諸情報があるが、ネットの情報やGooleMapなどで確認すると3本残存することが確認される。
爪崎から高瀬通りは南下し、やがて山陽線の下を通過する。
残存する3本は山陽線北約300mの地点、山陽線南約200mの地点、さらに南へ約200mの地点(玉島バイパス北約200m)である。
確認できた3本の櫨の木は直下の「◇残存する櫨の木」の項で写真などを掲載する。(追加終了)
  
 さらに南に進むと水路(高瀬通し)は細い水路となり、高瀬通しの面影はほぼ残さない状態となる。
   ※2025/12/18以下修正:「高瀬通しの舟溜まり」について、管理人(s_minaga)の誤認識があり、以下の記述を修正する。
 やがて、細い水路となった高瀬通しは「玉島市民交流センター体育館」横に至るが、その手前で水路は道路をくぐり、東の溜川に流入するようである。(明治以降の処置であろうと思われる)
 この「体育館」から先の「玉島街道」の西に平行した高瀬通しは、埋め立てられ、道路の一部となったようである。
従って、高瀬通しの水路は、この先から終点の羽黒山下にある「舟溜まり」に至るまでの間、消滅したと思われる。
 なを、玉島街道が旧国道2号を越えてすぐに、玉島街道の少し西に、豊富な水を湛える水路が現れる。
この水路は旧玉島市役所北方から、その西側を流れ、旧国道2号線を越えて直ぐに、玉島街道に接近してくる。
しかし、この水路は高瀬通しとは無関係で「本所悪水川」という「遊水路」である。
そして、この「悪水川」は「高瀬通し舟溜まり」の直前まで続き、現在は玉島街道の脇の水門を経て、街道下の暗渠で、下に掲載しているドラム缶橋の架かっている「溜川」に繋がっている。
  →「本所悪水川」「溜川」については「江戸末期の玉島港町分割支配略図」を参照。
   上掲の「爪崎から玉島港舟溜まり(高瀬通しのターミナル)までのルート」にもはっきり示されている。
    この形状と景観は現在も大きくは変わらないようである。
なお、溜川・悪水川については次のように考察される。
・溜川:
 爪崎から、玉島港へ注ぐ河川である。新田開発によって作られたものと思われる。
おそらく灌漑用途と排水用途を兼ねる人口の川と思われる。
出口は玉島港であるが、その手前は広大な遊水池をなす。
・本所悪水川:
 新田開発の伴い、作られた人工の川と思われる。悪水とは奇抜な命名で、おそらく農地などからの排水(悪水)を集めて、玉島港に排出する機能を持っていたものと思われる。
 上記に付け加えると、旧七島村には推定「七島池」がある。
・七島池:
 七島新田には半月状の奇妙に細長い池があり、多分、七島池というらしい。
この川にも見える池は新田開発のよって造られたもので、江戸期の池田家文書の絵図にも描かれる。
この池は道口川を飲み込んで阿賀崎村に至り、玉島港に注ぐ。
おそらくは、溜川と同様に灌漑用途と排水用途を兼ねる人口の池と思われるが、詳細は分からない。

2025/12/20追加:
◇残存する櫨の木
1.山陽線北約300mの地点の櫨
倉敷市玉島八島1507−1 34.56506686049555, 133.67372760935527 に所在
 山陽線北約300m地点の櫨1:玉商ブログ>高瀬通しのハゼの木と玉島往来 より転載
 山陽線北約300m地点の櫨2:GoogleMap より:2024/10撮影
2.山陽線南約200mの地点の櫨
34.56069723869345, 133.67544920663246 に所在する。
 山陽線南約200m地点の櫨1:玉商ブログ>高瀬通しのハゼの木と玉島往来 より転載
 山陽線南約200m地点の櫨2     山陽線南約200m地点の櫨3:いずれもGoogleMap より:2021/12撮影画像
3.さらに南へ約200mの地点(玉島バイパス北約200m)の櫨
 2025/12/13作成
 34.55892128983443, 133.67610366563753 に所在
  高瀬通し櫨の木1:高瀬通り沿いに残る櫨の木、手前の水路が高瀬通しであるが、一部は道路に転用され、狭くなっている。
  高瀬通し櫨の木2:櫨の樹齢萬治元年(1658)とある、いずれもGoogleMap より転載
    2025/12/18追加:
     櫨の木:
      延宝2年(1674)高瀬通し完成後、土手に植えられたという。昭和初期までは沢山あったが、今は2本しか残存しない。
      この櫨は幹周り約1m、高さ約2.5m、樹齢約350年。

2025/12/18追加:
 高瀬通しの「ルートと現状」については、
  このページ中の(90)サイト「倉敷市」>「たましまアーカイブ」の紹介2.備中玉嶋湊物語 より転載
    
>◇高瀬通しのルートと現況 に図版と詳細があるので、参照を請う。
       高瀬通しのルートを辿る

2025/12/18以下修正:「高瀬通しの舟溜まり」について、管理人(s_minaga)の誤認識があり、記述を修正する。
◇溜川のドラム缶橋

高瀬舟々溜まり・ドラム缶橋  溜川のドラム缶橋:左図拡大図
 溜川のドラム缶橋2
 溜川のドラム缶橋3
 溜川のドラム缶橋4
 ※ドラム缶橋は溜川の遊水池に架けられた橋であり、高瀬通しの舟溜まりとは無関係であると判明。
但し、この溜川は水門を介し、玉島港に繋がっていたようなので、ここに舟が係留されたいたことは十分考えれれるだろう。
何かの写真でこの溜川の舟が係留されてる写真を見た記憶があるが、その写真のことは失念し、定かではない。


2025/12/18追加:
◇高瀬通し舟溜まり跡
○サイト:倉敷市 > 文化・観光・スポーツ > 観光・魅力発信 > 観光情報 > みなと玉島空間 > 玉島ぶらっと > 玉島の史跡紹介 > 玉島の史跡紹介 常盤町・栄町・新地町(羽黒神社周辺) では次のようにいう。
所在:玉島中央町1丁目7ー10(新地町・豊島屋南)
  (※)玉島中央町1丁目7ー10(豊島屋南)とは「高瀬通し舟だまり跡」の説明板設置場所の住所である。
松山藩水谷候が玉島阿賀崎新田を開拓した万治寛文延宝にかけての約330年前、高梁川の水を入れた灌漑、水運両用の高瀬通しが船穂町水江の堅盤谷(カキワダニ)から糸崎七島を経て、玉島舟だまりまで91粁巾37米ー8.5米で開通された。
 (中略)
荷を積み下ろす舟だまりは、羽黒山東側のこのあたり(※)約10アール(※)の水域であった。
羽黒山北側に延びる水路は、新町裏側に通じ阿弥陀水門から舟は港に出た。
明治になってからは、港町に地下トンネルが出来、舟はそこから港に出た。
昭和になって、高瀬通しはその機能を失い道路となり、家並みが建ち現代に至った。
 (※)「羽黒山東側のこのあたり」とは、「高瀬通し舟だまり跡」の説明板設置場所付近をいう。
 (※)「10アール」とは1000uで、尺貫法でいえば約1反、坪でいえば約300坪である。
以上など参考に「高瀬通し舟だまり」の跡を探りと次のような結論となる。
 推定玉島高瀬通し舟だまり跡:Yahoo地図 より
 推定舟だまりは中央の(株)豊島屋本社・工場のある敷地を中心に、地図上に表示した@ABCDで囲まれた船底形の区画が「高瀬通し舟だまり」と推定される。
 1)Bは「高瀬通し舟だまり跡」の説明板が設置されている場所である。
 2)卍青瀧寺と表示している場所は明治の神仏分離の処置で羽黒山から下山し、新たに造られた新「清瀧寺」のある場所である。
  (現在では、清瀧寺は再び羽黒山上に復帰している)
 3)高瀬通しは玉島往来に沿って西側に掘削されていたが、この付近では埋めてられ道路の一部に転用されているようである。
  地図上、玉島往来の西側に「用水路」(水路)が描かれ、現地で見ると、石垣で築かれ「高瀬通し」の遺構のようにも見える。
  しかし、この「用水路」は高瀬通しではなく、「江戸末期の玉島港町分割支配略図」」などに見られるように
  「本所悪水川」の名残りであり、「高瀬通し」の遺構ではない。
 4)「本所悪水川」は水門を経て、玉島往来の下を暗渠で「溜川」と繋がる。
  また、「溜川」は水門を経て、玉島港と繋がる。

◇近世玉島の成立と干拓、玉島港の繁栄
○「岡山の港」岡山文庫65、巌津政右衛門、日本文教出版、昭和50年 より
 古代から中世の瀬戸内航路は児嶋の北側を通るものであった(児嶋は当時は嶋であった)。そして西行きの船は児嶋の北を通り連島の北を通り、さらに船は乙島と柏島の間を南下し、水島灘に出るものであった。(連島・乙島・柏島も往時は嶋であった)。
 中世末期には藤戸海峡(児嶋の北)は通船不能となり、児嶋の南が瀬戸内航路となる。
寛永6年(1629)連島の北面新田と西阿知の河内新田が開発され、連島は陸続きとなり、東高梁川の流路が決まる。
寛永元年から正保元年(1645)の間に長尾新田・船穂新田が完成し、萬治2年(1659)爪埼・上成・古水門までの干拓が完成し乙島が陸続きとなる。つまり西高梁川の流路が決まる。
さらに寛文4年(1664)水谷氏は矢出から羽黒山の達する新堤と羽黒山から糸崎橋(※)までの堤防を築き、諸所に水門を設ける。
 (※)糸崎とはよく分からないが、これは、あるいは「爪崎」の誤植であるかも知れない。
これにより、現在の通町・本町・団平町・矢出町・中島などの開発が進む。
寛文8年(1668)西高梁川右岸を検地し玉島村と命名、上成と爪崎を玉島村の枝村とする。
寛文11年水谷勝宗、阿賀崎新田を完成させ、同時に玉島西部に港を作る。この玉島港は旧乙島と旧柏島に挟まれた南北の長い港であり、現在もこの形を引き継ぐ。
 阿賀崎新田の築堤は長さ約400m、幅約50mで、築堤上には港問屋の屋敷割がなされ、海岸沿いにはナマコ壁の倉庫が並ぶ景観となる。この問屋街は後に新町と呼ばれ、問屋ははじめ10軒であったが元禄年中には43軒を数える。
さらに港湾の浚渫を行い、千石船の接岸及び出入りが可能となる工事も実施する。
 また萬治2年水谷勝宗は浅口郡水江(船穂水江)に堰堤を築き、水門・閘門を設け、船穂・長尾を経て玉島に至る延長約10kmの新川を掘り、高梁川を往来する高瀬舟を新川に導入する。
新川は「高瀬通し」と称し、新地町の南端から暗渠で連絡が可能であった。
高瀬舟は松山藩の蔵米を、また備中奥地の物産を玉島に運び、帰り荷には塩や肥料を積んで帰った。
まさに玉島は松山藩の外港の役割を果たす。
玉島港には阿波の藍問屋の船がよく入港し、近畿・九州方面の船も入港した。
江戸中期には日本海を西下し、関門海峡を通る北前船の入港が盛になる。
北前船はニシンの〆粕(しめかす)を主とし、これは玉島付近の主生産物であった綿の栽培に必要な肥料であった。玉島港からの積み荷は塩・綿などであった。
九州方面からは菜種などが着荷で、積み込みは綿であった。
 しかし江戸後期には入港する船の数が減少する。
これは年々流入する土砂で港が浅くなったこと、他港との競争激化、綿の品質低下(水を含ませ量目の嵩上げ)が原因といわれる。だが北前船は明治になっても入港し、玉島近郊の綿作は明治20年ころまで続く。
 明治24年7月山陽鉄道線が岡山以西に開通し、玉島港はその地位を追われ、ほぼ命脈を絶たれる。
○「たましま 歴史百景」玉島テレビ放送、2017 より
 ※備中玉島と言えば、備中松山藩(水谷氏・板倉氏に代表される)支配の印象が強いが、決して松山藩一藩の支配ではなく、幕府領(倉敷代官所か)・諸大名の分割支配が実体であったことに留意すべきであろう。
近世玉島の領土・大名支配の実体は次のようである。

◇近世玉島の支配関係
 ●旧玉島市享保14年大名領有関係図:享保14年:1729年
 寛永19年(1624)松山藩主であった池田氏が無嗣断絶した後松山は天領であったが、水谷勝隆が松山藩主となる。
以降水谷氏は、3代51年に渡り、高梁川下流の干拓し約一千町歩の土地を広げ、高瀬通しを築き、玉島港を整備し、玉島の繁栄の基礎を築く。
しかし、水谷家5万石は無嗣断絶する。松山藩領は天領となる。
元禄8年(1695)安藤重博が松山藩主になる。玉島・柏島の一部も松山藩領となる。
正徳元年(1711)石川総慶が松山藩主となる。
延享元年(1744)板倉勝澄が松山藩主となり、以降廃藩置県まで8代125年支配が続く。
一方
元禄15年(1702)天領となっていた乙島・阿賀崎・柏島などが浜松藩本庄氏の所領に加えられ、さらに上成・長尾・爪崎・玉島の一部・勇崎の一部は丹波亀山藩の所領となる。本庄氏の領地は再び天領となるが、亀山藩は青山氏46年間・松平氏121年の間存続する。
亀山藩は陣屋を玉島五軒家(現在の玉島2丁目、小字山下町)に置き、年貢の徴収のあたるという。
 丹波亀山藩陣屋跡1     丹波亀山藩陣屋跡2:GoogleMap より、向かって左の建物は上本町集会所と思われる。
  ※丹波亀山藩玉島陣屋:玉島五軒屋(34.541801896798646, 133.67498248820763)にあり、現在は稲荷明神となる。
  ※直下に「丹波亀山藩陣屋・補足」の記事を追加。(2025/12/20)
 富田は寛永9年(1632)備前岡山藩池田光政の領地となり、岡山藩は七島に領内の農民8名を移住させ、七島の北側を干拓し新田を開発する。
また光政は道越・七島・島地などを開拓し、寛文12年(1672)それらの領地を次男池田政言に分与し鴨方藩を立藩する。
その結果、富田は、富・道口・亀山が岡山藩、道越・七島・島地が鴨方藩として、また穂井田の陶・服部は備中岡田藩として幕末まで存続する。
 以上玉島の支配関係は幕府・諸大名の複雑な「まだら模様」であったが、玉島港の商業街区は特に「入り組んだ」ものであった。
この複雑さが、玉島港が江戸後期に衰退していった一つの要因と考えられる。
  ※次の項はサイト:「玉島歴史館」>「新玉島歴史散歩」>「14.玉島湊の衰退」による。
 以上の考察のように、元禄15年(1702)玉島港の商業街区は天領・松山領・亀山領と三藩による分割支配地となり、明治維新までの約160年間にわたって続くこととなる。
その結果、玉島港及び港町は「三ヶ領軒並入組」として運営されることとなった。
  ●玉島湊町付近分割支配図
 天領(倉敷代官支配):    阿賀崎村のうち、新町・南町・仲買町
 松山領(安藤→石川→板倉): 玉島村のうち、中島町・矢出町・団平町・土手町
 亀山領(青山→松平):    玉島村のうち、本町・通町・山下町

2025/12/20追加:
◇丹波亀山藩陣屋・補足
○サイト:「城下町と罪びと」>「岡山県丹波亀山藩玉島陣屋」 より
 丹波亀山藩は備中国の飛び領、浅口郡七カ村で一万二千石支配の目的で、水運の便を得やすい備中国浅口郡玉島五軒屋(倉敷市玉島2丁目、通称・玉島山下町)に奉行所(役所)陣屋を置く。
 玉島には、亀山藩から僅か五〜六人の役人を派遣していたとのことであり、備中に赴いた役人は、奉行一人、代官一人、他に用人三人程であり、その他の用人は現地の人々を雇い入れたという。
 ※「新修倉敷市史 第3巻」の口絵に「甕港略量之図」(三宅正堂家文書 460頁)があり、そこには山下町付近に「亀山御役所」の表示があるという。
 さて、この亀山藩陣屋であるが、その絵図が残されているという。
それは、「岡山県立博物館だより 58号」に所収の「資料あれこれ “御陣屋惣建物之図”の正体は」で明らかにされたという。
○「資料あれこれ “御陣屋惣建物之図”の正体は」(「岡山県立博物館だより 58号」2002.11 所収) より
 館蔵資料のなかに、「児島郡山田村御陣屋惣建物之図」の名称で登録されている1枚の絵図 (71.4×114.3) がある。
この資料の入っていた袋の表題からこの名称で登録されたと思われる。
この絵図には、陣屋の「御殿」のほかに、「御代官部屋」や「牢屋」などの建物が描かれ、かなり整った屋敷の構えである。
しかし、岡山藩領児嶋郡山田村の陣屋にはこのような整った陣屋が存在しない。
だとすれば、この絵図の屋敷はどこの屋敷なのであろうか。
 「甕港略量之図」という絵図が『新修倉敷市史』第3巻に一部写真で掲載されている。
このなかに描かれている亀山御役所が、その敷地の形状や道路・門・神社の位置などほぼ同じということが判明する。
絵図の中に寺澤・田辺・金田・高見などの人物名が記されていて、亀山藩の資料から玉島陣屋詰の役人に同姓の人物がいることが分かる。
以上から、この絵図は丹波亀山藩玉島陣屋と考えて間違いないと思われる。
 御陣屋惣建物之図:図版が小さく截然としないが、かなり大規模な屋敷であったと推定される。
  天保二年(?)の年紀も見え、幕末のものであろう。
  この図面自体の方位が不明であるが、鳥居のマークがあり、この社が現存する稲荷大明神だとすれば、
  付近一帯が陣屋であったと推定される。
  「甕港略量之図」:『新修倉敷市史』第3巻に掲載。
   但し、新倉敷市史 巻3 は未見であり、画像は孫引きであり、これまた截然としないが、現在の地図tぽ対比して見れば、
   亀山藩陣屋は上本町と山下町の境界にあったようで、陣屋の屋敷割は現地に残っているように見えなくもない。
   しかし、現地は未見であり、確かなことは分からない。
最後に、本ページに「長尾の百姓一揆」の記事があるので、そのまま転載する。
新田開発も結局は”封建領主の農民数収奪の手段」であったのであろうか。
≪参考≫
□長尾の百姓一揆
 これは玉島付近に残る唯一の百姓一揆。
宝暦2年(1752)長尾村の小作人は飢饉で苦しみ、大地主二家に小作料の減免を願うが受け入れられず、二家の家屋を破壊した。
後の代官所(丹波亀山藩の陣屋で玉島五軒屋にあった)による厳しい取り調べの中、二人の青年(新四郎23歳、利兵衛19歳)が主謀者として名乗りでて、罪を一手に引き受け、死罪を執行されることになった。
村民は宝満寺住職に減刑を願ってもらおうと、処刑場の高梁川狐島河原へ運んだが、駕籠到着時には、処刑は終わっていた。
村民は、この様子を長尾神社から見ながら、二人が赦免されることを祈った。
その後長尾善昌寺の梵鐘に二人の法名を記し、境内の牛頭天王社内に霊を祀った。
  玉島風土記:森脇正之、ザ玉島:ホームページ

2025/12/18追加:
●玉島の干拓の進展、玉島の支配関係、「三ヶ領軒並入組」、玉島港町の概要などについては
  このページ中の(90)サイト「倉敷市」>「たましまアーカイブ」の紹介1.甕ノ海物語 より転載 の項
    に多くの図版の掲載があるので参照を請う。


(1.2)柚木家(西爽亭) :2025/12/12追加(2025/03/14撮影:

○「玉島旧柚木家ゆかりの人々」岡山文庫287、倉敷ぶんか倶楽部、日本文教出版、平成26年(2014) より
 柚木家の先祖は浅口郡亀山村に住していたとも丹波亀山から来住したとも伝える。
寛文年中(1661-)海面を干拓し新田を開発し、公府に出資し、富を蓄えたという。
水谷氏の後を襲封した板倉氏松山藩でも重きをなし、天明元年(1781)には松山藩板倉家の「内用向」を命ぜられたと記録される。
この時の柚木家当主は美重で、美重を玉島での初代とすれば、2代は美啓(弥一郎)、3代は武啓と続き、松山藩での格も上がり柚木家の資産を増殖させる。
4代は満啓(子啓、3代武啓の子)は享和4年(1801)に生まれ、24歳で柚木家を相続、馬廻格、吟味格、奉行格と進み、100石を禄する。嘉永4年(1851)に没す。
満啓の次が行啓(通称久太郎、玉州と号す)であり、文政8年(1825)に生まれ、明治34年没。
玉州の後が柚木玉邨で、実業家と同時に南画家であった。玉邨は柚木家分家の出であるが玉州の養子となる。
玉邨の長男は柚木久太であるが、久太は洋画家であった。明治18年〜昭和46年。
久太の長男が8代目柚木祥吉郎であり、かれも洋画家であった。平成17年(2005)没。
9代(現当主)は爽一郎である。
 ※※久太の二男(祥吉郎の弟)に柚木沙弥郎がいる。
沙弥郎は直接的に玉島とは縁がない(強いていえば、前後まもなく一時期倉敷大原美術館に勤務する)が、著名な染色工芸家であった。大正11年(1922)東京生まれで、2024年100余歳で没する。
 ※※本著には沙弥郎がについての言及がないので敢えて追記する。
 ※※沙弥郎については「柚木沙弥郎 PROFILE」を参照。
  
◇西爽亭
 西爽亭は本来柚木家本宅を呼称したものであったが、現在では、御成門・式台・取次之間・次之間・上之間・湯殿・厠・茶室・庭園を一括して西爽邸と呼ぶ。この部分は平成5年に倉敷市へ寄贈され、国の登録有形文化財に指定さる。
 この部分は、天明年中(1781-1789)の建築と伝えられる。
寛成年中から松山藩主はしばしばこの「西爽亭」を領内巡視の折の宿泊所としたという。
なお、慶應4年鳥羽・伏見の戦いのとき、藩主板倉勝静は幕府老中であり、松山藩重臣・熊田恰は藩主の親衛隊長として京・大阪に随行する。
鳥羽・伏見の戦いのでは敗戦し、松山藩は朝敵となる。藩主板倉勝静は敗戦後、大坂から江戸に将軍とともに逃れるが、熊田恰他100数十名の藩士たちに松山には帰藩を命ず。
 恰たちは備中松山を目指し、まずは玉島に上陸するも、ここで謹慎処分となる。
玉島を官軍岡山藩が包囲するなか、松山藩は熊田恰の切腹で、帰順することを決し、恰に切腹を命ず。
恰はかくして、西爽亭・次之間で切腹する。

2025/12/12追加(2025/03/14撮影):

西爽亭  西爽亭平面図:現地で入手したルーフレット より
御成門:薬医門、屋根本瓦葺、
式台玄関:幅:2間、
取次の間:6畳間、次の間:10畳間、上の間:10畳間とある。

 西爽亭御成門
 西爽亭式台玄関
 西爽亭式台玄関2
 西爽亭取次の間
 取次の間・次の間
 西爽亭上の間1:左図拡大図
 西爽亭上の間2
 西爽亭欄間彫刻
 西爽亭茶室
 西爽亭庭園
 西爽亭黒松


(1.3)旧玉島市繁華街:2025/12/12追加(2025/03/14撮影

 現在、旧玉島の中心は玉島港界隈から、新倉敷駅周辺に移った感がある。
玉島港界隈も戦後の高度成長がはじまる頃までは、商店街は活況を呈し、港町付近にあったバスセンターからは岡山・倉敷、玉島駅・船穂方面をはじめ、金光・鴨方・笠岡、黒崎などの東西南北各方面のバスが発着し交通の要衝の感を呈していたが、現在の玉島港界隈は「昭和の残像」を残す「ノスタルジックな街」に変貌している。
往時の玉島の繁華街として、通町(これは旧々の国道2号線という)と羽黒山下の「玉島銀座」がある。

玉島通町現況 ◇通町古写真
 繁華街・通町1:年代不詳、サイト:「倉敷今昔写真展」 より転載、通町と推定される。
 繁華街・通町2:「玉島要覧」口絵、昭和13年 より転載、昭和13年以前の写真であろう。通町と推定される。
 昭和館・広告:「玉島要覧」昭和13年 より転載、通町にあった映画館の一つである。
2025/03/14撮影:
 通町商店街1:商店街入口、12時47分撮影
 通町商店街2左図拡大図:14時12分撮影
 通町商店街3:14時12分撮影

羽黒山下には繁華街「玉島銀座」がある(あった)。
 玉島銀座・器楽堂老舗:現在も商を継続されている。
◇古広告
 器楽堂・広告:「玉島要覧」昭和13年 より転載


(2)丸山住吉社石階

丸山住吉社石階の踏石は基本的に「一枚石」の踏石からなる石段である。

丸山住吉社石階・見下げr>

丸山住吉社石階・一枚石2
2015/09/14撮影:
 丸山住吉社石階見上げ
 丸山住吉社石階見下げ:左図拡大図
 丸山住吉社石階一枚石1
 丸山住吉社石階一枚石2:左図拡大図
 丸山住吉社石階石碑1
 丸山住吉社石階石碑2:宝暦2年(1752)に水谷社が建立されたとある。
水谷社の詳細は不詳であるが、水谷社は現在、羽黒権現社の境内社としてある。
そこの現地説明板では次のように云う。(大意)
「水谷神社
 祭神:水谷伊勢守勝隆、水谷左京亮勝宗、水谷出羽守勝美
 由緒:三百有余年前、備中松山五萬石城主水谷三代に依って半世紀にわたり玉島浅口平野の一大干拓が完成、玉島港構築が企画され、高梁川全域を改修、高瀬通し(閘門式運河)が造られ、港は商港として繁栄する。以上の業績に鑑み、宝暦二年(1785)四月、玉島住民によって水谷社が創建される。」
情報がなく、はっきりしないが、現在は羽黒権現社の境内社であるが、水谷社は当初丸山住吉社に創建されたのかも知れない。
2023/07/12追加:
○「たましま 歴史百景」2017 より
大正2年水谷神社は羽黒神社境内に遷される。

 仲買町俯瞰:丸山より仲買町を俯瞰、手前左の洋風建築は旧・玉島信用組合ビルヂング、本建物は昭和10年「有限責任玉島信用組合」として建造され、その後、玉島商工会議所として使用される。現在は地元企業が所有。当時のままの外観を保持という。

丸山住吉社石階の踏石は基本的に「一枚石」の踏石からなる石段である。
各種情報を総合すると、
寄進したのは備中松山藩主水谷勝美であり、元禄2年(1689)玉島湊築造祈願の為(現地の石碑)という。
 ※水谷勝美:水谷勝宗の長男。寛文3年(1663)生まれ。元禄2年(1689)備中松山藩主水谷家3代を襲封する。元禄6年(1693)10月6日逝去。31歳。
おそらく、この時に丸山住吉社も勧請されたものと推定される。
 ※住吉社であるから航海・湊の安全を祈願し、祭神は底筒男命(そこつつのを)・中筒男命(なかつつのを)・表筒男命(うわつつのを)の住吉三神であったのであろう。
明治維新後、国学者や復古神道家の狂気で、寺院・神社は淘汰される時代となる。
大正5年丸山住吉社は羽黒神社に合祀される。(同時に町内各所に散在していた祠も合祀されるという。)
従って、現在住吉社は丸山には存在せず、跡地は公園に転用される。
GoogleMapなどで確認すると、跡地には石燈籠、小祠、手水石(文化元年/1804年紀)のほか英霊招魂碑・魚霊搭などが現存する。
 ※手水石には文化元年(1804)の年紀があり、おそらく今はない丸山住吉社の遺構であろう。
 ※英霊招魂碑は国家神道の残滓で未だに懲りない面々が固執する施設である。
 例えば、直近のニュースで、嘘で塗り固め、声高に戦前回帰を唱えた某政治家の「留魂碑」が
 同じ穴の貉によって奈良市三笠霊園に設置され、「この留魂碑を通して新たに多くの種がまかれ育っていくこと」を見守る
 といったことが報じられたが、今現在も同じ懲りない面々が跋扈している。
 ※魚霊搭は昭和14年佐藤和平の建設である。
 「玉島要覧」(昭和12年)によれば、
 佐藤和平は魚問屋「中屋」(天保3年創業)の5代目であり、玉島魚市場「佐藤和平商店」を経営する。
 本魚市場は県下水産界においてその設備・取引高で王座に君臨する。
 その本邸・営業部は住吉山下にあり、数萬金を投じ、近年新築落慶す、という。
 なお、現在は不明であるが、毎年「魚霊塔」前で「魚霊祭」が「中屋」によって、少なくとも昭和後期まで、挙行されていた。
以上のように、
丸山住吉社は羽黒神社に合祀されるも、水谷勝美寄進の一枚石の石階はほぼ寸分の狂いもなく、現存する。
  ※※本石階は間違いなく、その整美さで、玉島随一の文化財であると評価できるものである。
住吉社石階の法量などは次のサイトに記載がある。
○ページ「史跡に学ぶ・玉島の歴史 住吉神社石段」 では
 「住吉神社石段は、元禄2年(1689)玉島港築造祈願のため建立される。祈願者は備中松山藩主水谷勝美である。石段は石段の幅、3m、横の石幅、27cm*2 全、3m54cmで95段ある。3mの一本石の石段は他になかなかない立派なものである。北前船で栄えた玉島を象徴している。」とある。
 少々分かり難いが、石段の1個の石は幅10尺(3m)の一枚石でできていて、95段あることが知られる。
但し、95段全ての踏石が一枚石ではなく、上部の1/3程の石階は、石材の不足などの理由で、2枚の踏石の組み合わせである。
○ページ「玉島路地裏探検−PART1・秋葉町の巻」 ※2025/12/12リンク切れ では
 「備中33観音石碑が御出迎え
石段が見えると思う。羽黒神社石段(注:元の住吉社石段が正)で元禄2年(1689)玉島港築造祈願のため水谷勝美侯の寄進で建立される。石段の幅、3mあり、横の石が横の石幅、27cm*2、合計3m54cmの石段で95段ある。このサイズの石段はあまり類がない石段である。三叉路からは、仲買町、住吉神社石段、そして「備中33観音石碑」が参道入り口である。」とある。
 備中33観音石碑というのは不明であるが、現地にそのような石碑があるものと推測される。新しい石造の祠があるのでそれを指すものかも知れない。


(3)玉島の日蓮宗寺院

次の寺院がある。
  →屋守佛乗寺・同所法福寺
  →黒崎妙立寺
  →乙島玉谷宣妙院


(4)柏島天満町法華題目碑:2012/11/20追加

碑文より、享保15年屋守佛乗寺18世日融上人の発願で建立されたものと推定される。

2017/10/08撮影:

 天満町題目碑00:左図拡大図

 天満町題目碑01

2012/11/10撮影:
天満町題目碑1:「南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩 四百五十年忌 御報恩」
 ※日蓮上人450年遠忌の報恩塔である。450年遠忌は享保16年(1731)と思われる。
天満町題目碑2
 ※民家と比較して分かるように相当な大型の題目碑である。
天満町題目碑3:向かって右側面:「願主堺之住人■(頌)■(日?)■(受?)三千ヶ寺参詣成就」
 ※堺の住人何某が3000ヶ寺参詣成就とある。
天満町題目碑4:裏面:「發願者佛乗寺■(十)八世■(日)■上人 ■(享)保十■(五)■■ 7月十三日」
 ※発願は仏乗寺18世(仏乗寺歴代譜によれば18世は日融上人、享保15年11月68歳にて遷化)であり、
  年紀は享保15年とある。
天満町題目碑5:向かって左側面:「■■(辰)之年中大坂失火焼死之霊魂諸国■之■(旲?)魂■(自)■■」
 ※他の年紀および「「■■(辰)之年中」から「大坂失火」とは享保9年(甲辰・1724)の「妙知焼け」と推定される。
  「妙知焼け」とは享保9年3月21日午の刻(正午)、南堀江の金屋治兵衛の祖母妙知尼宅より出火、翌22日申の刻
  (午後4時)まで燃え続ける。大坂三郷の2/3の408町が焼失する大火であった。
以上等を総合すれば、この大型の題目碑は、享保15年屋守仏乗寺18世日融が、日蓮上人450遠忌、堺住人何某の3000ヶ寺参詣記念、および享保9年の大坂大火の焼死者にたいする慰霊のため、この地に建立されたものと推定される。
この碑は旧道に面した丘側(西側)に建つ。今この碑の建つところの旧道東側(海側)は人家が建ち、さらにその東側も昭和40年代頃港が埋め立てられ新道が作られ、港を往来する船からは見えなくなっている。
しかし、建立当時は当然昭和戦後の新道はなく、さらには旧道東側はすぐ港(海)であり、玉島港に出入する船から良くみえたのではないだろか。さらにこの界隈一画は遊郭であったといい、かなりの賑わいがあり、碑の建立の好地であったように思われる。
2013/01/15追加:
「日樹上人傳」原田智詮、昭和36年 では以下のように述べる。
「享保15年7月13日発願者仏乗寺18世日融上人」願主の三千ヶ寺参詣成就を遂げた順海日受は日蓮大菩薩450年忌を兼ねて、享保9年3月大坂の大火に焼死の諸霊の為、玉島天満町に高さ11尺5寸(3.48m)の供養塔を建立。
 ※以上から、向かって右側面:「願主堺之住人■(頌)■(日?)■(受?)三千ヶ寺参詣成就」は「願主堺之住人順海日受三千ヶ寺参詣成就」と知れる。
 裏面:「發願者佛乗寺■(十)八世■(日)■上人 ■(享)保十■(五)■■ 7月十三日」は「發願者佛乗寺八世日上人 保十年 7月十三日」と知れる。


(5)備中玉島羽黒山清龍寺

遠く西国(備中玉島)に羽黒権現が祀られる。
玉島羽黒権現は江戸期に関東の大名が西国に転封され、その大名によって羽黒権現が勧請され、本来は羽黒権現の信仰圏でない地に祀られたケースと思われる。
※その大名は常陸下館藩から備中成羽藩を経て備中松山へ移封された水谷氏である。

出羽羽黒大権現と比べると比較にならない規模ではあるが、ここでも明治の神仏分離の影(蛮行)が見え隠れする。

現在羽黒権現のある地は羽黒山と呼ばれる碗状の小丘である。
 (※ここでも羽黒権現は明治の神仏分離の処置で羽黒神社と改号される。)
干拓で陸続きになる前は乙島・柏島の2つの島に挟まれた「阿弥陀山」と伝承?する小島であったと云われる。
万治元年(1658)備中松山藩主水谷勝隆が玉島地方の干拓に際し、阿弥陀山上に出羽国羽黒大権現を勧請する。
 (あるいは水谷氏の本貫地常陸下館の羽黒権現を勧請したとも云う。)
 ※因みに、水谷氏は備中移封前は常陸下館を領していたが、下館に於いても、初代下館城主水谷勝氏は羽黒権現を勧請し、
同時に羽黒大権現別当天台宗清瀧寺を建立すると云う。但し、羽黒権現は羽黒神社として現存するも、別当清瀧寺は明治の神仏分離の処置などで廃寺となる。
寛文5年(1665)第2代藩主水谷勝宗、社殿を改築、阿弥陀山東斜面に別当羽黒山清瀧寺を建立する。
清瀧寺初代別当には京都青蓮院仙海和尚(勝隆実弟)を招じ、開山とする。
 なお現在の羽黒権現社殿は嘉永3年(1845)、幣拝殿は安政4年(1852)の再建という。
その後の清瀧寺は以下のように変遷すると推測される:(資料不十分のため推測)
 玉島羽黒権現付近地図
  2025/12/18追加:本図で、新清瀧寺の東側の「一郭」が高瀬通し舟溜まりの跡である。但し今は埋め立てられ全く面影はない。
   「一郭」とは上田タンス店からいづみタクシー・タテソース豊島屋・その南の一棟を含む船底型の約1反(約300坪)の区画である。
明治の神仏分離の処置で、羽黒権現は羽黒神社と改号、羽黒山東参道途中にあった清瀧寺(旧清瀧寺)は羽黒山を下り、羽黒山北側すぐの地に移転 し新に清瀧寺(新清瀧寺)を建立する。(推定)
羽黒山東参道途中にあった旧清瀧寺の建物(山門・本堂)はそのまま残され、公共施設?や学校?などに転用されたと思われる。
その後120年前後の時が経ち、近年(少なくとも昭和後期あるいは平成の初期)になり、下山した新清瀧寺は旧地(羽黒山東斜面参道途中)の旧清瀧寺に移転つまり復帰し、旧清瀧寺建物(山門・本堂)が再び清瀧寺として使用され復活していると思われる。
なお清瀧寺が羽黒山の旧地に復帰した後の新清瀧寺の境内・堂宇もそのまま清瀧寺として残存する。
2023/05/14追加:
○「玉島要覧」安藤嘉助、玉島町玉島商工會、昭和12年 より
◇郷社羽黒神社
 祭神は玉依姫、相殿はスサノウ・大国主である。
  ※スサノウが相殿とあるので、明治維新の神仏分離令で付近の牛頭天王が配され合祀されたものと推定。
萬治元年(1658)備中松山藩主水谷勝隆がこの地方の干拓を企図し、舊領地常陸下館に出羽羽黒山の分霊を勧請し羽黒宮と稱していたのを、更にこの地に移祀し、開墾の成就を祈願し、更に工成るに及んで、寛文5年(1665)水谷勝隆の嗣勝宗が社殿を改築し、羽黒大権現と稱へ、祈願所とし、新たに一寺を建立し、清瀧寺と命名し、別當と為す。
明治3年神仏分離の処置で羽黒神社と改号する。
 ※この時、羽黒権現は国家神道丸出しの玉依姫とされたと推定され、祭神とされる神々も国家神道に翻弄され、崇敬の念など微塵もないことに苦笑していることであろう。
◇清瀧寺
 山号は羽黒山、天台宗叡山派(比叡山末)、玉島榮町に在る。元は羽黒山上に在りしを、神仏分離の蛮行で、羽黒山北麓の現地に遷したものである。
羽黒山は承和年中慈覚大師が渡唐の時、阿弥陀の尊像を造って安置せし山で、元の名を阿弥陀山と称していた。
 ※清瀧寺創建の由来は上記の羽黒神社の項に記載の通りである。
開山は仙海、水谷伊勢守(勝隆)の子(弟?)で東叡山寛永寺天海の弟子である。
本尊は旧阿弥陀山に在った尊像である。(※慈覚大姉作の阿弥陀仏か?)
2023/07/12追加:
 備中玉島羽黒権現は、小規模ながら、明治維新の神仏判然令に基づく所謂「神仏分離の処置」が型どおりに行われたのであるが、近年、珍しくも、いったんは下山した別當(寺院)が神仏分離前の場所に「復活」「再興」されたようである。但し、それは、分離された寺院(青龍寺)がもとの場所に復帰しただけであり、分離された神社(羽黒神社)が廃され、神仏分離前の羽黒権現に復した訳ではない。
 明治維新前の玉島羽黒権現は、仏体(本地である聖観音・阿弥陀如来・大日如来かあるいはその内の1体であろう)が祀られていたものと考えられる。
ところが、明治の神仏分離の処置の結果、現在では「郷社羽黒神社の祭神は玉依姫、相殿はスサノヲ・オオクニヌシである。」(「玉島要覧」)という。
明治の神仏判然令で、神仏は分離され、権現は廃されて神社に改組、羽黒神社と改号、祭神には記紀神話の神と取替られ、復古神道の神社が捏造された典型例である。
なお、羽黒権現の仏体がどのような仏体で、そしてどのように処置されたのかは、常識的には清龍寺に遷されたと考えられるが、手持ち資料にはその記載がなく、分からない。
ただ、一般的な神仏分離の処置では別當(寺院)は廃寺となり、その姿を消すが、玉島羽黒権現の別當清龍寺は、山下北方に下山・移転され、廃寺は免れる。さらに加えて、上述のように、平成の前後であろうが、神仏分離でいったん下山した寺院(青龍寺)が再びもとに在った場所に復帰したようである。
蓋し、非常に珍しい例というべきであろう。稀有の例というべきであろう。
よって、ここに特記する。
但し、神社(羽黒神社)が廃され羽黒権現が復活した訳ではないことも再度付記しておく。
2005/05/04撮影:
 旧/現羽黒山清瀧寺:羽黒山東参道に復帰した清瀧寺。この境内・建物は神仏分離前の清瀧寺の境内・建物と云う。
 旧/現羽黒山清瀧寺山門:天台宗・清瀧寺の扁額を掲げる。
 新羽黒山清瀧寺2:維新後に移転した地に残る堂宇
2007/03/17撮影:
 旧羽黒山清瀧寺1
 新羽黒山清瀧寺山号碑
2013/03/17撮影:
 羽黒権現東参道:向かって右中段に旧/現清瀧寺がある。      旧/現羽黒山清瀧寺2
 新羽黒山清瀧寺3     新羽黒山清瀧寺4
 :新清瀧寺境内には、移転後も、羽黒山清瀧寺石碑、鳥居、本殿(本堂)、観音堂(推定)、庫裏、法華石塔、護摩殿合天井寄進石碑が残る。
2014/09/27撮影:
 新清瀧寺石柱     新清瀧寺本堂     新清瀧寺観音堂     新清瀧寺法華塔     旧/現清瀧寺石垣


(6)天台宗玉谷圓乗院

   → 備中玉島圓乗院


(7)曹洞宗圓通寺

   作成予定


(7.1)矢出真如庵 :2025/12/12追加(2025/03/14撮影)

○「玉島要覧」安藤嘉助、玉島町玉島商工會、昭和12年 より
真如庵
 乙島矢出山にあり、曹洞宗の庵であり本尊は阿弥陀如来、安政7年(1860)の創立にかかる。
  ※安政7年の創立とは、真如庵が天台宗円乗院の末寺真如院となったことをいうようである。

○「良寛さんと玉島」岡山文庫161、森脇正之、平成5年(1993) より
 ◇法妹義提尼(義貞尼)
 義提尼は良寛とともに最後の國仙の法弟として印可の偈を与えれら尼僧であった。
  ※印可の偈(げ):禅宗では、師が弟子の悟りの境地を認め、正式に禅僧として免許を与える際に授ける漢詩(偈)のこと。
義提尼は宝暦11年(1761)播磨西溝村の産、幼少の頃与井村実相庵で出家、20歳の時真如庵に住し、圓通寺國仙の弟子となり修行に励み、良寛とともに印可の偈を受ける。
 真如庵は元々天台宗であったものを國仙が現在の地に再興した寺院であり、國仙の弟子國文、稀鈍、義提尼が相次いで住する。
また義提尼は國仙の舎利と國仙の法語集「肉暖集」を所持し、毎年開山忌を修し、文化5年(1808)國仙の宝篋印塔(高さ2.8m)を建立する。
 真如庵堂舎:おそらく本堂・庫裡であろう、この堂舎は取り壊されて現存しない。1993年ころまでは存在していたということであろう。

○ページ:「玉島中央町・周辺1・真如院(旧名真如庵)」 より
 旧真如庵は円通寺の末寺ではなく、国仙和尚が眠る長連寺の末寺であり、曹洞宗であった
良寛が国仙和尚から印可の偈を受けたと同じ頃に、国仙和尚から印可の偈を受けた義提尼は享和3年(1803)に42才で(実相山)真如庵の庵主となり、建物の大修理を行い文政5年(1822)托鉢によって得た浄財で国仙和尚の供養追善の高さ8尺5寸(2.5m)の宝篋印塔を建てる。
義提尼は天保8年(1837)長尾の一草庵で示寂するも、葬儀は本寺長連寺仙宗の導師で執行され。真如庵境内に葬られる。
安政7年(1860)真如庵は天台宗円乗院の末寺の真如院となったという。

○真如院境内地蔵堂前方に設置された「旧名真如庵」案内板 には 次のとおり記されている
旧名真如庵
 安永7年 国仙和尚は当時廃庵となっていた旧蹟に 真如庵を再興し 義提尼を住庵させた 良寛が円通寺へくる前年のことであった
良寛と義提尼は寛政3年(1791)の冬10月の頃あいついで国仙和尚から印可の偈を許された
文政5年の初冬 義提尼は托鉢で集めた浄財で 真如庵境内に 国仙宝篋印塔を建立した 天保8年6月9日 76才で示寂 真如庵に葬られた
2025/12/12追加(2025/03/14撮影)
 真如庵は西爽亭の裏山(西爽亭の南側)直ぐにあり、さらに南に登ると、玉谷圓乗院に至る。
 真如庵境内:かつては真如庵本堂庫裡と思われる堂宇(堂舎・坊舎)があった場所と思われる、おそらく無住となり、老朽化が進み、取り壊され更地となり整備されたと思われる。なお中央の遠方の山は遥照山である。
 真如庵地蔵堂1:中央が地蔵堂、石像を祀る小祠2宇、宝篋印塔(國仙供養塔?)、常夜燈3基(1基は文化8年銘)、手前には石庭の残部?などがある。
 真如庵地蔵堂2
 義提尼印可の偈:「附義貞禅尼 非男非女丈夫 子 不鬼不神小 尿児 爲附山形 爛藤杖 要看 撃砕宝珠*时(時)」、
「寛政二年(1790)庚戌冬」、「寛政二庚戌冬 水月老衲仙大忍(花押)」と刻す。
 國仙宝篋印塔:右は法華塔
 「大忍仙老和尚塔、文政五年(1822)午初冬、大乘妙典 讀誦千部 信念堅勝 菩提圓滿、當菴主 義提謹建」と刻する。
 宝篋印塔・法華塔ほか
 法華塔には「法華塔」「文化六(1809)巳仲春日 當菴主 義提謹立」「銘曰 石書全部 讀誦一千 佛身成就 利益無邉」と刻する。
 真如庵歴代墓塔:右から開山禪谷大和尚塔(安永七戊戌九月十◯日)、當菴中興松林義提尼首座の墓塔。
 さらに海會塔・同會塔とあるから歴代墓塔であろう。


(8)柏島薬師堂

2017/10/08撮影:
柏島天満町題目碑からおよそ5町北(稲荷町)に柏島薬師堂がある。
 現柏島薬師堂:元は背後の石階を上った堂屋敷にあった。現薬師堂より一回り大きい堂宇であったが、何時しか腐朽し、取り壊され、石階下に小宇として再建され、堂内の仏像も遷座したものと推定される。
石階手前には宝暦14年(1764)の石造地蔵菩薩坐像の巨像と文政9年(1826)の大石燈籠とが現存する。
 柏島薬師堂石階:この石階の上の壇が薬師堂境内であるが、ここに薬師堂があった、現在は更地となり、この地方に分布する札所と禅宗関係と思われる石塔(判読は困難)のみが残存する。
 堂内には薬師三尊及び十二神将と近年の厨子(薬師如来坐像)が安置される。
諸仏はおそらく上述の石造地蔵菩薩坐像や石燈籠と同時代の江戸中期か末期の造立であり、決して優れたものではないが、この縁起も知られない薬師堂の諸佛として護持されていることをここに記す。
 柏島薬師堂薬師三尊十二神将    柏島薬師堂薬師三尊    柏島薬師堂十二神将1    柏島薬師堂十二神将2
 柏島薬師堂厨子内薬師如来


(9) 寶龜山観音庵 :2025/12/12追加(2025/03/14撮影

○「玉島要覧」安藤嘉助、玉島町玉島商工會、昭和12年 より
寶龜山
 勇崎の西南端の海岸にある。山形楕円、山頂平坦、恰も亀甲の状を呈する。奇岩怪石よりなり老松蘇生し、山上からの眺望に傑る。
観音庵
 勇崎寶亀にあり、天台宗叡山派に属し、観世音菩薩を本尊とし天和年中の創建にかかる、境内1544坪、伽藍としては本堂教院、金剛堂等がある。信徒も頗る多い。
当山の庚申堂は観音庵の別宇で嘉永年中の建築にかかり、今寶亀の庚申といって地方に名高い。

宝亀山庚申堂 2025/03/14撮影:
 寶龜山観音庵寺号碑:「當國順禮第二十番寶龜山觀音堂」
 寺号碑側面:従是玉嶋圓通寺(江?)三十丁 とある。
 寶龜山観音庵石階
 寶龜山観音庵境内
 寶龜山観音庵石仏
 寶龜山観音庵庚申堂1
 寶龜山観音庵庚申堂2:左図拡大図
 寶龜山鐘楼
 寶龜山庚申堂棟の申
 寶龜山庚申堂瓦と申
 寶龜山庚申堂蟇股申の彫刻
 寶龜山からの眺望:水島工業地帯を望む

2025/12/13追加:
◆「ページ:【南備四国八十八ヶ所霊場 画像集24(32-34番)】 > 画像集.24」 より
 上記ページに「寶龜山観音庵」の詳細が掲載されている。
よって、上記ページより、その概要を転載する。転載する概要は次の通りである。
○「浅口郡誌」岡山県浅口郡、浅口郡、大正14 より
四、寺院調(大正11年調)
第二三三節
 郡内各町村別、寺院調を表示せば左の如し。
 寺院調・寶龜観音庵
  「観音庵 勇崎寶龜 天臺宗叡山派 本尊:観世音菩薩 建立:天和二 本堂、教院、青面、金剛堂/一五四四坪 信徒:2000人 備考:黒崎村安養院末/第三一四節参照」
 ※これによれば、堂宇は本堂、教院(※)、青面金剛堂(※※)があったようである。
  (※)教院とは不明であるが、明治初頭に設置された小教院の遺構とも考えられるが、この地方に小教院設置されたのかどうかも不明、その可能性も低いと思われる。あるいは信徒も多いので、信徒が集う堂宇のようなものであったのかも知れないが、いずれにしても不明である。
  (※※)「青面、金剛堂」とはある種の誤植と思われる。正しくは「青面金剛堂」(要するに庚申堂)であろうと思われる。
一五、寶龜山
第三一四節
 勇崎に在り。
往古は丸山・眞名板暗礁・八幡山等と共に、今の水島の如くの列島たりしならんも、岩質粗鬆のため波浪に浸食せられ、現今の如く僅かに形骸を残せり。而して寛文六年(1666)新開成り、天和二年觀音庵の建立を見るに至る。
社寺根元記(こは明和九年當時の村役人五人組頭の連印あるものにて、勇崎村の庄屋、中藤家に藏せしも、今は所在不明となれりと云ふ。)の中、中塚一郎氏の抜萃せるものを略年表にして示せば左の如し。
 天和二年(1682) 觀音庵建立 施主中藤傳吉(棟札寫)
 元祿八年(1695) 觀音庵建替 植林 現今山上に老松の疎生するあるは、此時植ゑしものならん
 元祿年中    庵持佛青面金剛一體 津之國天王寺、十禪師開元御免許狀
 寶暦九年(1759) 再建 施主中藤重左衛門
當山の庚申堂は觀音庵の別字にして、嘉永年間(1848-1854)の建築に係り、元觀音堂に安置せしものと云ひ傳ふ。今寶龜の庚申とて地方に名高し。(第二三三節參照)
中藤傳吉は初代庄屋にして、現今の觀音庵は明治年間改築せしもの、庵は黒崎村安養院末なり。(第二三三節參照)」と記されている
さらに
○「勇崎村誌 下巻」明治22年 (p.11-14)に
「安置佛ハ十一面観世音ニシテ僧行基ノ作ト云フ 花山院初メ備中西國三拾三𠩄(所)ヲ設ケ給ヒシ 此當観音堂ヲ以テ二拾番札𠩄(札所)ト㝎(定)メラル」とあり、
觀音庵(一名 望海庵)は観音堂の境内にあり、佛軆は青面金剛。観音堂守居庵は黒崎の安養院末庵で、尼僧が住んでいた。
「勇崎村誌巻ノ下追録」に「昭和十七年三月十九日 宗教法ニ依リ觀音寺ト改稱 寺院格トナル」
とある。
   ※※なお「勇崎村誌」は未見である。
 次に上記ページに掲載された諸情報を整理すると次のようである。
・石階下の「寺号碑」の銘:
 「當國順禮第二十番寶龜山觀音堂」「從是玉嶋圓通寺(江?)三十丁」「弘化四年(1847)丁未十月吉祥日 發願主泉」
・石階の親柱の銘:
 「文化十二乙亥(1815)四月」
・鐘楼横に「札所石柱」2基:
 1基は「淺口西國 六番寶亀山 本性院 江 十壱丁■」もう1基は「浅口順禮札所三十六番」
・梵鐘の銘:
 「諸行無常/是生滅法/生滅滅己/寂滅為楽、発起人・世話人・寄附者芳名録、紀年(昭和六十年十一月吉日)等」
・鐘楼横の清浄水(手水鉢)の銘:
 「明治廿九年丙申三月吉日」「願主 舩穂村 小野善藏義富」「周旋人 真田源三郎 國富鉄?治郎 石工■■ ■山■太郎」
・自然石の手水鉢(陽石?):
 庚申堂横にあり。
・推定本堂跡の手水鉢の銘:
 「■■ 施主 ■■ 元禄八■ 七■■■」
  元禄8年(1695)は観音堂が再建された年(であるので、この手水鉢がある付近に本堂があったと推定される。)
・井戸の跡:
 「勇崎村誌 下巻(p.14)」に「井 是者延享元子年(1744)四月四擇法印并清行 中藤氏 掘之」とある。
  中藤氏は勇崎村の庄屋
・井戸横の石燈籠の竿の銘:
 「金毘羅宮 吉備津宮」『南無金毘羅大権現』
・奉開扉大慈大悲観世音菩薩供養塔:
 「奉開扉大慈大悲觀世音菩薩供養」「具足神通力廣修智方便」「觀音妙智力能救世間苦」
 「維時明治廿九丙申歳春三月下旬 謹建之 施主 黒田耕平 中藤*舜平 中藤■之助 世話人 真田源三郎」
  *舜は「日」の下に「舛」の字
・近年の参道築造・境内整備の石柱の銘:
 「参道築造 境内整備 寄進 西■■」「境内ノ荒廃極マルヲ篤志モテ裏参道ヲ築造ノ上 当山ヲ旧観ニ復セシモノ也 平成二年(1990)七月」
  ※これによると、35年程前に裏参道の築造、境内整備が行われたようである。
◆本堂跡の推定
 寶龜山境内の東に寺号碑が立ち、そこから石階が立ち上がり、境内に入る。石階上には山門があったという文献はないので、山門はなかったのであろう。石階を上がれば、そこには大きな面積の平坦地(更地)がある。
そこに残るものはほぼ中央に井戸の跡と石燈籠(金毘羅大権現など)の竿だけである。
観音庵には本堂・教院などもあったと記録されるので、おそらくこの広い平坦面に本堂・教堂が建っていたものと推定される。
  ※画像はいずれもGoog;eMap より
 推定本堂などの跡地1:北方を望む、左端は鐘楼
 推定本堂などの跡地2:東方を望む、中央やや上に石階の最上部が写り、右端は井戸跡である
 推定本堂などの跡地3:中央が井戸跡、その右が石燈籠の竿、左端に石階の最上部
鐘楼・庚申堂及び石仏類はこの本堂など跡の西側に位置する。


(10)玉島臨港線(未成)遺構

   → 国鉄玉島臨港線(未成線)


(90)サイト「倉敷市」>「たましまアーカイブ」の紹介:2025/12/17追加

 「たましまアーカイブ」は玉島港あるいは玉島の街についての歴史を総合的に纏めた優れた論考である。
よって、拙ページのような「一夜漬け」の知識の切り貼りではなく、「濃厚」な玉島の歴史を学ぶ事ができるので、紹介させて頂き、主として図版などを転載させて頂く。

 「たましまアーカイブ」は
  倉敷市トップページ > 文化・観光・スポーツ > 観光・魅力発信 > 観光情報 > みなと玉島空間 > たましまアーカイブ
   に掲載されています。

「たましまアーカイブ」の構成は次のとおり。
 >甕ノ海物語
 >備中玉嶋湊物語
 >甕港物語
 >玉島いしぶみ探訪記上
 >玉島いしぶみ探訪記中
  の5部構成で、いずれも郷土史家の渡辺義明氏の論考を掲載したものとなっている。

なお
 【補遺】:
  補遺として、サイト「玉島歴史館」>「第2部:新玉島歴史散歩」を紹介する。
 特に、「第2部:新玉島歴史散歩」は「玉島アーカイブ」で紹介した「郷土史家の渡辺義明氏の論考」をベースにするものと推察する。
 ここにも、有用な図版があるので、そのいくつか参照(転載)させて頂く。

1.甕ノ海物語 より転載
◇弥生後期(3世紀頃)の吉備の中海
  ※吉備の中海は「吉備の穴海」とも云われる。
 弥生後期の吉備(現在の備前・備中)南部の状況であり、現在の岡山市平野部、倉敷市平野部、玉島平野部も海の底であった。
現在の児嶋半島も吉備の中海に隔てられた嶋であった。
この陸と海とは古代・中世を通じて変わらなかったと推測される。
 弥生時代の吉備の中海

◇甕ノ海周辺図/5世紀頃の想像図
 玉島の原始の姿である。七島の南にはさらに乙島・柏島があり、玉島の町は海の底であった。
 甕ノ海周辺図/5世紀頃の想像図
 
◇古代末期/中世初頭の甕ノ海
 源平水島合戦の頃の玉島の想像図
まだ、弥生・古代と変わらず、源平の水島合戦は瀬戸内の島であった柏島と乙島との海峡で行われた。
 源平水島合戦の頃の玉島の想像図

◇近世初頭と近世初期の玉島周辺
 近世初頭の玉島周辺の陸と海はほぼ弥生・古代・中世と変わらない姿と推定される。
玉島は福島・鉾島・七島・連島・乙島・柏島などの島々からなる海面であった。
ところが江戸幕部が成立した近世初期には急速に備前・備中の封建領主(大名)によって干拓が進み、新田が拓かれ、急速に陸地化する。
干拓の主たる主体は備前岡山藩(池田氏)と備中松山藩(水谷氏)であった。
 近世初頭と近世初期の玉島周辺
 

 【補遺】:「玉島歴史館」>「第2部:新玉島歴史散歩」 より
  5.玉島の干拓
   甕ノ海周辺の新田開発図
    


◇玉島の出現(玉島港と街の形成)
 下の図版は玉島干拓史を一覧にしたものである。
即ち、豊臣秀吉・徳川家康の時代→江戸幕府成立前後→萬治・寛文→寛文5・5年→寛文10年→延宝・元禄元年の干拓の進行図である。
江戸初頭から干拓がはじまり、寛文年中から元禄にかけてそのピッチは上がり、元禄元年には高梁川などが運んできた土砂が堆積した浅海はほぼ干拓されたことが見てとれる。
     ■玉島の出現(玉島港と街の形成)下図拡大図
 玉島干拓史一覧

 【補遺】:「玉島歴史館」>「第2部:新玉島歴史散歩」 より
  6.玉島平野の水争い
   廃藩置県(明治4年)の藩領分布概略図

黒字(阿賀崎村など)・・天領
赤字(玉島村など)・・亀山藩・松山藩
青字(上竹村など)・・備前池田藩
茶色(須恵村など)・・岡田藩
緑色(七島村など)・・鴨方池田藩
桃色(奥山田村)・・一橋家
空色(横谷村など)・・庭瀬藩
青緑(西浦村など)・・成羽藩

◇江戸中期の吉備の中海の状況
 弥生・古代・中世の吉備(備前・備中)の中海(穴海)は、近世(江戸中期)に至り、下図のように姿を変える。
児嶋も陸続きとなり、半島となる。
岡山県の3大河川(吉井川・旭川・高梁川)が吉備の穴海に大量の土砂を搬入し、この自然の営みが近世初頭からの干拓に繋がる。
 江戸中期の吉備の中海の状況

2.備中玉嶋湊物語 より転載
◇高瀬通しのルートと現況
 長尾付近から爪崎(基本的に西行する鴨方往来)に至り、爪崎から南下する玉島往来に沿って平行し、羽黒山下(北側/舟溜り)まで至る高瀬通しの経路を示す。
そして、その経路の現況の説明である。
玉島の市街地に近づくにつれ、高瀬通しの跡は徐々に不明確になり、ほぼ消えかけている。
また舟溜りの跡は既に消滅し、明確な遺構は地上から消え去っている。
高瀬通しの土手に多く植えられたという「櫨」は僅か2本を残すのみという。
以上のような様が述べられている。
 高瀬通しのルートと現状

◇江戸末期の玉島港町分割支配略図
 玉島港町は江戸初期から中期に渡る干拓(新田開発)で成立し、さらに「高瀬通し」の掘削と港の整備で、国内有数の交易港へと成長する。港の周囲には多くの問屋・商家が立ち並び、玉島港町が発展繁栄する。
但し、江戸中期以降は、港が流入する土砂で浅くなり千石船の出入りが難しくなったこと、主生産品である綿の嵩増しが横行し信用を落としたこと、近隣との競争激化で次第に負けていったことなどで、玉島港・町は衰退していった。
 玉島の成立は上記のように近世初期の新田開発で成立したが、新たに成立した玉島村・阿賀崎村などは幕府の政策により、幕府・諸大名(天領・丹波亀山藩・備中松山藩)の分割支配となる。
また、近隣の上成・長尾・爪崎の各村と勇崎村(丹波亀山藩)、道越・七島・島地など(備中鴨方藩)、富・道口・亀山の各村(備前岡山藩)、柏島・乙島村(天領)も幕府・諸大名によって分割支配された。
  その概要は上記の
    (1.1)備中玉島港界隈
     ◇近世玉島の支配関係で述べた通りである。
       ●旧玉島市享保14年大名領有関係図

その上で、さらに、玉島港町は「三ヶ領軒並入組」と称せられるように、天領・備中松山藩領・丹波亀山藩領として幕府及び二藩による分割支配を受ける。
 江戸末期の玉島港町分割支配略図
 江戸末期の玉島港町分割支配略図
□玉島港及び港町の「三ヶ領軒並入組
 元禄8年(1695)安藤重博が備中松山に転封される。
それに伴い、玉島周辺の松山領は玉島村の一部と柏島村の一部に削減され、その他は天領となる。
元禄15年(1702)天領を分割し、その分割地を丹波亀山藩領としたが、その時以降、玉島港町地域は天領・備中松山藩領・丹波亀山藩領と三藩による分割支配地となる。これは明治維新まで約160年続く。
 ・天領(倉敷代官所支配)   :阿賀崎村の内、新町・南町・仲買町:以上を西浜と呼ぶ
 ・備中松山領(安藤→石川→板倉氏):玉島村の内、中島町・矢出町・団平町・土手町
 ・丹波亀山領(青山→松平氏) :玉島村の内、本町・通町・山下町:松山領の町も合わせ東浜と呼ぶ

◇玉島港古図の複写図
 文政年中(1818〜29)と云われる彩色版画より模写複製したもの
幕末頃の玉島港町の町並が模式的に分かるので転載する。

 ■玉島港古図の複写図■:中央は羽黒山(羽黒宮)、新町・通町などの町並など、玉島港の船の様子などが描かれる。

3.甕港物語 より転載
◇明治中期玉島湊町復原想像図
 明治中期の玉島湊町を復原・想定した図版で、近世及び近代初頭の町割りがよく分かるので転載する。
現在、地上にその痕跡を残さない「高瀬舟・舟だまり」も羽黒山北側に想定されている。
 明治中期玉島湊町復原想像図

 【補遺】:「玉島歴史館」>「第2部:新玉島歴史散歩」 より
  8.玉島湊と羽黒山
   玉島湊古図
   備中国玉島湊繁栄鑑より
    ※但し、転載前の図版は南北がデフォルトとは逆で、南が上になっている図版であったので、南を下にして転載している。
    そのため、千石船と思われる帆船が逆転して不自然になっていることの了承を願う。
    

4.玉島いしぶみ探訪記 上
 特になし

5.玉島いしぶみ探訪記 中 より転載
◇江戸後期 玉島湊推定図
 副題:資料・玉島港町の変化と水門の分布
本図も近世後期の玉島港町の町割りが分かるので転載する。
 江戸後期 玉島湊推定図

 【補遺】:「玉島歴史館」>「第2部:新玉島歴史散歩」 より
  7.玉島の水門
   玉島平野の排水路と水門
     


      玉島平野の排水路と水門その2
         


2023/07/05作成:2025/12/20更新:ホームページ日本の塔婆