備 中 國 玉 島 及 び そ の 周 辺

備中國玉島及びその周辺

(1)長遠院日樹上人

左は日樹上人供養塔:備中黒崎屋守法福寺にあり。


長遠院日樹上人は備中黒崎の産である。
下総飯高檀林、中村檀林の能化を経て、元和5年(1619)池上・比企ヶ谷両山15世(復暦)となる。
日奥上人の不受不施義を継承し、関東不受不施派の魁であった。
寛永7年(1630)身池対論にて、信濃伊奈に御預けとなる。
翌、寛永8年配所にて寂す。年58。


日樹上人(日樹上人供養塔・日樹上人略伝・日樹上人墓碑・日樹上人開基寺院など)については、

長遠院日樹上人」のページを参照下さい。


(2)丸山住吉社石階

丸山住吉社石階の踏石は基本的に「一枚石」の踏石からなる石段である。

丸山住吉社石階・見下げr>
丸山住吉社石階・一枚石2
2015/09/14撮影:
 丸山住吉社石階見上げ
 丸山住吉社石階見下げ:左図拡大図
 丸山住吉社石階一枚石1
 丸山住吉社石階一枚石2:左図拡大図
 丸山住吉社石階石碑1
 丸山住吉社石階石碑2:宝暦2年(1752)に水谷社が建立されたとある。
水谷社の詳細は不詳であるが、水谷社は現在、羽黒権現社の境内社としてある。
そこの現地説明板では次のように云う。(大意)
「水谷神社
 祭神:水谷伊勢守勝隆、水谷左京亮勝宗、水谷出羽守勝美
 由緒:三百有余年前、備中松山五萬石城主水谷三代に依って半世紀にわたり玉島浅口平野の一大干拓が完成、玉島港構築が企画され、高梁川全域を改修、高瀬通し(閘門式運河)が造られ、港は商港として繁栄する。以上の業績に鑑み、宝暦二年(1785)四月、玉島住民によって水谷社が創建される。」
情報がなく、はっきりしないが、現在は羽黒権現社の境内社であるが、水谷社は当初丸山住吉社に創建されたのかも知れない。
2023/07/12追加:
○「たましま 歴史百景」2017 より
大正2年水谷神社は羽黒神社境内に遷される。

 仲買町俯瞰:丸山より仲買町を俯瞰、手前左の洋風建築は旧・玉島信用組合ビルヂング、本建物は昭和10年「有限責任玉島信用組合」として建造され、その後、玉島商工会議所として使用される。現在は地元企業が所有。当時のままの外観を保持という。

丸山住吉社石階の踏石は基本的に「一枚石」の踏石からなる石段である。
各種情報を総合すると、
寄進したのは備中松山藩主水谷勝美であり、元禄2年(1689)玉島湊築造祈願の為(現地の石碑)という。
 ※水谷勝美:水谷勝宗の長男。寛文3年(1663)生まれ。元禄2年(1689)備中松山藩主水谷家3代を襲封する。元禄6年(1693)10月6日逝去。31歳。
おそらく、この時に丸山住吉社も勧請されたものと推定される。
 ※住吉社であるから航海・湊の安全を祈願し、祭神は底筒男命(そこつつのを)・中筒男命(なかつつのを)・表筒男命(うわつつのを)の住吉三神であったのであろう。
明治維新後、国学者や復古神道家の狂気で、寺院・神社は淘汰される時代となる。
大正5年丸山住吉社は羽黒神社に合祀される。(同時に町内各所に散在していた祠も合祀されるという。)
従って、現在住吉社は丸山には存在せず、跡地は公園に転用される。
GoogleMapなどで確認すると、跡地には石燈籠、小祠、手水石(文化元年/1804年紀)のほか英霊招魂碑・魚霊搭などが現存する。
 ※手水石には文化元年(1804)の年紀があり、おそらく今はない丸山住吉社の遺構であろう。
 ※英霊招魂碑は国家神道の残滓で未だに懲りない面々が固執する施設である。
 例えば、直近のニュースで、嘘で塗り固め、声高に戦前回帰を唱えた某政治家の「留魂碑」が
 同じ穴の貉によって奈良市三笠霊園に設置され、「この留魂碑を通して新たに多くの種がまかれ育っていくこと」を見守る
 といったことが報じられたが、今現在も同じ懲りない面々が跋扈している。
 ※魚霊搭は昭和14年佐藤和平の建設である。
 「玉島要覧」(昭和12年)によれば、
 佐藤和平は魚問屋「中屋」(天保3年創業)の5代目であり、玉島魚市場「佐藤和平商店」を経営する。
 本魚市場は県下水産界においてその設備・取引高で王座に君臨する。
 その本邸・営業部は住吉山下にあり、数萬金を投じ、近年新築落慶す、という。
 なお、現在は不明であるが、毎年「魚霊塔」前で「魚霊祭」が「中屋」によって、少なくとも昭和後期まで、挙行されていた。
以上のように、
丸山住吉社は羽黒神社に合祀されるも、水谷勝義寄進の一枚石の石階はほぼ寸分の狂いもなく、現存する。
  ※※本石階は間違いなく、その整美さで、玉島随一の文化財であると評価できるものである。
住吉社石階の法量などは次のサイトに記載がある。
○ページ「史跡に学ぶ・玉島の歴史 住吉神社石段」 では
 「住吉神社石段は、元禄2年(1689)玉島港築造祈願のため建立される。祈願者は備中松山藩主水谷勝美である。石段は石段の幅、3m、横の石幅、27cm*2 全、3m54cmで95段ある。3mの一本石の石段は他になかなかない立派なものである。北前船で栄えた玉島を象徴している。」とある。
 少々分かり難いが、石段の1個の石は幅10尺(3m)の一枚石でできていて、95段あることが知られる。
但し、95段全ての踏石が一枚石ではなく、上部の1/3程の石階は、石材の不足などの理由で、2枚の踏石の組み合わせである。
○ページ「玉島路地裏探検−PART1・秋葉町の巻」 では
 「備中33観音石碑が御出迎え
石段が見えると思う。羽黒神社石段(注:元の住吉社石段が正)で元禄2年(1689)玉島港築造祈願のため水谷勝美侯の寄進で建立される。石段の幅、3mあり、横の石が横の石幅、27cm*2、合計3m54cmの石段で95段ある。このサイズの石段はあまり類がない石段である。三叉路からは、仲買町、住吉神社石段、そして「備中33観音石碑」が参道入り口である。」とある。
 備中33観音石碑というのは不明であるが、現地にそのような石碑があるものと推測される。新しい石造の祠があるのでそれを指すものかも知れない。


(3)玉島の日蓮宗寺院

次の寺院がある。
  →屋守佛乗寺・同所法福寺
  →黒崎妙立寺
  →島玉谷宣妙院


(4)柏島天満町法華題目碑:2012/11/20追加

碑文より、享保15年屋守佛乗寺18世日融上人の発願で建立されたものと推定される。

2017/10/08撮影:

 天満町題目碑00:左図拡大図

 天満町題目碑01

2012/11/10撮影:
天満町題目碑1:「南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩 四百五十年忌 御報恩」
 ※日蓮上人450年遠忌の報恩塔である。450年遠忌は享保16年(1731)と思われる。
天満町題目碑2
 ※民家と比較して分かるように相当な大型の題目碑である。
天満町題目碑3:向かって右側面:「願主堺之住人■(頌)■(日?)■(受?)三千ヶ寺参詣成就」
 ※堺の住人何某が3000ヶ寺参詣成就とある。
天満町題目碑4:裏面:「發願者佛乗寺■(十)八世■(日)■上人 ■(享)保十■(五)■■ 7月十三日」
 ※発願は仏乗寺18世(仏乗寺歴代譜によれば18世は日融上人、享保15年11月68歳にて遷化)であり、
  年紀は享保15年とある。
天満町題目碑5:向かって左側面:「■■(辰)之年中大坂失火焼死之霊魂諸国■之■(旲?)魂■(自)■■」
 ※他の年紀および「「■■(辰)之年中」から「大坂失火」とは享保9年(甲辰・1724)の「妙知焼け」と推定される。
  「妙知焼け」とは享保9年3月21日午の刻(正午)、南堀江の金屋治兵衛の祖母妙知尼宅より出火、翌22日申の刻
  (午後4時)まで燃え続ける。大坂三郷の2/3の408町が焼失する大火であった。
以上等を総合すれば、この大型の題目碑は、享保15年屋守仏乗寺18世日融が、日蓮上人450遠忌、堺住人何某の3000ヶ寺参詣記念、および享保9年の大坂大火の焼死者にたいする慰霊のため、この地に建立されたものと推定される。
この碑は旧道に面した丘側(西側)に建つ。今この碑の建つところの旧道東側(海側)は人家が建ち、さらにその東側も昭和40年代頃港が埋め立てられ新道が作られ、港を往来する船からは見えなくなっている。
しかし、建立当時は当然昭和戦後の新道はなく、さらには旧道東側はすぐ港(海)であり、玉島港に出入する船から良くみえたのではないだろか。さらにこの界隈一画は遊郭であったといい、かなりの賑わいがあり、碑の建立の好地であったように思われる。
2013/01/15追加:
「日樹上人傳」原田智詮、昭和36年 では以下のように述べる。
「享保15年7月13日発願者仏乗寺18世日融上人」願主の三千ヶ寺参詣成就を遂げた順海日受は日蓮大菩薩450年忌を兼ねて、享保9年3月大坂の大火に焼死の諸霊の為、玉島天満町に高さ11尺5寸(3.48m)の供養塔を建立。
 ※以上から、向かって右側面:「願主堺之住人■(頌)■(日?)■(受?)三千ヶ寺参詣成就」は「願主堺之住人順海日受三千ヶ寺参詣成就」と知れる。
 裏面:「發願者佛乗寺■(十)八世■(日)■上人 ■(享)保十■(五)■■ 7月十三日」は「發願者佛乗寺八世日上人 保十年 7月十三日」と知れる。


(5)備中玉島羽黒山清龍寺

遠く西国(備中玉島)に羽黒権現が祀られる。
玉島羽黒権現は江戸期に関東の大名が西国に転封され、その大名によって羽黒権現が勧請され、本来は羽黒権現の信仰圏でない地に祀られたケースと思われる。
※その大名は常陸下館藩から備中成羽藩を経て備中松山へ移封された水谷氏である。

出羽羽黒大権現と比べると比較にならない規模ではあるが、ここでも明治の神仏分離の影が見え隠れする。

現在羽黒権現のある地は羽黒山と呼ばれる碗状の小丘である。
 (※ここでも羽黒権現は明治の神仏分離の処置で羽黒神社と改号される。)
干拓で陸続きになる前は乙島・柏島の2つの島に挟まれた「阿弥陀山」と伝承?する小島であったと云われる。
万治元年(1658)備中松山藩主水谷勝隆が玉島地方の干拓に際し、阿弥陀山上に出羽国羽黒大権現を勧請する。
 (あるいは水谷氏の本貫地常陸下館の羽黒権現を勧請したとも云う。)
 ※因みに、水谷氏は備中移封前は常陸下館を領していたが、下館に於いても、初代下館城主水谷勝氏は羽黒権現を勧請し、
同時に羽黒大権現別当天台宗清瀧寺を建立すると云う。但し、羽黒権現は羽黒神社として現存するも、別当清瀧寺は明治の神仏分離の処置などで廃寺となる。
寛文5年(1665)第2代藩主水谷勝宗、社殿を改築、阿弥陀山東斜面に別当羽黒山清瀧寺を建立する。
清瀧寺初代別当には京都青蓮院仙海和尚(勝隆実弟)を招じ、開山とする。
 なお現在の羽黒権現社殿は嘉永3年(1845)、幣拝殿は安政4年(1852)の再建という。
その後の清瀧寺は以下のように変遷すると推測される:(資料不十分のため推測)
 玉島羽黒権現付近地図
明治の神仏分離の処置で、羽黒権現は羽黒神社と改号、羽黒山東参道途中にあった清瀧寺(旧清瀧寺)は羽黒山を下り、羽黒山北側すぐの地に移転 し新に清瀧寺(新清瀧寺)を建立する。(推定)
羽黒山東参道途中にあった旧清瀧寺の建物(山門・本堂)はそのまま残され、公共施設?や学校?などに転用されたと思われる。
その後120年前後の時が経ち、近年(少なくとも昭和後期あるいは平成の初期)になり、下山した新清瀧寺は旧地(羽黒山東斜面参道途中)の旧清瀧寺に移転つまり復帰し、旧清瀧寺建物(山門・本堂)が再び清瀧寺として使用され復活していると思われる。
なお清瀧寺が羽黒山の旧地に復帰した後の新清瀧寺の境内・堂宇もそのまま清瀧寺として残存する。
2023/05/14追加:
○「玉島要覧」安藤嘉助、玉島町玉島商工會、昭和12年 より
◇郷社羽黒神社
 祭神は玉依姫、相殿はスサノウ・大国主である。
  ※スサノウが相殿とあるので、明治維新の神仏分離令で付近の牛頭天王が配され合祀されたものと推定。
萬治元年(1658)備中松山藩主水谷勝隆がこの地方の干拓を企図し、舊領地常陸下館に出羽羽黒山の分霊を勧請し羽黒宮と稱していたのを、更にこの地に移祀し、開墾の成就を祈願し、更に工成るに及んで、寛文5年(1665)水谷勝隆の嗣勝宗が社殿を改築し、羽黒大権現と稱へ、祈願所とし、新たに一寺を建立し、清瀧寺と命名し、別當と為す。
明治3年神仏分離の処置で羽黒神社と改号する。
 ※この時、羽黒権現は国家神道丸出しの玉依姫とされたと推定され、祭神とされる神々も国家神道に翻弄され、崇敬の念など微塵もないことに苦笑していることであろう。
◇清瀧寺
 山号は羽黒山、天台宗叡山派(比叡山末)、玉島榮町に在る。元は羽黒山上に在りしを、神仏分離の蛮行で、羽黒山北麓の現地に遷したものである。
羽黒山は承和年中慈覚大師が渡唐の時、阿弥陀の尊像を造って安置せし山で、元の名を阿弥陀山と称していた。
 ※清瀧寺創建の由来は上記の羽黒神社の項に記載の通りである。
開山は仙海、水谷伊勢守(勝隆)の子(弟?)で東叡山寛永寺天海の弟子である。
本尊は旧阿弥陀山に在った尊像である。(※慈覚大姉作の阿弥陀仏か?)
2023/07/12追加:
 備中玉島羽黒権現は、小規模ながら、明治維新の神仏判然令に基づく所謂「神仏分離の処置」が型どおりに行われたのであるが、近年、珍しくも、いったんは下山した別當(寺院)が神仏分離前の場所に「復活」「再興」されたようである。但し、それは、分離された寺院(青龍寺)がもとの場所に復帰しただけであり、分離された神社(羽黒神社)が廃され、神仏分離前の羽黒権現に復した訳ではない。
 明治維新前の玉島羽黒権現は、仏体(本地である聖観音・阿弥陀如来・大日如来かあるいはその内の1体であろう)が祀られていたものと考えられる。
ところが、明治の神仏分離の処置の結果、現在では「郷社羽黒神社の祭神は玉依姫、相殿はスサノヲ・オオクニヌシである。」(「玉島要覧」)という。
明治の神仏判然令で、神仏は分離され、権現は廃されて神社に改組、羽黒神社と改号、祭神には記紀神話の神と取替られ、復古神道の神社が捏造された典型例である。
なお、羽黒権現の仏体がどのような仏体で、そしてどのように処置されたのかは、常識的には清龍寺に遷されたと考えられるが、手持ち資料にはその記載がなく、分からない。
ただ、一般的な神仏分離の処置では別當(寺院)は廃寺となり、その姿を消すが、玉島羽黒権現の別當清龍寺は、山下北方に下山・移転され、廃寺は免れる。さらに加えて、上述のように、平成の前後であろうが、神仏分離でいったん下山した寺院(青龍寺)が再びもとに在った場所に復帰したようである。
蓋し、非常に珍しい例というべきであろう。稀有の例というべきであろう。
よって、ここに特記する。
但し、神社(羽黒神社)が廃され羽黒権現が復活した訳ではないことも再度付記しておく。
2005/05/04撮影:
 旧/現羽黒山清瀧寺:羽黒山東参道に復帰した清瀧寺。この境内・建物は神仏分離前の清瀧寺の境内・建物と云う。
 旧/現羽黒山清瀧寺山門:天台宗・清瀧寺の扁額を掲げる。
 新羽黒山清瀧寺2:維新後に移転した地に残る堂宇
2007/03/17撮影:
 旧羽黒山清瀧寺1
 新羽黒山清瀧寺山号碑
2013/03/17撮影:
 羽黒権現東参道:向かって右中段に旧/現清瀧寺がある。      旧/現羽黒山清瀧寺2
 新羽黒山清瀧寺3     新羽黒山清瀧寺4
 :新清瀧寺境内には、移転後も、羽黒山清瀧寺石碑、鳥居、本殿(本堂)、観音堂(推定)、庫裏、法華石塔、護摩殿合天井寄進石碑が残る。
2014/09/27撮影:
 新清瀧寺石柱     新清瀧寺本堂     新清瀧寺観音堂     新清瀧寺法華塔     旧/現清瀧寺石垣


(6)天台宗玉谷圓乗院

   → 備中玉島圓乗院


(7)曹洞宗圓通寺

   作成予定


(8)柏島薬師堂

2017/10/08撮影:
柏島天満町題目碑からおよそ5町北に柏島薬師堂がある。
 現柏島薬師堂:元は背後の石階を上った堂屋敷にあった。現薬師堂より一回り大きい堂宇であったが、何時しか腐朽し、取り壊され、石階下に小宇として再建され、堂内の仏像も遷座したものと推定される。
石階手前には宝暦14年(1764)の石造地蔵菩薩坐像の巨像と文政9年(1826)の大石燈籠とが現存する。
 柏島薬師堂石階:この石階の上の壇が薬師堂境内であるが、ここに薬師堂があった、現在は更地となり、この地方に分布する札所と禅宗関係と思われる石塔(判読は困難)のみが残存する。
 堂内には薬師三尊及び十二神将と近年の厨子(薬師如来坐像)が安置される。
諸仏はおそらく上述の石造地蔵菩薩坐像や石燈籠と同時代の江戸中期か末期の造立であり、決して優れたものではないが、この縁起も知られない薬師堂の諸佛として護持されていることをここに記す。
 柏島薬師堂薬師三尊十二神将    柏島薬師堂薬師三尊    柏島薬師堂十二神将1    柏島薬師堂十二神将2
 柏島薬師堂厨子内薬師如来


(9)玉島臨港線(未成)遺構

   → 国鉄玉島臨港線(未成線)


2023/07/05作成:2023/07/05更新:ホームページ日本の塔婆