★若狭明通寺
冬の若狭は雪の深い地であろう。この湿気の多い地で当寺、神宮寺、羽賀寺、妙楽寺の木造建築(伽藍)が数百年間伝えられてきた。
◇若狭明通寺三重塔
2002/01/12撮影:
若狭明通寺三重塔01 若狭明通寺三重塔02 若狭明通寺三重塔03 若狭明通寺三重塔04
若狭明通寺三重塔05 若狭明通寺三重塔06 若狭明通寺三重塔07 若狭明通寺三重塔08
若狭明通寺三重塔09 若狭明通寺三重塔10 若狭明通寺三重塔11 若狭明通寺三重塔12
若狭明通寺三重塔13 若狭明通寺三重塔14
2007/03/03「日本建築史基礎資料集成・塔婆U」:
三重塔は文永7年(1270)再興棟上。一辺4.18m、高さ約22m、桧皮葺。
その後の沿革は元応2年(1320)上葺勧進、天文8年(1539)修理、正保2年(1645)屋根葺替、元禄14年(1701)大修理、天保14年(1843)屋根葺替、明治8年露盤修理、明治27年屋根を杮葺から瓦葺に変更。昭和30〜32年解体修理、屋根は当初の檜皮葺に変更。
鎌倉期のほぼ純和様建築(初重に大仏様拳鼻を用いる)。初重中央間を10支、脇間を8支とし、一つ上の上層へは各々中央間を2支、脇間を1支ずつ減ずる構造である。
初重には正面釈迦三尊・背面弥陀の三尊六躰を安置する。
明通寺三重塔立面図
◇若狭明通寺概要
棡山と号する。真言宗御室派。創建は桓武天皇の時代・大同元年(806)、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷征伐に際して創建したという。
伽藍は金堂(5間6間)、三重四角の塔(本尊釈迦・文殊・普賢)、二階仁王門、鎮守堂、拝殿、書堂、灌頂堂、法花堂、食堂、羅漢堂、鐘楼、三尺権現堂があったという。(応安7年1374模写「明通寺縁起」など)
その後、天慶6年(943)、建久年中(1160-99)に伽藍焼失。鎌倉期に伽藍が復興される。
近世に至り<延宝6年(1678)>、本堂・塔・鎮守と本坊(元倉本坊)のみの状態となり、羅漢堂・法花堂・食堂・灌頂堂・阿弥陀堂などは退転、畠地となる。往時の24坊
(大坊、中坊、桜本坊、倉本坊、松本坊、仁王坊、円蔵坊、岩本坊、日輪坊、行法坊、藤本坊、善住坊、極楽坊、大光坊、橋本坊、浄織坊、浄光坊、日光坊、塔本坊、山本坊、牛玉坊、金蔵坊、安楽坊、梅本坊)も本坊以外は退転する。
2007/12/26追加:
「若狭の社寺建造物群と文化的景観」小浜市、2006 より
◇若狭明通寺伽藍図:
北側谷筋に東から善住坊、安楽坊、金蔵坊、山本坊、大光坊、極楽坊が並び、本堂のある尾根筋に三重塔、本堂、灌頂堂、法華堂、客殿、仁王門などと東から行法坊、円蔵坊、岩本坊、日輪坊、仁王坊、櫻本坊、堂本坊が並ぶ。南側谷筋には羅漢堂、食堂などと東から牛玉坊、松本坊、橋本坊、日光坊、了善坊、藤本坊、浄織坊、浄光坊、倉本坊、中坊が並ぶ。
・本堂:国宝。正嘉2年(1258)再建。梁間5間、桁行6間、入母屋造桧皮葺。大正2年解体修理。
鎌倉期の純和様の仏堂であるが、頭貫鼻の繰形に大仏様を取り入れた細部様式の初例とされる。
本尊木造薬師如来坐像(重文)、木造降三世明王立像(重文)、木造深沙大将立像(重文)、木造不動明王立像(重文)のいずれも平安後期の優れた仏像を
安置する。
2010/04/06撮影:
若狭明通寺本堂11 若狭明通寺本堂12 若狭明通寺本堂13 若狭明通寺本堂14
若狭明通寺本堂15 若狭明通寺本堂16 若狭明通寺本堂17 若狭明通寺本堂18 若狭明通寺本堂19
2002/01/12撮影:
若狭明通寺本堂1 同 2 同 3 同 4
同 5 同 6 同 7 同 8
・その他伽藍
明通寺仁王門 明通寺鐘楼 明通寺客殿
・坊舎跡
仁王/日輪/岩本/円蔵坊跡:推定
桜本坊跡推定 塔本坊/法華堂跡付近
金蔵/安楽/善住坊跡1:坊の名称は左から、推定 金蔵/安楽/善住坊跡2:推定
--------------------------------------------------------------------------------------------
◆明通寺三重塔模型(木製、スケールは10分の1と推定):
若狭歴史民俗資料館に常設展示。
若狭明通寺塔模型1 若狭明通寺塔模型2 若狭明通寺塔模型3
資料館の見解:公式どうり写真撮影は不可、
画像使用については、著作権者である本模型の製作会社の許諾及び所有者である当館の許諾を得ることが条件と云う。
(しかし、何を云っているのかは良く理解できない。)
★若狭小浜の塔遺構
◆若狭神宮寺
近年塔基壇及び心礎が発掘される。
◆若狭羽賀寺
中世には三重塔の存在が知られる。現在その跡地は判然とはせず。
◆若狭国分寺跡
復元基壇上の心礎位置に礎石が置かれる。但し、この礎石が塔礎石である可能性はあるが、心礎である確証は無い。
◆若狭太興寺廃寺心礎(大興寺村松永谷一宮山王権現所在心礎)
日枝神社(山王権現)の鳥居から社殿に向かう参道の中間左に手水石がある。これが太興寺廃寺心礎である。
幅1.8〜1.5m、高さ0.6m自然石で、中央に枘穴があったものと思われる。この枘穴は後世に加工され元の形状は不明。
元は付近の通称「村まわり」にあり、江戸末期に現在地に移転されたとされる。
「村まわり」からは奈良前期の瓦が出土しているが、伽藍配置は現状では不明。「若狭歴史民俗資料館」
に関連展示がある。
日枝神社:松永谷一宮山王権現と称した。別当は明通寺。中世から成立していたとされる。
なお日吉権現境内に崩壊寸前であるが「鐘楼と梵鐘」が残存する。
(梵鐘は今も現役と思われる。梵鐘の銘文は未確認。)
若狭太興寺廃寺心礎1 同
2 同
3 同
4 同
5
日枝神社鐘楼
○「福井県通史」第七章:若越の文学と仏教、第二節:古代の寺院、三:若狭の初期寺院、太興寺廃寺 より要約
太興寺集落東側山裾に鎮座する日枝神社の境内に、自然石の表面中央を穿がった塔の心礎石と伝えられる手水石がある。
現状での大きさは長径2.1m、短径1.7m、高さ0.8mで、心礎の柱座は大正10年以降に拡大されて手水石に転用される、現在柱座は楕円形となり原形を損ねている。
しかしながら上田三平の記録には、直径55.7cm、深さ10.6cmの柱座であったとされていると云う。(『福井県史蹟勝地調査報告』二)
※大きさは6尺×5尺6寸、高さ3尺で、表面中央に径1尺8寸4分深さ平均3寸5分の円孔を穿つ。
礎石はもともと小字「村廻り」にあったが、江戸末期に神社境内へ移されたという。この地は国道二七号線の南側に接し、周辺の田地よりやや微高地となる。礎石の所在と、昭和37年
頃より始まった国道27号線新設工事のとき、道路南側側溝部分から軒丸・軒平瓦が発見され寺院跡と確認された。さらに、やや東側の瓦捨場と思われる場所の部分発掘で多くの資料を得、これらから白鳳期に創建され、少なくとも奈良期までは寺院の存続していたことが明らかとなった。
廃寺の伽藍配置は未発掘のため不明であるが、日枝神社前面の小川には礎石と思われる石材が石垣に転用され、これら多くの石材から、塔のほか金堂・講堂などの建物も存在したと推測される。
○2009/09/14追加:
「福井県通史」第七章 若越の文学と仏教、第二節 古代の寺院、三 若狭の初期寺院、国分寺に転用された太興寺の項は以下の通り。
「太興寺は瓦をみる限り、白鳳期から奈良期まで確実に存続したと推定される。前述の第U型式がここで検出されたことは、太興寺が八世紀中ごろには官寺として存在した可能性を秘めており、それはほかの事例から国分寺以外に考えられないのである。だが、同じ時期に現在の若狭国分寺が創建されたことになっており、矛盾することになる。
若狭国分寺跡の発掘結果では、基準になるべき瓦はまったく検出されていないと云う。同時代の太興寺には瓦が使用されているにもかかわらず、官寺に瓦を使ってないのは一体どうしたことであろうか。このことは国分寺創建とのかかわりからきわめて重大な謎となる。国分寺に瓦の存在しなかったのは、天平十三年(七四一)国分寺建立の詔勅当時には建立されず、とりあえず太興寺を整備転用したからだとは考えられないであろうか。太興寺廃寺出土の第U型式の細片はそれを実証したともいえよう。」
○2010/04/23追加:
「棡山明通寺」明通寺、平成20年 より
中世末から近世にかけて、棡山明通寺は近在の多くの寺社を支配した。
大興寺村松永谷一宮山王権現もその一つであった。
なお明通寺は現在は真言であるが、かっては叡山末であったこともあり、中世には天台・真言兼学であったとされる。御室派になったのは近世のことと伝える。
★附 録:
◆若狭妙楽寺(2010/04/22追加)
山号岩屋山。高野山真言宗。
養老3年(719)行基が本尊を彫り、延暦16年(797)空海が来錫し本尊を拝す。空海が堂舎を建立すると伝える。
若狭妙楽寺山門 本堂は鎌倉時代初期建立、厨子には永仁4年(1296)と銘がある。5間×5間、寄棟造屋根桧皮葺。
本尊千手観音菩薩立像(重文・平安期)を祀る。
若狭妙楽寺本堂1 同 本堂2 同 本堂3 同 本堂4 同 本堂5
同 本堂6 同 本堂7:外陣内部
同 本堂8:同左 本堂周辺には、鐘楼、地蔵堂、薬師堂、六所神社を配す。
若狭妙楽寺六所明神 同 地蔵堂 同 鐘楼
◆ 同 多宝小塔;地蔵堂内安置
参道左右には中世以来の坊舎跡8坊以上の跡地を残す。山門南西の4坊があった区画は近年区画整理が行われた形跡があり、これは
発掘調査の結果であったとしても史跡の破壊であろう。
妙楽寺西蔵坊1 同 2 同 3
推定實泉坊跡 推定善智坊跡 推定清浄坊/奥ノ坊付近 推定西ノ坊付近 推定森本坊跡
推定清浄坊/森本坊跡:手前が清浄坊で、北辺の土盛・石組が残存する。
「若狭の社寺建造物群と文化的景観」小浜市、2006 より
妙楽寺伽藍配置図
◆若狭多田寺(2010/04/22追加)
山号石照山(せきしょうざん/「照」の字は、本来は「明」の下に「火」を書く字である)。高野山真言宗。
天平勝宝元年(749)孝謙天皇の勅命により勝行上人が創建すると伝える。
中世以来の12坊舎があったといわれる。 本堂は文化4年(1807)再建、入母屋造屋根桟瓦葺、規模は5間×6間、内陣は3間×3間・外陣は3間×1間・周囲に1間の廂を廻らす。
外部には1間の向拝と四周に擬宝珠高欄付の切目縁を持つ。天井構造は庇を化粧屋根裏、礼堂を組入天井、内陣を猿頬天井とし、内陣奥の須弥壇上部は折上格天井とする。
須弥檀上には木造薬師如来立像・木造十一面観音菩薩立像・木造菩薩立像(何れも平安初期・重文)を安置する。
若狭多田寺本堂1 同 本堂2 同 本堂3 同 仁王門
同 本坊・庫裏か:今は1坊のみ残ると思われるも、元の坊舎名は不明。
同 南側坊舎跡:近年区画整理が行われた形跡があり、これは発掘調査の結果であったとしても史跡の破壊であ
ることは妙楽寺の場合と同様であろう。
「若狭の社寺建造物群と文化的景観」小浜市、2006 より
多田寺伽藍配置図
2006年以前作成:2010/04/23更新:ホームページ、日本の塔婆
|