大 和 多 武 峰 妙 楽 寺 |
大和多武峰妙楽寺
★多武峰妙楽寺十三重塔:重文 天武天皇7年(678)中臣鎌足長男定恵が唐からの帰国し、父の墓を摂津安威の地から大和のこの地に移し、十三重塔を造立したのが多武峰の草創である。 ○多武峰十三重塔
◆多武峰縁起絵巻 絹本着色。現在では、十六世紀中頃以前の成立かと云われている。 ○「多武峯縁起絵巻」談山神社、長岡千尋、2016 より この絵巻では藤原鎌足の生涯(大化の改新という権力闘争など)、長男定恵による鎌足廟所・十三重塔・講堂・本殿の創建、増賀上人の事績、御破裂の霊験譚などが描かれる。 本ページでは定恵による十三重塔建立について取り上げる。 多武峰縁起絵巻:上図拡大図:サイズ:2.88M 当然ながら、絵巻は向かって右から左に移動する。 ここに表されていることの真偽は不明であるが、妙楽寺あるいは妙楽寺十三重塔の創建譚である。 定恵、唐に在るとき夢をみる。曰、身は忽然として談の峯に居る。そこで父鎌足が告げて云う。吾今天に昇った。汝はこの地に寺塔を建て、清浄な業を修めよ。吾はわが神霊をこの峯に天降して子孫を擁護し、仏法を世に広めようぞ と 定恵は塔婆を鎌足の墳墓の上に建てようとし、清涼山に登攀し、寶池院十三重塔を移し取り、霊木(栗木という)一株を以って塔の用材と為そうとする。 定恵は十三重塔の用材・瓦などを調達し、帰朝の途に就くが、乗船した船が狭く、屋根の一重分の用材をそこに残すこととなる。 定恵は帰朝し、右大臣不比等に大職冠聖霊御墓はどこかと尋ねると、攝津國嶋下郡阿威山なりと答える。 定恵は生前、大職冠との約束があると語る。唐で見た夢や約束を詳細に話す。 定恵は25人を引率して阿威山の墓に参り、遺骸を自ら掘り出し首にかけ、落涙していう。吾は天萬豊日天皇(孝徳天皇)の息なるも前世からの因縁により陶原(藤原)の息となる と。 また、人に土を担がせともに談峯に登攀する。 定恵は談峯に登攀し、遺骨を埋葬し、その上に塔を建てる。材木・瓦が不足し、十二重で工事は中断する。 夜半雷電霹靂大雨大風があるも、明朝は天晴、塔を見上げると材木・瓦が積み重なり十三重塔となる。十三重目の屋根は唐の国から飛来したことを知る。 経年の後、塔の南に三間四面堂を建て、妙樂寺と号す。これは定恵の建てたもので今の講堂なり。これが多武峯寺の草創なり。・ 講堂東大樹の辺りに異光が時々現れる。定恵はこのところに方三丈の御殿(聖靈殿の草創なり)を造営し、鎌足の靈像を安置する。 造師は近江國高男丸なり。 ◆多武峰妙楽寺本殿・略歴 2020/06/28追加: ○「多武峰談山神社本殿」三浦正幸(「日本建築学会計画系論文報告集 第355号」昭和60年9月 所収) より 多武峰妙楽寺本殿は例の少ない三間社春日造であり、その平面は一間四面の形式であり、神社本殿として珍しいものである。つまり内陣の四周に庇を巡らす、あるいは庇に類する空間を設けるというものである。 「多武峰略記」によると、祭神である藤原鎌足は天智天皇8年(669)に没し、摂津国島下郡阿威山に葬られたが、その長子定慧和尚が唐より帰朝すると多武峰に改葬して墓上に十三重塔を創建し、経年の後には三間四面の講堂を塔南に建立して妙楽寺と号したという。また、鎌足の御影像を安置するために「方三丈御殿」も創建したという。この妙楽寺が多武峰の本体であり,方三丈御殿が聖靈院の前身である。 平安期に入り、延暦寺にて出家受戒した実性が多武峰の座主となり、天暦10年(956)には延暦寺の末寺となる。 このことは南都興福寺との関係が悪化し、遂には興福寺衆徒の襲撃を受けることとなる。 即ち , 永保元年(1081)三月、天仁元年(1108)九月、承安三年(1173)六月、承元二年(1208)二月(これは金峰山衆徒による)、安貞元年(1227)八月、同二年四月にそれぞれ焼打ちを被り、そのうち承安三年にはほぼ全焼する。 また,正平六年(1351)十一月には失火により全焼する。 室町期には大和を中心とした越智氏や筒井氏などの抗争に巻き込まれ、永享十年(1438)八月と永正三年(1506)九月には兵火に罹 って焼失する。またその間の応仁三年(1469)二月には内粉によって焼失する。豊臣秀長が大和郡山城に入府すると、天正十六年(1588)四月に郡山城に社殿を新造して神体である鎌足の御影像を遷したが、同十八年十二月には多武峰に帰座する。 明治維新の神仏分離により、妙楽寺の号は廃され、神社とされ、現在に至る。 本殿は、江戸期には五十年ほどに一度の造替が幕府に認められており、現在の本殿は嘉永元年(1848)に木作始、同三年に上棟したものである。 平面は一間四面の主屋に三間の向拝を付けた形式となり、外観は三間社春日造(隅木入り)となっている。 一方、江戸期における最初の本殿造営は元和五年(1619)であり、それ以後、寛文八年(1668)、享保十九年(1734)、寛政八年(1796)、嘉永三年に造替されている 。 造替により不用となった旧本殿は、 多武峰本願堂(元和度)、 多武峰惣社本殿(寛文度)、 大和百済寺本堂(享保度)、 東大寺東南院持仏堂(寛政度) としそれぞれ移建され現存する。 江戸期に造替されたこれらの本殿は、移建時に改造を受けたものもあるが、復元すると、平面や春日造の形式は同一であり、造替に際して旧規を踏襲していることが確認できる。 2020/09/15追加: 大和百濟寺本堂については、大和百濟寺のページを参照、写真掲載。 享保造替時の本殿を寛政造替時に多武峰末寺であった大和百濟寺に移建(但し、一度転用の後、百済寺に移建の可能性もあり)とされる。 本殿は三間社春日造であるが、百濟寺本堂は入母屋造に改造されるも、平面規模は多武峰本殿の平面規模と一致するという。 ◆多武峰現況 2007/08/23追加:
A:サイト:「神殿大観」>「多武峰」 より B:2019年文化庁報道発表「文化審議会の答申(登録有形文化財(建造物)の登録)について」 より C:桜井市内指定文化財(市指定) より D:サイト:多武峰談山神社(妙楽寺) より E:「磐余・多武峯の道」金本朝一・綜文館・昭和52年 より F:「多武峰妙楽寺の展開」秋永政孝(「桜井町史 続」桜井市役所、昭和32年 所収) より G:「神仏分離の動乱」 より H:南院あるいは東院という院号が散見される。 例えば、 「桜井市史, 史料編 上巻 総地区」では 多武峯南院遍照院水田売券 天正13年乙酉3月22日 (差出人)売主 南院遍照院永賀 口入 サクライ左衛門四郎 「吾妻鏡」文治元年(1185)十一月廿二日辛丑(上述) では 到着之所者、南院内藤室、其坊主 十字坊ト号。 という。 この用法から、南院とは妙楽寺伽藍の南側に位置する坊舎を総じて南院とよんだのではないか。曰、南院遍照院、南院内藤室(院)。 以上の推測が正しいとすれば、東院とは、東門から妙楽寺伽藍に至る谷筋の坊舎を東院とよんだのではないかと推測する。 I:「多武峰の神佛分離」辻善之助・高柳光壽(「明治維新神佛分離史料 巻下」昭和4年 所収) より 慶長以前の子院は不明、天正18年郡山から帰山した時は32坊、慶長5年家康が再興時学侶10坊を取立42坊となる。 明治維新寺には33坊に減少していた。 II:明治10年「子院配当禄高取調書」に記載の33坊、 収入は30石・実収入は20数石が平均であり、住僧は清僧であり、弟子は1名か無しが多く、若党1人を抱えるのが一般的であれば、 子院の生活は裕福であったと云えるであろう。 J:「桜井市史 上巻」1979 より ■多武峰寺中(子院・坊舎)復元図 多武峰寺中復元図(仮)
本図は 多武峰附近2500国土基本図:縮尺 2500、測量年 1971(昭46):(容量2.5G) 上図の昭和46年測量の「2500国土基本図」に上述の多武峰之圖3、「桜井町史 続」の維新前に於ける子院の名称とその配置図、 「桜井市史 上巻」の維新前の多武峰子院配置図などを参考に、多武峰寺中を推定し、図上に復元したものである。 現地での地割調査、情報収集などが不十分で、また車道開通による地形破壊などもあり、確たる位置の特定が出来ない寺中が散見され、それ故に(仮)図とする。 2021/03/15多武峰子院の復元推定図と現地との照合を行い、次のような結果を得たので、報告する。 ○印は2020/05/07撮影、無印は2021/03/15撮影: 金剛院跡:但し、確証はない。 推定金剛院跡下石垣 推定金剛院跡1 推定金剛院跡2 推定金剛院跡3 推定金剛院跡4 推定金剛院跡上石垣 知光院(智光院)跡:但し、確証はない。東に位置すると想定される十如院跡は不明。 推定知光院跡1 推定知光院跡2 善龍院跡:但し、確証はない。上下の2ツの石垣があるあるが、両方ともなのかどちらか一方がだけが跡地なのかは分からない。 推定善龍院跡:上下2ツの石垣 推定善龍院跡下1 推定善龍院跡下2 推定善龍院跡上1 推定善龍院跡上2 慈門院跡 ○慈門院山門1 ○慈門院山門2 慈門院跡11 慈門院跡12 慈門院跡13 慈門院跡14 慈門院跡15 慈門院跡16 慈門院跡17 慈門院跡18 慈門院跡19 慈門院跡20 慈心院跡・慈門院跡:手前は慈心院跡・奥は慈門院跡 慈心院跡・慈門院跡1 慈心院跡・慈門院跡2 慈心院跡 慈心院跡1 慈心院跡2 慈心院跡3 安養院跡:但し、確証はない。 推定安養院跡1 推定安養院跡2 推定安養院跡3 常住院跡 ○常住院表門 常住院跡1 常住院跡2 常住院跡3 常住院跡4 常住院跡5 常住院跡6 常住院跡7 玉泉院跡:但し、確証はない。 推定玉泉院跡 玉泉院跡・般若院跡:但し、確証はない。奥の石垣が般若院跡 玉泉院跡・般若院跡 般若院跡:但し、確証はない。 推定般若院跡 円城院、心城院、賢行院、観行院は道路・駐車場に造成され往時の面影を残さない。 妙宗院、十字坊、妙覚院跡は参道沿いの旅館・土産店に変貌している。 学頭竹林坊跡 ○学頭竹林坊跡1 ○学頭竹林坊跡2 学頭竹林坊跡1 学頭竹林坊跡2 学頭竹林坊跡3 藤室院跡:但し、確証はない。 推定藤室院跡1 推定藤室院跡2 華上院跡:但し、確証はない。 推定華上院跡 千藏院、正行院、文殊院跡は道路などに転用され、不詳。 妙光院・十乗院跡:屋鋪跡区画は残ると思わえるも、確証はない。 推定妙光院跡1 推定妙光院跡2 普門院跡:但し、確証はない。 推定普門院跡1 推定普門院跡2:手前右石垣が普門院跡、後中央石垣が地生院跡、左中央石垣が藤室院跡と推定される。 地生院跡:但し、確証はない。 推定地生院跡1:中央石垣が地生院跡、手前右石垣が普門院跡、左中央石垣が藤室院跡と推定される。 推定地生院跡2 推定地生院跡3 推定地生院跡4 推定地生院跡5 壽命院跡:但し、確証はない、現在再興された妙楽寺が建立されている地と推定される。 推定壽命院跡1 推定壽命院跡2 推定壽命院跡3:手前の道路が千藏院、正行院、文殊院跡を貫くと推定される。 再興多武峰妙楽寺 ○「妙楽寺の再興」三輪山平等寺・住職:丸子孝法 より 創建は藤原鎌足長子定慧が鎌足の遺骸をこの地に埋葬し、十三重の供養塔を建立したことに始まる。 その後、金堂・常行三昧堂・聖霊院が建立される。 延喜19年(919)比叡山実性が第4代検校に就き、法相宗から転じ、叡山末寺となる。 次いで、叡山の雑賀が多武峰に隠棲する。 万寿元年(1025)検校道安が多宝塔建立。 仁安年中(1167)藤原基房、三重塔建立。 <禅宗の部分は割愛> 明治初年、神道国教化により妙楽寺は廃寺。 2021年妙楽寺は曹洞宗妙楽寺として再興される。 ※多武峰妙楽寺は、約150年ぶりに、三輪山平等寺住職の発願・奔走で再興されたものと推定される。 再興妙楽寺1 再興妙楽寺2 再興妙楽寺3 再興妙楽寺4 勿論、妙楽寺は現在の談山神社として残る聖霊殿、塔婆、常行三昧堂、講堂などの諸堂を構えるも、明治維新で廃寺となる。 その名跡が推定寿命院跡に蘇ったという意味である。 ※2021/12/25追加: 2021/12/23付「朝日新聞 夕刊」に「新しく建立された妙楽寺」に関する記事が掲載される。 →直下の<2021/12/23付「朝日新聞 夕刊 記事>を参照。 清蓮院宮跡:但し、確証はない、壽命院跡に接する南の平面がその跡地と思われる。 推定清蓮院宮跡 定心院跡 ○定心院跡 定心院跡 慈尊院跡 慈尊院跡 吉祥院跡:但し、確証はない。 推定吉祥院跡:この付近と推定されるも、不確実である。 香積院跡:但し、確証はない 推定香積院跡1 推定香積院跡2 推定香積院跡3 推定香積院跡4 眞法院跡 ○眞法院遺構1 ○眞法院遺構2 ○眞法院遺構3 眞法院跡11 眞法院跡12 眞法院跡13 眞法院跡14 眞法院跡15 眞法院跡16 眞法院跡17 眞法院跡18 眞法院跡19 眞法院跡20 眞法院跡21 眞法院跡22 眞法院跡23 眞法院跡24 眞法院跡25 眞法院跡26 教相院跡 ○教相院跡1 ○教相院跡2 ○教相院跡3 ○教相院跡4 教相院跡11 教相院跡12 教相院跡13 教相院跡14 教相院跡15 教相院跡16 教相院跡17 教相院跡18 教相院跡19 教相院跡20 教相院跡21 教相院跡22 教相院跡23 宝珠院跡:但し、確証はない。 推定宝珠院跡 戒光院跡:但し、確証はない。 推定戒光院跡1 推定戒光院跡2 葆光院:但し、確証はない。 推定葆光院1 推定葆光院2 三蔵院跡:但し、確証はない。 推定三蔵院跡1 推定三蔵院跡2 推定三蔵院跡3 覺林院跡 覺林院跡1 覺林院跡2 ●2021/12/25追加: <2021/12/23付「朝日新聞 夕刊 記事> ◇「元妙楽寺 目の前にも妙楽寺?」 多武峰に妙楽寺が再興される。それは一宇の堂(桁行約13m、梁間約7m)である。 そこには、「多武峰妙楽寺 本坊青蓮院宮跡」などの新しい石碑も建つ。 多武峰妙楽寺石碑など:2021/03/15撮影:談山神社と再興妙楽寺との軋轢の原因となった石碑・扁額 再興したのは曹洞宗三輪山平等寺住職丸子孝法師であり、この堂は平等寺の出張所として建立という。竣工は2021/05月。 再興された地は「本坊青蓮院宮」の跡地で、500坪を個人の地権者から購入する。 ※丸子孝法師はこの地が青蓮院跡とするが、現地の地形から、青蓮院跡ではなくその北側の区画である壽命院跡であろう。但し、壽命院は退転したとかの何等かの理由で青蓮院宮が地権者となっていたのかも知れない。 丸子住職は曹洞宗の僧侶で、同じく三輪神宮寺で明治維新の神仏分離で廃された平等寺を再興する。資金は托鉢で貴捨を募り伽藍を再興する。 曹洞宗開祖道元の祖父は藤原基房であり、基房は妙楽寺に三重塔を寄進いたと伝える。また本山永平寺の第2世孤雲懐奘(道光普照国師)、第3世徹通義介、第4世義演は多武峰妙楽寺で修行したという。こうした経緯から丸子住職は妙楽寺の再興を企図したという。 多武峰側は「孤雲懐奘禅師が妙楽寺で学んだので、それを顕彰する堂を建立したい」との趣旨であったので、その企図には異存はなかったという。 ところが、建立後に「妙楽寺」の寺号碑が建立され、これについては多武峰側との間で軋轢が生じている。妙楽寺の由緒が歪められている、あるいは歴史認識に誤解が生じるとの理由で「妙楽寺」の勝手な寺号碑は困るという。多武峰側は妙楽寺の号の変更あるいは碑の撤去を求める構えという。 なお、妙楽寺寺中の子孫である愛知教育大教授西宮秀紀名誉教授(日本古代史)がコメンテータとして記事に登場するが、眞法院(西宮)の後裔であろうと思われる。 ※今般の妙楽寺再興について多武峰(談山神社)側は「歴史的にも妙楽寺は談山神社のこと。その眼の前にお堂を建て、勝手に妙楽寺を名乗られると歴史が歪められる」という。 また、妙楽寺僧侶の子孫である愛知教育大西宮名誉教授は「歴史的に妙楽寺を名乗れるのは談山神社しかない。神社の至近距離でこんなお堂を建てられれば誤解される」と話すという。 しかし、この論は筋が違うであろう。 談山神社とは妙楽寺と同義であり、勝手に妙楽寺を名乗るのは歴史が歪められるあるいは誤解を招くというのであれば、談山神社が妙楽寺に復し、本院は聖霊院、拝殿は護国院、神廟は十三重塔、神廟拝所は講堂、権殿は常行三昧堂などと復号するのが筋であろう。 かつての妙楽寺が明治維新の神仏分離の措置で談山神社と改竄されたとこと自体が歴史が歪められたことあるいは誤解を招く事態を放置しているということであろう。 今般の妙楽寺と号する堂の再興で、談山神社と平等寺との間に軋轢が生じたとするならば、それを解消する本質的な解決方法は明治維新の神仏分離で妙楽寺が廃され談山神社なる似非なる称号になったことを改めることであろう。 端的に云おう。 談山神社は神道を捨て、天台宗妙楽寺に復するべきである。明治の神仏分離の処置と全く逆なことをするだけである。 困難な道であるが、それが歴史の歪みや誤解の発生を防止する唯一の道である。
◆国宝「大和国粟原寺三重塔伏鉢」:現談山神社蔵 ◆多武峰の建築遺構 1)享保度造替による本殿遺構 2020/10/11追加: ◆参考:文献上あるいは遺構の残る木造十三重塔 2006年以前作成:2024/10/05更新:ホームページ、日本の塔婆 |