★2006/01/15追加:
伊勢国分寺第31次発掘現地説明会
□「伊勢国分寺跡 第31次発掘調査現地説明会資料」鈴鹿市考古博物館 より
平成11年度:講堂の基壇確認。
平成12年度:金堂及び講堂の規模確認。
平成13年度:中門基壇(19.5×11・9m)、廻廊(中門と金堂を結ぶ・68×51m巾7m)を確認。
平成14年度:南門基壇(17.6×11.2m)、伽藍地の東1/3が築地塀で区画されていることを確認。
平成15年度:北東院から推定食堂と思われる堂跡を検出、僧坊(講堂北・72×9m)跡を発掘。
平成16年度:塔の発見を目的に伽藍地の南東地を発掘するも、塔の手がかりは発見できず。
平成17年度:第31次発掘調査:
最終年度として塔の発見を主眼にして、塔跡の可能性がある残されたほぼ最後の区画として、金堂東(やや南)に調査区を設定し調査を実施。
その調査結果は、「大きな目的であった塔については、何ら手がかりを得ることは出来なかった。(是迄の調査結果も踏まえ)築地塀で囲まれた180m四方の伽藍地内には塔が無かったという結論」に至る。
この地は国分尼寺ではないかという見解に対しては、「しかし、尼寺であるという明確な証拠の発見もなく、伽藍地以外での塔建立の可能性も信じて、今後の検証を行っていく方針である
」とする。
※「史蹟 伊勢国分寺」については、第31次調査でその妥当性が揺らぎ、伊勢国分寺跡についての再検討が必要になったものと思われる。
妥当性については、後述「★4)「国史跡 伊勢国分寺跡」の妥当性について」を参照。
(要するに、「史蹟 伊勢国分寺跡」とされる遺跡は、実は国分寺跡ではなくて、例えば「国分尼寺」などの他の寺院跡である可能性の追求、さらに、以上であるならば、伊勢国分寺跡は別にあるのではないかという視点での探索が必要でなないかと思われる。)
☆お断り
以上の見解には、鈴鹿市教育委員会をはじめとする関係各位の努力・その成果などを否定する意図は全くない。
むしろ逆に、伊勢国分寺を巡る関係各位の努力には敬意を表し、その成果に深く感謝するものである。
※第31次発掘調査より
第31次調査区図:赤線の区画が第31次調査区
第31次調査区1:西より撮影
第31次調査区2:東より撮影:いづれも白テープで表されている区画は築地塀跡で、その両側の土に色が変わっている部分が溝の遺構。
第31次調査区3:調査区東部分を北から撮影:同じく築地塀跡とその両側の溝の遺構。写真中央は大量の瓦がある瓦溜まり。
第31次調査区4:上と同じく調査区東部分を北から撮影:瓦溜まり土孔部分。
第31次調査区門:築地塀を切る形で門が構えられていたとされる。
第31次調査区溝1:西南隅の溝 第31次調査区溝2
※今回の調査で、この調査区一帯は東西45、南北30mの築地塀(当初は柵であったと考えられる)で囲まれ、南に門を設けた小規模な院が構成されていたことが確認される。院の中には建物跡は確認出来ず、また院が正方形でないため、塔院である可能性はないものと判断される。さらに、その他の顕著な出土遺物もないため、院の性格は不明とする。
2022/08/03追加:
伊勢国分寺塔跡に関する公式見解を ◆伊勢国分寺塔跡に関する現状
の項にて掲載するので参照を乞う。
□「史蹟 伊勢国分寺」現況
伊勢国分寺講堂跡1
伊勢国分寺講堂跡推定礎石:講堂跡には礎石と思われる石が唯一残存する。
伊勢国分寺講堂跡2
□出土遺物:但し、いずれも今回(31次)の出土ではなく、以前の出土遺物の展示と思われる。
伊勢国分寺軒丸瓦
伊勢国分寺刻印瓦 伊勢国分寺刻印瓦「匂」 伊勢国分寺刻印瓦「+」
伊勢国分寺鬼瓦1 伊勢国分寺鬼瓦2
伊勢国分寺塼
□現国分寺(国分町に現存):
現在は無住と思われる。
本堂は傾き、倒壊寸前と思われるが、現在は床下には鉄筋コンクリート基礎が設けられ、その基礎から本堂の柱を支える鉄骨(H鋼)が建てられ、本堂の倒壊を防止する工事が
施工される。(恐らく地区の人たちの努力と推定される。)
この現国分寺の詳しい沿革は
寡聞にして不明であるが、この地に「伊勢国分寺」と称する寺院が再興されていることは、この地が古の国分寺の地であったことの無言の主張とも思われる。
常慶山国分寺1:部落の中に本堂・鐘楼・小堂・庫裏(集落の集会場?に転用?)のみあり、門・築地塀などの囲いはない。
常慶山国分寺2
常慶山国分寺3:棟瓦で「伊勢国国分寺」を著す。
常慶山国分寺4:国分寺の扁額を掲げる。
常慶山国分寺5:昭和38年には国分寺梵鐘が鋳造されたと思われる。
□「伊勢国分寺陳跡碑記」(亨和2年)
「伊勢国分寺跡T」鈴鹿市教育委員会、2002.3 より
国分町内の「花木山光福寺には国分寺の由来を説く亨和2年(1802)の石碑がある。
この石碑によれば当地には南院・北院の2か寺があり、南院が僧寺、北院が尼寺と云う。
|
伊勢国分寺陳跡碑:左図拡大図
東面し、碑の大きさは一辺34.5cm角、高さ92cmを測る。(実測)
光福寺本堂扁額:本堂に懸かる「南院」扁額
碑文(正面)
碑文(左面):不鮮明なため、写真の右と左は同一のものを掲載。:第2面
碑文(背面):全体写真の撮影は困難なため、上下2枚の写真を合成(中央部で合成)
碑文(正面及び右面)
碑文(左面):最終面
※写真写りも悪く、また無学にして解読できない文字も多々あるが、
「伊勢国分寺陳述碑記
権僧正真淳撰 細谷方明書并テン額
・・・・
貞和2年建立・・・・」で終る。
※要するに江戸後期には、光福寺・現存国分寺附近が「北院」法華尼寺とされ、
南院が金光明護国之寺とされる伝承があったと思われる。
この地では古瓦の出土を見たとも云う。 |
□吉田東伍 「増補 大日本地名辞書」より
伊勢寺《イセデラ》 今村名と為る、松江村の西、堀坂山の東麓を云ふ、大字伊勢寺|岩内 深長等あり。
恵雲寺《エイウンジ》は国分寺と称す、伊勢寺村に在り、古の尼寺なるべし、河曲郡国分寺は僧院なりけん。〔伊勢名勝志五鈴遺響)○日本後紀云、大同四年、始遷志摩国国分二寺僧尼、安置伊勢国国分寺。○日本往生極楽記に見ゆる、上平郷の尼と云ふも此に任せるにや、曰「尼某甲、伊勢飯高郡上平郷人也、暮年出家、偏念弥陀、尼多年意剥手皮、奉図極楽浄土、雖有懇志、不能自剥、干時一僧来問、剥尼手皮、忽焉不見、図浄土之相、一時不離其身、命終之時、天有音楽。○延喜式、飯高郡物部神社、今国分寺々域に在り、〔五鈴遺響〕日本書紀、継体天皇二十三年の条に、物部伊勢連あり、旧事紀云「物部建彦連公、伊勢荒比田連等祖」
※伊勢寺は国分寺と称し、古の尼寺との見解があるようです。国分寺は河曲郡とする。伊勢寺:現松阪市伊勢寺町世古
国 分《コクブ》 今川曲村の大字也、山辺の東北に接す.国分寺は今浄土宗を奉じ、常慶山と号す、〔東海道図会〕蓋僧寺なり、飯高の伊勢寺を参考すべし。大鹿三宅神社は今国分の大鹿《オホカ》山に在り、天神と称す、延喜式に列し、神宮雑書に「建久三年、大鹿村号 国分寺領」と見ゆれば、村名旧大鹿、蓋伊勢大鹿首の祖神なり、社畔土中より古瓦を出す。〔五鈴遺響神祇志料〕○敏達紀曰、采女 伊勢大鹿首小熊女、曰菟名子夫人、生太娘皇女与糠手姫皇女。姓氏録曰、大鹿首、津速魂命三世孫、天児屋根命之後也。○古事記伝云、大鹿首は伊勢より出たる姓なり、続紀(十七)伊勢大鹿首、又(廿三廿四)大鹿臣子虫、神宮雑事記、治暦三年、河曲神戸預 大鹿武則、東鑑、伊勢国大鹿俊光、大鹿兼重、大鹿国忠など云人見ゆ。
鬼太《キタ》神社は延喜式、河曲郡に列す、今川曲村大字|木田《キタ》の八王子是なり。
補【大鹿三宅神社】○神祇志料 今国分村天神山にある天神蓋是也(式内社検録)
按、本書引神宮雑書に建久三年注進状当御国内大鹿村を国分寺領と号すとあれば、当村大鹿村を廃て国分村と唱ふる事知べし
蓋伊勢大鹿首の祖天児屋根命を祀る(古事記・日本紀・神宮雑事記・東鑑)
※僧寺は河曲郡国分にある浄土宗常慶山国分寺との認識と思われる。
塔 世《タフセ》 今津市に入る、安濃川(一名塔世川)以北の総名なり。五鈴遺響云、塔世は今町家と為り、別に穢人の居を塔世村と呼ぶも、往昔はさにあらず、塔世寺(四天王寺)康平五年の古田文によるも、七百余年来の称する所なり、其古田文は
(中略)
補【塔世】安濃郡〇五鈴遺響 塔世は津府城の属邑に今はなれり、塔世の上橋を渉て川岸の巽位に塔世村と称する穢人の居あり、其屠児を指して今はいへども、往昔は今の塔世町万町の辺は都て塔世町なり、神鳳抄異本に土深と記せしは伝写の謬なり、然れども前の康平五年の古田文に四天王寺字は塔世寺の文を填れば、七百有余年称する処なり。
四天王寺《シテンノウジ》 本尊薬師如来、俗説に国分寺なりと云は非なり、鎌倉武家の頃、邑主加藤氏の重興にや、又山之庵と云へば、旧は山頭に在りしか、永享年中禅僧永龍中興す、元亀の比、北畠国永此寺に祈願したる由、国永卿記に見ゆ、文禄三年、織田信包の母堂(即信長の母)津にて逝去し此に葬る、富田氏寺禄五十石を給附し、藤堂氏堂宇を修造す、塔世薬師堂と称す。〇五鈴遺響云、文化二年、塔世寺薬師仏関龕して、詣人に拝せしむ、仏躯の中空虚にして物を容るに似たり、探り見るに一巻軸及び糸巻様の物に坪糸を巻纏するあり、又準尺一本を得たり、其冊子及旧案を披くに、承保四年及び康平五年の古文書あり、其文に薬師仏は僧定(石+疑)物部美沙尾本願に依て、物部吉守服部重孝等此像を造りて仏体中に秘むといふなり、此冊子及旧案は四天王寺に今に蔵せり。
(中略)
按に塔世寺は物部氏安努建部君の創立なるべし、五鈴遺響は承保四年の造立と為せど、康保旧案に弘仁天長の勘註を曰へば、弘仁以前なるやも知るべからず。
※四天王寺が国分寺との「俗説」もある(あった)と思われる。
★1)史蹟伊勢国分寺跡発掘情報(問題の発端あるいは所在)
中日新聞2006/01/06記事:
『伊勢国分寺跡に「院」』『鈴鹿市考古博物館、発掘調査で確認』
「鈴鹿市考古博物館は5日、同市国分町の伊勢国分寺跡第31次発掘調査結果を発表した。(中略)
伊勢国分寺跡は1922(大正11)年10月に国の史跡に指定された。88(昭和63)年度から寺域の確認や国分寺のシンボルである塔跡や墨書土器の発掘調査に取り組んだが、計画的な年次調査の最終年度の今回も墨書土器や推定される七重の塔跡は発見できなかった。国分寺跡は全国に60余りあるが、国の史跡で発掘調査をして塔跡が見つからなかったのは伊勢国分寺跡だけ。(後略)」
※以上の記事によると、31次に及ぶ伊勢国分寺調査(今回は計画発掘の最終年度)でも「塔跡」の検出を見ないという。
これは何か「異様な結果」とも思われる。
★2)「鈴鹿市考古博物館」ホームページ情報
☆「国史跡 伊勢国分寺跡」より抜粋・要約
○伊勢国分寺跡の発掘調査
・伊勢国の国分寺は現在の鈴鹿市国分町に建てられ、鈴鹿川左岸の標高43m前後の丘陵上に位置する。
・奈良時代中期の伊勢国府跡は現在の広瀬町長者屋敷遺跡であることが確認済。(国史跡国分寺からは西南約7kmに位置)
・この地は豪族「大鹿(おおか)氏」(『日本書紀』に登場)の本拠地と考えられる。
・近年、国分寺の南面に奈良時代前半期の河曲郡の郡衙遺構が発見された。
・大正11(1922)年、国分町字堂跡を中心とした約200m四方が「国史跡伊勢国分寺跡」に指定された。
・尼寺跡についてはこれまでその正確な位置が不明なままであった。
○僧 寺
・国分集落の西方で、字「堂跡」「西高木」「西谷」地区に所在し、現在は畑や水田となっている。
付近にはおびただしい瓦片が散乱し、戦前には西側に土塁(築地)が残存していた。(国史跡伊勢国分寺跡指定理由)
・昭和63年度から3カ年実施した伽藍地の範囲を確定する発掘調査で、四周の築地跡と雨落溝が検出され、
寺域は東西178m×南北184mの規模であることが判明している。
・平成11年度の調査では講堂の位置・規模を確認。
講堂は現在、石碑が建てられている土壇付近において確認された。講堂基壇地下の基礎地形は東西約33m・南北約21mを測り、その平面形態から7間×4間の柱間を持つ建物が想定される。築造当初の基壇はほとんど失われているが塼による基壇化粧の基底部が残存しており、平瓦・丸瓦で補修された箇所も見られた。講堂北西部では軒瓦が軒から落下したままの状態で並んで出土した。
・平成12年度の調査では金堂の位置・規模を確認。
金堂はさらに基壇の残りが悪く、基礎地形の範囲から東西約28m・南北23mの基壇と5間×4間の建物が想定される。なおこの基礎地形は創建当初のものと見られ、その一部は瓦片を含む整地層によって壊されている。この整地層は改築に伴うものと考えられ、南辺部にはせんからなる改築時の基壇基底部が残されている。
・その他主要伽藍である塔・中門・南門については平成13年度以降、調査を行っていく予定である。
※塔については、第31次調査でも明確にならなかったと報じられる。 |
○尼 寺
・現在の国分集落内に花木山光福寺があり、その境内に建てられた「伊勢国分寺陣跡碑記」には当地には「南院」(僧寺)と「北院」(尼寺)が存在したことを記している。この内容の真偽はともかく北院とされる字北条一帯と南院とされる字南浦の両者とも古瓦の散布地であることは間違いない。
・平成5年の北条一帯(北院)調査で集落のすぐ西から大規模な瓦溜まりが検出された。鬼瓦のほか僧寺とは異なる奈良時代中期の軒瓦が出土し、翌年の集落北側の調査で大規模な区画溝や柵列が検出されるなど現集落と重なるようにして尼寺跡が存在することは確実視されるようになりつつある。
○南浦(大鹿)廃寺
・「南院」の地はこれまで尼寺跡とも考えられてきたが、平成3年度からの調査によって大規模な瓦溜まりとともに伽藍地の東限を示すと見られる溝や掘立柱建物を確認した。およそ100m四方の伽藍地が推定される。
・出土瓦の大部分が白鳳期(7世紀後半)に遡るもので、この寺院跡が尼寺跡ではなく、白鳳時代の寺院であることが判明したため南浦(大鹿)廃寺と命名した。(※この命名は大鹿氏氏寺の意と思われる)
・出土瓦には平安時代にまで降るものもあり、10世紀代まで寺院として機能していたと思われる。
○河曲郡衙(かわわぐんが)
・平成6年、史跡伊勢国分寺跡の南方に東西に並ぶ柵列で区画され、整然と並ぶ掘立柱建物の倉庫群が発見された。
・平成7年、範囲確認調査で、10棟の倉庫が「コ」の字状に配置されていることが確認された。倉庫の中で最大のものは8.4m×6mの規模で、柱を据え付けるために掘られた穴は一辺が1m以上もあり、柱は30cmを越える太いものが用いられ、床を支える束柱を持つ倉庫である。この倉庫は、稲穀を保管する「正倉」と呼ばれる倉庫であり、河曲郡「郡衙」の附属施設と推定される。
また倉庫の東150mの博物館進入路や駐車場からも方位を揃えた掘立柱建物群が確認された。床面積が75平方メートルと伊勢国分寺周辺で最大級に及ぶ高床式の建物も検出されている。河曲郡衙の官舎であるか、あるいは郡衙の役人である「郡司」の任についていた豪族大鹿氏の居宅ではないかと考えられている。
※国史跡伊勢国分寺・光福寺・現存鈴鹿国分寺・南浦(大鹿)廃寺位置図その1
※国史跡伊勢国分寺・推定伊勢国分尼寺・推定南浦(大鹿)廃寺位置図その2
※伊勢国分寺第30次調査区配置図(1/2000):「速報展 発掘された鈴鹿2004」鈴鹿市教育委員会 所収・転載
伊勢国分寺第30次調査区配置図:下図拡大図
☆「三重県鈴鹿市伊勢国分寺跡−第3次発掘調査概要報告−」鈴鹿市教育委員会、1991.3 より抜粋要約
※以下の注目すべき記載がある。
・「東海道名所図絵」(寛政年間):巻の2
国分寺跡:石薬師の東、河曲郡国分寺村にあり。今浄土宗となる。常慶山と号す。往昔元明帝養老年中に営みたまう一州一寺の古跡なり。
※この地に「国分寺」の名があり、早くから伊勢国分寺として認識されていたようである。
この記事は国分寺村に国分寺があることを伝えるのみで、大正年中に史蹟指定された現史蹟範囲を証明するものでは勿論ない。
・「三国地誌」(宝暦年間)には「国分村南ニ方三百歩ハカリ荒曠ノ地礎石破摶散在セル」とあり、瓦類が散在しているものの明確な遺構はすでに消滅していたものと思われる。
・伊勢国分寺跡を考古学的に初めて考察したのは鈴木敏雄氏であった。
「河曲村考古誌考」(鈴木敏雄著、1936年)によれぱ、当時、顕著な遣構として土塁と土壇を指摘している。
土塁は土壇の西に北土塁(長さ15間、幅3間半、高さ5尺)と南土塁(長さ2間半、幅3間半、高さ5尺)の2カ所であるが、古老の話として、数十年前までは、この土塁よりさらに南に数十間、そこから東に約百間の土塁が存在したことを記している。その土塁の上部には約9尺毎に頂上より3尺下方に3個の石を水平に埋設していたということである。土塁は不整長方形で、南北40間、東西中央部で24間を計るが、50年程前までは土塁は南にさらに約12・3広がっており、高さも周囲より約2間程高かったという。
また、北辺では、長?(文字不明)を縦に一列に埋設した箇所があったり、高さ2寸程の小型の金銅仏一体を発見したという。さらに鈴木氏は土塁の位置や土壇の形状、微地形等を考慮して、残存土壇は「講堂」であり、東に「金堂」及び「門」を推定する東面の伽藍配置を想定している(第1図参照)。なお、土壇は現在は南北約30m、束西20mと戦前の半分以下になっているし、土塁も1960年代までは残存していたが、現在は無い。
※(第1図)鈴木敏雄氏による伽藍想定図
※「三重県河芸郡河曲村考古誌考」鈴木敏雄著、昭和16年 より
・国分僧寺の位置については異論を挟む余地は無いが、国分尼寺については未だ確定的な比定地は定まっていない。
萱生由章「常慶山国分寺縁起」(明和8年)や「勢陽五鈴遣響」(天保4年)には松阪市伊勢寺を尼寺跡として推定しているが、論外であろう。
※「論外であろう」と1991年当時には断定されているが、現段階では一考を要すると思われる。
※「松阪市伊勢寺」については、以下のような情報がある。但し、詳細は不詳で、正確なことは不明。
伊勢寺跡:
● 奈良時代/松坂市伊勢寺町世古62/指定面積:2,180平方メートル
昭和12年11月5日県指定(※三重県指定史蹟)
伊勢寺町地内に入って間もなく、市道外五曲伊勢寺線の北側に一段高く真言宗に属する国分寺(かつては慶雲寺と称していたが、江戸時代になって国分寺と改められた)の境内がある。
この国分寺境内を中心とした東西150m、南北180mの方形区画が伊勢寺跡の寺域と推定されている。
指定区域はその一部で境内にかぎられる。
伊勢寺跡の創建は出土瓦から、7世紀末ごろと考えられ、その後、奈良時代から平安時代初頭にかけて大規模な伽藍の整備がおこなわれたと思われる。なお、伊勢寺跡の寺域北側からは、緑釉の瓦が出土している。
・国分集落内の光福寺には「伊勢国分寺陳跡碑記」(亨和2年)があり、金光明寺(南院)と法華寺(北院)の存在を記している。
南院は現国分集落の字南浦、鉄工所及び墓地付近に、北院は常慶山国分寺より以北の地にそれぞれ比定されており、鈴木氏はその「南院」を国分尼寺に比定している。古瓦は国分僧寺付近は言うに及ばず、国分集落や遠く東の寺山遣跡付近にまで散布しており、軒瓦が光福寺境内からも出土している他、南浦の地からは僧寺と異なる軒瓦が採集されており、一応この地を「尼寺跡」として推定している。
★3)「ASAO'S
HOMEPAGE」情報
☆「歴史」の項より抜粋・要約
○伊勢国分寺跡
上記の「鈴鹿市考古博物館」の記事とほぼ重なる記述がベースですが、それ以上の貴重な情報があります。
(重複する記述は省略)
2.伊勢国分寺
(前略)「伊勢国分寺陳跡碑記(享和2年建立・光福寺境内)」には金光明寺(南院)と法華寺(北院)の存在を記していて、現在の国分町集落を「北院」、その南方の「南浦地区」を「南院」と比定されている。
以上の続きに以下の記載がある。
『また現在の常慶山国分寺の南側の道路に沿って土塁が存在し、その東方には「鐘衝堂」と称される土壇がかつて存在したとの言い伝えがある。』
3.発掘調査
【尼寺】 現国分町集落地に比定される。1993、94年の調査で寺域の北限の溝と考える遺構が見つかり、前述の現国分寺前の土塁の存在を信じるならば南北が約160mほどの寺域が想定される。これらは国分町集落の地割りとほぼ一致していることも興味深い。出土瓦と土器から8世紀後半〜10世紀後半の存続時期が考えられる。「南院」の南浦廃寺の調査では、東築地跡が確認されている他は、基壇など直接寺院に伴う明確な遺構は見つかっていない。瓦は川原寺系の白鳳期の瓦が多数見つかっており、瓦の包含層から東西約95m、南北約110mの寺域が推定されている。ただ1997年の寺域の北西部の調査では15棟の規則性を持った掘建柱建物跡が発見されており、寺院の僧坊あるいは大鹿氏の居館と推定されている。
【出土遺物】 奈良時代から平安時代前期の少量の土師器、須恵器、灰釉陶器を除くと、出土遺物の大半は瓦である。
僧寺跡付近にはおびただしい瓦片が散布している。軒瓦は僧寺、尼寺と別個の系統の紋様を持つことが特徴である。
現在判明している軒瓦の型式は僧寺が軒丸瓦3型式9種類、軒平瓦3型式6種類、尼寺が軒丸瓦3型式5種類、軒平瓦2型式6種類が確認されている。僧寺の創建瓦は単弁八葉蓮華文軒丸瓦と均整唐草文軒平瓦で伊勢国分寺特有の紋様である。また尼寺の創建瓦は単弁十二葉蓮華文軒丸瓦と均整唐草文軒平瓦である。瓦窯は僧寺が寺域の東北付近と山辺町に、尼寺は加佐登町の川原井瓦窯で焼かれたことがわかっている。南浦廃寺では山田寺系の単弁八葉蓮華文軒丸瓦と川原寺系の複弁八葉蓮華文軒丸瓦、重弧文軒平瓦が出土している。
※以上の参考文献には以下がある。
◆「三重県鈴鹿市伊勢国分寺跡−第3次発掘調査概要報告−」鈴鹿市教育委員会、1991.3
推定尼寺跡1991年第3次発掘調査調査区
◆「三重県鈴鹿市伊勢国分寺跡−尼寺跡推定地の調査−」鈴鹿市教育委員会、1992.3
推定尼寺跡1992年調査区
※推定国分尼寺跡及び南浦(大鹿)廃寺については、調査範囲が限定されていて、詳細は不詳と云う。
しかし古代の寺院址であることは間違いないものと思われる。
★4)「国史跡 伊勢国分寺跡」の妥当性について
1)大正年中に、現地が「史蹟 国分寺跡」として史蹟指定されたが、この遺跡が「古代寺院跡」であることは明確であったにせよ、
「国分寺跡」であるとされる明らかな伝承あるいは遺物などの裏付けがあって指定されたものでは無かったと思われる。
それ故、正確にいえば、「国分寺跡と推定される遺跡」あるいは地名の「国分廃寺」などでの史蹟指定であったというべきであろう。
「伊勢国分寺跡 第30次発掘調査現地説明会資料」2005/03/05 では
以下の見解が示される。
伊勢国分寺の伽藍地を南北方向の築地塀で囲われた西側の狭い範囲と捉え、塔が無いことから、尼寺跡と考える移建もあります。しかしこれまでの調査から積極的に尼寺とする証拠も確認できていない。
(国分寺であるという前提で)引き続き塔の確認作業を続けていきたい。
また、「伊勢国分寺跡5」鈴鹿市考古博物館、2005.3 では
以下の見解が示される。
塔推定地調査区:
これまでの調査において,伊勢国分寺跡の主要伽藍は約180m四方とされる伽藍地の西3分の2に偏ることが確認されてる。
そのため,東側3分の1の広い空閑地に塔が建てられていた可能性が高いと推定されてきた。
しかし,
期待に反し、第28・29次調査では伽藍内南東院の南東隅で大型の掘立柱建物が南北2棟確認され、塔の痕跡はなかった。
また,北東院では食堂と考えられる大型の掘立柱建物が確認され,伽藍内を築地で区画したそれぞれの院の構成が次第に明らかとなつつあり,伽藍地内で塔を建てることができたのではないかと考えられる空閑地が次第に限定されてきた。
そのため今回の第30次調査では,第28次調査でトレンチ調査を行った箇所について,面的に広げ塔基壇の確認を行うこととした。調査箇所は,塔の建設が可能であると考えられる空間を考え,南東隅の大型掘立柱建物の西側で伽藍内を東西で区画する南北の築地塀との中ほどの地点に設定した。
しかし,残念ながら当初の大きな目的であった塔については,何ら手がかりを得ることができない結果となった。
塔の確認については,伽藍地内の施設の配置が明らかになるにつれて,塔を建設することのできるスペースや未調査地が限られてしまい,年々確認する条件が厳しくなっているのが現状である。
2)数次に渡る計画的発掘にも関わらず、なぜ「塔跡」及び「塔の遺物」が発見されないのか。
その理由は
(A)塔跡が後世に壊滅的に破壊されたあるいは流失したために検出できない。
(B)塔は築地塀に囲まれた180m四方とされる伽藍地をはみ出した別の塔院もしくは遠く離れた場所に単独で建立された。
(C)伊勢国分寺には塔が建立されなかった。
(D)「史蹟 国分寺跡」は国分寺ではない。
などが考えられる。
(A):
地形的に見て流失の可能性は無いと思われる。
現地は後世の耕作で削平され遺跡の残存状況は極めて悪いが、鈴鹿市教育委員会の発掘の丁寧さ、発掘面の広さ及び発掘技術の確立などから判断して、全く痕跡が発見されない
と云うことは遺構が無いものと考えるのが自然であろう。
(B):
武蔵国分寺の例が知られる。
武蔵国分寺では、確かに中心伽藍から遠く離れた、東やや南の東南隅に塔跡・心礎を残す。
但しこの国分寺の寺域は例外的に広大と思われる。広大な武蔵国分寺と同列に考えていいのかどうか、伊勢国分寺において、その必然性があるのかは疑問に思われる。
(C):
この可能性はまず無いであろう。
もし、そうであるならば、塔の無い特殊な国分寺ということになる。
伊勢国分寺だけ、塔の無いプランであったあるいは塔が建立されなかった合理的根拠は現時点では何も無いであろう。
(D):
「史蹟 伊勢国分寺跡」というこの遺構は、実は国分寺跡ではなく、例えば「国分尼寺」のなどの別の遺構である可能性が高いのではないか。
近年の発掘調査は以上のことを示唆するのではないかと思われる。
(D)であるとすれば
3)創建伊勢国分寺の遺構はどこなのか。
以上の答えは、鈴鹿市教育委員会の発掘成果・発掘報告などから、
「推定国分尼寺跡」もしくは「南浦(大鹿)廃寺」が「国分寺」であり、「史蹟伊勢国分寺跡」が国分尼寺である可能性が高いと思われる。
※南浦(大鹿)廃寺は白鳳期の創建とされるが、畿内の瓦の編年を伊勢に当て嵌めたもので、畿内の瓦の編年の地方への適用もしくは瓦の編年そのものがそれほど信憑性のあるものだろうか?。
もしその信憑性が崩れるとするならば、南浦(大鹿)廃寺も国分寺跡である可能性は捨てきれないとも思われる。
しかし、いずれにしろ、推定国分尼寺跡・南浦廃寺の実態がはっきりしなければ、想像でしかない。
※松阪市伊勢寺跡についても、後世の名跡の継承の可能性が高いものと推測はされるが、詳細な検討も必要かと思われる。
☆再びお断り
以上の見解には、鈴鹿市教育委員会をはじめとする関係各位の努力・その成果などを否定する意図は全くありません。
むしろ逆に、伊勢国分寺を巡る関係各位の努力には敬意を表し、その成果に深く感謝するものである。
※掲載画像
国史跡伊勢国分寺・光福寺・現存鈴鹿国分寺・南浦(大鹿)廃寺位置図その1
国史跡伊勢国分寺・推定伊勢国分尼寺・推定南浦(大鹿)廃寺位置図その2
伊勢国分寺第30次調査区配置図
鈴木敏雄氏による伽藍想定図
推定尼寺跡1991年第3次発掘調査調査区
推定尼寺跡1992年調査区
2009/04/29追加:
5)再び国分寺跡を廻る問題について
●伊勢国分寺整備計画の関する伊勢市教育委員会資料では以下のように述べる。
当国分寺を中心とする地域に3箇所の寺院遺跡がある。
(1)史跡「伊勢国分寺跡」 (2)伊勢北院(国分町) (3)伊勢南院(国分町南浦)
既述のように、「伊勢国分寺陳跡碑記」碑(国分町光福寺)には、金光明寺(僧寺)を「南院」、法華寺(尼寺)を「北院」と称したとある。
「平成3年(1991)南院を中心とした範囲で発掘調査を実施。その結果、多量の白鳳期の瓦を含む廃棄土坑を発見したため、白鳳時代の寺院が存在していたことが判明し、尼寺とは異なる大鹿氏の氏寺(大鹿廃寺)と考えられるようになった。
伊勢国分寺跡第6次調査(1993)では、北院に当たる最も集落に近い調査区で、僧寺と異なる奈良時代の鬼瓦、軒瓦を伴う大規模な瓦溜まりを検出し、ここが伊勢国分尼寺跡の可能性が高った。第8次調査(1994)では集落の北に接する箇所に調査区を設け、複弁八葉蓮華文軒丸瓦、均整唐草文軒平瓦、鬼瓦等が出土し、区画溝や柵を検出した。以上のことから北院と呼ばれる区域が尼寺と考えられるようになった。しかし、寺域の確認には至っておらず、今後の発掘調査が期待されている。」
伊勢国分寺・北院・南院位置:同じ構図の絵は上に何度か掲載している。
※伊勢市見解では「北院」は発掘調査の結果、伊勢国分尼寺跡の可能性が高まったとするが、
逆に現在の「史跡伊勢国分寺跡」は国分寺ではなく、国分尼寺と推定される北院が実は国分僧寺ではないかと考えても矛盾はないとの結論が導かれても不自然ではないであろう。
なぜなら、「史跡国分寺跡」において、塔跡の可能性が考えられる地点のほぼ全面発掘にも拘らず、その痕跡が見出せないと云うことから、この遺跡には塔が存在しなかった可能性が極めて高く、従って、国分僧寺は別の遺構に求めるべきと考えるのが自然と思われる状況がある
からである。
※南院はその出土瓦の年代から白鳳期の遺構とされ、国分僧寺や尼寺ではなくて、大鹿氏の氏寺(大鹿廃寺)と判断される。
以上のことは別にして、伊勢市では「史跡伊勢国分寺跡」の復原整備計画を持ち、その検討が行われる。
その過程で多くの情報が公開される。
結論を得たわけではないが、以下のような整備案が示される。
伊勢国分寺整備計画図 伊勢国分寺整備イメージ図
補足:
●明星山国分寺
亀山市関町(JR関駅北方約5km)にも「伊勢国分寺」と称する寺院が現存する。
※伊勢国国分寺との関連は恐らくないと思われる。
明星山国分寺縁起:「当明星山国分寺は、今より千百有余年の昔天平15年、行基菩薩の始めて開基し給う所、・・・・聖武天皇の勅願所にして一国無隻の霊場なり。・・」、真言宗。
また、弘仁6年(815)嵯峨天皇の霊夢により、弘法大師42歳のとき国分寺で「虚空像求聞持の法」を修業中、明星が瑞光を放ち飛び、柏の大樹に入る、大師はこの霊樹で虚空蔵菩薩を刻み本尊となし、山号を「明星山」と称したと云う。
相当な山中(明星山)に位置すると思われる。
何らかの「事情」で伊勢国分寺の「由来」「名跡」を引継いでいる可能性もあるが、位置する場所や行基菩薩の開基ということ、弘法大師中興に象徴される「縁起」から判断すると伊勢国分寺とは関係なく、真言道場としての成立した寺院と思われる。
2006/04/27追加:
○「国分寺の研究 上・下巻」 角田文衛/編(1938)所収:「伊勢国分寺」佐藤虎雄 より:
「・・・土壇跡は小字堂跡にあり、南北40間東西約20間、周囲の畑よりやや高く最高部2尺ある、古老の言によれば、この土壇は南方にさらに約12.3間延び、約2間の高さを有しながら、約50年前に開墾により、地均しをし壊されたものであるという。・・・
萱生由章「『常慶山国分寺縁起』では礎石の存することを述べ、また古老も約40年前に礎石らしい石を数十個他に搬出したという。」「土居は土壇跡の西方の松林中に少しばかり存している。長さ約10間で現状では5尺内外、高さ約3尺の規模である。・・・古老の言によれば数十年前まではこの地点より南方隅に至る数十間、さらに之より約100間の間に土居を有していたが、開墾されたものである。・・・」
○伊勢国分寺の土居
「常慶山国分寺は・・・いつしか東方に移る、・・・本尊は薬師如来、浄土宗知恩院末、本堂庫裏鐘楼を有するが、檀家もなく地区民が支えている。・・・」
「真宗高田派光福寺に『伊勢国分寺陳跡碑記』(貞和2年)がある、この碑は当寺釈普聞が建立、一身田西院の僧真淳の撰になる。・・・文中に『所置本州者金光明寺称南院法華寺北院』という一文がある。そして光福寺が南院を再興したものであるとする。・・・寛政年間神戸侯幽篁来り、その筆による『南院』の額が掲げられている。・・・」
2009/09/26追加:
○「国分寺址之研究」堀井三友、堀井三友遺著刊行委員会編、昭和31年<但し堀井三友は昭和17年歿> より
国府部落の西方が指定国分寺址である。
史蹟は東西約100間、南北約125間で、中央西よりに不正形の土壇(40間×20間ほど・高さ2尺)があるが、以前はその南方に12,3間延び高さも2間ほどあったという。50年ほど前開墾され現在の姿にあり、開墾の時に数十個の礎石を搬出したと伝える。
その西方約30間に土居(幅9尺高さ約4尺長さ10間ほど)があるが、数十年前までは南方隅まで数十間、さらに南隅から東方へ100間の同様の土居を有していたと云う。これ等の土居の全部には長さ9尺ごとに土居の中央部で頂上より約3尺下方に10貫内外の扁隋球状の自然石を3個水平に配列埋没してあったと云う。
さて旧土居址をほぼ正確なものとして考えると、寺料4万束(「延喜式」)の国分寺としてはやや狭小にすぎるのではないかと思われる。塔址らしきもののないことも(勿論消滅したのかも知れないが)この地を国分寺と考えないで、尼寺の址とすべきではないか。
国分寺址は現在常慶山国分寺のある地を中心にした南北に亘る地域とすべきであろう。その南方字花の木は約1町歩に亘って古瓦を出土し、この付近を南院と称する。花の木には礎石1個を存する。(上述の)「伊勢国分寺陳跡碑記」(貞和2年)では南院の地を国分寺跡と陳べる。
2011/07/28追加:伊勢国分寺跡・国分尼寺の位置については、当論文の論点に今一度立ち返るべきではないかと示唆される。
2022/08/03追加: ◆伊勢国分寺塔跡に関する現状
2022/08/02:oshiro tennsyukaku氏から、伊勢国分寺跡が整備されたとのツイッターの知らせを頂く。
伊勢国分寺跡は「塔」遺構が発見できず、少々不安定な状況である。 故に、少々、「塔」遺構についての評価を探って見ることとする。
○「国指定史跡 伊勢国分寺跡」鈴鹿市考古博物館ルーフレット、2000年頃? より
本ルーフレットには、塔については、次のように記す。
<塔 国分僧寺には七重の塔を建てることが定められている。そのため、さまざまな国分寺の伽藍配置を参考に確認調査を行ったが、塔跡は検出されなかった。
すでに削平されてしまったという可能性ある。また、伽藍地と考えてきた180m平方の範囲外の塔院のある可能性を考え、さらに周辺の調査を行う必要性がある。>
<小院 北東院に先行する東西45m×南北30m以上に築地に囲まれた小院である。
この院内には一辺27m四方の溝状の遺構が確認されており、金堂などに見られる建物の周りに掘られた溝と同様のものとすれば、この小院は塔院の可能性が考えられる。>
伊勢国分寺復元イラスト 伊勢国分寺整備実施平面図
○「史跡伊勢国分寺跡保存整備事業報告書」鈴鹿市、2020年 より
小院 (第24図) 小院は伽藍地東半、金堂の東に存在する。創建期には存在し、北東院築地が整備された時期には完全に撤去されていた。
築地塀による区画で何らかの重要な施設が存在したことは疑いない。
東西45m(150尺)×南北30m以上の、基底部幅2.4〜2.7mの築地塀に囲まれ、南面に掘立柱の棟門が開く。小院内部にはさらに不連続であるが溝がほぼ正方形にめぐることが確認された。
溝の芯々で一辺約27m(90尺)、内法で26mほどとなるこの方形区画は小院と極めて関連の深い遺構と考えて良い。
小院の東西規模は、伊勢国分寺の造営規格と想定されている36尺方眼の4区画分に近似し、小院の中軸は金堂の中軸から同じく約7区画分に相当する。
小院及びその内部の方形区画遺構の形状や位置関係に最も近いと考えられる国分寺関連の施設としては塔院があげられる。
塔院を有する国分寺には陸奥・山城・河内・近江(甲賀寺)・肥後などが知られ、その区画施設としては、陸奥のごとく回廊の場合と山城・河内など築地塀が想定される場合とがある。
※陸奥国分寺跡、山城国分寺跡、河内国分寺跡、近江国分寺跡、肥後国分寺
伽藍配置からみると、陸奥国分寺は伊勢国分寺ときわめて相似し、塔院の位置に小院の位置が重なることも注目される。
伊勢国分寺については、小院内部に建物の存在を示す証拠、特に掘込地業が見つからなかったことが大きく、塔院と明言することはあえて避けてきた。
しかし、吉備池廃寺塔(奈良県桜井市)のように大塔であっても掘込地業を持たない例が知られているので、掘込地業が無いことをもって塔の可能性を全否定することにはならない。
とはいえ、水煙など塔に特有な遺物の出土は皆無で、過去には大量に散布していたとされる瓦も開墾によってほぼ失われており、これ以上の検証は困難であるが、ここでは塔院の可能性を残しておきたい。
小院・北東院遺構配置図:グレーの網掛けで小院築地塀が表され、その中に溝に囲まれる方形区画がある。
小院・北東院南辺築地遺構配置図
○「伊勢国分寺跡7」鈴鹿市考古博物館、2009年3月31日 より 小院などの発掘調査報告書である。
伊勢国分寺跡伽藍配置図:金堂東に小院があり、築地に囲まれ、築地内に方形区画がある。
小院・北東院平面図:小院関連遺構はオレンジの網掛けで示される。
2006年以前作成:2022/08/03更新:ホームページ、日本の塔婆
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