第62番天養山 観音院宝寿寺(ほうじゅじ)
            

                     宝寿寺近辺地図
                  
                                JR伊予小松駅から 徒歩約2分

                                 宝寿寺境内 配置図
                            


                   
                         一国一宮 第62番寶壽寺 旧本堂(現在立入り禁止)

                   
                                    現在 本堂

            
             大師堂 読経を奉納している女性信者             納経所

                 
                        御本尊                    納 経

 山 号   天養山
 院 号  観音院
 寺 号  寶壽寺(ほうじゅじ) 
 本 尊  十一面観世音菩薩
 開 基  聖武天皇
 宗 派  高野山真言宗

                  住  所  〒799−1101 愛媛県西条市小松町新屋敷428
                           電 話 (0898)72−2210

         御真言  おん まか きゃろにきゃ そわか 
       御詠歌  さみだれの 後に出でたる 玉の井は しらつばなるや 一の宮かわ

寶壽寺略縁起等(抜粋) 
寶壽寺の沿革:伊予三島軍の菩提寺として、また、大山祇神社の別当院として
栄えていた。
  縁起によると聖武天皇(在位724〜749)は、勅命を発し天平年間(708〜781)
の頃諸国に一の宮を造営した。その折この地に伊予の一の宮神社が建立された。

  大和の僧道慈律師が、勅命を受けて法楽所としての別当寺を創建したのが初
めとされる。
  このとき天皇は、「金光明最勝王経」を奉納され、寺名は「金剛寶寺」と称して
現在地でなく中山川下の白坪という地にあったと伝えられている。

  弘法大師は、大同年間(806〜810)この寺に留まり、聖武天皇の妃である光明
皇后の姿を模った「十一面観世音菩薩像」を彫造した。
これを本尊とし、寺名を「寶壽寺」と改めて、霊場とされた。

その頃、国司の越智公夫人が難産で苦しんでいたとき、弘法大師の祈願等により
無事出産したことにより、以来、安産の観音様として信仰されている。

天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐の戦禍で寺は壊滅し、さらに明治維新の
廃仏毀釈令により廃寺となったが、明治10年に再建された。

        

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