『聖なるイチジクの種』(The Seed of the Sacred Fig)['24]
監督 モハマド・ラスロフ

 イスラム教徒女性が頭や体を覆って隠すことを義務付けられているヒジャブは、単に女性に対するものを超えた抑圧と暴虐の象徴なのだろう。女性のみならず民衆を力で抑えつける無理が大いなる悲劇を招くことを、恩讐の根深さの産む惨劇として描き出した秀作だったように思う。何より圧倒されるのは、実際の抗議デモとそれに対する暴圧を捉えたと思しきケータイ画像で、その凄まじさと生々しさに恐れ入った。

 意表を突く犯人が判明したとき、その動機はどのように明かされるのだろうと気になった部分は、妻ナジメ(ソヘイラ・ゴレスターニ)を無自覚に蔑ろにしていた革命裁判所調査官イマン(ミシャク・ザラ)への怒りと嫌がらせというのでは少々拍子抜けしたが、まさに恩讐としての根深さを訴えたかったのかもしれない。図らずも一家を支配している男権を懲らしめるどころか打倒してしまっていたが、それによってナジメ以下、レズワン(マフサ・ロスタミ)とサナ(セターレ・マレキ)の母娘の暮らし向きが、以前より良くなるとは到底思えない設えにしてあるところが秀逸で、この問題の根の深さと解決の困難さを暗示しているようにも思えた。イランの民衆にとって必要なものが、単なる政権打倒では得られないことは間違いない気がする。

 それにしても、イマンの迂闊さというのはどうだろう。そもそも彼が家庭内とはいえ、銃の保管をあれほどぞんざいにしていなければ、かような悲劇は起こらなかったのであり、事態の収拾を図るべく採る手立ての尽くが実に心許ない危うさに満ちていて、却って苦境に追い込みかねない脇の甘さだった。田舎への逃亡に際して、うっかりマスクで顔を隠すことさえ忘れたまま、食料品の大量購入をして怪しまれ、ケータイ動画に撮られるといった有様だった。男権主義者たちの長年の思い上がりによる隙だらけの鈍感さを揶揄しているにしても、余りと言えば、余りのような気もした。そのうえでの唖然とするような逆上は、ほとんど狂気に映りかねない愚鈍さだったように思う。対立する娘と夫に挟まれて苦悩するナジメの哀れさが印象深かった。

 夫が逆上を見せるまでは、娘より遥かに先に夫の本性に気づきつつも、娘にそれを見せたくなくて取り繕うというだけではない信頼と愛情も確かに彼女が抱いていたことを、ソヘイラ・ゴレスターニがよく体現していたように思う。恩讐の恩讐たるゆえんで、大いに納得感があった。
by ヤマ

'25. 3.23. キネマM



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