『青幻記 遠い日の母は美しく』['73]
『日本の悲劇』['53]
監督 成島東一郎
監督・脚本 木下惠介

 定例合評会の課題作として、戦前戦後の薄幸の生涯を閉じた母親の姿を描いた二作を観た。

 先に観たのは母が戦前に亡くなる『青幻記 遠い日の母は美しく』心中天網島のカメラマン成島東一郎が監督・撮影監督のみならず製作も担い、平岩弓枝、伊藤昌輝らと共同脚本にも名を連ねる渾身作で、かねてより気になっていた映画だ。沖永良部島の名を記憶したのは、沖縄返還前の小学校時分の社会科だった。与論島と共に日本の最南端の島として教えられた覚えがあるのだが、沖縄ともども僕自身は一度も行ったことがない。

 鹿児島駅の看板が作中で鹿兒島になっていたのは、'73年当時の実際の風景なのか、'60年代を再現してのものだったのか、少し気になった。それというのも、サワ(賀来敦子)が大正半ばに十七歳で島を出てから紆余曲折を経て、小二の稔を連れて病に弱った身体で島に戻り、半年ほどで劇的な溺死を遂げたのが三十歳なら、昭和六年頃となる勘定だから、それから三十六年後は昭和四十二年頃で、まだ'60年代になるからだ。高度経済成長期の後期における日本の地方都市の変化には目まぐるしいものがあった覚えがあるから、僕が高校生になった昭和四十八年当時に、鹿児島駅の看板がまだ「鹿兒島」だったりすることが意外に思えたわけだ。

 物語は幼き日に亡くした母の最期の言葉どんなことがあっても後ろを振り向いてはいけませんが四十路になっても耳から離れずにいると思しき稔(田村高廣)が、思いっきり過去を振り返る話で、遠い日の出来事が過去のものとは思えない形で今も共存しているさまをまさに眼前に示していた。そういう点では、まさしく映画ならではの作品で、カメラマン出身監督の面目躍如を感じた。ハイライトシーンは、やはり十五夜の浜辺での薪能ならぬ舞をサワが披露する場面で、確かに「青幻記」との名に相応しい画面になっていた気がする。

 ただ幸薄き生涯だった亡母を偲ぶ稔の心情そのものが、僕には今一つ響いて来ず、友人(戸浦六宏)と思しき随行者による補足の弁を踏まえても、三十六年の時を隔てて稔が亡母の墓参を何故することになったのかは、鶴嶺翁(藤原釜足)の言っていた野ざらしにもなっていたサワの骨が呼び寄せたとでも解するほかなく、そのような顛末の付け方に物足りないものを感じた。もしかすると洗骨で描かれていた沖縄や奄美群島で行なわれていた風習である改葬を果たせぬままに三十六年が過ぎていたことへの仕舞いを行なっていたのかもしれないが、作中でそのような事情が分かるような運びにはなっていなかった気がする。稔の祖母(原泉)の話すウチナーグチをさっぱり聴き取り不能のままにしていたあたりには、何かがあったのかもしれない。

 子役の名に新井康弘とクレジットされていたが、ずうとるびのメンバーだった新井なのだろうか。少し面長にすれば、確かに面影を感じる表情を見せていたように思う。また、サワが糸車を廻して糸を紡ぐ傍らでサンシンを弾いていた鶴嶺が、彼女と二歳違いだとはとても思えない老けようだったのには、少々混乱した。三十六年後に稔が訪ねてきた時の鶴嶺は、であれば、六十八歳というわけで、僕の三年後の歳なのだが、翁と呼ぶに相応しい彼ほどの枯れようはできそうにない。


 同日に観た『日本の悲劇』は、二十年ぶりの再見だったが、やはり凄い作品だ。今回は、DVD観賞だったから、前回の観賞日誌終戦から八年、しかもなお、政治の貧困と記した部分が実際は戦争が終わってから八年 しかも尚 政治の貧困だったことを確認するとともに、日誌に戦後日本の動乱期をニュースフィルムと新聞の見出しなどで駆け足に辿りと綴ってある新聞の見出しを抜き書きできる。タイトル前の序章部分で示されていたのは戦争終局へ聖断・大詔渙発す 忍苦以て国体護持文明の裁き 厳然ときて東京裁判のニュースフィルムを映し出した後、天皇の裁判免除決定 連合国の利益に基づくと映し出されていた。

 今観ると、七十年前の荒廃と騒乱状況を報じた記事やフィルムの記録価値を改めて感じさせてくれる作品だと大いに感心した。思うところは、二十年前に綴った日誌と変わりはないけれども、本作のタイトルを『春子の悲劇』の悲劇とせずに『日本の悲劇』としている木下惠介の凄さへの認識を新たにした。


 合評会では、総じて『青幻記』の評判が芳しくなく、メンバー四人ともが高評価だった『日本の悲劇』とのカップリングが気の毒だった。高一のときの公開時に観て沖永良部島の美しさと、どこまでも純粋に母を想う気持ちと息子を想う気持ちに感動した覚えがあるという映友が、当時は若くて先にキネマ旬報ベストテン第3位を知っていたことが影響していたのかもしれないと言っていたのが面白かった。

 『日本の悲劇』について、英語塾教師赤沢(上原謙)が作中で割り当てられていた役回りは何だと思うか問い掛けてみたところ、木下作品に普遍的な男の女々しさではないかとの意見が返ってきたが、二十年前の日誌にその題名ゆえに僕は、この映画を五十年後に観て、井上春子に日本という国を想起し、春子の子供たちに日本国民を感じたと記してある僕としては、当時の日誌では言及していなかったけれども、赤沢が担っていた役回りは、やはり当時の知識階層の無力さだった気がしている。戦時中には敵性語として禁じられながら占領下では持て囃されたはずの英語に長けていながら、私塾で婦女子に細々と教えて糊口の道としている赤沢の不甲斐なさこそは、戦争が終わってから八年 しかも尚 政治の貧困として、二・一ゼネストや昭和電工疑獄事件、下山事件、三鷹事件などの記事やらニュースフィルムを挿入していた本作の示していた混迷騒乱の時代に為す術のなかった知識人の姿であり、手に負えない妻(高杉早苗)の元を逃れて岡山に駆け落ちしようと年若い歌子(桂木洋子)に縋る情けなさに仮託されていた気がしてならない。

 僕はそのように解していたから、些か狂信的なまでに至っていた赤沢の妻が何故そうなったと思うかと問い掛けたときに、唯一人の女性メンバーが「夫がちっとも自分を向いてくれない、好いてくれないことが彼女をおかしくしたのではないか」と応えてくれたのが予想外の回答で面白かった。歌子への異常なまでの嫉妬の源泉をそこに観たということなのだろう。てっきり妻は赤沢を侮蔑していたからこそ娘にまで吹き込んでいると観ていた僕は「彼女は夫の赤沢を好いていたのに夫が応えてくれないから」との見解にすっかり意表を突かれた。夫の不甲斐なさに苛立っていると観ていた僕には、とても新鮮だった。




推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より
https://www.facebook.com/katsuji.yagi/posts/pfbid0272hWYb9Ech9Fjdj
4F219NyMEmXzVRpXAXwXJVjY5weFg6exkCRMs1ncajfctZGFul

by ヤマ

'24. 1.22. スカパー衛星劇場録画
'24. 1.22. DVD観賞



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