| 旭 岳 麟(あさひがくりん) | ||
| 旭岳麟は、寛政11年(1799年)1月10日南都留郡盛里村146番戸(朝日馬場316番地)で父四郎左衛門の長男として生まれた。 本名は不明であるが雅号を「旭岳麟」又は「旭羅山」「明哲」と号した。性来画を好み10代にして僧雲室の弟子、画僧波羅密に弟子入りし、画の道に専念した。 波羅密の生没年は不詳であるが、清水寛家所蔵の山水画の軸に文化15年(1818年)とあり、年代から推察して文化年間前後の人で、富士吉田市の出身といわれている。富士吉田市、大正寺山内の寿命寺に住み、花鳥人物を巧みに画いた。中年江戸に赴き、光林寺に住した。ここが紀州邸の隣りであった関係上、幼君の画の師範となり、後乞われてその領地和歌山に赴き、彼の地で終ったという。 岳麟が若い頃に描いた絵は、大月市真木の平井徳本氏の襖絵と屏風絵があるが、岳麟10代の作で当時医師であった平井氏宅に泊り込んで描いたものといわれている。この絵と清水寛氏の末装帖の襖絵が類似している。 そのほか市内に襖絵や軸等数点保存されているが皆晩年の作である。 岳麟は、20歳頃、江戸へ出て紀州侯のお抱え絵師になったと伝えられているが、このいきさつについては詳らかでないが、江戸光明寺の住職であった雲室や、波羅密との関係が考えられる。 明治維新により徳川家は政権を奉還し、紀州侯も和歌山の領地へ引揚げたため、岳麟は故郷盛里に帰り、寺院等の依頼に応じて多くの絵を残している。 下町の八朔祭り屋台の中幕「三番叟」のほか、主として人物画が多く、師波羅密の画風に似ているが、岳麟独得の画風をつくりだしている。 俳人杉夕とともに寺の天井絵を描き、本光寺の掛軸を始め、78歳のとき描いた西願寺の襖絵、正蓮寺の襖絵と掛軸「諸蔦亮出の図」は岳頻最後の力作である。 明治11年(1878)神官の依頼により小野若宮神社において絵を描いている時突然卒中にて倒れ、盛里の実家に引きとられ、4月15日、79歳の長寿を得て没した。法名は「丹青室釈精神居士」戸沢正蓮寺の壇徒で墓地は朝日馬場の実家墓地に埋葬された。 岳麟は生涯妻をめとらず、生家は弟の周蔵氏が継ぎ、現在に引き継がれている。 |
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| 【詳しく知りたい人】 『都留の今昔』 1978 都留市老人クラブ連合会 |