弁護士佃克彦の事件ファイル

東電OL殺人事件の余波

検事の接見妨害事件

PARTT

今回は私が原告本人となった事件をご紹介

 私は、97年に東京都渋谷区で起こったいわゆる「東電OL殺人事件」で強盗殺人の罪に問われたネパール人男性ゴビンダ・プラサド・マイナリさんの刑事弁護を担当しています。
 事件とは関係のないマイナリさんはこの件につき一貫して関与を否定し、2000年4月14日には、その主張が認められて東京地裁で無罪判決を勝ち取りました。しかしマイナリさんはその後、東京高裁により、無罪判決を受けたにも拘わらず釈放されずに勾留をされ、その挙げ句、同年12月22日に、その勾留を決定した裁判所から無期懲役の逆転有罪判決を受けてしまいました。その後この有罪判決は最高裁でも維持されて確定し、私たちは現在、この大誤判に対して再審請求をしています。
 この事件はこのように、ムリヤリの勾留とムリヤリの有罪判決という著しく正義に反する展開となっているのですが、実は捜査段階でも、考えられないようなひどいことが起きていました。たとえば、マイナリさんと同居をしていたネパール人たちが毎日警察に呼び出されて供述を強要されたり、また、私がマイナリさんと面会(法律用語で「接見」といいます)をしようとしたところ、担当検事にそれを妨害されたこともありました。
 検事によるこの接見妨害に対しては、私自身が原告となって、国家賠償請求訴訟を起こしました。今回は、私が原告となったこの接見妨害事件をご報告いたします。

東電OL殺人事件とは

 お忘れの方のために東電OL殺人事件についておさらいすると、この事件は、97年3月に30代の女性が東京都渋谷区のアパートで他殺体で発見されたというものです。それだけならよくある殺人事件に過ぎないのですが、この件の場合、被害者の女性が「有名」私立大学卒で「一流」会社勤務であったうえ、死体の発見された場所がこの女性の日中の行動範囲からは想像しにくい歓楽街の近くであったことから、マスメディアが俄然色めき立ってしまいました。彼女の社会的属性と歓楽街のイメージとの「落差」がマスコミの一大関心事となり、「独身」「美人」「エリート」OLの「夜の顔」などと題して、極めて興味本意の、法律的にいえば事実の公共性も目的の公益性も感じられない報道が、連日なされました。中には、被害者女性の幼稚園からの履歴をまるまる載せたり、その女性の裸の写真を掲載したものもありました。
 ロス疑惑における三浦和義さんに関する報道や、つくば妻子殺人事件における被害者女性に関する報道など、メディアによる常軌を逸した『のぞき趣味』的報道は跡を絶たず、その度にメディアは厳しく批判されてきたのですが、悲しいかなメディアはこのときもまた同じ過ちを繰り返したのです。
 殺されてしまった上にメディアによって連日大々的に人格をおとしめられたこの女性とその遺族の方たちのことを思うと、言葉もありません。

マイナリさんの刑事弁護を引き受けることに

 この女性の殺害犯人として疑われたのがマイナリさんです。
 マイナリさんは、死体が発見された3日後、自分が殺人で疑われていることを知り、疑われてはたまらないと警察に出頭したところ、観光ビザの期限を過ぎて滞在しているというオーバーステイの被疑事実で別件逮捕されてしまいました。その後マイナリさんは、オーバーステイの取り調べもそこそこに、逮捕勾留中のほとんどを女性の殺人容疑の取り調べにあてられました。そして3月31日にはオーバーステイの件について早々と起訴されたのですが、その起訴後も捜査当局は、マイナリさんに対して殺人容疑の取り調べを続けました。起訴後の別件取り調べというのは、明らかに違法な行為です。警察はマイナリさんを別件逮捕勾留でさんざん取り調べ、自白を強要しました。マイナリさんは事件と関係がないのですから自白しないのは当然なのですが、そんなマイナリさんに警察は、机をぶつける、蹴とばす等の暴行まで働きました。
 私は、同期の神田安積弁護士から誘われてこのマイナリさんの弁護人に就任しました(ちなみに神田さんは、拙著「はじめて読む憲法の判例」の共著者です)。刑事弁護に関しては神田さんの方がはるかにエキスパートなので、私がどれほど役に立つかは甚だ心許なかったのですが、マイナリさんが冤罪に問われ、暴行までされている状況を神田さんから聞くにつけ、居ても立ってもいられず、こんな私でも少なくとも手足にはなれるだろうと思い、私も手伝いをすることにしたのです。
 私がマイナリさんの弁護人に加わったのは4月13日のことでした。それまでは大先輩の神山啓史弁護士と神田さんの二人でしたが、その日から3人体制となりました。
 その後私たちは、交替で、渋谷警察に勾留されているマイナリさんとの接見を続けました。
 そしてマイナリさんがオーバーステイで起訴された後の4月22日、私がこの弁護活動の過程で国家賠償請求の原告にならざるを得なくなるような事件が起こりました。

つづく

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