小熊英二『1968』
 
 
     一
 
 複雑な感慨をもよおさせる力作である。
 著者、小熊英二は、これまでにも一連の力作((『単一民族神話の起源』、『〈日本人〉の境界』、『〈民主〉と〈愛国〉』)など)で、その力量を遺憾なく発揮しており、私の注目を引いていた。私はややもすると他人の著作を読んでその欠点に目が向いてしまうという、教育者にあるまじき困った性格の持ち主なのだが、彼の仕事に関しては、多少の部分的批判がないわけではないにしても、概して非常に高く評価してきた(1)。その彼が、一九六八年前後の日本の若者たちの叛乱を主題とする本を書いた。これはちょっとした事件である。ちょうどあれから四〇年を経たということもあり、刊行の時点で、世間全般でもこの主題への関心が高まりつつあった。あの時代に若かった世代の人間にとってと、当時のことを直接知らない今日の若い世代とでは、関心の持ち方も大きく異なるだろうが、とにかく四〇年前の出来事を振り返り、なにがしかのことを考えてみたいという欲求はかなりの範囲にあるようだ。出版不況が続き、ある程度以上の厚さをもつ本は出版社から敬遠される風潮の中で、こんなにも厚い本(上下巻あわせて約二〇〇〇頁)が刊行され、結構売れているらしいというのは、それだけ、この主題に対する関心が高いということを物語るのだろう。
 読み終えた感想は、冒頭にも記したように複雑である。その理由もいろいろとあるが、一つには、対象との距離をどのようにとるかという問題がある。小熊は一九六二年生まれということなので、六八年前後のことについてリアル・タイムの記憶はおそらくほとんどなく、対象となっている運動や人物は、彼にとって「他者」のはずである。しかし、遠い昔のことを取り扱う歴史書と違って、当事者の多くがまだ生きており、いろんな形で著者とも接触する機会があるだろうことを考えると、いわば「遠い他者」ではなく「近い他者」ということになる。「遠い他者」を扱う際には、対象に対して過度の感情的思い入れをもつことなく、冷静に論じることが相対的にできやすいのに対し、「近い他者」に対しては、共感・幻滅・反撥・批判等々の感覚がつきまとうのは当然である。小熊のこれまでの著作と比べていうなら、『単一民族神話の起源』および『〈日本人〉の境界』では対象との距離が相対的に遠い分、純然たる歴史書としての性格が濃く、『〈民主〉と〈愛国〉』では対象との距離がやや狭まってきていたが、本書に至ってはますますその距離が縮まり、そのことが様々な形で本書に反映しているように思われる。つまり、本書は、基本的には第三者的な立場から冷静に書かれた学術書という性格をもちながらも、ところどころでそれに徹することなく、著者自身の対象への共感や反感がかなり露わになっている場合がある。それは通常の歴史学の作法からすれば欠陥と評される余地があるが、見方によっては、むしろそれこそが独自の魅力だともいいうる。
 こうした書物を読む読者の方も、遠い昔のことを書いた歴史書を読む場合と違って、自分自身の経験に照らして種々の個人的感慨をいだくことだろう。本書には長短取り混ぜて多種多様の反応が発表されているようだが(2)、私の眼にとまった範囲でいうと、どちらかといえば、対象となる時期に若かった、いわば当事者世代からのものが多いようだ。その中には、「自分も忘れかけていたことを思い出させ、きちんと整理してくれてありがたかった」、「自分たちのことが正確に描かれておらず、不愉快かつ不満だ」、「自分たちの欠点を指摘されて、反省した」など、いろいろなものがある(3)。より若い世代の読者の間では、「これまでほとんど知る機会のなかった事柄について好奇心を満たしてくれた」という反応も多いだろうが、他方、年長世代(当事者世代)に対して「うざい連中だ」という感覚をもっていた場合には、「あの運動の限界や欠点が指摘されているのを読んで、溜飲が下がった」と感じるということもあるだろう。もちろん、それ以外にも種々の反応があるものと想定される。
 私自身についていうなら、私もまたかつてこの運動に関与したことがあるので、「大勢の登場人物の一人」としての立場から、いろいろな感慨をいだく(4)。他面、それとは別に、現代史という特殊な分野――対象との時間的距離が小さく、そのことによって、遠い昔を対象とする歴史研究とは異なる独自の困難をかかえる――の研究に携わっているので(5)、著者と対象こそ異なれ一種の同業者という面もある(著者は社会学者でもあり、これは私の守備範囲外だが、それなりの関心をもっている)。こういうわけで、いわば対象に関わる当事者性と、研究分野における同業者性という二重の資格から本書に接近することになる。前者はアカデミズムと関わらない一個人としての感慨であるのに対し、後者はむしろ研究者としての第三者的な感想ないし批評ということになる。この読書ノートでは、基本的には後者の側面を前面に出して書いていく――但し、最後の二つの節は例外であり、その意味で、この小文は第七節までとその後とで性格が異なっている――が、その中に自ずと前者の要素も含まれざるをえないということを断わっておきたい。
 こうして、どのような観点から接近するかが複合的である上に、小熊の叙述も多面的であることからして、感想が単純一筋縄のものになりえないのは当然である。ある個所ではひたすら感心し、ある個所では大筋で賛同しつつも小さな疑問をいだき、ある個所では言い表わしがたい違和感を覚えるなど、いろんな種類の感想がごたまぜになって押し寄せてきた。このような大著――単に分量的に大きいというだけでなく、内容豊富だという意味で大きい書物――に対しては、感想をつづる側もよほど本腰を入れないと、上っ面を撫でるだけにとどまることになりかねない。私がどこまで深く読み抜くことができたか、いささか心許ないが、とにかくそれなりの力を込めて、いくつかの感想をつづることにしたい。但し、あまりに大部の著作であるため、何回も繰り返して通読することはできなかったということを断わっておかねばならない。この読書ノートを書くに当たって私は、先ず一回ゆっくりと、鉛筆で書き込みをしながら全体を熟読し、その直後に、思い浮かんだいくつかの感想や疑問を簡略なメモにまとめた。そのメモをもとに文章化するに際しては、個々の論点に関連するあちこちの個所を、鉛筆での書き込みや索引を手がかりに探し出して、該当個所を何度か読み返した。そして、最後に全体をもう一度、確認のためにざっと速読した。このような読み方であるため、最初に通読した際に見落とした点はその後も気づかないままになっている可能性がある。そうした見落としについては、ご寛恕を乞うしかない。
 
     二
 
 巨大な長編であるので、先ず全巻の構成を確認することから始めるのが適当だろう。本書は序章および結論を別にして、四部からなる。第一部は背景説明(ややさかのぼった前史を含む)、第二部は直接の前史(一九六五年から六八年初頭まで)、第三部は本史(一九六七年一〇月から六九年まで)、そして第四部は後史(一九七〇年以降)という構成である。このような構成は、個々の論点選択や時期区分の細部をめぐって議論の余地がありうるとはいえ、一応は常識的なものといえるだろう。だが、第四部については、そうした常識的な枠の範囲に収まらないものをもっているように思われる。そこで、先ずもって、この第四部がどういう意味で異色なのかという点について述べてみたい。
 通常の歴史書であれば、前史・本史・後史のうち、本史に圧倒的な比重がおかれ、前史と後史は軽い位置を占めるにとどまるのが普通である。本書でも、前史に当たる第二部は比較的短く、本史に当たる第三部が非常に長いという点まではそうした通例に則っているのだが、後史であるはずの第四部が約六〇〇頁という重さをもっている。このようなスペースの割り振り方からして、やや異例の観がある(第三部は上下巻にまたがっているが、あわせて約六七〇頁であり、第四部はそれと比べて大差ない紙幅をとっている)。
 記述の順序と時系列の対応関係という観点からいっても、第四部には異色な点がある。というのも、これ以前の部分では、議論の都合から多少前後関係を入れ替えた個所もあるとはいえ、ほぼ時系列に沿った叙述が中心になっているのに対し、第四部の第一四章・一五章では、それぞれ一旦時系列をさかのぼらせて、六〇年代半ばから七〇年代初頭までというかなり長い期間を論じている。議論の終期についていえば、第一四‐一六章がほぼ七二年頃までを扱っていることから、後史の終点をその時期においているかにも見えるが、第一七章ではもっと後の時期まで扱われていて、現代の状況を視野に入れた「結論」に接続している。このようにみると、この第四部(およびそれをうけた「結論」)は、「一九六八年の後史」という域を超えて、それ自体、独立した意義をもつ現代社会論(一九七〇年代から今日までを見通す)という性格のものになっているのではないかという気がする。この点については、後で立ち返って考えることとしたい(この小文の七)。
 第四部のもう一つの特殊性は、それまでの部分における主たる登場人物が概して無名の若者――一時的に世間の注目を集めたために「有名」になった人たちも含まれるとはいえ、基本的には、言論活動への従事を職業としない人たち――だったのに対し、第四部では、年長の知識人たちが多数登場する。当時若かった活動家たちの中でも、特に饒舌で、多くの著作を残した津村喬(『われらの内なる差別』その他の著作で当時有名になった)とか田中美津(ウーマン・リブの草分けとして一時脚光をあびた)といった人たちが取り上げられている。このような登場人物の違いと関係して、主たる素材の性格もかなり異なる。これ以前の部分での主要登場人物の大半が文筆業者でないということは、当事者が知的に系統だった文書をあまり多数残しておらず、むしろ稚拙で断片的な文章の集積に依拠せざるを得ないということを意味する。これに対し、第四部の登場人物たちの上記のような特徴は、この部分でだけは、当事者が自己の見解を詳しく説明した文章が大量に入手可能だということを意味する(6)
 そして、この最後の点は、これまでの部分と第四部とのもう一つの――私見では最大の――相違点とつながる。やや長くなるので、項を改めて論じよう。
 
     三
 
 正直に言って、第三部まで読み進んでいた時点での私は、小熊のいつもながらの手際よい整理に感心しながらも、どことなく不満感をくすぶらせていた。小熊のこれ以前の著作においては、大量の資料を丁寧に読み込み、それらを手際よく整理するという長所に加えて、もう一つの得難い美点があった。それは対象に迫るときの姿勢のようなものに関わるが、著者が繊細な神経と細やかな感性を持っていることが文章から窺われるということであり、「この著者はただ単に通常の学者として優秀であるだけではない。何かそれ以上のものをもっている」と感じさせられた。ところが、本書の第三部までの部分では、そうした美点は、欠けているとまではいわないまでも、それほど高度に発揮されてはおらず、これだけでは「ただ単に学者として優秀であるにとどまる」ということになりはしないか、あの小熊の繊細な神経はどこへ行ったのだろうか、まさか歳をとって鈍磨したとは思いたくないが、といった感想ないし疑惑のようなものをいだいてしまった。
 しかし、こうした疑惑は第四部を読み進むうちに次第に解消された。ここでは、対象に迫る際に、あれこれの図式の中に押し込んでことたれりとせず、それぞれの登場人物がその文章の中に込めようとして込めきれなかった心情の襞にまで立ち入ろうとする繊細さが十分に窺える。そうした美点が特に高度に発揮されているのが、ベ平連を扱った第一五章と連合赤軍を扱った第一六章であり、社会科学としての切れ味というよりも文学作品に似た感動を与えるという意味では、この二章が本書の白眉だというのが私の感想である(量的にもこの二つの章は特に長大で、それだけで一冊の本に匹敵する)。
 もっとも、この二つの章の性格は決して同じではなく、むしろ対照的である。第一五章の主題たるベ平連は、著者が最も好意的な視線を投げかけている対象――但し、終わりの方ではその行き詰まりや限界にも言及しており、決して無批判の賛美ではない――であり、この章のトーンは明るい。もちろん、ベ平連に参加した人々は様々な矛盾や悩みをかかえていたし、それにどのように対処するかでしばしば意見を異にし、時として激しく対立しさえもした。しかし、その内部対立は「内ゲバ」を招くことなく、真摯な姿勢で討論の対象とされた、というのが本書の描くベ平連像である。いま述べたことと関連して、関係者たちは決して誰も彼もが同じような主張を唱えていたり、同じような形で行動したわけではなく、むしろ非常に多様だったということが示されており、具体的な固有名詞を伴った個性的人物群像が描かれている。小田実、吉川勇一、鶴見俊輔、高畠通敏、飯沼二郎等々といった超大物の知識人たちはもとより、当時若く無名だった山口文憲、吉岡忍等々の活動家たちも、それぞれに個性をもった存在として描き分けられている。
 第一五章が本書中で最も明るかったとするなら、連合赤軍事件を扱った第一六章は、当然のことながら、本書中で最も暗い。だが、ここでも小熊は登場人物たちを単純に黒一色で塗りつぶすのではなく、可能な限り、彼らの生の肉声のようなものを聞き届けようと努めている。警察の情報操作によって極端に歪んだ像が広められたという事実にも、慎重な注意が払われている。不確かな情報を選り分けながら、推測をまじえて書くほかないため、ここで提示されている像がどこまで正確なものかについては留保が必要かもしれない(そのことは小熊自身が意識している)が、ともかく、ありがちなステレオタイプを避けようという努力は精一杯払われている。例えば、連合赤軍とは二系列の運動が合流してできたものだが、一方のブント赤軍派は、よくいえば明るく楽天的だが、悪くいえばルーズでちゃらんぽらん、他方の革命左派は、よくいえば生真面目で正義感が強いが、悪くいえば視野が狭く、革命理論も一九五〇年代の日本共産党を思い起こさせる古さがあった、というような両派の差異が、的確に指摘されている。両団体が最終的に合流したのは一九七一年末、つまり山岳基地への立てこもりがもう始まっていたという、かなり遅い時期だったが、その時点でも、「世界革命」論のブント赤軍派と「反米愛国」を掲げる一国革命論の革命左派の間には大きな溝があったことも指摘されている。
 より興味を引くのは、個々人についての比較的詳しい記述がある点であり、それによれば、彼らのうちの少なからぬ部分は、当初においては、正義感から地道に出発した真面目な人たちだった(特に革命左派の場合)。そのような人たちが様々な条件の重なり合いのなかで、次第次第に切羽詰まった心理状況に追い込まれ、遂には、通常人にはなかなか理解できない異常心理の中で大量リンチ殺人を犯すところにまで追い込まれていく過程が精細な筆致で描かれており、ギリシャ悲劇的ともいうべき厳粛な悲劇性が感じとられる。いよいよ山にこもるという段階でも、「わたくしたちのしていること、どう思う?ばかげていることではないかしら……」と知人に問いかけたり、親や知人からの翻意の説得に対して、「それはよくわかっています。しかし、運動には勢いというものがあって、今すぐそうする〔運動から離脱して再出発すること〕ことはできないんです」とか「それは良くわかっています。だけど家に帰ることは、仲間を裏切ることになるので、私にはできません」と答えた人が複数いた(下、六〇五頁)といった個所を読むと、ギリギリまで凝り固まってはいなかった人たちが、迷いをもちながらも悲劇的な結末に突き進んでいく有様が頭に思い浮かび、暗澹たる気持ちにさせられる。連合赤軍事件をどのように意義づけるかという問題には後で改めて立ち返るが(この小文の六)、とにかく確認できることは、小熊が安易な類型化を避け、悪魔や鬼ではない、本来良心的だった人間がどのようにしてあのような事態にまで至ったのかを繊細な感性で描き出しているということである。
 第一五・一六章に比べ、これらを挟み込む位置にある第一四章「一九七〇年のパラダイム転換」と第一七章「リブと『私』」は、やや焦点が拡散している観があるが、とにかく前者では津村喬、後者では田中美津という特異な個性を登場させ、彼らの著作を丁寧に読み解くことで、それぞれの軌跡を内面にまで立ち入って描こうとしている。こういうわけで、第四部は全体として、描写対象の内面にできるだけ肉薄しようという努力が最大限払われ、安易な類型化や図式化で全てを片づけてしまわないという小熊の姿勢が貫かれている。
 それでは、これ以前の部分はどうだろうか。そこにおいては上記のような小熊の美点が全く窺えないとまで決めつけたら酷だろう。ありきたりの図式で満足せず、それぞれの出来事に新しい光を投げかけ、既成のステレオタイプを超えた新しい理解をもたらそうとする努力は、ここでも貫かれている。しかし、そこで主要な探求対象となっているのは、「セクト活動家とはどういう人たちだったか」「初期の全共闘の運動に参加した人たちはどのような意識だったのか」「衰退期の全共闘活動家たちはどのような心理状態に陥っていたか」といった問いである。そこにおいては、一人一人の具体的な人間の個性はあまり問題にならず、「セクト活動家一般」「初期全共闘活動家一般」「衰退期全共闘活動家一般」「民青系活動家一般」等々が主要な検討対象となっている。もっとも、上記はあくまでも事態を分かりやすく示すための単純化である。セクトの中でも党派ごとに色合いの違いがあったこと、当時の若者の間にも小刻みな世代差があったこと、全共闘といっても日大全共闘、東大全共闘、その後に続いた各地の全共闘の間には少なからぬ違いがあったこと等々は、小熊の叙述において明晰に意識されている。しかし、このように議論を細かくしてみても、結局は、「○○派の活動家一般」「××派の活動家一般」「日大全共闘の活動家一般」「初期東大全共闘活動家一般」等々といった風に分解されるだけで、一人一人というところにまでは行き着かない。本書の序章には「千差万別」という言葉が出てくるし(上、一三‐一四頁)、全体の巻末近くには、あの当時の出来事をどのように振り返るかに関する種々の見解がコメント抜きで多数列挙されている(下、八五二‐八六一頁)が、第一‐三部とりわけその中心をなす第三部では、そうした多彩さを万華鏡的に描き出すのではなく、むしろ限られた数の類型への整理に重きがおかれているような印象を受ける。
 もちろん例外がないわけではない。セクト活動家のうち、例外的に一個人としての個性がくっきりと描かれている例としては奥浩平(一九六五年に自殺し、死後にその日記が『青春の墓標』という題で公刊された)があり、全共闘のノンセクト活動家のうち、例外的に詳しく個性が描かれている例としては、山本義隆(東大闘争時に東大全共闘議長をつとめた)がある。しかし、これはあくまでも例外である。この二人以外の大多数の活動家たちは、ときおり固有名詞を伴って記述されることもあるが、それは特定のカテゴリーに属する人々の集団的な特徴を示すための素材としてであって、ほかならぬその人の個性を示す記述はほとんどない。また、ほぼ同一の文章が各所で何度も繰り返されて「ワンパターン」的印象を与えることがあるが(7)、このことも、個性より法則性を重視する発想のあらわれであるように思われる(8)
 これにはもちろん理由がある。第四部の登場人物たちはそれぞれに異なった事情から大量の関係文献を残したし、いま挙げた奥浩平と山本義隆についても、前者には日記があり、後者には多数の関連文献がある。これに対して、それ以外の人たちについては、一人一人がたくさんの文献を残しているということは滅多になく、大勢の人々についての断片的な関連文献をまとめて、「このカテゴリーに属する人はこのような特徴をもっていた」という書き方をするしかない。である以上、彼らについて個性を描くことができないというのは資料上の制約に基づくものであり、小熊の罪ではない。それはそうなのだが、それでもやはり引っかかるところがないではない。
 例外的に個性が描かれている人物として山本義隆が挙げられるということを指摘したが、その彼について、次のように述べた個所がある。先ず彼の六九年の著作『知性の叛乱』から六行程度の引用があり、それに続いて、この文章は事実に反することの指摘がある。そして、さらにそれに続けて、「『汚れていない人』である山本が、こうした公式的な文章を書いたのは、東大全共闘議長としてやむをえないことだったのかもしれない」とある(上、八七一頁)。つまり、ここで引用されている文章に関する限り、山本の書いたことは事実に反する公式見解であり、それだけとってみれば、山本という人は自己の推し進める運動の利害という見地から事実歪曲を辞さない「汚い人間」だというイメージが生まれるのが自然である。しかし、彼については、本人の書いた多数の文章のほか、異なる立場の人が様々な観察を書き残している。「汚れてない人だ」という山本評は、当時岩波書店の雑誌『世界』編集長だった吉野源三郎のものである(上、七四九頁(9))。そういった証言がほかにも多数あることから、小熊は、先の引用文を単純に「ウソ偽りを辞さない策謀家のもの」と解釈するのを避け、「立場上やむをえなかったのだろう」という同情的な解釈を引き出しているわけである(これと似た感じの個所は、上、六九一‐六九二頁にもある)
 では、仮定の問題として、もし山本に関して他の各種情報が全く存在せず、先の引用文だけが彼の書いたものとして残っていたとしたら、どうだろうか。その場合には、このような同情的解釈は引き出しにくい。「しょせん、全共闘の指導者などというのは、格好つけたことを言っていても、いざとなれば事実歪曲を平気で行なう策謀家だったのだ」という解釈が出てきてもおかしくない。山本はたまたま他の大量の情報が残っていたおかげで、そのような解釈から免れた。では、それ以外の大多数の活動家たちはどうだろうか。彼らもまた、しばしば事実に反する宣伝を行なったり、常軌を逸するほどに過激なアジテーションをしたりしていた。だが、彼らにしても、そうした文章を書きながら、「こんなことを書いていいんだろうか」と悩んだり、「これはちょっと言い過ぎかもしれない。でも、いまはこう書いておくしかないんだ」等々といった屈折した思いをかかえていたかもしれない。しかし、そうした思いはたいていの場合、書き記された文書としては残っていない。その結果、彼らの書いた文章は、そのまま彼らのメンタリティを物語るものと解釈されてしまうことになりやすい。
 これは資料の限界からして仕方のないことだと言えば言える。ただ気になるのは、小熊がこうした事情をどこまで念頭におき、残された資料を読み解く際に配慮に入れているのだろうかという疑問である。小熊がそうした配慮を完全に欠いているわけではない。ほんの一例だが、「東大全共闘の学生は、自分自身が『いうこととやることが違う、ウソばっかり』であることを、潜在的には気づいていただろう。だからこそ、彼らは、近親憎悪のように『進歩的知識人』を批判し、『自己否定』を唱えたのかもしれない」という個所がある(上、七九一頁)。ここでは、書かれていることをその字面だけで受けとめるのではなく、その背後にどのような「潜在」意識があるのかということまで思いをめぐらそうとする姿勢がある。しかし、他面、同種の配慮を払うことなく、書かれたことを字面だけで受け取って、「この人たちはこういうことしか考えていなかった」と決めつけているように感じられる個所も少なくない。字面の背後にあるものを想像するための手がかりが極度に乏しい以上、それは仕方のないことかもしれないが、私にはどうしても気になってしまう。
 そのことと関係して、本書の第三部までの部分では、「当時の活動家はこれこれだった」というような、全称命題と受け取れる文章がしばしば出てくる。しかも、その根拠として引き合いに出されているのは、特定の個人の回想だったり、あるジャーナリストの観察だったりする。その回想や観察が、どの程度の信憑性をもち、また当時の活動家全体から見てどの程度代表的なのかといった問題の吟味がやや弱いのではないかという懸念をいだかせられることが、読んでいてしばしばあった(10)。もちろん、小熊は各種回想や観察記事などをたくさん読むことによって、全般的な趨勢に関するイメージを形成したのだろうし、そのイメージは、結論的にいってほぼ妥当だろうと思われるものが多い。しかし、それはあくまでも大きな趨勢あるいは平均値――厳密な統計が存在しない以上、ここでいう「平均値」とはあくまでも比喩的な意味だが――に過ぎず、その平均値ないし趨勢から外れた事例も少なくなかったはずである(11)。とすれば、「当時の活動家は」ということを無条件に書くのではなく、「当時の活動家の多くは」とか「当時の活動家のうちには、これこれの傾向が少なからずあった」といった留保付きの表現をとる方がふさわしいはずである。実際、本書にはそうした留保付きの表現をとった個所も多々あり、そのような個所については、私としてはほとんど異議がない。しかし、そうした留保をつけずに、あたかも全称命題であるかに提示されている個所も少なからずあり、そうした個所には微妙な違和感をいだかないわけにはいかない。
 
     四
 
 資料を読み解くときの姿勢のようなことについてこれまで書いてきたが、その延長で、もう一点、触れておきたいことがある。それは、各種の回想を扱うときの史料批判の方法ということである。
 歴史研究において回想というものが一つの重要な資料をなすこと、しかし同時に、それは往々にして種々のバイアスをはらんだ資料であるので、「史料批判」という観点が欠かせないということ、これはいわば常識である。小熊は当然ながら、このことをよく意識しており、序章できちんと論じている(上、一八頁)ほか、あちこちで具体的な回想を使うに当たってどのような配慮をしたかを述べている。そこまではよいのだが、本書の主題に関わるような回想類というものは、通常の回想とは異なった特徴があり、その点についての特殊な配慮が必要ではないかと思われる。そのことについて、やや一般論的に考えてみたい。
 人間はどうしても自分を正当化したいという欲求を、意識してか潜在的にかの別はともかく、大なり小なりもっているから、回想にはそのようなバイアスが含まれやすい。これは誰しもが了解する常識である。しかし、そこでいう「自己正当化」というのは実は一通りではないのだが、そのことはあまり意識されていない。先ず、通常の場合、回想というものはかなり高齢になって「現役」を退いた人が書くもので、そこにおいては、「過去の自分」の言動の正当化が主に問題となる。高齢者にとって「現在の自分」はもはや残り時間が少なく、せめて後世に対して「過去の自分」を名誉ある姿で残したいという欲求が大きな位置を占めるからである。
 ところが、本書の主題のように、主要登場人物が非常に若かった場合、それから一定年月を経た後にも、まだ当事者たちは中年であり、「現役」である。そのため、多くの当事者にとって、「過去の自分」よりもむしろ「現在の自分」を守ることが重要になる。そういう条件下では、そもそも回想を書く人がかなり限られていて、やや特殊な立場の人――典型的には、かつては学生運動活動家だったが、現在は評論家だったり、フリージャーナリストだったりする人――に集中しやすいということが起きる。このこと自体、サンプルのバイアスという問題を提起するが、問題はそれだけではない。
 中年の人が青年時代のことを振り返るとき、もちろん、その振り返り方には多種多様なものがあるが、「現在の自分」を正当化する必要というものが、意識するせよ無意識にせよ、かなり大きな位置を占める。そして、そのためには、「若かった時期の自分は非常に幼稚で、愚劣なことばかりしていたが、今の自分はずっと成熟しており、あのころよりも賢明になった」という風に描き出すことになりやすい。
 また、ある種の運動に従事して、敗北や挫折を経験した人は、その経験を単純に忘却するのでなければ、何らかの「総括」――この言葉も独自の時代的刻印を帯びているが、その点はいまはおく――を必要とするが、その際、過去の自分が何も考えていなかったという風に描いた方が、そこからの「進歩」の顕示が容易になる。かつては何も考えていなかったのだから、少しでも考えさえすれば、かつてよりも前進だと言えるからである。これに対し、かつてもそれなりに一所懸命考えていたのだが、それでも失敗したり敗北したりしたという場合には、問題ははるかに複雑になる。だから、「あの当時は、何も分かっていなかった。口先だけいろんなことを言っていたけれども、それは全て空回りで、実際には何も考えていなかったのだ」という言い方をした方が、「あの当時もそれなりに一所懸命考えていたのだ」という言い方よりも、ずっと楽である。
 こういう風に考えると、本書の主題に関わるような、当時の若者が中年になって書いた回想の場合、過去の自己を殊更に矮小化し、カリカチュア化する方向へのバイアスが働きやすい。誤解を避けるために断わっておくと、このように書くからといって、あの当時の運動の参加者たちが――私自身を含めて――幼稚でなかったとか、愚劣でなかったと主張しようというのではない。幼稚さや愚劣さは、いやというほどあった。そのことは骨身にしみている。ある意味では、そのことが自明だからこそ、それを殊更に誇張するということが起きやすいということである。幼稚さや愚劣さが大量にあったという一般論は否定する余地がないが、具体的な個々の局面に関し、どの程度、どのような幼稚さ、愚劣さがあったのかは、丹念な検証を必要とする。しかし、その丹念な検証は非常に骨の折れる作業である。そこで、労を省くためには、ひたすら幼稚だった、愚劣だった、何も考えていなかった、というステレオタイプを繰り返すことになりやすい。ここに、気をつけるべき問題がある。
 やや一般論を述べてきたが、ここで小熊の著書に戻るなら、小熊は個別の出来事――ある時点で、ある場所で、何が起きたか――の経過を再構成する際には、複数の回想をつきあわせ、それらの異同を丹念に確かめ、相対的に信頼性の高いものを抽出するという労多い作業を行なっており、これは真に賞賛に値する態度である。また、特定党派に属する人の回想がその党派の正当性を裏付けようとするものになっている場合には、ときおり警戒心を表明しており、これも歴史家として当然の心構えである(12)。しかし、ある回想に、自分たちは当時何も考えていなかったとか、幼稚だったというようなことが書かれている場合には、ほとんど疑問を出すことなく、その証言をそのまま「事実」として受け取っているように見える(管見の範囲では、その種の配慮を示したとおぼしき個所は後注13しかない)。これは史料批判の観点から見たとき、問題なしとしない。
 
     五
 
 やや観点を変えて、これまで取り上げなかったいくつかの論点について考えてみよう。
 先ず取り上げたいのは、当時の運動が民主主義あるいは「戦後民主主義」というものをどのように捉えていたかという問題である。この論点は本書のあちこちで触れられているほか、「結論」部でも取り上げられており(下、八一一、八六五頁)、これが小熊にとって相当重要な位置を占めていることが窺える。
 この問題に関する小熊の見解を簡単にまとめるなら、次のようになるだろう。一九六八年前後の様々な運動を担った世代――まして、その先駆に当たる一九六〇年安保闘争を担った世代はなおさら――は、子供時代に「戦後民主主義」教育の洗礼を浴び、親や教師たちから民主主義の価値理念を吸収して育った。そのためもあって、彼らが何らかの運動を起こす際、その出発点では、「民主主義」擁護とか「民主化」要求という姿勢をとることが多かった。しかし、他方では、「戦後民主主義」は次第にその限界性や欺瞞性を露呈しつつあった。子供時代に「民主主義」を立派な価値として教えこまれた彼らは、大学生になる頃から、「現実は違うじゃないか」「民主主義を看板にしている大人たち、特にいわゆる進歩的知識人は信用できない」という考えに傾斜した。そして、結局は、「戦後民主主義」の全否定にまで行き着いた。しかし、「戦後民主主義」に種々の限界がつきまとっていたのは事実だとしても、それを単純に全否定してしまうことには大きな問題がはらまれていた。それこそは、彼らの運動を不毛なものにした大きな要因だった。
 先ずもって、私はこのような小熊の考えに、結論的にはかなりの程度共感するということを言っておきたい。その上で、同時に、そこにはやや誇張や単純化がはらまれるのではないかとも感じる。われわれ(敢えて一人称複数を使う)の世代の中にそのような傾向がある程度まであったことは否定しない。しかし、それが全てだという割り切り方にも疑問がある。いくつかの例に即して考えてみよう。
 第三章「セクト(上)」では、六八年世代の先駆となる六〇年安保ブントが取り上げられているが、そこには次のような叙述がある。「ブントの一部幹部には、『民主主義』などブルジョア思想にすぎないとみなす傾向があった」。「ブントにとって、『民主主義を守れ』などは、生ぬるい『ブルジョア思想』だった」(上、一九八一九九頁)。隣り合った頁に書かれたほぼ同趣旨の記述だが、前者では「ブントの一部幹部」だったものが、後者では「ブントにとって」という留保抜きの――つまり全称命題ととれる――表現になっている(そのすぐ後には、「ブント内に『民主主義』軽蔑の傾向があった」という、再び留保付きの表現があり、表現の揺れが感じられる)。
 これに続いて、西部邁の回想が引用されて、自治会選挙における票の偽造に関する叙述がある(上、一九九‐二〇〇頁)。これと同趣旨の記述は、前著『〈民主〉と〈愛国〉』にもあった。それを読んだ私は、西部の回想だけをもとにそのように書くのは早計ではないかと考え、小川登が西部回想を批判している文章――自分たちは票の偽造など思いつきもしなかったという――を、私の読書ノート(前注1)に引用した。それを意識したのかどうかは定かでないが、今回の著書では、まさに私が引用したのと同じ小川の文章が紹介されている。その限りでは前著よりも視野が広がったことになり(13)、それはいいのだが、それに続く個所には、次のようにある。「このように地方その他による相違はあったようだが、概してブント中央は『民主主義』を重んじる度合いが少なかったといえよう」(上、二〇〇頁)。これはやや安易な書き方であると思われてならない。西部と小川はそれぞれに異なる方向の記述をしている。もちろん、どちらか一方が真実で他方が虚偽だというほど単純な話ではない。私は上記読書ノートで次のように書いた。「現実というものは多様なものであり、各人はその中のある面を特に強く印象のなかにとどめ、その記憶に忠実に書くことで、それぞれに異なった伝説を生んでいくということではないだろうか」。西部的な側面と小川的な側面がどのように絡み合っていたか、どちらがどの程度優越していたかを論じることが本来なら必要だが、そのためには確定的な証拠を探すことが至難であるということを考慮して、敢えて結論を留保する記述にしたわけである。これに対し、小熊は「相違はあったようだが」という曖昧な留保をつけただけで、何の根拠も示さずに「概して」とつないでいる。どうして、西部回想が全体的な趨勢を物語り、小川回想の指示する側面は小さな留保にすぎないという結論が出てくるのだろうか。この個所は、根拠の不足した飛躍であると思われてならない。
 一九六八年世代の「戦後民主主義」論については、第一四章「一九七〇年のパラダイム転換」で集中的に論じられている(特に、下、一八七‐二一三頁)。要旨を簡単にまとめるなら、「戦後民主主義」の限界を指摘する議論は全共闘運動以前からもあったが、全共闘は「限界性」の指摘から飛躍して「全否定」に行き着いてしまった、というのが主たる論点である。ここでも、「全共闘運動と若者たちの叛乱では、『戦後民主主義』は全否定されていくことになる」とか、「若い世代の『戦後民主主義』批判は、『戦後民主主義』の全否定であり嘲笑であった」という、留保抜きの全称命題が提示されている(下、一九七、二一〇、二三三頁)。また、これに続く個所では、立命館大学におけるわだつみ像破壊事件(一九六九年五月)のことが詳述されている(下、二一三‐二二七頁)。それ自体としては興味深い叙述であり、私も多くを教えられたが、一大学における一つの個別事件が「『わだつみ像』破壊に象徴される若者たちの『戦後民主主義』批判」という風に一挙に一般化されている点には、飛躍があるのではないかと感じる。本書全体での結論部での総括も、「若者たちは『戦後民主主義』をその内容も理解せぬまま葬った」(下、八六五頁)という、留保抜きの全称命題となっている。
 どうして私がこの問題にこだわるのかについて説明しなくてはならない。小熊自身にせよ、小熊が高く評価する知識人たちにせよ、「戦後民主主義」が完全無欠だとか、批判的に考察する余地がないなどと説いているわけではない。むしろ、その「限界」を考察し、批判的再生を図ることが必要だというのが彼らの観点のはずである。その上で、「限界」の指摘、その批判的再生の志向と「全否定」とは異なる、前者が後者に転化してはいけない――これが小熊の言いたいことだろう。そこまでは私も同意する。しかし、これは非常に微妙な問題であり、どう論じれば「限界」の正当な指摘になり、どう論じれば「全否定」になるかは、時として見定めがたいことがある。アジテーション的な文章において誇張的表現がとられるのはありふれたことであり、「限界」の指摘が誇張的表現をとれば、あたかも「全否定」であるかに見えることもあるからである。
 もちろん、「限界」の指摘と「全否定」の間の微妙な差異を軽視してはいけない、いくら前者を強調したくとも、ある一線を越えて後者にまで突き進んではいけない、と考えるのは正当である(特に、あの当時の経験がどのような結果を生んだかを既に見てしまった今では)。しかし、微妙な事項に関する精密な言語表現を職業的義務とする知識人たちと、およそ言語表現というものにまだ慣れていない若者たちの叫び声とを、この点で同列に並べることはできない。知識人に対しては、「微妙な差異を軽視してはいけない、あくまでもある一線を越えてはいけない」と要求することが必要だろうが、ありふれた若者の叫び声について同じように考えるのはどうだろうか。たとえていえば、恋人同士が喧嘩しているうちに、感情が高ぶって、「あんたなんか大嫌い」と叫んだときに、「君の今の発言はどういう趣旨なのか。文字通り、完全に愛が醒め、憎悪しか残らないということなのか、それともむしろ今でも好きだからこそ、思わずそう叫んでしまったのか。もし後者なら、そういう言い方はすべきでない」とお説教するようなものではないだろうか。小熊は第一七章で田中美津を論じる際には、「自己の『超マジメ』さを打ちけすための、反語的行為とも推測できる」「彼女自身の禁欲的性格を打ちけすための反語的行為」などという形で、表面的な言動の背後にあるものを推測している(下、七四六、七七二頁)が、全共闘活動家たちの言動については、それが「反語的行為」だったのかもしれないという視点をほとんど示さず、「大嫌い」という叫びを額面通りに受け取って、「全否定」と決めつけている観がある。
 確かに、ある時期の熱気の中で、本来なら「あんたなんか大嫌い」とまで言うべきでない相手(戦後民主主義)について「大嫌い」と叫んでしまったというようなことは、かなり広範囲にあったと思う。その雰囲気は年長の人たちにもある程度感染して、無責任に熱気を煽り立てる知識人さえも一部に現われた。しかし、そのように叫ぶ際にも、「本当は好きだからこそ、こう叫ばずにはいれないんだ」という気持ちが大なり小なり潜在していたという例も、また少なくなかったはずである。それから数十年後に安倍晋三内閣が登場し、「戦後レジームからの脱却」が叫ばれたとき、「ようやく戦後民主主義の終焉がやってきたのか。遅きに失したが、何はともあれ目出度い」と考えた人と、「われわれはかつて戦後民主主義を批判したけれども、民主的価値そのものを否定するつもりではなかった。それが体制側から突き崩されようという時代になるとは、恐ろしいことになったものだ」と考えた人の割合がどんな具合だったのか分からないが(社会学的な調査でもあればよいのだが、私は知らない)、少なくとも一九六八年世代の中で前者が圧倒的だったとは思えない。
 この問題は、私の専門研究の主題である社会主義運動の歴史のなかでも繰り返し論じられてきた経緯があるので、その点に簡単に触れておきたい。社会主義者たちは「民主主義」という価値理念そのものを否定することは滅多になかった(言説のレヴェルとは別に、現実において社会主義体制がおよそ民主主義から程遠い実態を生み出してきたことは周知だが、ここではあくまでも言説のレヴェルに即して論じている)。しかし彼らは、同時に、「ブルジョア民主主義の欺瞞性」を強く批判してきた。その批判がある程度以上強い口調になるとき、あたかも「民主主義の否定」であるかの様相を呈することもあった。ある流派の「ブルジョア民主主義批判」が実際にはきわめて非民主的な実態を生み出したことの批判から、民主的価値をもっと重視すべきだと唱える潮流も繰り返し現われた。よく知られた例としては、早い時期のレーニンとローザ・ルクセンブルクの論争や、ずっと遅い時期のソ連共産党に対抗するユーロコミュニズムの台頭などがあるが、それ以外にも同様の例は数多い。現存した社会主義の実態が広く知れ渡るようになった今日では、「社会主義は民主主義を否定したからよくなかった。もっと民主主義を重視すればよいのだ」という考え方が普及している。それにはそれなりの理由があるが、ことがこれで全て片づくわけではない。
 レーニンにせよスターリンにせよ、言説ないし主観的目標のレヴェルに即していう限り、民主的な価値理念を否定したわけではない。むしろ「ブルジョア民主主義は偽りの民主主義であり、われわれはそれよりも高次な本物の民主主義を樹立するのだ」と唱えていた。その「本物の高次の民主主義」が実際にはその主観とは裏腹な現実に導いたのは明らかだが、それを批判する際に、「やつらは民主主義を否定したからいけないのだ」とするのでは真の批判にならない。言説ないし主観的目標においては「高度の民主主義」を掲げた運動が結果的にはそれとおよそ遠い現実を生み出すことがありうるということ、そのことを反省しない限り、「やつらと違ってわれわれは民主主義を掲げているのだから、真に民主的なものをつくり出すことができる」と称する運動が同じ轍を踏まない保証はどこにもない(14)。小熊の周到な立論をこの種の運動と同一視するつもりはない。ただとにかく、一九六八年世代は「戦後民主主義」を全否定したというあっさりしたまとめ方をして、それに民主主義の重視を対置するだけでは、この難問を突破しきれないのではないかという疑問はどうしても残る(15)
 
     六
 
 次に、連合赤軍事件――とりわけ、その末期における凄惨な大量リンチ殺人事件――の位置づけに関する小熊の考えを取り上げてみたい。連合赤軍の軌跡が第一六章で精細に描かれていることは前述したが、この章の本論と、その末尾にある評価の間には、微妙ながらある種の乖離があるような気がする。
 この章の末尾近くで小熊は、様々な論者の評価を紹介した上で、「上述のような論じ方は、いずれも事態を見誤ったものと思われる」としている(下、六五八‐六六八頁)。どうしてそのような見誤りが広がったかといえば、「当時の活動家たちが、自分が体験していた『総括』『糾弾』『自己批判』などを投影して、連合赤軍事件を自分たちの活動の延長にあると解釈したこと」が問題だという(下、六七一頁)。この指摘は、本当は「延長」にあるわけではない事件がそういうものとして解釈されてしまったという評価を示唆している(16)。その点を、以下では、もう少し詳しく見ていこう。
 小熊の考えは次のようなものである。先ず、この章の本論の中では、「劣悪な衣食住環境、重労働による疲労、指名手配や逮捕の恐怖と緊張、夜も寝られない寒さ、連続するリンチ死といった状況で数ヶ月も集団生活していれば、判断能力も正常でなくなるのは無理もない」(なお、この引用の末尾にある「リンチ死」とは大量リンチ殺人が起きる前の最初の数例を指すと思われる)、「森〔恒夫〕と永田〔洋子〕が自分の身を守るため、逃亡や反抗のおそれがあるとみなした人間を、口実をつけて『総括』していたのではないか」、「極度に劣悪な衣食住環境、極寒の閉ざされた山、いつ『総括』や逮捕の対象にされるかわからないという不安と恐怖と疑心暗鬼……しかもそれまでの内ゲバで暴力に慣れきってしまっていたという背景」等と指摘されている(下、六〇七、六二二、六二六頁)。それらの指摘を踏まえて、章末では、「追いつめられた非合法集団のリーダーが下部メンバーに疑惑をかけて処分し」たという風にまとめ、これは、「『〈理想〉を目指す社会運動』が陥る隘路などという問題とは、無関係だと筆者は考える」と結論する(下、六七二‐六七三頁)。
 この結論は、続く第一七章「リブと〈私〉」で、田中美津が歴史的事実とは無関係な「連合赤軍事件」イメージに基づいて自己をそこに投影したという指摘(下、七五九‐七六六頁)につながっている。そして、書物全体の結論部でも次のように述べられている。「連合赤軍事件の実態は……小事件である。にもかかわらず、あの事件が戦後日本の歴史を語るうえで欠かせないものとなっているのは、この小さな事件に、叛乱する若者たちが過剰な意味づけを行なったからだった」(下、八三七頁)。
 このような小熊の評価をどのように受けとめるべきだろうか。先ず、基本的にはこれは頷けるものであり、決して全面的反論など意図しているわけではないことを明記しておきたい。その上で、表現の問題として、「無関係だ」とか、「過剰な意味づけ」を排してみれば「小事件」だという言い方は、やや言い過ぎではなかろうかという疑念も打ち消しがたい(17)。第一、それでは、小熊自身がどうしてこれほどの労力をこの事件の解明に費やし、これほども長大な章を書いたのかも分からなくなってしまう。第一六章の本論における詳しい描写の中には、章末およびその後の部分における簡単な断定的結論の枠に収まりきらないものがあるのではないだろうか。
 各種の左翼運動――あるいは、より広く「理想を目指す社会運動」――が、突き詰めれば必ず連合赤軍と同じような問題を抱えるというのは、もちろん短絡的な議論であり、そこには多くの媒介環をおいて考えなければならない。しかし、逆に、それが完全に無縁だと言いきることもできない。何らかの理想を掲げる運動は、自己の「正義」を過剰に信じる傾向があり、それがいくつかの条件と結合したとき、極端な悲劇を生み出すことがありうる。そのことはおそらく小熊も否定しないだろう。ところが、「無関係だ」というあっさりした断定は、そうした可能性までも否定するかのようにとられかねず、それは行き過ぎではないかという疑念が生じる。
 推測になるが、小熊がこんなにも「過剰な意味づけ」を批判し、あたかも「実は大した出来事ではなかった」といわんばかりの書き方をするのは、多くの論者がこの事件を過大評価し、しかもそれを自己に引きつけてきたことへの反撥があるのではないかと思われる。次の文章には、そうした感覚がよく表出されている。
 
「感傷的に過大な意味づけをしてこの事件を語る習慣は、日本の社会運動に『あつものに懲りてなますを吹く』ともいうべき疑心暗鬼をもたらし、社会運動発展の障害になってきた。しかし時代は、そこから抜け出すべき時期にきているのである」(下、六七三頁)
 
 この指摘は理解できるし、正当でもある。しかし、この事件に対する反応はそれが全てではなかったのではないだろうか。第一六章各所で言及されていることだが、当時の運動家たちのあいだには連合赤軍を馬鹿にして、「あんなやつらとわれわれを一緒くたにされてたまるものか」という態度をとる者も少なくなかった。リンチ殺人事件が明らかにされた後も、連合赤軍を「愚劣」と描き出して、自己をそれとは無縁と強調する反応があった(下、六五九頁)。私自身は、当時は既に運動から離脱していて「現役」活動家でなくなっていたが、「現役」時代の記憶がまだ強く残っており、「あいつらとわれわれとはまるで違うんだ。無関係だ」という発想が自然なものと思われた。そうした発想を持っていた私は、この事件に関する様々な文献を読む気が――他の新左翼諸潮流に関する文献はかなり継続的に読んできたにもかかわらず――長らく全く起きなかった。そうした私が、いくら異質とはいってもやはり完全に無縁とは言い切れないのではないか、完全に目をふさぐのではなく、一つの極端な事例として一応は知っておく必要があるのではないか、と考え始めたのはかなり遅い(今でもあまり関連文献をたくさん読んではいない)。それはともかく、「あいつらとわれわれとはまるで違うんだ。無関係だ」という発想は、本書で問題とされている「過剰な意味づけ」と並んで、もう一つの典型的反応だったのではないだろうか。だとするなら、「無関係だ」という小熊の語り口は、後者に対しては有効な批判たり得るとしても、前者に対しては、むしろ「ああ、やはりそれでよかったのか」という反応を強めてしまうことになりかねない(18)
 「あつものに懲りてなますを吹く」危険が存在するのは小熊のいう通りである。私自身、それを痛感する。だが、敢えていえば、熱い物を不用意に口に入れて火傷をした子供が、この諺を大人から言い聞かされて、何かを口に入れるときに全く注意を払わなくてもいいんだと考えたなら、それはやはり困ったことだろう。無警戒でもなければ過剰警戒でもない中庸の態度が重要だというのが優等生的答案になるだろうが、何が中庸かを具体的な場面において決めるのはなかなか難しいことである。結局、様々な行き過ぎを含めた試行錯誤の経験を積み重ねる中で、適正と思われる水準を模索していくほかないだろう。
 
     七
 
 本書の結論部では、ただ単にそれまでの内容が要約されるにとどまらず、その後の現代まで含めた展望が示され、独自の現代社会論が展開されている。そこには、いくつかの図式が提示されており、それぞれに興味深いものがある。
 本論中で繰り返し述べられていた図式が改めて再確認される形になっているのは、「近代的不幸」から「現代的不幸」へという図式である。簡単に言えば、「近代的不幸」とは戦争・貧困・飢餓などであり、「現代的不幸」とは、アイデンティティの不安・未来への閉塞感・生の実感の欠落・リアリティの希薄さなどを指す(上、二四‐二五頁)。一九六〇年代末の若者たちは、こうした「現代的不幸」を感じ始めた最初の世代だった。それが最初の経験だったことから、彼らはそれを表現する適切な言葉を持たず、むしろ「近代的不幸」に関わる言葉で説明しようとしたり、あるいはまるで支離滅裂としか思えない言語表現をとったりした。それ故、彼らの運動はそれ自体としては挫折に終わらざるをえなかったが、しかし、「現代的不幸」と最初に取り組もうとし始めた事例としての意義はある、というのが大まかな見取り図となる。
 しかし、「結論」で述べられているのはこれだけではない。一つには、「七〇年のパラダイム転換とその限界」という図式がある。「七〇年のパラダイム転換」という主題は第一四章で出てきたもので、それまでの左翼が軽視しがちだった差別問題・マイノリティ問題が急速に注目を浴びるようになり、以後の左翼運動の主柱となったことを指す。小熊はこの新パラダイムに関し、それまで軽視されていた重要問題に眼が向けられたことの意義を認める一方、そこには「利用主義的な部分」もあったと述べ、またそれが「良心的」であること自体が問題を生み出す側面もあったことを指摘している。というのも、差別とかマイノリティの問題は、多くの人々にとっては「自己に内在した問題ではないだけに、『良心』で自分を鞭打って運動に参加し続けるしかない、という『しんどさ』を伴」い、そこから種々の無理が発生するというのである(下、二六五、二七〇‐二七一頁)。関連して、日本人は被害者であると同時に加害者でもあるという小田実らの議論が「日本人=加害者」論に純化され、そのことが運動に伴う息苦しさを増したとされ、マイノリティの問題を提起するというプラスの側面はマジョリティに訴える言葉を失ったというマイナス面も伴った、と指摘されている(下、二七四‐二七六頁)。
 「結論」ではさらに進んで、一九九〇年代後期以降、「七〇年のパラダイム」自体が失効したと論じられている。マイノリティ(アジアの民衆、在日韓国・朝鮮人、被差別部落民、障害者、また単純に並置するのがためらわれるが女性など)が運動の焦点になるということは、マジョリティ(日本人男性で、被差別部落出身でも障害者でもない人)にはあまり問題がないという暗黙の前提があり、それは高度経済成長のおこぼれが多数派労働者に均霑していることを前提していた。今や不安定雇用が増大し、「プレカリアート」と呼ばれる新しい「社会的弱者」が登場している中で、「七〇年のパラダイム」はこの社会的弱者の心に響かないものになっている。このパラダイムが完全に過去のものとなったとまではいえないにしても、これだけに依拠して社会運動を組織する時代は終わったのではないか、というのが小熊の問題提起である(下、八三九‐八四九頁)。
 これは非常に興味深い問題提起であり、私も多くを教えられた。そのことを認めた上での疑問だが、この問題提起と本論とはどのような関係に立つのだろうか。前述したように「七〇年のパラダイム転換」という概念は本論第一四章で出てくるものだが、この章は第四部に属するから、本書の構成からすれば「本史」ではなく「後史」の部分で出てきたということになる。しかも、そこで小熊が強調しているのは、このパラダイム転換は「一九六八年」の一部とされることが多いが、それは正しくなく、むしろ「一九六八年」の運動の敗北、その退潮の中で、七〇年後半に転換が起きたのだという点である(下、二六二頁)。もっとも、第一四章の記述をよく読むと、七〇年半ば以前にもそれに連なる動きがあったことが指摘されているし、私自身の記憶でも、七〇年以前に既にこうした要素が現われ始めていたように思うが、その点にはここでは立ち入らない。とにかく小熊の図式では、「七〇年のパラダイム転換」は「一九六八年」そのものではなく、その敗北後に現われたものである。そして、それもまた九〇年代後期にいたって失効したとなると、「一九六八年」の社会運動は今日に連続するものではなく、二度の切断を経ている――一度目は七〇年後半のパラダイム転換、二度目は最近におけるその限界化――ということになりそうである。そのように論じる余地があるということは理解できる。しかし、『1968』というタイトルをもち、大部分の紙幅をその時期にさいている本の結論が、実は「一九六八年」というのは現代につながる意義をもつものではなかったということになるのは、何となく落ち着きが悪い感じがする。
 「結論」ではもう一つ、ピラミッド型の組織から緩やかなネットワーク関係へという図式も提起されている。ピラミッド型の組織構造は、ある時期までの生産構造に見合った組織形態であり、それが政党組織その他にも採用されていた(日本共産党も、それに対抗して生まれた諸セクトも)。このような組織のあり方は「管理社会」への若者の反撥を生み落とし、当時の若者は緩やかなネットワーク関係を自然発生的に生み出していった。それはベ平連に先駆的に示され、全共闘運動にも類似の原理が広がっていった。それは古い組織構造への反逆から生まれ、一時的には解放的雰囲気を生んだ。しかし、「一種の祝祭状態ともいえる蜂起の興奮状態」は長く続くものではなく(下、七八三頁)、それ自体としてはまもなく終焉していった。その後に残ったのは、高度経済成長の生んだ大衆消費社会への適応だった。というのも、緩やかなネットワーク関係というのは、もともと高度資本主義に適合的なところがあったからである。もっとも、一時的にせよ各種の叛乱に参加した学生たちが企業社会や消費社会に適応するには、一種の「転向」が必要とされたが、それは比較的速やかに「二段階転向」――第一段階は「戦後民主主義」批判による戦後理念の排除、第二段階は連合赤軍事件への過剰な意味づけによるリゴリズムの否定――として実現された、というのが大まかな見取り図である(下、八二九‐八三九頁)。
 この図式も、多少の疑問の余地はあるにしても、なかなか興味深いものをもっている。ベ平連に対して共感を隠さない小熊だが、ベ平連が先駆的に体現した緩やかなネットワーク関係が実は大衆消費社会への適応に道を開くものだったという醒めた認識を示していることも注目に値する。社会運動の組織形態と生産現場における組織原理の対応に注目して、「下部構造が上部構造を決定するように」と書いているあたり(下、八三四頁)は――他の個所ではマルクス主義を時代遅れの思想と一蹴しているにもかかわらず――マルクス的発想の部分的摂取という観もある。先の紹介では省いたが、共産党がたどった歴史的経緯との比較という論点も、独自の興味を引くテーマである(19)
 しかし、この図式も本論との関係で気になるところがある。緩やかなネットワーク関係を最初に体現したとされるのはベ平連だが、そのベ平連を論じた第一五章では、ざっと見直した限り、この言葉が使われている形跡はない(20)。仮に出てきたとしても、この章も第四部のうち、つまり「本史」ではなく「後史」の部分に属する。つまり、「七〇年のパラダイム転換とその限界」および「ピラミッド構造から緩やかなネットワーク関係へ、その大衆消費社会への適応」という図式は、いずれも「一九六八年」そのものとは直接つながらない主題であるかのような観を与える。それはそれで独立のテーマとして興味深い論点ではあるだろうが、それが「一九六八年」を論じた書物の結論部の主要な内容だというのは、十分腑に落ちないところがある。
 「近代的不幸」から「現代的不幸」へという図式だけであれば、やや単純にすぎる観はあるにしても、本論との関係を見通すことは容易である。そして、「一九六八年」の社会運動が「現代的不幸」への最初の反応だったと位置づけるなら、それが最初であるが故の未熟さを含み、敗北せざるをえなかったことを指摘すると同時に、彼らがとにかくも最初に取り組んだ課題に後続世代もまた直面しているのだという形で、現代との連続性を論じることができる。これに対し、「七〇年のパラダイム転換とその限界」および「ピラミッド構造から緩やかなネットワーク関係へ、その大衆消費社会への適応」という図式を持ち出すと、「一九六八年」の社会運動に現代的な意義はあまりない、現代社会が取り組むべきなのはそれとは異質の新しい課題なのだ、という議論になりそうな気がする。どちらもそれぞれにありうる議論ではあるが、方向性はかなり異なる。この小文の二で、本書の第四部(およびそれをうけた「結論」)はそれまでの部分とかなり異なる感じがするという趣旨のことを述べたのは、いま述べたことと関係する。
 邪推になってしまうかもしれないが、ひょっとしたら小熊は本書を書き進めるうちに、「一九六八年」のみをひたすら中心テーマとした本を書くことに何か飽きたりないものを感じ、その後の時期に力点をおいた現代社会論の要素を多く取り込むようになったのではないだろうか。第四部および「結論」がこんなにも長大なものになっているのは、そのあらわれであるように思われる。それはそれで一定の意義はあるが、私の感想としては、これは別個のテーマとして次著に譲った方が、一書としてのまとまりはよりスッキリしたものになったのではないかという気がする。
 
     八
 
 まだこれ以外にも取り上げるべき論点はたくさんあるが、それらを片っ端から取り上げているわけにはいかず、そろそろ論を打ち切る段階に近づいてきた。ただ、第一七章の前半部で出てくる左翼運動の中の女性活動家の不満・怒りという論点だけは、どうしても素通りすることができないと感じる。と同時に、これを正面から論じることもできないということを痛感する。そこで、本書からはやや離れてしまうが、その理由を簡単に述べておきたい。
 私は子供時代から、どちらかといえば「女性的」な性格の男の子であり(「女性的」という言葉をカッコ付きの表現にするのは、いうまでもなく「社会的通念として」という趣旨である)、おそらくそのことも一因となって、他の子供たちとの関係をうまくつくることができなかった。たまたま学校の成績がよかったおかげで、直接いじめられたり、正面から馬鹿にされることはなかったが、どこかしら「変な子だ」という視線で見られているという感覚がずっとつきまとっていた。当時はまだ「ジェンダー」とか「性別役割観念」とか「性同一性障害」といった言葉が知られていない時代で、どこにどういう問題があるのかも把握できないままに、漠然たる疎外感をいだいていた。
 そうした性格をもっていた私は、学生運動に参加するようになってから、その内部における女性差別という問題には比較的早い時期から意識を向けていた(21)。といっても、そのことを鮮明に問題提起したというようなことでは全くない。何をどのように問題にしてよいのかも分からないままに、ただ右往左往するばかりだった。あるときの学生集会で、男性活動家が「これからの闘争は断固として男の闘争でなくてはならない」とアジったことがあった。間髪を入れずに、会場の女性活動家から「ナンセンス!」という野次が飛んだ。そのとき、私は表現しようのないやりきれなさにとらえられた。その男性活動家の言葉が差別的だということは明白であり、だからこそ直ちに野次が飛んだわけだし、私もそのアジを聞いた瞬間に、まずいことをいうなと感じた。だが、私は女性活動家の方に単純に同調することもできなかった。その野次のいわんとするところは、「男だけでなくって、女だってゲヴァルト闘争はできるんだ」ということだったのに対し、私が内心感じていたのは、「自分は男だけれど、本物のゲヴァルト闘争など、恐ろしくってとてもできない」ということだったからである(22)
 そのときはこの問題を突き詰めて考えることをせず、うやむやのままに過ごすことになった。しかし、それから大分経って、否応なしにこの問題が突きつけられる場面が生じた。それが、本書第一七章でかなり詳しく描かれている第三〇回中核派全学連大会(一九七一年七月)における女性活動家による中央指導部批判に端を発した大混乱である(下、六九九‐七〇八頁)。このショッキングな出来事は、あれから四〇年近く経った今でも、私の脳裏に消しがたい痕跡を残している。もっとも、あまりにも突然の大混乱だったため、誰がどんなことを言い、自分がどのように考え、行動したのかも、記憶の中でごちゃごちゃになってしまっており、正確な再現はできない。一つだけ言えるのは、私は男性活動家の多数派はもとより女性活動家の多数派にも言い表わしがたい違和感をいだき、深い孤立感にとらわれたということである。それはちょうど私が組織から離脱・脱走しようと秘かに決心しつつある時期のことだった(但し、離脱の直接の契機がこの問題だったというわけではない。「こういう性格の自分に、ゲヴァルト闘争なんかできるわけない」という意識が一層強まり、来るべき「十一月決戦」が呼号されている中で、その前に逃げ出すほかないと思うに至ったということである)。
 それから何年か経ち、ラディカル・フェミニズムの思想が日本にも紹介されるようになったとき、私はそれらの文献をむさぼり読んだ。「たまたま女に生まれたからといって、どうして世間の通念でいう女性らしさに順応しなければならないのか」と問いかける彼女たちの声は、「たまたま男に生まれたからといって、どうして世間の通念でいう男性らしさに順応しなければならないのか」という私の年来の疑問と響きあうものがあったからである。それ以来、私は、このテーマを専門研究の対象としない男性としてはおそらく異例な程度に、この種の文献を読み続けてきた。だが、たくさんの関連文献を読み続けているうちに、ラディカル・フェミニストたちの主張――もちろん、彼女たちが「一枚岩」だということではなく、内部の多様性を含んでということだが――と私の感覚とは、多くの点で重なり合うにもかかわらず、どこかで微妙にすれ違っているとも感じるようになった。そのすれ違いがどういうものであり、何に由来するのかという問いについて思いをめぐらすようになってから数十年経つが、今なお答えは出ていない。
 私が本書第一七章前半について、素通りすることはできないが、かといって正面から論じることもできないと感じるのはこうした事情による。
 
     九
 
 やや長大になりすぎたこの読書ノートをそろそろ締めくくるべき段階にさしかかった。
 私はこの小文の前の方で、小熊は単に「通常の学者」として優秀であるのみならず、繊細な神経と細やかな感性を持っていること、しかし、本書ではその美点は第四部で最大限に発揮される一方、それ以前の部分ではあまり発揮されていないという不満を感じる、といったことを書いた。おそらく小熊自身は、このような私の感想に対して、心外だという感想をいだくのではないかと思う。その理由について私が勝手に憶測するのは邪推になってしまうおそれがあるが、敢えて私なりの推測を述べるなら、そこには次の事情が作用しているのではないだろうか。本書第一‐三部、とりわけその中心をなす第三部における主要な登場人物といえば、セクトの活動家たちと全共闘のノンセクト活動家たちということになる。そして、彼らは――運動が高揚に向かいつつある初期の局面を除けば――小熊の共感をあまり誘う存在ではない(対照的に、小熊が強い共感を寄せているのはベ平連の活動家たちである(23))。そのような、あまり共感を持てない相手に対して、しかもその内面を探るのに好適な素材が極めて乏しいという条件下で、敢えて内在的な理解をしようとする意欲を持てないのも、無理からぬものがある。
 これに対して、私自身は、まさに小熊が最も低く評価している二つのカテゴリー――「全共闘運動衰退期にリゴリズム精神で頑張り続けてしまった学生」と「セクト活動家」――の双方に該当する。私が本書の第三部を読みながら、大筋ではほぼ同意しながらも、「それだけが全てじゃないはずだ」と繰り返しつぶやかずにはおれなかったのは、そうした事情による。だが、もちろんこれは小熊の責任ではなく、むしろわれわれおよび私自身の責任である。
 先ず、われわれ――ここでの「われわれ」とは、私自身が属した党派だけでなく、より広く、種々のセクトおよびノンセクトの活動家全般を念頭においている――について考えてみよう。われわれが当時書き散らかした文章の大部分は、生硬で、紋切り型で、稚拙で、時としては支離滅裂なものさえも少なくなく、そうしたものを後世の研究者が丁寧に読むということは、大変な労苦を伴う作業だったろうと推察される。また、あの時代から年数が経つにつれて、一部には回想類を書く人も出てきたが、そのほとんどが歴史への証言としては不十分だということは、この小文の四で述べた通りである。あの時代の運動を対象とした研究の類も少数現われつつあるとはいえ、いうにたるほどの蓄積をもってはいない(小熊は各章の注で、本格的な先行研究はほとんど存在しないということを繰り返し指摘している)。このような状況では、とりあえずの作業として外面的な把握を試み、類型的な図式化を先行させるほかないという研究戦略は十分正当化されることになるだろう。とすれば、小熊のような俊英がこの主題に関しては外在的類型化にとどまっているのは、彼の罪ではなくわれわれの責任だということになる。
 では、「われわれ」ならぬ「私自身」はどうなのかということを、自分に問いかけねばならない(このように、他ならぬ自分はどうなのかということを気にせずにおれないのは、あの時代の「主体性」論的発想を今なお引きずっているということなのかもしれない)。「過去の自分」に関する精細な歴史的証言と呼びうるものがこれまでほとんど現われていないのであるなら、誰かがそれを試みねばならないし、私もまたそのような義務を負っているのではないかということを感じる。その一方で、これは絶望的なまでに難しい課題だということも痛感する。あの当時の自分の言動を正確に思い出すということは、その正確性をチェックするための「客観的」データもまた乏しいという状況を考慮するなら、途方もなく困難である。その上に、それを同時代の他の状況と適切に関連づけ、その後の経過を踏まえて歴史的展望の中におくとなると、これはもはや誰にも実現できそうにない仕事だといいたくなる。そうした困難さを言訳にして、果たすべき義務を回避してよいのか、という内心の声も聞こえるが、少なくとも当面は、その課題を果たせる展望はないというしかない(24)
 このようなことを書いただけでは、「締めくくり」というにはあまりにも腰砕けである。そこで、便法ではあるが、本書の中で印象的だった一つの断片を引いて、それに絡める形で、私の感慨を書きとめることにしたい。その断片とは、ベ平連の若手活動家の一部が全共闘運動に参加していくことに対してベ平連の年長幹部がとった態度に触れた個所である。それによれば、年長幹部は全共闘運動に関して部分的賛同や親近感を持ちつつも、肯定できない部分もあると感じていた。しかし、だからといって、若手が全共闘運動に入っていくのを止めることもできず、ただ「いたましさの念」で見守るしかなかった、というのである(下、三九三‐三九四頁)
 この個所を読んでいるうちに、私は奇妙な妄念にとらわれた。もし仮にタイムマシーンに乗って、あの時代に行ったとするなら、「現在の私」は「当時の私」に対してどのような態度をとるだろうかという問いが浮かんだのである。もちろん、「現在の私」は「当時の私」がやっていることを見て、はらはらせざるを得ないだろう。そんなことを続けていたら、自分自身を心身とも傷つけるだけでなく、周囲の人たちにも多大の迷惑をかけ、また全社会的にも、目指す目標を達せられないままにただ混乱を残すのみ、という不毛な結果になる可能性が高い。しかし、では、「そんなことはやめろ」と呼びかけられるかといえば、それはできない。そもそも、「当時の私」も、分別くさい大人がそんな風なことを言っているということは承知の上で、「そのような『まともな』意見を、したり顔で言う大人の言葉など、意地でも聞いてやるものか」と考えていた以上、「現在の私」がそういう説得をすることは何の効果も生まない。
 それだけではない。「現在の私」は「当時の私」から相当遠く隔たった存在になっている――そこには「成熟」の要素と「堕落」の要素の双方があるだろう――が、「現在の私」がこのようなものとして生きているのも、あの惨憺たる経験を通じて、傷つき、もがき、あがき、またその後に繰り返しそれを反芻する、という過程を通した上でのことだった。とすれば、あの惨憺たる経験を抹消してしまったなら、「現在の私」自身がありえないということになる。である以上、「そんなことはやめろ」ということは意味をなさない。結局のところ、小熊の描くベ平連の年長幹部と同様、「いたましさの念」をいだきながら、じっと立ちつくすしかないだろう。
 
*小熊英二『1968――(上)若者たちの叛乱とその背景、(下)叛乱の終焉とその遺産)』新曜社、二〇〇九年
 
(二〇一〇年一月)
 
*注1、15で言及した読書ノートは、この小文同様、私のホームページの中の読書ノート欄に収録してある。なお、大学のサーバー・システム変更に伴い、2010年3月にURLの変更があり、更にその後、私の定年退職後には大学のサーバーを使えなくなることから、新たに個人ホームページを開設した。
(2010年3月以前の古いURL)http://www.j.u-tokyo.ac.jp/~shiokawa/
(2010年3月から2013年3月まで)http://www.shiokawa.j.u-tokyo.ac.jp/
(新しい個人ホームページ)http://www7b.biglobe.ne.jp/~shiokawa/
 
【追記】
 この小文をウェブサイト上にアップロードしてからまもなく、小熊英二、上野千鶴子、両氏から感想が寄せられた。本文については特に修正の必要を感じないが、上野氏から、「田中美津、『1968』を嗤う」(『週刊金曜日』二〇〇九年一二月二五日号)の存在を教えていただいたので、それを注2に書き加えることとした(ついでに、何カ所かで、ごくわずかな文章表現上の補訂を施した)。『週刊金曜日』のコピーを提供してくださった上野氏に謝意を表したい(二〇一〇年二月一二日)。
 
【追記の2】
 注2にもう一点を追加し、またいくつかの細部で小さな変更を施した。なお、本書は増刷時に若干の補訂があるとのことなので、私が参照したのは上下巻とも第一刷だということを付記する(二〇一〇年三月二九日)。

(1)小熊の前著『〈民主〉と〈愛国〉』に関する私の読書ノートを参照。
(2)短評は別として、やや長めの書評で私の眼にとまったものとして、富田武のもの(『現代の理論』二〇〇九年秋季号)、友常勉のもの(『図書新聞』二〇〇九年九月五日号)、小林敏明「歴史化される六八年――小熊英二『1968』を読む」『新潮』二〇〇九年一二月号、「田中美津、『1968』を嗤う」『週刊金曜日』二〇〇九年一二月二五日号、『情況』二〇〇九年一二月号の書評特集(長崎浩、市田良彦、三上治、高橋順一)、苅部直「一九六八年について私が知っている二、三の事柄」『UP』(東京大学出版会)二〇一〇年三月号がある。これらの観点は多様であり、それぞれに興味深いものを含むが、私自身の感想はこれらのどれとも異なる。
(3)小熊は「あとがき」で、「『あの時代』の叛乱の記憶に思い入れのある方には不満かもしれない」と書いている(下、九八三頁)が、これは本文に書いたうち二番目の類型に当たる。確かに、いくつかの書評はこれに該当するといえるだろうが、当事者世代の反応がこれに尽きるわけではない。
(4)他人の本の感想を書く際にむやみと自分自身について語るのは、あまりよい趣味ではない。しかし、本書の場合、対象との関わりである程度まで自分自身について振り返らないわけにはいかないという事情があるため、この小文の最後の方で、その点にある程度触れることにする。なお、余計な話だが、本書の中に何度か出てくる塩川喜信という人は、私と同姓であるために、ときどき私と混同されたり、あるいは親類縁者ではないかと思われることがあるが、全く無関係である。
(5)現代史という分野の特殊性について、塩川伸明『《20世紀史》を考える』勁草書房、二〇〇四年、第1章を参照。
(6)連合赤軍の場合、年長の知識人たちを含んだわけではないが、特殊な事情によって大きな注目を集めたため、当事者や知人たちの手になる大量の資料が残された(非公表の裁判資料の一部が間接的に利用できることについては、下、九三二頁の注26参照)。
(7)来る者を拒まず、去る者を追わずという全共闘型の運動は攻めには強いが、守りには弱いとか、当時の若者は「現代的不幸」を感じていたのだが、それを言い表わす言葉を持たなかったとかいった文章が、それに当たる。念のためにいえば、これらはそれ自体としては相当程度当たっていると思う。ただ、何度も同趣旨の言葉が繰り返されると、ややステレオタイプ的という印象が生じてしまう。
(8)全共闘運動の前史に関わってだが、実際に「法則性」という言葉を使っている個所もある(上、四五七‐四五九頁)。そこに書かれていることは、「一般的な傾向性」ないし「蓋然性」としてであれば当たっていると私も思う。しかし――この問題に限らず、およそ社会科学の対象に関わる事象について――「傾向性」「蓋然性」ならぬ「法則性」という言葉を使うことには抵抗感がある。
(9)なお、山本は一時、吉野の娘の家庭教師をしたことがあり、それ以来、吉野家と親しい間柄だったという。
(10)データの代表性という点についていうなら、系統だった社会学的調査に基づいたデータが少ないということが、この主題について研究する上での一つの大きな困難性をなす。いくつかの社会学的調査がないわけではなく、それらは本書でも随所で活用されている。しかし、それはあくまでもごく部分的なものであり、本書のテーマ全体に及ぶものではない。
(11)「平均値」という表現は、長崎浩の書評(前注2)でもキーワードとして使われている。もっとも、長崎の観点と私の観点は同じではない。
(12)但し、例外がないわけではない。ベ平連が裏で共産主義労働者党(共労党)に引き回されていたのではないかという疑惑(?(スガ)秀実『1968年』ちくま新書、二〇〇六年など)に反論した個所では、当事者の証言をそのまま「事実」と受け取っている観があり、これは問題なしとしない(下、四四九、四七〇、四九〇‐四九一頁、九二〇頁の注494など)。仮にある党派がある大衆団体を陰で引き回していたという事実があったとして、当事者はそれを認めたがらないだろうから、「当事者がそれはなかったと言っているから」というだけでは説得力がない。念のため付け加えるなら、このように書いたからといって、私はこの問題に関し、?(スガ)が正しく、小熊が間違っているなどと主張するわけではない(私自身はこの件について、いうにたりる知識を持っておらず、結論に関しては完全に白紙である)。結論的には小熊のいう通りかもしれないが、少なくともこのような論じ方は説得力に欠けるというにとどまる。
(13)西部の回想が一九八〇年代に書かれたもので、その時期の彼の思想的立場が彼のブント観に影響していた可能性もあるという指摘(下、一七九頁)も、前著にはなかったもので、一つの前進である。しかし、この指摘は軽い留保にすぎず、続く個所ではもとの結論が維持されている。その個所には注がつけられておらず、どういう根拠によってそう判断したのかは明らかでない。
(14)かつての新左翼諸党派の一つである社青同解放派は、ローザ・ルクセンブルクを思想的主柱とし、「革共同両派の宗派主義」批判を掲げていたが、その彼らも、末期には悲惨な「内々ゲバ」に突き進んでいった。このことは、今日ローザ・ルクセンブルク再評価を唱える人たちにとって深刻な問題を提起しているはずである。
(15)私はこれまでこの問題について何度か簡単に触れたことがある。ローザ・ルクセンブルクに関連して、市野川容孝『社会』の読書ノート、ユーロコミュニズムに関連して、「藤田『社会主義史』論との対話――藤田勇『自由・民主主義と社会主義1917-1991』を読む」『社会体制と法』第一〇号、二〇〇九年、「ソヴェト民主主義」のディレンマについて、『《20世紀史》を考える』勁草書房、二〇〇四年、第七章など。とはいえ、これらはまだ不十分な点を残しており、今後も継続的に考えていきたい。
(16)この点、富田武による書評(前注2)は、小熊の意図を読み誤っているように思われる。富田は、連合赤軍が「全共闘運動のリゴリズム」の産物だという評価は当たらないとし、「『連赤は他人事ではない』という田中美津(リブ)や小阪〔修平〕の心情は理解できるが、歴史的かつ客観的な総括は別物である」と書いている(『現代の理論』二〇〇九年秋季号、二〇三‐二〇四頁)。実際には、本文で見るように、小熊は田中美津の連合赤軍理解や、リゴリズムの産物とする議論を「過剰な意味づけ」の例として取り上げているのであり、富田が批判するような考えを示しているわけではない。
(17)やや細部にわたるので注にするが、この個所での小熊の論の運びには、いささか強引なところがある。たとえば、「同志」「仲間」を殺したという一般的イメージに反論して、「連合赤軍は『同志』や『仲間』といえるような集団だったとは、とてもいいがたい」と述べ、その論拠として、革命左派と赤軍派は相互に軽蔑し主導権を争っていたし、幹部と下部メンバーの間でも相互不信があったという事実を挙げている(下、六六八頁)。しかし、大まかな意味で目標を同じくする集団の中で、方針をめぐる意見対立、主導権争い、メンバー間の意思疎通不足、あるいは個人的な反目や不信等々が生じるというのはごくありふれた現象であり、およそ組織というものにつきものだとさえいえる。そうした現象があったからといって、彼らが「同志」「仲間」でないということになるわけではない。これは当たり前の話である。もちろん、そうした仲間うちでの反目が必ず内ゲバに行き着くとか、ましていわんや大量リンチ殺人に行き着くという必然性があるわけではない。しかし、いくつかの条件のもとでそこに行き着く可能性が全くないともいえない。つまり、ここには直接的な必然的連関はないが、緩やかな間接的連関は確かにある。それを完全に否定するかの如き書き方はあまりにも性急な決めつけ方であり、いつもの小熊らしくもない。
(18)これも小さな点なので注にするが、「『全共闘白書』に掲載された元活動家たちのアンケートによると、運動から離脱した原因は一位が『内ゲバ』で、二位が『連合赤軍』であった」という個所がある(下、六六二頁。同じ典拠への別の言及は、下、三〇四頁)。この記述は、「〔一九七〇‐七一年には〕誰しも潜在的には足を洗いたいと思いはじめていた。そして七二年三月、連合赤軍事件がおきたとき、若者たちの叛乱は一気に瓦解していくことになるのである」(下、三〇五頁)という記述と呼応しているように見える。そこで、典拠の該当個所を見ると、アンケートの設問は、「全共闘的・学生運動的なものから距離をおくようになった主因(複数回答)」とあり、回答の内訳は「その他」が五二・九%、「内ゲバ」が二四・〇%、「連合赤軍」が一六・九%となっている(『全共闘白書』新潮社、一九九四年、四一三頁)。このアンケートはそもそも対象者の範囲が不明である上、設問文も曖昧なところがあって、取り扱いの難しいデータだが、複数回答可のアンケートで二四%とか一七%といった数字がそれほど大きなものと評価できるかというのが一つの疑問として浮かぶ。もう一つには、本来の設問文にある「距離をおく」という表現と、小熊の紹介にある「離脱した」という表現の差異も気になる。「離脱」といえば、その直前まで何らかの運動体に属して活動していたが、これを期にそれを止めたという意味になるが、「距離をおく」という表現はもっとずっと曖昧であり、たとえば「既に離脱した後もなお微かに残っていた共感がいよいよ消え失せた」ということも含みうる。個人差の大きいこの種のことについて概括的なことをいうのもためらわれるが、全共闘運動に参加した人たちのうちでは、七二年三月よりも前のどこかの時点で「足を洗って」いたのが多数派だったと思われる。それでも新左翼系の種々の運動になにがしかシンパシーをいだいていたのが、この事件の報に接して、完全に心理的に絶縁したいと感じたという例も多かっただろう。小熊の書き方では、この直前まで活動を継続していた人たちが、この事件を契機に一挙に離脱したというイメージが思い浮かぶが、そのような人たちが多数派であったとは思われないし、少なくとも上記のアンケート・データからそのように結論するのは説得的でない。
(19)この個所(下、八三三頁)の小熊の書き方は、ただ「共産党」としているため、旧社会主義諸国の共産党支配のことを念頭においているのか、それとも日本共産党のことなのかがはっきりしない。仮に前者だとした場合、旧社会主義諸国における共産党支配の行き詰まりをこの要因だけで説明するのは乱暴にすぎるが、他の要因と並ぶ一つの要因としてであれば有意味なものたりうる(この観点については、私は旧著『現存した社会主義――リヴァイアサンの素顔』勁草書房、一九九九年、六二四‐六三五頁で論じたことがある)。他方、もし日本共産党を主に念頭においた叙述だとしたら、若干の疑念がある。日本の場合、緩やかなネットワーク関係に依拠しようとした新左翼の一部の運動は四散したし、ピラミッド型ではあるがより緩やかという意味ではある程度ネットワーク型にも通じるところのあった社会党も分解し、後継党たる社民党はきわめて弱体な存在に落ち込んだのに対し、「古くさいピラミッド体質」を維持している共産党はなぜか今日までその地歩を保っているという皮肉な対比があるからである。
(20)巻末の事項索引では、「ネットワーク」という言葉はそもそも項目として取り上げられていない。「ピラミッド構造」は項目があるが、そこで指示されているのは、上巻のうちの東大各学部に存在したとされるピラミッド構造を別にすれば、「結論」部の当該個所のみである。
(21)但し、ここでいう「差別」とは、伝統的通念としての性別役割観念が疑問にさらされることなく温存されていたというレヴェルのことを指し、それを超えて、「こんなにもひどいことがまかり通っていたのか」というような事態にぶつかったということではない。本書の紹介によれば、当時、そういう事態――典型的には強姦――がときおり起きていたようだが、私自身はそれを直接見聞しなかったことはもとより、噂としてさえも聞いたことがない。
(22)本書には、当時の叛乱する若者たちがゲヴァルト闘争に高揚感・充実感・生き甲斐を覚えていたという趣旨の記述が繰り返し出てくる。いまにして思えば、そういう人が多かったのかもしれない。だが、当時の私は、そうしたことがあろうとは思いもよらなかった。あれはあくまでも義務としてやるべき――しかし実際には、自分にはできない――ことだという風にしか考えられなかった。参加者にそのように重い心理的負担をかけるような方針はそもそも間違っているのだと考えられるようになるまでには、数年間の苦しい葛藤を要した。
(23)これが邪推でないことは、ベ平連を扱った第一六章が二〇〇頁近い分量をもっていること、その章の冒頭には、「社会運動の先駆として学ぶべき点を描く」とあり、章末は「現在でも学びとるべき多くの教訓と知恵がふくまれていた」と結ばれていることから明らかである(下、三〇六、四九九頁)。もちろん、これは単純な確認であり、そのことをとやかく言うつもりはない。
(24)その代わりというわけではないが、断片的にこの問題と関わることは何度か書いてきた。その多くは、私のホームページ上に公開してある。
 
 
トップページへ