三谷博『明治維新を考える』
恥ずかしい話だが、私は近代日本史について――ましてそれ以前の時代についてはなおさら――あまりまともに勉強したことがない。関心がないわけではなく、むしろ非常に大事なテーマだと感じてはいるが(1)、何分にもあまりにも研究史が厚いので、恐れをなして、敬して遠ざけてきたというのが実情である。たまに、いくつかの関連書を読んで啓発されることがないわけではないが(2)、これまでのところ、それは至って断片的・非系統的なものにとどまっている。
そういう中で、ともかくも多少は近代日本史について基礎知識を得ておこうと考えて、非専門家にも読みやすそうに見える本書をひもといてみた次第である。近代日本史についてきちんと勉強したことのない私は、著者である三谷博についても、名前だけはずいぶん前から知っていたが、著作を読んだことはこれまでほとんどなかった。近年では、いわゆる歴史教科書問題に関連して活発に社会的発言をしているらしいことを聞きかじってはいたが、それについてもほとんど内容を知らず、いわばほぼ白紙のような状態で本書を開くことになった。読んだ結果、多くの示唆を得ることができ、「読んでよかった」という感想を素直にいだくことができたのは幸せだった。専門外の本であるので十分理解できないところもあるし、微妙な違和感をいだく部分もないわけではないが、全体としていえば、私にとってすんなり入ってくる議論が展開されており、教えられるところも多かった。そうした感想の主な点を、以下の読書ノートにまとめてみたい。取り扱われている対象に関する素人の感想だから、誤読に由来する的外れな感想も含まれているかもしれないが、ともかく私なりに刺激されたのがどういう点だったかをまとめておきたい。
本書は論文集であり、取り扱われているテーマは多岐にわたるが、統一性のない寄せ集めというわけではなく、むしろかなりの凝集性をもっている。中でも重要な位置を占めているのは、第一に、歴史教科書問題に象徴される諸国間のナショナリズムの衝突――より広くいえば「歴史をめぐる政治」――の問題、そして第二に明治維新についての独自の新しい捉え方――より広くいえば歴史学の新しい方法――である。書物のタイトルからも窺えるように、著者によって重要な位置を与えられているのは後者の方だが、便宜上、前者の方から先に考えてみたい。
一 ナショナリズムの衝突および「歴史をめぐる政治」をめぐって
このテーマについては本書第U部で集中的に論じられている。これ自体、いくつかの小テーマに分かれるので、それらを分けて、順次考えてみたい。
@「国民説話」と歴史学
この論点は本書でも各所で触れられているが、『日本イメージの交錯』という本のあとがきに最もよく出ているので、そちらを主に参照して考えてみたい(3)。この文章における三谷の主張を簡単にまとめるなら、「歴史認識」には「国民説話」の側面と学問的研究の側面の二面が含まれているが、両者は性格を異にするものであり、混同すべきでない、という風になるだろう。これはある意味で当たり前のようなことの指摘だが、「歴史認識」をめぐって議論が沸騰するときには往々にして両者が混同され、それぞれが「正しい」と信じる「国民説話」があたかも学問的研究に裏付けられた「絶対に正しい」ものであるかに主張されるという現実がある以上、この区別の指摘は重要な意味をもつ。
「国民説話」とは、三谷によれば、政府主導かジャーナリズム主導かといった各国ごとの差異はあれ、いずれにしても「国民」のアイデンティティの核を形づくるものであり、そのために物語を単純化し、絶えず唯一の物語に収斂することを目指すものである。そこには、学問的歴史に見られるような解釈の多様性はなく、むしろ現存秩序の正当化と解釈の斉一化が重視される。また、その話者も聴者も当該「国民」の枠内にとどまり、諸外国の人々のことは念頭におかれていない。このような特徴づけに見られるように、「国民説話」はナショナリズム意識の一つの構成要素をなしており、学問としての歴史研究とは多くの点で性格を異にする。もっとも、ナショナリズムというものを全面否定しない三谷(この点については次項で取り上げる)は、「国民説話」の意義自体を否定してはいない。それにはそれなりの意義があると認めた上で(4)、それとアカデミックな歴史学との関係を考えようというのが三谷の姿勢のようである。
いまみたように「国民説話」と学問研究は性質を異にするが、では両者は全く別のものとして分離してしまえばいいのかといえば、そうともいえない、と三谷は述べる。「国民説話」には単純化がつきものだとはいえ、学問的裏付けをもたず、資料の批判的吟味を伴わないなら虚偽以外の何ものでもなくなってしまい、説得力を失う。従って、「国民説話」が根拠を欠いた手前勝手な物語に堕すのを食い止めるためには、学問研究が重要な役割を果たす。また、学問的次元での議論は、話者が国境を超えた学問共同体を意識して参加するかぎり、意味ある対話が諸国の学者たちの間で成り立ちうるが、そうした学問的対話の経験とノウハウは、より対話の難しい「国民説話」レヴェルでの議論が不毛な敵対感情の昂進にならず、少しでも有意味な対話に近づくようにと努める際に、重要な参考となると指摘される。やや我流に言い換えるなら、歴史学は「国民説話」のあり方を直接規定するものではないが、それがよりよいものになる上で一定の貢献をすることができる、という考え方といってよいだろう。
ここでの文脈を離れて、より広くいうなら、歴史上の諸問題をめぐってさまざまな論争が展開されることはよくあるが、そのかなりの部分は純然たる歴史学上の論争というよりもむしろ「歴史をめぐる政治」――この言葉は三谷のものではなく私のもの――ともいうべきものであり、「国民説話」をめぐる諸論争もその一種だといえるだろう。本書の直接的テーマである東アジアの例だけでなく、私の専門である旧ソ連の例を含めて、「歴史をめぐる政治」が現代政治のホットな争点となっている例は少なくない。そこにおいて歴史解釈/歴史叙述/歴史教育等々が論争の主要な場をなしている以上、歴史家も無関心ではいられないが、「歴史をめぐる政治」それ自体は歴史学上の問題というよりはむしろ現代政治上の一トピックであり、専門研究者としての歴史家がこれにどのように関わるべきかは微妙である。
私見を言えば、「歴史をめぐる政治」は現代政治上の争点である以上、歴史家が独占的発言権を持つものではない。むしろ、それは国民一般の公的討論に委ねるべきものと考えるのが筋である。そして、「歴史をめぐる政治」と学問としての歴史研究が次元を異にする以上、歴史家がそうした論争に不用意に巻き込まれるのは避けた方が無難だという風にも感じられる。そうではあるのだが、話題が歴史家にとって無縁のものでない以上、ただ避けてばかりいるのも無責任ではないかという問いもまた突きつけられる。三谷の態度は、歴史研究と「歴史をめぐる政治」の違いを明示した上で、前者の側から後者について発言できる範囲を明確化するというもので、共感するところが大きい。
Aナショナリズム/国民国家について
三谷は視野の狭い排他的なナショナリズムに対しては明らかに批判的であり、昨今それが一部で高まりつつあることに懸念を表明しているが、だからといってナショナリズム/国民国家一般について否定的態度をとっているわけでもない。たとえば、「個人のアイデンティティと同じく、国民のアイデンティティも全体としては肯定的であるのが自然な姿」である(一三四頁)とか、文部科学省の定めた学習指導要領に「我が国の歴史に対する愛情を深め、国民としての自覚を深める」ことと並んで「他民族の文化、生活などに関心を持たせ、国際協調の精神を養う」と記されていることに注意を促し、これは「かなり有用な基準」だとした記述(一三五‐一三六頁)がある(前注4も参照)。ここに窺えるのは、いわば穏健でリベラルなナショナリズムに好意的な姿勢である。
そのことと関係して、近年、一部の論者によって盛んに主張されている「国民国家の脱構築」論に対しては、三谷はある種の違和感を表明している(一三一‐一三二、二二一頁)。もっとも、「脱構築論」が間違っていると主張しているわけでもない。具体的には、次のように述べられている。
「国民アイデンティティは、他のアイデンティティ同様、造られたものである。したがって、その本質性や重要性は自明でなく、脱構築論がそれを暴き、流動的なアイデンティティへの還元を示唆するのは、自家中毒を回避するために大事なことである。しかし、一度、凝結した固定的アイデンティティは、いわば物神化した力として人々を支配し、脱構築の持つ力とは比較にならぬほど強力である。それゆえ、ナショナリズム自体をナショナリズムと同じレヴェルで制御する工夫も不可欠なのである」(二二四頁、注7)。
右に引用した文章のうち、第一、第二センテンスはもとより、第三センテンス(「しかし……強力である」)についても、おそらく多くの「脱構築」論者は賛同するだろう。そして、だからこそ、そのように強力な固定的アイデンティティに対抗するため、声を大にして脱構築論を説かねばならないのだと主張するのではないだろうか。とすれば、三谷と「脱構築」論者の違いは第四センテンスのみ――もっとも、このセンテンスはやや意味を汲みとりにくいところがあるが――であり、それほど大きくはないということになるかもしれない。
私自身も「国民国家の脱構築」論に対して、その理論レヴェルでの基本的妥当性を認めると同時に、それがやや一本調子に振り回されること――一種の政治的アジテーションへの傾斜――への違和感をもっているので、その点では三谷の態度に共鳴するところがある。もっとも、三谷の態度は先に述べたように穏健ナショナリズム論ともいうべきものだが、それへの多少の疑念がないではない。
穏健でリベラルなナショナリズムと閉鎖的で排他的なナショナリズムとを区別すべきだという考え方には、それなりの理がある。ナショナリズムというのは非常に多様な潮流を含む雑多な思想・運動・心情の総称であり、その全部を同列視するのは乱暴な議論である。また、ゆるやかな意味でのナショナリスティックな心情は相当広い範囲の人々に浸透しているから、それをも全面否定してしまうのは非現実的であり、少数の知識人の自己満足と孤立に終わりかねない。そこまでは分かるのだが、「穏健でリベラル」だったはずのナショナリズムがいつの間にか「閉鎖的で排他的」なナショナリズムに転化してしまう実例も枚挙にいとまがない。両者を十把一からげに非難すべきでないとしても、前者が後者に転化してしまう危険性への歯止めのようなものについても考えておかないと不十分ではないだろうか。やや神経過敏といわれるかもしれないが、私としてはその意味で、たとえ「穏健でリベラル」という形容詞が付けられるにしてもナショナリズムに対するある種の疑念――強くいえば、一定の警戒心――を捨てきれない。
いま述べたような留保はあるが、ともかくここに見られるバランス論は、ややもすれば極論ばかりが幅を利かせやすいナショナリズム論の現状の中では貴重であるように思う。
B中国・韓国の「反日ナショナリズム」について
三谷の専門は日本史だが、中国・韓国の留学生などと接する経験を通して、中国・韓国の「反日ナショナリズム」についても立ち入った認識をもつに至ったようで、それがどういうものなのかについて、分かりやすい説明を提供している。その前提として重視されているのが、「忘れ得ぬ他者」という概念である(一一五‐一一九、一四一‐一四五、一五四‐一五六頁など)。「忘れ得ぬ他者」とは、「自己」主張するために必ず引き合いに出される「他者」のことであり、近世日本にとっての中国がその好例だとされる。そして、一九世紀のドイツ人にとってのフランス、同時代のアメリカ人にとってのイギリス、植民地とその後継国家にとっての(旧)宗主国、現代のほとんど全ての国民にとってのアメリカ合衆国などが「忘れ得ぬ他者」のさらなる例として挙げられ、現代中国・韓国にとっての日本もその例だというのである。この「忘れ得ぬ他者」は愛憎半ばする対象であり、時によって愛憎のどちらか一方が表に出るが、背後に隠れていたものが条件次第で表に現われる――憧れから敵愾心へ、またその逆――こともよくあると指摘される。
ネーション意識に限らず、アイデンティティというものが一般に「他者」との関係で形成されるのは当たり前だが、「他者」一般ではなく「忘れ得ぬ他者」と表現するところに、歴史家のセンスが現われているように思う。現代中国・韓国について説明する際に、江戸時代日本の例――現実の中国との接触は小さくなっているのに、中国との対抗が意識の中に大きな位置を占め続けた――を下敷きにするのも、歴史家ならではのセンスだといえる。また、それ以外の世界諸国の例を引き合いに出しているのも、中国・韓国と日本の関係だけを突出させることなく広いパースペクティヴの中でものを考える上で有益である。
「忘れ得ぬ他者」は、現実の関係が薄くなっても、長いことアイデンティティ形成の核となって残る。もっとも、絶対に変わらないというような宿命があるわけではなく、条件次第で、また長い目で見れば、変化の可能性があるが、それにしても、その変化はそう簡単に生じるわけではない。この認識を基礎にすると、現代中国・韓国が戦後数十年経ってもなお日本を「忘れ得ぬ他者」としていることが理解できる。また、ある国を「忘れ得ぬ他者」と意識する側とそのように意識される側の間の関係は、しばしば非対称的なものである。現に他者を支配している最中の国は相手のことをそれなりに意識せざるを得ないが、その関係が過去のものとなれば、支配した側は相手のことを「忘れる」。これに対し、支配されていた側は相手のことを「忘れ得ぬ」ものとして長らく意識し続ける。こうした非対称性およびそれに由来する意識の齟齬は、ここで取り上げられている例を離れて他にも様々な例を考えることができるだろう。いずれにしても、齟齬の存在自体を直視し、そのことによって少しずつほぐれる方向に向けて努力することが必要ということになる。
C過去の罪業に対する責任
近隣諸国との関係の歴史を考える際に留意すべき問題点の一つとして、本書では特に世代間の責任継承の問題が取り上げられている。戦後生まれの日本人がどうして戦前・戦時のことについて責任を問われるのかという問いである。そこでは、次のように書かれている。
「『なぜ、隣国の人々は、今ごろ、何年も経ってから、直接責任のない我々に非難の声を浴びせるのか。いい加減にしてほしい』。これは、表向きには語られないが、多くの日本人が心の奥に潜ませている、切実な声である。それは……普遍的な難問であって、決して責任逃れの弁とばかり見なすことはできない。この不条理への配慮がないと、日本の国民の間には言われなき批判という怒りが蓄積されるに違いない。些細な事件をきっかけに、それが爆発的なカタストロフに転ずることを、私はもっとも恐れている」(一三六頁)。
この引用文の前段は、ナショナリスティックな心情をもつ日本人の意識を、そのまま正当化するわけではないまでも、ある程度理解しうるとするもので、先に見た穏健でリベラルなナショナリズムという立場と符合する。その点については既に述べたので繰り返さない。それはさておき、この後段の部分は重要な指摘を含むが、二通りのことが十分区別されずに提起されているような気がする。その一つは、直接的な責任と間接的な責任とを混同するのは本来論理的に不適当だという指摘――だからといって間接責任を曖昧にしてよいというのでないという点は後で見るとおり――であり、もう一つは、本来的に的確な批判であるか否かは別として、批判の仕方に「配慮」を欠くと、批判された側は「言われなき批判という怒り」を蓄積してしまい、「爆発的なカタストロフに転ずる」おそれがあって危険だという点である。あるいは、三谷は配慮を欠く批判はそれ自体として本来的に不適切なので、この二つは同じことだと考えているのかもしれないが、私はそこのところは分けて考えた方がよいように思う。論理のレヴェルでは的確な批判であっても、その提示の仕方が配慮を欠くために感情的な反撥を招いてしまって、結果的には逆効果ということも大いにありうるからである。
たとえば、同情すべき条件のもとで犯罪を犯した人のことを考えてみよう。その人は、一方で内心に疚しさを感じつつ、他方で、「自分が犯罪を犯したのはやむを得ない事情があったせいなのだから、そんなに強く非難されるいわれはない」という気分もかかえているだろう。それにしても犯罪は犯罪だから、量刑において情状を考慮することはあるにしても、有罪か無罪かという点でいえば有罪とするほかない。ということは、その人を非難すること自体は適切だということである。しかし、たとえばマスコミ報道が過剰なセンセーショナリズムを煽り、「極悪非道」というようなイメージを広め、「吊るし上げ」的な雰囲気を広範囲につくりだしたなら、当初は素直に謝罪しようと思っていた犯人も、あまりの袋叩きに反撥し、「言われなき批判という怒り」を蓄積して、遂には世間全体を敵視するようになるかもしれない。この場合、非難すること自体は正当なのだが、非難の仕方が配慮を欠くことによって望ましくない結果を招くということになる。このような関係は、文字通りの犯罪に限らず、差別的言動などについても、よく見受けられるものであるように思う。民族差別、女性差別、部落差別、障害者差別等々に関して、差別的言動を糾弾すること自体は本来正当なことなのだが、その糾弾の仕方が配慮を欠くために、糾弾された側の反感を煽り立て、不毛な憎悪の応酬に至るといった例は決して珍しくない。これは三谷の主題とは直接関わらない話で、一種の脱線である。ただ、批判の仕方における「配慮」の重要性、そしてそれが欠けた場合に批判された側が怒りを蓄積して危険な帰結をもたらすという構図を抽象化して捉えるなら、広い適用範囲を持つ議論とみることができ、三谷の指摘はその一つの例という風に位置づけられるのではないかと思う。
脱線から本筋に戻るなら、ここで三谷が問題にしているのは、過去に罪を犯した本人の負う直接的な責任と、本人ではない別の人――ここではその子孫――が負う間接的な責任の区別と連関ということである。この点について三谷は、刑法上の責任は子孫におよばないが、民法の観点からいえば遺産相続人は正の遺産と負の遺産(債務)の双方をあわせて相続するという比喩を用いて、親の世代から恩恵をこうむった世代は親の世代の負の遺産をも受け継がないわけにはいかない、という風に説明している(一三七‐一四一、一六一頁)。比喩はあくまでも比喩であって、それだけで全てを説明することができるわけではないが、大まかな意味では一応の説得力をもつ議論だといえよう。
「戦争責任」と「戦後責任」を区別し、戦後世代には直接的な意味での前者はなくても間接的な意味での後者があるという議論は、ずいぶん前から提示されており(5)、それ自体としていえばとりたてて新味があるわけではない。私自身も数年前の著作で、ある程度この問題を考えようとしてみた(6)。しかし、この問題は冷静な論理のレヴェルだけで決着がつくわけではなく、いつまで経っても、過度に単純化された二項対置的構図での不毛な論争が続いているのが現状である。これは何ともやりきれない感を懐かせるが、二一世紀初頭に再燃した国際的論争の中で、三谷は健全なバランス感覚を発揮して重要な役割を果たしているように見える。
D全体の背後を貫く政治的ないし思想的立場のようなものについて
ある本の感想をまとめるに際して、著者の立場に過度にこだわるのは往々にして不毛であり、時としては全く不要なことである。とはいえ、人文社会系の研究においては、思想的立場というものを全く無視することもできないし、本書のような一般読者向けの書物では、そうした側面が純学術書よりも相対的に大きい。著者自身が自己の立場を明言した個所もある以上、その範囲内で、そうした問題について論評することも許されるだろう。
三谷の立場を簡単にまとめるなら、マルクス主義に対する違和感をもちつつも、右翼反共主義へと流れるのではなく、リベラルな立場を維持しているという風にでもいえるだろう。本書の中には、著者の立場を明示した個所がいくつかある。たとえば、「歴史学研究会の会員でもなく、その標榜する『科学としての歴史』を信奉しているわけでもない」(一三〇頁)とか、「直接師事したのが共産党を離脱した伊藤隆先生や佐藤誠三郎先生であったせいか、いずれかといえば反共産主義者と分類されて、例えば、日本の人文社会学界の主流をなす出版社である岩波書店や東京大学出版会などの講座ものに執筆を依頼されることは、ついぞなかった」(一八四頁)といった記述である。そして、そうした「アウトサイダー」に「主流」から原稿依頼が来るようになったことに軽い戸惑いを表明し、「世の中も変われば変わるものだ」、「どういう風の吹き回しであろうか」と書かれている。と同時に、だからといってへそを曲げるのではなく、かつての「主流」の流れを汲む人たちとの対話に応じる態度を表明している。これは立場の違いが対話不能状態を生み出しやすい日本の知識人の世界の中では、わりと珍しい、貴重な態度であるように思う。
第二次大戦後、ある時期までの日本の人文社会科学において、マルクス主義の影響が強かったのは周知の事実である。もっとも、ある時期以降、マルクス主義もずいぶん多様化したし、また非マルクス系の研究も次第に増大してきたから、特定の一つの立場が学界を独占的に支配し続けてきた――そのように単純化して描き出されることも多いが――というようなことではない。三谷は一九五〇年生まれとのことで、私とほぼ同世代だが、この世代が研究生活を開始した七〇年代には、マルクス主義の「権威」が次第に低下しながらも、まだかなりの強さをもっていた。他面、そのような「少し前までの絶大な権威」への反抗から、その逆の方向に突っ走るという傾向もその頃から一部に芽生えており、それはその後に一層強まっている。「かつてマルクス主義者にいじめられた」というルサンチマンから、極端な右翼反共主義の心情を露わにしている人も珍しくないし、そこまで心情的でない人たちの間でも、そうした考えに同調する傾向が次第に強まっているようにみえる。
そういう風潮に照らすなら、三谷は、もともとマルクス主義者だったことがないおかげで、「信じていた理想に裏切られた」という恨みつらみをもたずに済んでいるのかもしれない。ともかく、淡々とリベラルな態度を貫いているように見え、好感が持てる。
そのような著者の姿勢は、三人の歴史家についての批評(本書第V部)によく現われている。マリウス・ジャンセンを高く評価しているのは、かつて「近代化」論をイデオロギー的に裁断していた左翼歴史学への抗議の意味があるのだろう(7)。他面、講座派の闘将、遠山茂樹に対する評価は、確かに批判的ではあるが、笠にかかってやっつけるというのではなく、むしろ意外に暖かい。マルクス主義退潮の今日、かつてのマルクス主義史家を居丈高にやっつけるのは容易な業だが、三谷はそのような安易な態度を避け、批判的でありながら節度を保っている。司馬遼太郎については、一方でアカデミズム史学が彼を無視してきたことを批判しつつ、他方で司馬史観の問題性についてもきちんと指摘しており、こうしたあたりにも穏当なバランス感覚が発揮されている。
二 明治維新論――あるいは歴史学方法論
三谷は本書で、明治維新解釈に際して重大でありながら見落とされてきた謎をいくつか挙げ、それらをどのように解釈すべきかという問題を提示している。謎の一つとして比較的重視されている論点に、犠牲者数の少なさ(約三万人であり、フランス革命の一〇〇万人よりはるかに少ないとされる)がある。もっとも、私の感想としては、これはこれで重要な指摘かもしれないが、世界の歴史にはこれ以外にも、重大な変動のわりには犠牲が少なかったという例はあり、この点を特に取り出して強調することにどれほどの意義があるのかはよく分からない。ソ連解体をはじめとする旧社会主義諸国の体制転換も、ルーマニアを唯一の例外として、非常に平和的な大変動で、犠牲者数も極小だった(8)。
本書の中でより重要な位置を占めているのは、「複雑系」研究を参照した独自の歴史研究方法論である。歴史研究に他の分野の発想を借りてくることは、成否は別として、ひとつの試みとして有意義だと私も思う。かつて――私の若かった数十年前まで――物理学が「諸学の王」と見なされていた時代があり、さまざまな分野の「科学性」の度合いが物理学との距離で測られたりしていたが、今や生命科学や情報理論などの新しい分野の発展により、自然科学の世界も様変わりしているらしい。そういった新しい動向を吸収するのはもちろん有意義だが、具体的にどういう風に摂取するかはなかなか難しい問題で、いろいろと迷いや疑問も感じる。一つには、自然科学の最新の動向を、その方面の素人である人文社会系の研究者がどこまで的確に理解できるのかというおそれのようなものがあるし、もう一つには、仮にある程度まで理解できたとしても、それをどのように変型して適用するかがこれまた非常に難しい問題で、一筋縄には行かないのではないかという予感がするため、おいそれとその作業に手を出す気にはなかなかなれない(9)。そのように迷い続けている私とは違って、三谷は身近に「複雑系」の専門家がいるおかげで、それを逸早く吸収することができたという。「複雑系」に通じていない私には十分理解できないところが残るが、ともかく結論的な主張についてみるなら、いくつか興味深い指摘がある。
本書で特に強調されているのは、大きな変動には主要な原因があるに違いないという発想を放棄すべきだという論点である。「大きな結果が生ずるには、大きな、目立った原因があるはずだという思いこみを捨てねばならない」(二〇三頁)というわけである。これは必然論よりも統計的蓋然論の重視、そしてまた多様な要因が次々と重なる経過を追求することの重視につながる。これらの指摘は確かに当たっているように思われる。もっとも、こうした指摘だけであるなら、何も「複雑系」論を借りるまでもないのではないかという気もする。ここで言われているのは、一言でいえば、単線的なあるいは目的論的な歴史観の否定ということではないだろうか。そして、そのように言い換えるなら、ある意味では当たり前のことを言っているようにも見える。
「複雑系」研究から借用される洞察をもう少し特定した個所としては、次のような叙述がある。一九九五年のミニ・バブルを素材にとった経済過程のシミュレーションによる数理的研究によれば、@個々の時点で生じうる経路はさほど多くない、A分岐点で現実に生ずる路は、確率的には小さいものでありうる、B巨大な変化に見える事件は、小さい方の予測が実現した場合ではないか、といったことが指摘されている(五七‐五八頁)。
我流に言い換えさせてもらうなら、歴史のたどる行路は単一のものとして法則的に定まっているわけではないが、かといって、ナンデモアリというほど多様でもなく、現実に生じうるシナリオの数は比較的限られている。そして、それらのシナリオのうちのどれが現実に選ばれるかといえば、確率が高かったものとは限らない。むしろ、確率の低かったものが選ばれた場合に「巨大な変化」が生じたということになる、ということだろうか。
このような歴史観は確かに興味深いものだが、とりたてて斬新だともいいきれないような気がする。私は三谷の「複雑系」論を読んで、かつてE・H・カーがレーニンとスターリンの関係について次のような比喩で説明したのを思い出した。
「レーニンが塀の上で一方の側へ軽く傾いただけのところを、スターリンはどしんと落ちてしまったというのは事実である。しかし、塀はそこにあったのであり、その上にいつまでもとどまっていることは不可能であった。スターリンは、レーニンは少なくともその方向を指摘したのだと主張したのかもしれなかった(10)」。
塀の上にいる人がいつまでもバランスをとり続けるのはほとんど不可能なことであり、いずれは一方の側に転落するというのは、ある意味では不可避である。しかし、どちらの側に、いつ転落するかは予め確定しているわけではない。カーはレーニンが軽く傾いた方向にスターリンがどしんと落ちたと書いているが、論理的可能性としては、反対方向にどしんと落ちることもあり得ただろうし、もう少し長いこと塀の上にとどまり続けることも、確率はともかく、あり得たかもしれない。なお、ここでカーが「塀の上にとどまる」とか「どしんと落ちる」という比喩で念頭においているのは、世界革命論と一国家としての生き延びのバランスのことであり、「どしんと落ちる」とはスターリンの一国社会主義論を指している。しかし、この比喩を別様に解して、例えば「民主」と「独裁」の微妙なバランスについて同じように考えることもできよう。この場合、スターリンが「どしんと落ちた」のは「独裁」の側、反対側に落ちた場合には革命の目標の放棄(資本主義への復帰)、塀の上に長くとどまるのは、「民主」を保ちながらの社会主義化――それを長期にわたって継続するのは、絶対に不可能とまで言い切れるかどうかはともかく、きわめて困難――といった具合になるだろう(11)。
これ以外にも、いろいろな例が考えられる。相対的に安定した状況における変化というものは通常連続的だが、時として、ある種の臨界点を超えた途端に大規模な非連続的変化が起きることがある。雪崩現象とか、バンドワゴン効果と呼ばれるものはみなそうしたものだろう。「自己成就する予言」にしても、「あの予言は多分当たるのだろう」と考える人が少ないうちは大した影響力をもたないが、その比率がある閾値を超えると、急激な変化が生じて、「予言」を「成就」させる。微小な変化の漸進的累積がある時点で閾値を超え、一挙にドラスティックな、あるいはカタストロフィックな変化を起こすというのは、昔懐かしいヘーゲル風の言い方では「量の質への転化」に当たるともいえるのではなかろうか。本書で歴史教科書論争に関連して、ナショナリスティックな激情が燃え上がるのを防ぐには「初期消火」が重要だということが指摘されているが(一五〇‐一五一頁)、比喩であれ文字通りの意味であれ、はじめは小さかった火事が大火災になるかどうかは「初期消火」の成否によって分かれるというのも、これと似たところがある。
一般論として、漸進的変化が閾値に到達する少し手前の時点で、その先の経路に関する予測を考えるなら、二通りのシナリオを想定することができる。@これまでは微小な変化が漸進的に進むだけだったが、まもなく閾値を超え、一挙の激変が起きるだろうという予測と、Aこれまで進行してきた漸進的変化は閾値に達する前に停止し、激変のないままに尻すぼみに終わるという予測である。そのどちらが実現するかは、事後的にしか分からず、事前にはただ確率論的に考えるしかない。もっとも、自然科学や経済学などの「複雑系」研究においては、この確率を精密な数学的手法で計算することができるのに対し、人間社会の歴史事象の多くの場合については、あまりにも雑多な要因――しかもその多くは定量的に測ることができない――が関与するため、確率論的に考えるといっても、しょせんは「目の子」の勘に頼るしかないといった差異があるだろう。この点は科学的精緻さという観点からは非常に大きな差だが、ともかく単一の結末を必然的にもたらす決定論的法則という発想をとらず、むしろ確率論的発想をとる点、また通常は連続的な変化が条件次第で時として一挙的激変(カタストロフィー)を引き起こす可能性を認める点には、ある種の発想の共通性があるといってよいのかもしれない。
三 三谷史観のソ連解体への応用
明治維新を例にとった三谷の歴史観は、他のさまざまな歴史的事件についても適用可能ではないかと思われる。そこで、これを私自身の専門に引きつけて、ソ連解体の場合について考えてみたい(なお、明治維新とソ連解体は犠牲者の少なさという点でも共通するが、これについては既に前述したので、ここでは繰り返さない)。
多くの人の漠然たる一般的見解として、ソ連解体は「起きるべくして起きた必然的な成り行き」と捉えられていると言ってよいだろう(12)。そして、その「必然性」の根拠は、「誤った理論に基づいて構築された、非合理的かつ圧制的な体制だから、そういう体制は長続きするはずがない」というところにおかれている。これはあまりにも広く普及していて、異を唱えることなどほとんど思いもよらないというのが現状である(ごく少数の未練論者がいないわけではないが、ここでは度外視する)。しかし、内容を離れて発想の型に注目するなら、これは典型的に「歴史必然論」的な発想――その意味ではヘーゲル・マルクス的発想とも言い換えられる――である。圧制的な体制が倒れて自由が勝利するというのは「目的論」的な発想だし、大変動を単一の根本原因(誤った理論に基づく非合理的な体制)に帰する発想でもあり、要するに、本書で三谷が批判している歴史観の典型ということになる。
これに対し、三谷理論をソ連解体に適用するなら、ソ連解体もまた、「必然」でもなければ、特定の「根本原因」に帰されるものでもなく、多様な要因が連鎖的に積み重なっていくうちに、思いがけず実現してしまった、ある特異な過程という風に捉えることができるはずである。ゴルバチョフが登場した一九八五年の時点で、その後のソ連がとりうる経路について考えるなら、それは単一ではなく、無数とはいえないまでもいくつかの数のシナリオがあり得たはずだ、と考えることができる。そうしたシナリオとしては、@実際にその後に起きたような解体、A各種矛盾を弥縫策でしのぎながら、不透明な状態がだらだらと続く、B急激な保守反動(古典的なスターリン体制への復古)、Cゴルバチョフが期待したような、平和的で犠牲の少ない漸進的体制転換(私の表現では、社会主義の「安楽死(13)」)、などが考えられる。これらのシナリオのうちどれがどのくらいの確率をもっていたかを厳密に計算することはもちろんできないが、ともかくそうした複数のシナリオがあり得た以上、現に生じた@は「必然」とか「法則的結果」ということではなく、また実現確率が最も高かったとは限らないということになる。Cについていうなら、その実現確率は相当低かったというのが大方の見解だろうし、私もそう思う。ただ、確率がゼロでなかった以上、三谷史観に則っていえば、「実現確率が低かったものが意外に実現したかもしれない」という考え方もありうるはずである。
このようにいうと、ソ連が解体しなかった方がよかったとか、ゴルバチョフの狙いが達成されていたらよかったという「未練論」と誤解されるおそれがある。だが、必然論を批判し、あり得たかもしれないオールタナティヴを考えることは、決して「未練論」と同一ではない。「こうだったらよかったのに」という心情的な議論ではなく、あくまでも研究上の一つの手順、一種の思考実験として、「こういう可能性もあり得た」「現に生じたことが唯一の可能性だったわけではない」と考えることは有意味である。なお、三谷はこうした歴史上のオールタナティヴないし「歴史におけるif」に関連して、カーの『歴史とは何か』を批判している。「歴史を考えるには、反事実的仮定が本質的に重要」であり、「ifを考えねば未来への選択は不可能になる」というのである(二四四頁注33)。この指摘自体は当たっているが、ここでのカー批判はやや性急であるように思う。私自身、カーの見解には問題が含まれていると思うし、「歴史におけるif」を考えないわけにはいかないという点で三谷と同意見だが、そのことと「未練論」批判とは区別することができるはずである(14)。
実際問題として、ペレストロイカ前夜のソ連において、大衆が当時の体制に強い不満をいだき、爆発寸前だったというような事実はない。そのため、変化の最初のきっかけは、「下からの反乱」ではなく、現体制の改良を目指す「上からの改革」として始まった。ソ連共産党書記長となったゴルバチョフの始めた改革の試みが結果的に共産党体制解体に行き着いたのは、三谷が明治維新を「士族層の不可解な自殺」と特徴付けるのと似たところがある(15)。
ゴルバチョフ政権下で言論が自由化し、各種政治統制がゆるめられてからは、様々な言論や大衆運動が登場し、それはやがてゴルバチョフの思惑を超えて展開していった。だが、そのような大衆運動にしても、少なくとも最初の数年間は、「社会主義」というシンボルに対しては肯定的イメージを持つ人々が大多数であり、「既存の社会主義とは異なる、よりよい社会主義」を目指す運動という性格が濃厚だった(16)。つまり、ある時期まで、ほとんど誰も――ごく少数の、孤立した人々を除けば――体制転換など全く考えていなかったのである。ところが、その後の様々な事態の積み重なりの中で、一九九〇‐九一年になって、急激に体制転換のうねりが高まった。これはまさに、三谷のいう《原因よりも過程重視》の歴史観察に適した事態ではないだろうか。
三谷がこのような見方をどう受け止めるかは、ただ推測するしかない。かつて左翼的イデオロギーに凝り固まった歴史家たちから仲間はずれにされていた経験をもつらしいから、そうしたイデオロギーの張本人ともいうべきソ連体制は非常に疎ましいものであり、それが消えてなくなったのは明るく喜ばしいことだと感じているかもしれない。念のためいえば、私自身もソ連体制は非常に疎ましいものだと、もとから考えていた。ただ、それがそう簡単には消え失せないだろうという想定の下、そうした疎ましい体制の存立メカニズムの解明を長期課題として設定していたところ、「長期課題」であるはずの相手があまりにもあっけなく消滅して、脱力感を覚えた。私がソ連解体は必然とはいえないと考えるのは、ソ連体制が立派なものだったと考えるからではなく、疎ましい存在が長続きすることは大いにあり得るし、そのような存在の存立構造の解明も重要な研究課題たり得ると考えるからである。
そうした感覚の問題は別として、論理のレヴェルで三谷史観をソ連解体過程に当てはめるなら、先に述べたような捉え方が自然ではないだろうか。そして、それはソ連解体の把握として、現在隆盛を極めている安易な必然論よりもはるかに歴史の実相に迫るものであるように思われる。
(1)これは単なる儀礼的な挨拶ではない。私の若い頃には、社会科学の主要な理論は西欧諸国の経験を基礎にして構築されるものであり、日本をはじめその他の諸国の歴史は単なる応用ないし特殊例として扱うという発想が優勢だったが、それから数十年を経る中で、日本という特異な事例を基礎にして独自の社会科学理論を構築することができるのではないかという発想が徐々に拡大してきたように思われる。とすれば、社会科学のどの分野を学ぶ者にとっても、「日本」という場を対象とした議論を視野の外に置くことはできないということになる。こういうことを漠然と感じるようになってからも、もう結構長い時間が経っており、あれこれと思いをめぐらすこともあるが、なかなかそれを具体化することができないというのが現状である。
(2)そうした非系統的な読書の一つの産物として、小熊英二『〈民主〉と(愛国)』の読書ノートを書いたことがある。その他、坂野潤二の政治史研究、各種の日本的経営論・労使関係論などから様々な刺激を受けているが、それらを踏まえた自己流の考えをまとめる段階には程遠い。
(3)三谷博「あとがき――『歴史認識』をめぐって」(山内昌之・古田元夫編『日本イメージの交錯――アジア太平洋のトポス』東京大学出版会、一九九七年)。短文なので、頁数指示は省略する。
(4)たとえば、「常人に安定したアイデンティティを与えること」は学問的歴史学にはできないので、「国民説話」の役割だとされている。
(5)代表的には、大沼保昭『東京裁判から戦後責任の思想へ』東信堂(種々の版があるが、私が利用したのは、一九八七年刊の増補版)。
(6)塩川伸明『《20世紀史》を考える』勁草書房、二〇〇四年、第二‐四章。
(7)当時「近代化論」批判の有力な論者だった和田春樹は私の師の一人だが、一九六〇年代に和田が書いた近代化論批判の文章を今の時点で読み直すと、過剰なイデオロギー色があると感じないわけにはいかない。もっとも、これはあくまでも今から振り返っての後知恵だということを断わっておくべきだろう。近代化論についての私見は、塩川伸明『現存した社会主義』勁草書房、一九九九年、第V章第2節、および『《20世紀史》を考える』第六章参照。
(8)ペレストロイカ期のソ連で、主として民族紛争がらみで何度か衝突事件が起き、一定の犠牲が出たことはあるが、それは体制転換是か非かという対抗軸と直接関わるわけではなかった。また体制転換後に大規模な内戦や武力衝突の起きた旧ユーゴスラヴィア、タジキスタン、チェチェンなどの例もあるが、それらはあくまでも体制転換以後の新しい情勢の産物である。体制転換の決断それ自体についていえば、意外なほど平和的かつスムーズに進行したというのが基本線である。
(9)最先端の自然科学理論を歴史学に摂取しようとした試みの例として、冷戦史研究で名高いギャディスの著作があるが、あまり成功しているという感じを受けない。ジョン・L・ギャディス『歴史の風景――歴史家はどのように過去を描くのか』大月書店、二〇〇四年。
(10)E・H・カー『ロシア革命の省察』みすず書房、一九六九年、二四五‐二四六頁。
(11)レーニンとスターリンの連続・非連続をめぐっては膨大な議論がある。さしあたり、塩川伸明『終焉の中のソ連史』朝日新聞社、一九九三年参照。
(12)小さな言葉づかいの問題だが、「ソ連崩壊」という表現が広く一般に使われているのも、そうした歴史解釈を暗に前提しているように思われる。「崩壊」でも「解体」でも大差ないようなものではあるが、「崩壊」の方が「自然の勢いとして必然的に起きた」というニュアンスがより濃いような気がする。所詮は漠然たるニュアンスの問題だから、それほどこだわるわけではないし、私自身も時に「崩壊」の語を使うことがあるが、「自然の成り行き」という含意を避けるためには、「解体」の方がふさわしいように思う。
(13)「安楽死」とは、旧体制の核心的要素を放棄するという意味では「死」だが、それをできるだけ苦しみのない穏やかな方法で実現しようと努めるという趣旨である。旧体制を改良して温存するという「改良」ないし「再生」路線と「安楽死」とは、外観的には似たところがあり、区別が難しい面があるが、原則的には「死」と「再生」との違いがある。ゴルバチョフは当初「社会主義再生」路線から出発し、ペレストロイカの過程を経て、なし崩しに「安楽死」路線に至ったというのがここでの解釈である。塩川伸明『ソ連とは何だったか』勁草書房、一九九四年、第W章、『《20世紀史》を考える』第9章など参照。
(14)『ソ連とは何だったか』第W章、『《20世紀史》を考える』第11章。
(15)「自殺」という特徴づけは、かつての共産党エリートが今でも生き残っている以上不適切ではないかという批判がありうる。確かに、旧共産党エリートの一部は体制転換後に「ノメンクラトゥーラ資本家」として生き延びているが、それはそれなりの適合・変容過程を経てそうなったのであり、何の変化もなしにそのまま残存しているわけではない。江戸時代の支配層のうち「士族の商法」に失敗して没落した人たちと、新時代にそれなりに適合して「近代化エリート」になりおおせた人の比率がどのくらいだったのかを、現代ロシアにおける旧共産党エリートの生き延びの度合いと比較するのは興味深い課題であるように思われる。
(16)なお、中欧諸国ではもともとの社会主義化過程が外発的だったため、政治統制が一旦ゆるむと短期間で脱社会主義論が優勢になった。これに対し、内発的な社会主義国たるソ連やユーゴスラヴィアでは旧体制定着度がより深かったため、言論統制解除が直ちに脱社会主義論を隆盛させることにはならなかったが、中欧諸国の変動の波のあおりを受けたことと、数年間のペレストロイカの試みが期待されたほどの成果を生み出さなかったことへの幻滅とが相まって、政治変動を急進化させ、ついには体制の激烈な解体に行き着いた。体制転換過程の概観として、塩川伸明「ペレストロイカ・東欧激動・ソ連解体」歴史学研究会編『講座世界史・11・岐路に立つ現代世界』東京大学出版会、一九九六年、ペレストロイカの末期に絞り、特定テーマについて具体的過程を跡づけたものとして、「ソ連解体の最終局面――ゴルバチョフ・フォンド・アルヒーフの資料から」『国家学会雑誌』第一二〇巻第七・八号(二〇〇七年)。
*三谷博『明治維新を考える』有志舎、二〇〇六年
(二〇〇八年二月)