(4)柏島天満町法華題目碑:2012/11/20追加
碑文より、享保15年屋守佛乗寺18世日融上人の発願で建立されたものと推定される。
2012/11/10撮影:
○天満町題目碑1:「南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩 四百五十年忌 御報恩」
※日蓮上人450年遠忌の報恩塔である。450年遠忌は享保16年(1731)と思われる。
○天満町題目碑2:
※民家と比較して分かるように相当な大型の題目碑である。
○天満町題目碑3:向かって右側面:「願主堺之住人■(頌)■(日?)■(受?)三千ヶ寺参詣成就」
※堺の住人何某が3000ヶ寺参詣成就とある。
○天満町題目碑4:裏面:「發願者佛乗寺■(十)八世■(日)■上人 ■(享)保十■(五)■■ 7月十三日」
※発願は仏乗寺18世(仏乗寺歴代譜によれば18世は日融上人、享保15年11月68歳にて遷化)であり、
年紀は享保15年とある。
○天満町題目碑5:向かって左側面:「■■(辰)之年中大坂失火焼死之霊魂諸国■之■(旲?)魂■(自)■■」
※他の年紀および「「■■(辰)之年中」から「大坂失火」とは享保9年(甲辰・1724)の「妙知焼け」と推定される。
「妙知焼け」とは享保9年3月21日午の刻(正午)、南堀江の金屋治兵衛の祖母妙知尼宅より出火、翌22日申の刻
(午後4時)まで燃え続ける。大坂三郷の2/3の408町が焼失する大火であった。
以上等を総合すれば、この大型の題目碑は、享保15年屋守仏乗寺18世日融が、日蓮上人450遠忌、堺住人何某の3000ヶ寺参詣記念、および享保9年の大坂大火の焼死者にたいする慰霊のため、この地に建立されたものと推定される。
この碑は旧道に面した丘側(西側)に建つ。今この碑の建つところの旧道東側(海側)は人家が建ち、さらにその東側も昭和40年代頃港が埋め立てられ新道が作られ、港を往来する船からは見えなくなっている。
しかし、建立当時は当然昭和戦後の新道はなく、さらには旧道東側はすぐ港(海)であり、玉島港に出入する船から良くみえたのではないだろか。さらにこの界隈一画は遊郭であったといい、かなりの賑わいがあり、碑の建立の好地であったように思われる。
2013/01/15追加:
「日樹上人傳」原田智詮、昭和36年 では以下のように述べる。
「享保15年7月13日発願者仏乗寺18世日融上人」願主の三千ヶ寺参詣成就を遂げた順海日受は日蓮大菩薩450年忌を兼ねて、享保9年3月大坂の大火に焼死の諸霊の為、玉島天満町に高さ11尺5寸(3.48m)の供養塔を建立。
※以上から、向かって右側面:「願主堺之住人■(頌)■(日?)■(受?)三千ヶ寺参詣成就」は「願主堺之住人順海日受三千ヶ寺参詣成就」と知れる。
裏面:「發願者佛乗寺■(十)八世■(日)■上人 ■(享)保十■(五)■■ 7月十三日」は「發願者佛乗寺十八世日融上人 享保十五年 7月十三日」と知れる。
(5)備中玉島羽黒山清龍寺
遠く西国(備中玉島)に羽黒権現が祀られる。
玉島羽黒権現は江戸期に関東の大名が西国に転封され、その大名によって羽黒権現が勧請され、本来は羽黒権現の信仰圏でない地に祀られたケースと思われる。
※その大名は常陸下館藩から備中成羽藩を経て備中松山へ移封された水谷氏である。
出羽羽黒大権現と比べると比較にならない規模ではあるが、ここでも明治の神仏分離の影(蛮行)が見え隠れする。
現在羽黒権現のある地は羽黒山と呼ばれる碗状の小丘である。
(※ここでも羽黒権現は明治の神仏分離の処置で羽黒神社と改号される。)
干拓で陸続きになる前は乙島・柏島の2つの島に挟まれた「阿弥陀山」と伝承?する小島であったと云われる。
万治元年(1658)備中松山藩主水谷勝隆が玉島地方の干拓に際し、阿弥陀山上に出羽国羽黒大権現を勧請する。
(あるいは水谷氏の本貫地常陸下館の羽黒権現を勧請したとも云う。)
※因みに、水谷氏は備中移封前は常陸下館を領していたが、下館に於いても、初代下館城主水谷勝氏は羽黒権現を勧請し、
同時に羽黒大権現別当天台宗清瀧寺を建立すると云う。但し、羽黒権現は羽黒神社として現存するも、別当清瀧寺は明治の神仏分離の処置などで廃寺となる。
寛文5年(1665)第2代藩主水谷勝宗、社殿を改築、阿弥陀山東斜面に別当羽黒山清瀧寺を建立する。
清瀧寺初代別当には京都青蓮院仙海和尚(勝隆実弟)を招じ、開山とする。
なお現在の羽黒権現社殿は嘉永3年(1845)、幣拝殿は安政4年(1852)の再建という。
その後の清瀧寺は以下のように変遷すると推測される:(資料不十分のため推測)
玉島羽黒権現付近地図:
2025/12/18追加:本図で、新清瀧寺の東側の「一郭」が高瀬通し舟溜まりの跡である。但し今は埋め立てられ全く面影はない。
「一郭」とは上田タンス店からいづみタクシー・タテソース豊島屋・その南の一棟を含む船底型の約1反(約300坪)の区画である。
明治の神仏分離の処置で、羽黒権現は羽黒神社と改号、羽黒山東参道途中にあった清瀧寺(旧清瀧寺)は羽黒山を下り、羽黒山北側すぐの地に移転
し新に清瀧寺(新清瀧寺)を建立する。(推定)
羽黒山東参道途中にあった旧清瀧寺の建物(山門・本堂)はそのまま残され、公共施設?や学校?などに転用されたと思われる。
その後120年前後の時が経ち、近年(少なくとも昭和後期あるいは平成の初期)になり、下山した新清瀧寺は旧地(羽黒山東斜面参道途中)の旧清瀧寺に移転つまり復帰し、旧清瀧寺建物(山門・本堂)が再び清瀧寺として使用され復活していると思われる。
なお清瀧寺が羽黒山の旧地に復帰した後の新清瀧寺の境内・堂宇もそのまま清瀧寺として残存する。
2023/05/14追加:
○「玉島要覧」安藤嘉助、玉島町玉島商工會、昭和12年 より
◇郷社羽黒神社
祭神は玉依姫、相殿はスサノウ・大国主である。
※スサノウが相殿とあるので、明治維新の神仏分離令で付近の牛頭天王が配され合祀されたものと推定。
萬治元年(1658)備中松山藩主水谷勝隆がこの地方の干拓を企図し、舊領地常陸下館に出羽羽黒山の分霊を勧請し羽黒宮と稱していたのを、更にこの地に移祀し、開墾の成就を祈願し、更に工成るに及んで、寛文5年(1665)水谷勝隆の嗣勝宗が社殿を改築し、羽黒大権現と稱へ、祈願所とし、新たに一寺を建立し、清瀧寺と命名し、別當と為す。
明治3年神仏分離の処置で羽黒神社と改号する。
※この時、羽黒権現は国家神道丸出しの玉依姫とされたと推定され、祭神とされる神々も国家神道に翻弄され、崇敬の念など微塵もないことに苦笑していることであろう。
◇清瀧寺
山号は羽黒山、天台宗叡山派(比叡山末)、玉島榮町に在る。元は羽黒山上に在りしを、神仏分離の蛮行で、羽黒山北麓の現地に遷したものである。
羽黒山は承和年中慈覚大師が渡唐の時、阿弥陀の尊像を造って安置せし山で、元の名を阿弥陀山と称していた。
※清瀧寺創建の由来は上記の羽黒神社の項に記載の通りである。
開山は仙海、水谷伊勢守(勝隆)の子(弟?)で東叡山寛永寺天海の弟子である。
本尊は旧阿弥陀山に在った尊像である。(※慈覚大姉作の阿弥陀仏か?)
2023/07/12追加:
備中玉島羽黒権現は、小規模ながら、明治維新の神仏判然令に基づく所謂「神仏分離の処置」が型どおりに行われたのであるが、近年、珍しくも、いったんは下山した別當(寺院)が神仏分離前の場所に「復活」「再興」されたようである。但し、それは、分離された寺院(青龍寺)がもとの場所に復帰しただけであり、分離された神社(羽黒神社)が廃され、神仏分離前の羽黒権現に復した訳ではない。
明治維新前の玉島羽黒権現は、仏体(本地である聖観音・阿弥陀如来・大日如来かあるいはその内の1体であろう)が祀られていたものと考えられる。
ところが、明治の神仏分離の処置の結果、現在では「郷社羽黒神社の祭神は玉依姫、相殿はスサノヲ・オオクニヌシである。」(「玉島要覧」)という。
明治の神仏判然令で、神仏は分離され、権現は廃されて神社に改組、羽黒神社と改号、祭神には記紀神話の神と取替られ、復古神道の神社が捏造された典型例である。
なお、羽黒権現の仏体がどのような仏体で、そしてどのように処置されたのかは、常識的には清龍寺に遷されたと考えられるが、手持ち資料にはその記載がなく、分からない。
ただ、一般的な神仏分離の処置では別當(寺院)は廃寺となり、その姿を消すが、玉島羽黒権現の別當清龍寺は、山下北方に下山・移転され、廃寺は免れる。さらに加えて、上述のように、平成の前後であろうが、神仏分離でいったん下山した寺院(青龍寺)が再びもとに在った場所に復帰したようである。
蓋し、非常に珍しい例というべきであろう。稀有の例というべきであろう。
よって、ここに特記する。
但し、神社(羽黒神社)が廃され羽黒権現が復活した訳ではないことも再度付記しておく。
2026/03/18追加:
清瀧寺
浅口西国観音霊場32番札所、伝教大師20霊場14番 である。
2005/05/04撮影:
旧/現羽黒山清瀧寺:羽黒山東参道に復帰した清瀧寺。この境内・建物は神仏分離前の清瀧寺の境内・建物と云う。
旧/現羽黒山清瀧寺山門:天台宗・清瀧寺の扁額を掲げる。
新羽黒山清瀧寺2:維新後に移転した地に残る堂宇
2007/03/17撮影:
旧羽黒山清瀧寺1
新羽黒山清瀧寺山号碑
2013/03/17撮影:
羽黒権現東参道:向かって右中段に旧/現清瀧寺がある。
旧/現羽黒山清瀧寺2
新羽黒山清瀧寺3 新羽黒山清瀧寺4
:新清瀧寺境内には、移転後も、羽黒山清瀧寺石碑、鳥居、本殿(本堂)、観音堂(推定)、庫裏、法華石塔、護摩殿合天井寄進石碑が残る。
2014/09/27撮影:
新清瀧寺石柱 新清瀧寺本堂 新清瀧寺観音堂 新清瀧寺法華塔 旧/現清瀧寺石垣
(6)天台宗玉谷圓乗院
→ 備中玉島圓乗院
(7)曹洞宗圓通寺
作成予定
2026/03/18追加:
補陀洛山圓通寺
・圓通寺公園百観音霊場あり。
・備中西国33観音21番札所、浅口西国観音霊場1番札所、南備四国霊場29番札所 である。
圓通寺公園百観音霊場
○「備中の霊場めぐり」 より
圓通寺を中心とした西国観音霊場(33所)と海徳寺を中心とした坂東(33所)・秩父(34所)両観音霊場が配置され、合わせて百観音霊場を構成する、
海徳寺の伝記では、当山13世即法玄中が関東から晋山、信者の寄進と土地の有志の協力をえて、嘉永4年(1851)に完成したという。
西国観音霊場の創建は定かではないが、海徳寺の霊場とおよそ同時代ではないかと寺僧の言であった。
時の経過とともに埋没・破損の佛も多かったが、近年は復元整備が為されたという。
西国霊場の仏像は台石高45cm、本尊舟形向拝半肉彫・高60cmで優美な彫である。摩崖の如意輪観音一体もある。
圓通寺の山より坂を下ること500m、海徳寺へ至る、海徳寺奥の院へはさらに100m余で高台にあり、境内一帯に坂東(33所)・秩父(34所)両観音札所が展開する。摩崖仏が数体、観音像は台石2段、舟形向拝半肉彫で総高1.5m。
圓通寺山観世音菩薩所在概要図:s_minaga所蔵
(7.1)矢出真如庵 :2025/12/12追加(2025/03/14撮影)
○「玉島要覧」安藤嘉助、玉島町玉島商工會、昭和12年 より
真如庵
乙島矢出山にあり、曹洞宗の庵であり本尊は阿弥陀如来、安政7年(1860)の創立にかかる。
※安政7年の創立とは、真如庵が天台宗円乗院の末寺真如院となったことをいうようである。
○「良寛さんと玉島」岡山文庫161、森脇正之、平成5年(1993) より
◇法妹義提尼(義貞尼)
義提尼は良寛とともに最後の國仙の法弟として印可の偈を与えれら尼僧であった。
※印可の偈(げ):禅宗では、師が弟子の悟りの境地を認め、正式に禅僧として免許を与える際に授ける漢詩(偈)のこと。
義提尼は宝暦11年(1761)播磨西溝村の産、幼少の頃与井村実相庵で出家、20歳の時真如庵に住し、圓通寺國仙の弟子となり修行に励み、良寛とともに印可の偈を受ける。
真如庵は元々天台宗であったものを國仙が現在の地に再興した寺院であり、國仙の弟子國文、稀鈍、義提尼が相次いで住する。
また義提尼は國仙の舎利と國仙の法語集「肉暖集」を所持し、毎年開山忌を修し、文化5年(1808)國仙の宝篋印塔(高さ2.8m)を建立する。
真如庵堂舎:おそらく本堂・庫裡であろう、この堂舎は取り壊されて現存しない。1993年ころまでは存在していたということであろう。
○ページ:「玉島中央町・周辺1・真如院(旧名真如庵)」 より
旧真如庵は円通寺の末寺ではなく、国仙和尚が眠る長連寺の末寺であり、曹洞宗であった
良寛が国仙和尚から印可の偈を受けたと同じ頃に、国仙和尚から印可の偈を受けた義提尼は享和3年(1803)に42才で(実相山)真如庵の庵主となり、建物の大修理を行い文政5年(1822)托鉢によって得た浄財で国仙和尚の供養追善の高さ8尺5寸(2.5m)の宝篋印塔を建てる。
義提尼は天保8年(1837)長尾の一草庵で示寂するも、葬儀は本寺長連寺仙宗の導師で執行され。真如庵境内に葬られる。
安政7年(1860)真如庵は天台宗円乗院の末寺の真如院となったという。
○真如院境内地蔵堂前方に設置された「旧名真如庵」案内板 には 次のとおり記されている。
旧名真如庵
安永7年
国仙和尚は当時廃庵となっていた旧蹟に 真如庵を再興し 義提尼を住庵させた 良寛が円通寺へくる前年のことであった。
良寛と義提尼は寛政3年(1791)の冬10月の頃あいついで国仙和尚から印可の偈を許された。
文政5年の初冬
義提尼は托鉢で集めた浄財で 真如庵境内に 国仙宝篋印塔を建立した 天保8年6月9日 76才で示寂 真如庵に葬られた。
2026/03/18追加:
真如庵
南備四国霊場26番、伝教大師二十ヶ所霊場番外 である。
2025/12/12追加(2025/03/14撮影)
真如庵は西爽亭の裏山(西爽亭の南側)直ぐにあり、さらに南に登ると、玉谷圓乗院に至る。
真如庵境内:かつては真如庵本堂庫裡と思われる堂宇(堂舎・坊舎)があった場所と思われる、おそらく無住となり、老朽化が進み、取り壊され更地となり整備されたと思われる。なお中央の遠方の山は遥照山である。
真如庵地蔵堂1:中央が地蔵堂、石像を祀る小祠2宇、宝篋印塔(國仙供養塔?)、常夜燈3基(1基は文化8年銘)、手前には石庭の残部?などがある。
真如庵地蔵堂2
義提尼印可の偈:「附義貞禅尼 非男非女丈夫 子 不鬼不神小 尿児 爲附山形 爛藤杖
要看 撃砕宝珠*时(時)」、
「寛政二年(1790)庚戌冬」、「寛政二庚戌冬 水月老衲仙大忍(花押)」と刻す。
國仙宝篋印塔:右は法華塔
「大忍仙老和尚塔、文政五年(1822)午初冬、大乘妙典 讀誦千部 信念堅勝 菩提圓滿、當菴主 義提謹建」と刻する。
宝篋印塔・法華塔ほか
法華塔には「法華塔」「文化六(1809)巳仲春日 當菴主 義提謹立」「銘曰 石書全部 讀誦一千 佛身成就 利益無邉」と刻する。
真如庵歴代墓塔:右から開山禪谷大和尚塔(安永七戊戌九月十◯日)、當菴中興松林義提尼首座の墓塔。
さらに海會塔・同會塔とあるから歴代墓塔であろう。
(8)柏島薬師堂
2017/10/08撮影:
柏島天満町題目碑からおよそ5町北(稲荷町)に柏島薬師堂がある。
現柏島薬師堂:元は背後の石階を上った堂屋敷にあった。現薬師堂より一回り大きい堂宇であったが、何時しか腐朽し、取り壊され、石階下に小宇として再建され、堂内の仏像も遷座したものと推定される。
石階手前には宝暦14年(1764)の石造地蔵菩薩坐像の巨像と文政9年(1826)の大石燈籠とが現存する。
柏島薬師堂石階:この石階の上の壇が薬師堂境内であるが、ここに薬師堂があった、現在は更地となり、この地方に分布する札所と禅宗関係と思われる石塔(判読は困難)のみが残存する。
堂内には薬師三尊及び十二神将と近年の厨子(薬師如来坐像)が安置される。
諸仏はおそらく上述の石造地蔵菩薩坐像や石燈籠と同時代の江戸中期か末期の造立であり、決して優れたものではないが、この縁起も知られない薬師堂の諸佛として護持されていることをここに記す。
柏島薬師堂薬師三尊十二神将 柏島薬師堂薬師三尊 柏島薬師堂十二神将1 柏島薬師堂十二神将2
柏島薬師堂厨子内薬師如来
(9) 寶龜山観音庵 :2025/12/12追加(2025/03/14撮影
○「玉島要覧」安藤嘉助、玉島町玉島商工會、昭和12年 より
寶龜山
勇崎の西南端の海岸にある。山形楕円、山頂平坦、恰も亀甲の状を呈する。奇岩怪石よりなり老松蘇生し、山上からの眺望に傑る。
観音庵
勇崎寶亀にあり、天台宗叡山派に属し、観世音菩薩を本尊とし天和年中の創建にかかる、境内1544坪、伽藍としては本堂教院、金剛堂等がある。信徒も頗る多い。
当山の庚申堂は観音庵の別宇で嘉永年中の建築にかかり、今寶亀の庚申といって地方に名高い。
2026/03/18追加:
宝亀山観音庵
伝教大師20霊場18番、備中西国33観音20番札所、浅口西国観音霊場6番札所、南備四国霊場34番札所 である。
2025/12/13追加:
◆「ページ:【南備四国八十八ヶ所霊場 画像集24(32-34番)】 >
画像集.24」 より
上記ページに「寶龜山観音庵」の詳細が掲載されている。
よって、上記ページより、その概要を転載する。転載する概要は次の通りである。
○「浅口郡誌」岡山県浅口郡、浅口郡、大正14 より
四、寺院調(大正11年調)
第二三三節
郡内各町村別、寺院調を表示せば左の如し。
寺院調・寶龜観音庵
「観音庵 勇崎寶龜 天臺宗叡山派 本尊:観世音菩薩 建立:天和二 本堂、教院、青面、金剛堂/一五四四坪 信徒:2000人 備考:黒崎村安養院末/第三一四節参照」
※これによれば、堂宇は本堂、教院(※)、青面金剛堂(※※)があったようである。
(※)教院とは不明であるが、明治初頭に設置された小教院の遺構とも考えられるが、この地方に小教院設置されたのかどうかも不明、その可能性も低いと思われる。あるいは信徒も多いので、信徒が集う堂宇のようなものであったのかも知れないが、いずれにしても不明である。
(※※)「青面、金剛堂」とはある種の誤植と思われる。正しくは「青面金剛堂」(要するに庚申堂)であろうと思われる。
一五、寶龜山第三一四節
勇崎に在り。
往古は丸山・眞名板暗礁・八幡山等と共に、今の水島の如くの列島たりしならんも、岩質粗鬆のため波浪に浸食せられ、現今の如く僅かに形骸を残せり。而して寛文六年(1666)新開成り、天和二年觀音庵の建立を見るに至る。
社寺根元記(こは明和九年當時の村役人五人組頭の連印あるものにて、勇崎村の庄屋、中藤家に藏せしも、今は所在不明となれりと云ふ。)の中、中塚一郎氏の抜萃せるものを略年表にして示せば左の如し。
天和二年(1682) 觀音庵建立 施主中藤傳吉(棟札寫)
元祿八年(1695) 觀音庵建替 植林 現今山上に老松の疎生するあるは、此時植ゑしものならん
元祿年中 庵持佛青面金剛一體 津之國天王寺、十禪師開元御免許狀
寶暦九年(1759) 再建 施主中藤重左衛門
當山の庚申堂は觀音庵の別字にして、嘉永年間(1848-1854)の建築に係り、元觀音堂に安置せしものと云ひ傳ふ。今寶龜の庚申とて地方に名高し。(第二三三節參照)
中藤傳吉は初代庄屋にして、現今の觀音庵は明治年間改築せしもの、庵は黒崎村安養院末なり。(第二三三節參照)」と記されている
さらに
○「勇崎村誌 下巻」明治22年 (p.11-14)に
「安置佛ハ十一面観世音ニシテ僧行基ノ作ト云フ 花山院初メ備中西國三拾三𠩄(所)ヲ設ケ給ヒシ 此當観音堂ヲ以テ二拾番札𠩄(札所)ト㝎(定)メラル」とあり、
觀音庵(一名 望海庵)は観音堂の境内にあり、佛軆は青面金剛。観音堂守居庵は黒崎の安養院末庵で、尼僧が住んでいた。
「勇崎村誌巻ノ下追録」に「昭和十七年三月十九日 宗教法ニ依リ觀音寺ト改稱 寺院格トナル」
とある。
※※なお「勇崎村誌」は未見である。
次に上記ページに掲載された諸情報を整理すると次のようである。
・石階下の「寺号碑」の銘:
「當國順禮第二十番寶龜山觀音堂」「從是玉嶋圓通寺(江?)三十丁」「弘化四年(1847)丁未十月吉祥日 發願主泉」
・石階の親柱の銘:
「文化十二乙亥(1815)四月」
・鐘楼横に「札所石柱」2基:
1基は「淺口西國 六番寶亀山 本性院 江 十壱丁■」もう1基は「浅口順禮札所三十六番」
・梵鐘の銘:
「諸行無常/是生滅法/生滅滅己/寂滅為楽、発起人・世話人・寄附者芳名録、紀年(昭和六十年十一月吉日)等」
・鐘楼横の清浄水(手水鉢)の銘:
「明治廿九年丙申三月吉日」「願主
舩穂村 小野善藏義富」「周旋人 真田源三郎 國富鉄?治郎 石工■■ ■山■太郎」
・自然石の手水鉢(陽石?):
庚申堂横にあり。
・推定本堂跡の手水鉢の銘:
「■■ 施主 ■■ 元禄八■ 七■■■」
元禄8年(1695)は観音堂が再建された年(であるので、この手水鉢がある付近に本堂があったと推定される。)
・井戸の跡:
「勇崎村誌
下巻(p.14)」に「井 是者延享元子年(1744)四月四擇法印并清行 中藤氏 掘之」とある。
中藤氏は勇崎村の庄屋
・井戸横の石燈籠の竿の銘:
「金毘羅宮 吉備津宮」『南無金毘羅大権現』
・奉開扉大慈大悲観世音菩薩供養塔:
「奉開扉大慈大悲觀世音菩薩供養」「具足神通力廣修智方便」「觀音妙智力能救世間苦」
「維時明治廿九丙申歳春三月下旬 謹建之 施主 黒田耕平 中藤*舜平 中藤■之助 世話人 真田源三郎」
*舜は「日」の下に「舛」の字
・近年の参道築造・境内整備の石柱の銘:
「参道築造 境内整備 寄進 西■■」「境内ノ荒廃極マルヲ篤志モテ裏参道ヲ築造ノ上 当山ヲ旧観ニ復セシモノ也 平成二年(1990)七月」
※これによると、35年程前に裏参道の築造、境内整備が行われたようである。
◆本堂跡の推定
寶龜山境内の東に寺号碑が立ち、そこから石階が立ち上がり、境内に入る。石階上には山門があったという文献はないので、山門はなかったのであろう。石階を上がれば、そこには大きな面積の平坦地(更地)がある。
そこに残るものはほぼ中央に井戸の跡と石燈籠(金毘羅大権現など)の竿だけである。
観音庵には本堂・教院などもあったと記録されるので、おそらくこの広い平坦面に本堂・教堂が建っていたものと推定される。
※画像はいずれもGoog;eMap より
推定本堂などの跡地1:北方を望む、左端は鐘楼
推定本堂などの跡地2:東方を望む、中央やや上に石階の最上部が写り、右端は井戸跡である
推定本堂などの跡地3:中央が井戸跡、その右が石燈籠の竿、左端に石階の最上部
鐘楼・庚申堂及び石仏類はこの本堂など跡の西側に位置する。
(10)玉島臨港線(未成)遺構
→ 国鉄玉島臨港線(未成線)
2026/03/18追加:
(11)旧玉島市地区の「写し巡礼地」
○2026年2月19日日本経済新聞掲載「各地の『ミニ巡礼地』を巡る」近藤隆二郎(元滋賀県立大学教授) より
日本全国(静かな山あいや、都会の古寺の裏庭)には苔むした小さな石仏が一定の規則をもって並んでいる光景がある。
これらは、四国88所など広大な巡礼札所を凝縮して再現した場所である。
これは「写し巡礼地」「ミニチュア霊場」と呼ぶのに相応しい。
これら「写し巡礼地」は四国88所なら数か月かかる道のりを数日、一日、数時間、数分で経験できる装置なのである。
そしてこの「写し巡礼地」の多くは江戸後期から昭和初期に作られた比較的新しい「巡礼地」である。
※「写し巡礼地」は様々な意味付けが可能であろう、本家であろうと「写し巡礼地」であろうと、そこを巡る人々には様々な訴えかけがあるだろう。いわば「心のいやし」のような作用もあるだろう。
※この「写し巡礼地」は全国津々浦々にある、しかし残念ながら、現代においては「全国津々浦々」で忘れられた存在に化しているのも事実であろう。
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ところで、「写し巡礼地」は、その多くは、西国33所観音巡礼と四国88所霊場の「写し」である場合が多い。
さらに、関東では、西国33所・四国88所はもちろん、坂東33所、秩父34番観音霊場も多く見みられる。
以上に関連して、基本的には関東に分布するが、そこには究極の「写し巡礼地」ともいうべき「栄螺堂(さざえどう)」あるいは「三匝堂(さんそうどう)」が、その数は多くないが、存在する。
栄螺堂とは、実は百体観音堂のことで、西国33所・坂東33所・秩父34番の合計百観音を一つの建物に祀る究極の「写し巡礼地」といったものである。
三匝堂(栄螺堂)つまり百体観音堂には入口と出口があり、1階の入口を入ると上に上がる螺旋状の通路が3階に通じ、3階からは下りの螺旋状の通路があり出口に通じるという構造で、その上下の通路の両面には100体の観音が祀られていて、それを拝めば、100の札所を参詣したことになるというものである。もちろん入口を入れば、上下する通路は交差することはなく、出口に出る事ができるという構造です。
これは貝の栄螺に似ている構造から栄螺堂と呼ばれるようで、基本的には3階建ての建物である場合も多い。(ただし仏塔ではない)
一つの建物を上下する動作で、100体の観音巡礼ができるなどとは、まさに、究極の「写し巡礼地」というべきであろう。
拙サイトで紹介する三匝堂(栄螺堂)
さて、「写し巡礼地」の見本となった霊場の概要は次の通り。
◇西国33所観音巡礼
○現代教養文庫683「西国巡礼」西国札所会編・佐和隆研、社会思想社、昭和45年 では
「西国33所巡礼が一般的に行われるようになったのは室町時代とされているが、真偽の程は不明ながら、奈良時代に遡るという説もある。(様々な我田引水的な諸説があり、以下省略)」
という。
各札所寺院などでは、多くの場合、奈良時代大和長谷寺開山徳道上人が始め、平安時代花山法皇が再興したということが喧伝される傾向があると思われる。
総距離1000kmを越え、徒歩では毎日歩いて45日という。今どき、四国88所と違い、徒歩で巡礼という人はほぼ聞かない、車使用やツアーが多い印象である。また、公共交通機関を利用するという巡礼もなかなか困難なように思われる。
◇四国88ヶ所巡礼
○岩波写真文庫176「四国遍路」岩波書店、1956 では
「四国に88趣の煩悩に因んで88ヶ寺の寺を造ったのが弘法大師ということになっている。」
という。
ただ、空海の生誕地と伝える現在の善通寺は別として、空海が四国に88ヶ寺を開基したということはありえないだろうから、一種のコマーシャル(広告)ということだろう。
いずれにしろ「古くから」四国88ヶ所は信仰を集め、現在も一定数の巡礼者がいるイメージである。
徒歩では通常(毎日歩いて)50日の行程とされる。
瀬戸内の島々には多くのミニ四国88所があると聞く。
小豆島はやや広域で10日の行程、笠岡の神島は無理すれば2日の行程と聞く。
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標記の「日本経済新聞掲載「各地の『ミニ巡礼地』を巡る」では「数え切れない数の<巡礼地>がある」という。
確かに、感覚的に、全国各地の寺院や地方を巡ると、全国ではおそらく「数え切れない数の<巡礼地>がある」ように思われる。
その「数え切れない数の<巡礼地>」から、狭い「旧玉島市」地域に絞って、どのような<巡礼地>があるか、例示しよう。
資料とするのは、手元に「備前の霊場巡り」「備中の霊場巡り」「美作の霊場巡り」の3著である。
備前・備中・美作の霊場巡りの3冊
その中の玉島の属する「備中の霊場巡り」の目次では、39ヶ所の霊場の紹介がある。(注)
(注)「備中の霊場めぐり」には39ヶ所の霊場が記載されているが、下に掲載している「南備四国霊場」などのサイトによれば、
目についた範囲であるが、39ヶ所の霊場以外にも浅口郡付近だけでし、次のような「霊場」が存在するようである。
つまり、「備中の霊場巡り」が備中の霊場全てを網羅している訳ではないということであろう。
「旧浅口郡大島村四国88所霊場」
「寄島小山西国三十三所観音霊場」
「今立川水系西国三十三所観音霊場(仮)」
「浅口郡里見四国88所霊場」
「浅口郡金光スズメ堂」: 西国三十三所観音霊場と四国八十八ヶ所霊場の石仏群がススメ堂取り囲むミニ霊場のようである。
「道口観音霊場?」
次は「備中の霊場巡り」に取り上げられている霊場ではあるが、
「遙照山百体観音霊場」:
遙照山の百体観音は日本百観音(西国観音霊場33所、坂東観音霊場33所、秩父観音霊場34所)の本尊石仏を
遙照山山頂の両面薬師の境内およびその周辺に配置している霊場である。
石仏は与一行者が赤鉢の石屋から山頂まで背負って運び上げたと言われている。
車道を通って赤鉢から山頂まで約8.5kmの道程、標高差は約393m。
与一行者は宝暦元年(1704)頃に遙照山に草庵を結び、安永六年(1777)八月二十七日に寂する。
江州高島郡石庭村の回國行者で、遙照山を叡山に擬し、百体観音霊場を作るという。
遙照山は曜星千坊といわれた大寺であり、本尊は両面薬師という。
宝暦6年遥照山は焼亡し、明王院と観蓮寺(奥山田)によって薬師堂だけ再建される。
与一はさらに伽藍の再興を企て、まず鐘楼を再建するも、寺僧と観蓮寺との間に軋轢が生じ、与一の草庵は焼き討ちされる。
与一は落胆・縊死するという。墓塔は鐘楼の下にある。
上記の「備中の霊場巡り」に記載される39霊場(札所)の中で
1.「旧玉島市」で完結する霊場では、
<11.乙島四国霊場>と<13.圓通寺公園百観音霊場>とがある。
◆<11.乙島四国霊場>
○「備中の霊場めぐり」 より
この霊場は江戸末期に創建されたか、以前からあった霊場を再建されたのは不明であるが、88所の札所が整備保存されている。
産業道路の「道通様」から押上、水溜、狐島を右廻り、水溜南側、堀貫、坂田新田、養父、城、渡里、玉谷圓乗院前、上本町今古場岩屋堂で打止めとなる。
ただ、この霊場については、下手な説明をするより、優れた多くのサイトがある。
下記のサイトを参照いただければ、全容が分かる。
是非参照を請う。
○「乙島四国霊場V」 : https://ofune3.la.coocan.jp/otoshima2/
○「岡山県倉敷市 乙島新四国88ヶ所霊場」 : https://marunonakatachibana.livedoor.blog/archives/26733173.html
○「GoogleMap」 上記の「岡山県倉敷市 乙島新四国88ヶ所霊場」で次のように紹介されている。
「この霊場なんとGoogleマップに全ての札所をマッピングしてくれています」とある。
確認すると、確かにそうである。
○【乙島四国八十八ヶ所霊場 画像集1】 : https://minihenro.main.jp/s88/otoshima/otoshima88_img01.htm
【画像集1】から【画像集8】までの長編である。
◆<13.圓通寺公園百観音霊場>
○「備中の霊場めぐり」 より
圓通寺を中心とした西国観音霊場(33所)と海徳寺を中心とした坂東(33所)・秩父(34所)両観音霊場が配置され、合わせて百観音霊場を構成する、
海徳寺の伝記では、当山13世即法玄中が関東から晋山、信者の寄進と土地の有志の協力をえて、嘉永4年(1851)に完成したという。
西国観音霊場の創建は定かではないが、海徳寺の霊場とおよそ同時代ではないかと寺僧の言であった。
時の経過とともに埋没・破損の佛も多かったが、近年は復元整備が為されたという。
西国霊場の仏像は台石高45cm、本尊舟形向拝半肉彫・高60cmで優美な彫である。摩崖の如意輪観音一体もある。
圓通寺の山より坂を下ること500m、海徳寺へ至る、海徳寺奥の院へはさらに100m余で高台にあり、境内一帯に坂東(33所)・秩父(34所)両観音札所が展開する。摩崖仏が数体、観音像は台石2段、舟形向拝半肉彫で総高1.5m。
圓通寺山観世音菩薩所在概要図:s_minaga所蔵
◆<その他の「旧玉島市」で完結する霊場>
少なくとも次の2ヶ所がある。
●圓乗院西国三十三所観音霊場
次のページに全容が掲載されている。
【南備四国八十八ヶ所霊場 画像集22(圓乗院)】 : https://minihenro.main.jp/s88/nanbi/nanbi88_img22.htm
圓乗院西国三十三所観音霊場
圓乗院墓地のある裏山にあり、道に沿って石仏が並ぶ。西国33所札所の本尊石仏が祀られている。
→備中玉島圓乗院
●本性院瀬戸内三十三観音お砂踏霊場
次のページに全容が掲載されている。
【南備四国八十八ヶ所霊場 画像集25(本性院)】 : https://minihenro.main.jp/s88/nanbi/nanbi88_img25.htm
境内に一直線に整列して33体の石仏が並ぶ、昭和六十三年(1988年)十二月吉祥日に建立。
→備中玉島本性院・・・拙サイトには記載なし
2.「旧玉島市」を含む少し広域な霊場では、次がある。
◆<1.備中西国霊場>88所
○「備中の霊場巡り」 より
この「霊場」については、柳井重法著「備中巡礼略記」に概要が記される。
即ち、第65代花山法皇、寛弘元年(1004)備中川上郡阿倍深山に庵居の時、当國巡礼の企てあるによりて、霊場33所自筆にて書紀するも、寛弘5年に出家、都より源耕寺(「備中西国1番」)を開基。
なお、著者柳井重法は寛政年中前後の人。
「旧玉島市」では次の2札所が属する。
20番 宝亀山 観音堂 聖観音:玉島勇崎、庚申堂 →備中玉島寶龜山観音庵
21番 補陀洛山 円通寺 聖観音:玉島柏島、曹洞宗
なお、参考までに「旧玉島市」以外では次のような霊場がある。<いずれも訪問済である>
3番 東向山 金剛院 松連寺
大日如来・十一面観世音菩薩 真言宗御室派 高梁市上谷町4102
4番 瑠璃山 泰立寺 薬師院 薬師如来・千手?如意輪?
真言宗善通寺派 高梁市上谷町4100 中国49薬師
5番 天柱山 頼久寺 聖観世音菩薩 臨済宗永源寺派
高梁市頼久寺町18 備中安国寺、瀬戸内33観音
22番 矢上山 阿弥陀院 宝島寺 十一面観世音菩薩 真言宗御室派
倉敷市連島町矢柄5633 宝嶋寺
25番 井山 般若院 臨済宗東福寺派 総社市井尻野1968 宝福寺の境内(塔頭) →備中井山宝福寺(314、最初である)
27番 賀陽山 光徳院 門満寺 浄土宗 総社市南溝手294 廃寺、山門のみ、栢寺廃寺跡 →栢寺廃寺
28番 日照山 総持院 国分寺 薬師如来 真言宗御室派 総社市上林1046 備中国分寺 →備中国分寺
29番 宝寿山 観龍寺 大日如来 真言宗御室派 倉敷市阿知2丁目25-22
32番 日差山 宝泉寺 聖観世音菩薩
高野山真言宗 倉敷市矢部131 備中108大師 →備中日差山日差寺中
33番 有木山 青蓮寺 真言宗 岡山市北区吉備津775 廃寺、標柱のみ、本尊は下記へ
青龍山 金剛寺 普賢院 普賢菩薩 高野山真言宗 岡山市北区吉備津1494 備中108大師
本霊場に関するWebサイトでは次が知られる。
→★備中西国三十三ヶ所観音霊場
◆<4.浅口西国観音霊場>
○「備中の霊場巡り」 より
1番札所である圓通寺にてこの霊場の由来を尋ねるも、不明とのこと。
「寄島町史」によると、明治維新前後に寄島の海楽寺の僧道広忠譲が近隣の住職と協議の上、この霊場を設定したという話だ伝わっているという。ただ海楽寺は廃寺となっていて、確証は得られていない。
「旧玉島市」では次の13札所が属する。
1番 補陀洛山 円通寺 聖観世音菩薩 曹洞宗 倉敷市玉島柏島451
星浦観音、中国33観音
2番 馬乗山 海徳寺 聖観世音菩薩 曹洞宗 倉敷市玉島柏島1885
3番
亀鶴山 松嶽寺 福寿院 聖観世音菩薩 天台宗 倉敷市玉島柏島3411 伝教大師20霊場
4番 樹村山 阿弥陀寺 安養院
阿弥陀如来 天台宗 倉敷市玉島黒崎2995 宝亀山とも、伝教大師20霊場
5番 普陀洛山 観音寺 蓮華院 千手観世音菩薩
天台宗 倉敷市玉島黒崎3019 伝教大師20霊場
6番 宝亀山 観音寺(庚申堂・観音堂) 青面金剛 天台宗
倉敷市玉島勇崎1261 伝教大師20霊場、備中西国33観音
→備中玉島寶龜山観音庵
7番 矢崎山 円福寺 本性院 千手観世音菩薩 天台宗
倉敷市玉島黒崎4595 伝教大師20霊場、瀬戸内33観音
8番 興福山 観照院 海蔵寺 阿弥陀如来 天台宗
倉敷市玉島黒崎10145 伝教大師20霊場
19番 神遊山 神宮寺 金剛院 愛染明王 高野山真言宗 倉敷市玉島道口3082
備中108大師
→備中神遊山遍照院中の旧寺中金剛院
20番 牛瀧山 歓喜院 善昌寺 阿弥陀如来 高野山真言宗 倉敷市玉島長尾1835 備中108大師
31番 玉島山 安福寺 円乗院 阿弥陀如来 天台宗 倉敷市玉島3丁目5-16 伝教大師20霊場、南備88霊場
→備中玉島圓乗院
32番
羽黒山 成願院 清瀧寺 阿弥陀如来 天台宗 倉敷市玉島中央町1丁目12 伝教大師20霊場
→玉島清瀧寺(本ページ中)
33番 東向山 成就院 本覚寺
十一面観世音菩薩 天台宗 倉敷市玉島柏島232 伝教大師20霊場
なお、参考までに「旧玉島市」以外では次のような霊場がある。<いずれも訪問済である>
11番 三部山 不動院
不空羂索観音菩薩 高野山真言宗 浅口郡里庄町新庄3167 瀬戸内33観音、備中108大師
14番 真岳山 大護寺 明王院
阿弥陀如来 天台宗 浅口市鴨方町六条院中4571 中国30地蔵、伝教大師20霊場
16番 西谷山 清水寺 泉勝院
千手観世音菩薩 天台宗 浅口市金光町占見2391 伝教大師20霊場、瀬戸内33観音
17番 大谷山 善勝寺 寂光院
聖観世音菩薩 天台宗 浅口市金光町大谷1055 伝教大師20霊場
24番 矢上山 阿弥陀院 宝島寺 十一面観世音菩薩
真言宗御室派 倉敷市連島町矢柄5633
27番 神遊山 神宮寺 遍照院 十一面観世音菩薩 真言宗御室派
倉敷市西阿知町464 瀬戸内33観音
30番 堅島山 法厳寺 不動明王 真言宗御室派 倉敷市片島町660
本霊場に関するWebサイトでは次が知られる。
→★備中浅口三十三ヶ所観音霊場
◆<5.南備四国霊場>88所
○「備中の霊場巡り」 より
「玉島風土記」によれば、明治36年船穂村高徳寺住職清水快覚の発願により、発起人惣代萩原房吉ほか30名の協力をえて、同年札所開山供養をしたという。
行程は、倉敷市西阿知遍照院を一番札所に、同市玉島から浅口市、里庄町、笠岡市を巡り倉敷市西阿知にもどる。
さらに「郷土風土記」宗沢弘、1986 には、各札所間の距離が里丁で示されており、それによると約百数十kmである。
「旧玉島市」では次の27ヶ札所が属する。
21番観月庵:玉島上成
22番栄樹庵:玉島吉浦
23番大師堂:玉島水溜
24番大師堂:玉島東新丁
25番観音堂:玉島圓乗院前
26番真如庵:玉島圓乗院裏 →備中玉島真如庵(本ページ中)
27番大師堂:玉島末広町
28番三角寺:玉島柏島
29番圓通寺:玉島柏島 →備中玉島圓通寺
30番海徳寺:玉島柏島
31番大師堂:玉島柏島大井
32番薬師庵:玉島柏島奥谷
32番大師堂:勇崎西浦
34番宝亀山:勇崎西浦 →備中玉島寶龜山観音庵
35番大師堂:沙美
36番不動堂:南裏小学校(の北に位置)
69番大師堂:道越
70番大師堂:道口川筋奥の院
71番大師堂:道口
71番金剛院:道口 71重複 →備中神遊山遍照院中の旧寺中金剛院
※71番札所が重複している。
本サイトやGoogleMAPによれば、「71番大師堂:道口」と思われる現地には、観音堂と大師堂(道越の北部)と大師堂改築記念碑(大師堂の向かって右前)があり、観音堂は新旧2仏の石像があり、西国5番
紫雲山
葛井寺の札所であると思われる。しかし、これもはっきりとはしない。さらに観音堂に並んで大師堂があり、永代講の弘法大師坐像が安置され、碑文(世話人の名簿など)が刻まれる。
おそらく、この大師堂を「71番大師堂:道口」としているのだろう。
一方、道口の金剛院も「南備四国霊場71番札所」とされている。
このことを推測するに、道越北部の大師堂が本来の札所であったが、本霊場の1番札所である西阿知の遍照院寺中であり、かつ西阿知から移転してきた金剛院にも、道越北部の大師堂が衰退していたという理由であろうか、71番札所が設けられたというような経緯があったのであろうか(推測)。
72番薬師庵:亀山
73番大師堂:北川
74番慈眼院:爪崎
75番観音堂:誇島
76番薬師庵:長尾
77番善昌寺:長尾
78番観音庵:長尾
この「南備四国霊場」については、次の詳細なサイトがアップされている。
「南備四国霊場」:
画像集.1/画像集.2/画像集.3/画像集.4/画像集.5/画像集.6/画像集.7/画像集.8/画像集.9/画像集.10/画像集.11/画像集.12/画像集.13/画像集.14/画像集.15/画像集.16/画像集.17/画像集.18/画像集.19/画像集.20/画像集.21/画像集.22/画像集.23/画像集.24/画像集.25/画像集.26/画像集.27/画像集.28/画像集.29/画像集.30/画像集.31/画像集.32/画像集.33/画像集.34/画像集.35/画像集.36/画像集.37/画像集.38/画像集.39/画像集.40/画像集.41/画像集.42/画像集.43/画像集.44/画像集.45/画像集.46/画像集.47/画像集.48
の大部の構成である。
※画像集.1は https://minihenro.main.jp/s88/nanbi/nanbi88_img.htm である。
◎旧玉島市内関係は概ね
【南備四国八十八ヶ所霊場 画像集18】 https://minihenro.main.jp/s88/nanbi/nanbi88_img18.htm
から
【南備四国八十八ヶ所霊場 画像集27】 https://minihenro.main.jp/s88/nanbi/nanbi88_img27.htm
まで と
【南備四国八十八ヶ所霊場 画像集42】 https://minihenro.main.jp/s88/nanbi/nanbi88_img42.htm
から
【南備四国八十八ヶ所霊場 画像集44】 https://minihenro.main.jp/s88/nanbi/nanbi88_img44.htm
までが該当する。
なお、本サイトの各ページは当然、
「南備四国八十八ヶ所霊場」の寺院・堂舎・辻堂・小堂・祠や仏像・石仏などの訪問記・紹介であるが、それ以外の情報が網羅的に満載されている。
それ以外の情報とは、このルートに被さる「備中西国霊場」・「連島西国観音霊場」・「乙島四国霊場」・「鴨方西国霊場」・「養阿(鴨方)四国霊場」・「浅口観音霊場」・「鴨山西国霊場」・「備中国(小田郡・後月郡・浅口郡)西国霊場」などの札所も交錯しかつ詳細に紹介され、札所には関わらない寺院・堂宇・神社・祠、石殿、名所旧跡、遺蹟、石碑、道標(道しるべ)、石灯籠、手水石、石塔、石仏、街並、風景、眺望なども紹介される。まさに地方の名所圖會のようで、これらの記事も膨大である。
また、ミニ霊場の典型として、松井谷の千手観世音大師堂が取り上げられている。
松井谷の千手観世音大師堂:周囲には「西国三十三所観音霊場」の石仏が安置されている。
所在場所:https://goo.gl/maps/en6cyk8pP3k、緯度経度:34.54459406862511,
133.59488755865425
それ故に、「南備四国八十八ヶ所霊場」の札所の紹介記事は膨大な記事に「埋もれる」傾向にあり、少々探すのに時間を要する。
◆<12.伝教大師二十ヶ所霊場 >
○「備中の霊場巡り」 より
この霊場は「玉島変遷史」によれば、大正の初め頃、祖師巡りとして、天台寺院の間で纏まったもののようである。
1番は福井山龍城院、2番は櫻見山圓珠院であり
「旧玉島市」域では
10番 樹村山 阿弥陀寺 安養院 阿弥陀如来 入唐求法
天台宗 倉敷市玉島黒崎2995 宝亀山とも、浅口西国33観音
11番 普陀洛山 蓮華院 千手観世音菩薩 怒濤忽平 天台宗
倉敷市玉島黒崎3019 10番参道途中、お堂のみ、浅口西国33観音
12番 亀鶴山 松嶽寺 福寿院 聖観世音菩薩 寶藏再開
天台宗 倉敷市玉島柏島3411 浅口西国33観音
13番 東向山 成就院 本覚寺 十一面観世音菩薩 宮中宗論 天台宗
倉敷市玉島柏島232 浅口西国33観音
14番 羽黒山 清瀧寺 阿弥陀如来 宇佐~感 天台宗
倉敷市玉島中央町1丁目12-40
→玉島清瀧寺(本ページ中)
15番 玉谷山 待雲寺 諏訪~助 天台宗 倉敷市玉島3丁目5-15
16番
玉嶋山 安福寺 円乗院 阿弥陀如来 廣齋廣拯 天台宗 倉敷市玉島3丁目5-16 南備88霊場
→備中玉島圓乗院
17番
瑠璃山 海岸寺 常照院 阿弥陀如来 基礎戒壇 天台宗 倉敷市玉島乙島257
18番 宝亀山 観音寺(庚申堂・観音堂)
青面金剛 遺誡示寂 天台宗 倉敷市玉島勇崎1261 浅口西国33観音、備中西国33観音
→備中玉島寶龜山観音庵
19番 矢崎山 円福寺 本性院
千手観世音菩薩 靈廟玉聲 天台宗 倉敷市玉島黒崎4595 瀬戸内33観音、浅口西国33観音
20番 興福山 海蔵寺
阿弥陀如来 謚號傳教 天台宗 倉敷市玉島黒崎10145 浅口西国33観音
番外 矢出山 真如院 地蔵堂 地蔵菩薩 天台宗 倉敷市玉島3丁目8-8 真如庵
→備中玉島真如庵(本ページ中)
番外 羽黒山 寉山院 天台宗
倉敷市玉島乙島4334
※調査するも、全く不明である。
番外 羽黒山 林光院 天台宗 倉敷市玉島中央町1丁目6-8
14番清瀧寺分院
※この住所は明治の神仏分離で清瀧寺が羽黒山上から移転した場所である。
本霊場を扱ったサイト:★伝教大師二十ヶ所霊場
◆「備中の霊場巡り」に非掲載の霊場
●高野山真言宗備中108所霊場
★高野山真言宗
備中百八ヶ所霊場 より
開創などは記載がない。
備中全域に渡る弘法大師霊場である。伽藍が整ったお寺もあれば、無住の小堂の札所もある。
「旧玉島市」域では次の3ヶ寺が札所となっている。
56番 神遊山 神宮寺 金剛院 愛染明王 高野山真言宗
倉敷市玉島道口3082
57番 牛瀧山 歓喜院 善昌寺 阿弥陀如来 高野山真言宗 倉敷市玉島長尾1835
58番 番山 観月院 阿弥陀如来 高野山真言宗 倉敷市玉島乙島6328
である。
●中備88所霊場
中備八十八ヶ所霊場 より
開創年・開創者
明治35年開創、備中都窪郡及び吉備郡で選定された弘法大師霊場、行程は24里20町、およそ96km、現在、霊場としては活動していない。
「旧玉島市」域では札所は存在しない。
(90)サイト「倉敷市」>「たましまアーカイブ」の紹介:2025/12/17追加
「たましまアーカイブ」は玉島港あるいは玉島の街についての歴史を総合的に纏めた優れた論考である。
よって、拙ページのような「一夜漬け」の知識の切り貼りではなく、「濃厚」な玉島の歴史を学ぶ事ができるので、紹介させて頂き、主として図版などを転載させて頂く。
「たましまアーカイブ」は
倉敷市トップページ > 文化・観光・スポーツ > 観光・魅力発信 > 観光情報 > みなと玉島空間 >
たましまアーカイブ
に掲載されています。
「たましまアーカイブ」の構成は次のとおり。
>甕ノ海物語
>備中玉嶋湊物語
>甕港物語
>玉島いしぶみ探訪記上
>玉島いしぶみ探訪記中
の5部構成で、いずれも郷土史家の渡辺義明氏の論考を掲載したものとなっている。
なお
【補遺】:
補遺として、サイト「玉島歴史館」>「第2部:新玉島歴史散歩」を紹介する。
特に、「第2部:新玉島歴史散歩」は「玉島アーカイブ」で紹介した「郷土史家の渡辺義明氏の論考」をベースにするものと推察する。
ここにも、有用な図版があるので、そのいくつか参照(転載)させて頂く。
1.甕ノ海物語 より転載
◇弥生後期(3世紀頃)の吉備の中海
※吉備の中海は「吉備の穴海」とも云われる。
弥生後期の吉備(現在の備前・備中)南部の状況であり、現在の岡山市平野部、倉敷市平野部、玉島平野部も海の底であった。
現在の児嶋半島も吉備の中海に隔てられた嶋であった。
この陸と海とは古代・中世を通じて変わらなかったと推測される。

◇甕ノ海周辺図/5世紀頃の想像図
玉島の原始の姿である。七島の南にはさらに乙島・柏島があり、玉島の町は海の底であった。

◇古代末期/中世初頭の甕ノ海
源平水島合戦の頃の玉島の想像図
まだ、弥生・古代と変わらず、源平の水島合戦は瀬戸内の島であった柏島と乙島との海峡で行われた。

◇近世初頭と近世初期の玉島周辺
近世初頭の玉島周辺の陸と海はほぼ弥生・古代・中世と変わらない姿と推定される。
玉島は福島・鉾島・七島・連島・乙島・柏島などの島々からなる海面であった。
ところが江戸幕部が成立した近世初期には急速に備前・備中の封建領主(大名)によって干拓が進み、新田が拓かれ、急速に陸地化する。
干拓の主たる主体は備前岡山藩(池田氏)と備中松山藩(水谷氏)であった。

【補遺】:「玉島歴史館」>「第2部:新玉島歴史散歩」 より
5.玉島の干拓
甕ノ海周辺の新田開発図

◇玉島の出現(玉島港と街の形成)
下の図版は玉島干拓史を一覧にしたものである。
即ち、豊臣秀吉・徳川家康の時代→江戸幕府成立前後→萬治・寛文→寛文5・5年→寛文10年→延宝・元禄元年の干拓の進行図である。
江戸初頭から干拓がはじまり、寛文年中から元禄にかけてそのピッチは上がり、元禄元年には高梁川などが運んできた土砂が堆積した浅海はほぼ干拓されたことが見てとれる。
■玉島の出現(玉島港と街の形成):下図拡大図

【補遺】:「玉島歴史館」>「第2部:新玉島歴史散歩」 より
6.玉島平野の水争い
廃藩置県(明治4年)の藩領分布概略図
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黒字(阿賀崎村など)・・天領 赤字(玉島村など)・・亀山藩・松山藩
青字(上竹村など)・・備前池田藩 茶色(須恵村など)・・岡田藩
緑色(七島村など)・・鴨方池田藩 桃色(奥山田村)・・一橋家
空色(横谷村など)・・庭瀬藩 青緑(西浦村など)・・成羽藩 |
◇江戸中期の吉備の中海の状況
弥生・古代・中世の吉備(備前・備中)の中海(穴海)は、近世(江戸中期)に至り、下図のように姿を変える。
児嶋も陸続きとなり、半島となる。
岡山県の3大河川(吉井川・旭川・高梁川)が吉備の穴海に大量の土砂を搬入し、この自然の営みが近世初頭からの干拓に繋がる。

2.備中玉嶋湊物語 より転載
◇高瀬通しのルートと現況
長尾付近から爪崎(基本的に西行する鴨方往来)に至り、爪崎から南下する玉島往来に沿って平行し、羽黒山下(北側/舟溜り)まで至る高瀬通しの経路を示す。
そして、その経路の現況の説明である。
玉島の市街地に近づくにつれ、高瀬通しの跡は徐々に不明確になり、ほぼ消えかけている。
また舟溜りの跡は既に消滅し、明確な遺構は地上から消え去っている。
高瀬通しの土手に多く植えられたという「櫨」は僅か2本を残すのみという。
以上のような様が述べられている。

◇江戸末期の玉島港町分割支配略図
玉島港町は江戸初期から中期に渡る干拓(新田開発)で成立し、さらに「高瀬通し」の掘削と港の整備で、国内有数の交易港へと成長する。港の周囲には多くの問屋・商家が立ち並び、玉島港町が発展繁栄する。
但し、江戸中期以降は、港が流入する土砂で浅くなり千石船の出入りが難しくなったこと、主生産品である綿の嵩増しが横行し信用を落としたこと、近隣との競争激化で次第に負けていったことなどで、玉島港・町は衰退していった。
玉島の成立は上記のように近世初期の新田開発で成立したが、新たに成立した玉島村・阿賀崎村などは幕府の政策により、幕府・諸大名(天領・丹波亀山藩・備中松山藩)の分割支配となる。
また、近隣の上成・長尾・爪崎の各村と勇崎村(丹波亀山藩)、道越・七島・島地など(備中鴨方藩)、富・道口・亀山の各村(備前岡山藩)、柏島・乙島村(天領)も幕府・諸大名によって分割支配された。
その概要は上記の
(1.1)備中玉島港界隈
◇近世玉島の支配関係で述べた通りである。
●旧玉島市享保14年大名領有関係図
その上で、さらに、玉島港町は「三ヶ領軒並入組」と称せられるように、天領・備中松山藩領・丹波亀山藩領として幕府及び二藩による分割支配を受ける。
江戸末期の玉島港町分割支配略図

□玉島港及び港町の「三ヶ領軒並入組」
元禄8年(1695)安藤重博が備中松山に転封される。
それに伴い、玉島周辺の松山領は玉島村の一部と柏島村の一部に削減され、その他は天領となる。
元禄15年(1702)天領を分割し、その分割地を丹波亀山藩領としたが、その時以降、玉島港町地域は天領・備中松山藩領・丹波亀山藩領と三藩による分割支配地となる。これは明治維新まで約160年続く。
・天領(倉敷代官所支配) :阿賀崎村の内、新町・南町・仲買町:以上を西浜と呼ぶ
・備中松山領(安藤→石川→板倉氏):玉島村の内、中島町・矢出町・団平町・土手町
・丹波亀山領(青山→松平氏) :玉島村の内、本町・通町・山下町:松山領の町も合わせ東浜と呼ぶ
参考:
2026/03/26追加:
○「浅口郡誌」岡山縣浅口郡役所、大正14年 より
玉島村沿革地圖:
玉島村の複雑かつ交錯した江戸期の支配関係を最も良く示す地図と評価できる。
◇玉島港古図の複写図
文政年中(1818〜29)と云われる彩色版画より模写複製したもの
幕末頃の玉島港町の町並が模式的に分かるので転載する。
■玉島港古図の複写図■:中央は羽黒山(羽黒宮)、新町・通町などの町並など、玉島港の船の様子などが描かれる。
3.甕港物語 より転載
◇明治中期玉島湊町復原想像図
明治中期の玉島湊町を復原・想定した図版で、近世及び近代初頭の町割りがよく分かるので転載する。
現在、地上にその痕跡を残さない「高瀬舟・舟だまり」も羽黒山北側に想定されている。

【補遺】:「玉島歴史館」>「第2部:新玉島歴史散歩」 より
8.玉島湊と羽黒山
玉島湊古図
備中国玉島湊繁栄鑑より
※但し、転載前の図版は南北がデフォルトとは逆で、南が上になっている図版であったので、南を下にして転載している。
そのため、千石船と思われる帆船が逆転して不自然になっていることの了承を願う。

4.玉島いしぶみ探訪記 上
特になし
5.玉島いしぶみ探訪記 中 より転載
◇江戸後期 玉島湊推定図
副題:資料・玉島港町の変化と水門の分布
本図も近世後期の玉島港町の町割りが分かるので転載する。

【補遺】:「玉島歴史館」>「第2部:新玉島歴史散歩」 より
7.玉島の水門
玉島平野の排水路と水門

玉島平野の排水路と水門その2

2023/07/05作成:2026/03/26更新:ホームページ、日本の塔婆